第3話「動け、絶望を燃料に」
眠っていたわけじゃない。
かといって、起きていたとも言えない。
どこか現実から切り離されたような、白い空間。
その中央で、歩夢はソファに座らされていた。
観察室。天井からは無数のセンサー。
ガラス越しに、白衣の大人たちがモニターを見つめている。
スピーカーからは静かなピアノ曲が流れていた。意図的な“癒し”の演出。
「……精神治療、ね」
歩夢は小さく呟いた。
「これが……?」
笑える。
落ち着いた部屋。安定した気温。監視されているという確信。
脳波、感情、言葉、呼吸、まばたき。全部、数値化されて記録されている。
「俺は……モルモットか」
そう言ったところで、誰も反応しない。
あたりまえだ。彼の言葉は、観察対象の「吐いた音」として処理されるだけなのだから。
──そのとき、ドアが開いた。
入ってきたのは、スーツ姿の女。教官・葉月。
冷たい目をしたまま、彼女はコーヒーのカップを手に座った。
「どう? 少しは落ち着いた?」
「……落ち着くって、何から?」
「恐怖、怒り、諦め、虚無。なんでもいいわ。
でも一つだけ、ちゃんと覚えておいて」
葉月はコーヒーを啜ると、はっきりと言った。
「希望や夢を持った瞬間、この機体は止まるわ」
無慈悲な言葉だった。
だが、それは紛れもない事実。
《MD-01 コクーン》──あの機体は、「負の感情」によって動く。
憎しみ、恥、劣等感、自己否定、孤独、不安、諦め……
そのすべてが、歩夢の“燃料”だ。
「人を救いたい」「誰かの力になりたい」
そんな綺麗な動機を持てば、機体は動かない。
むしろ、止まる。拒絶される。感情共鳴が切れる。
「……酷い世界ですね」
「ええ。そういう仕組みにしたのは、あなたたちじゃない。人類全体よ」
その瞬間、警報が鳴った。
《警戒レベル4。市街地Dブロックにヌル個体出現。》
緊急放送。地面が震える。遠くで爆発音。
「MD-01、緊急出撃を要請する」
そう伝える職員に、歩夢は目を伏せた。
「……嫌です」
静かに、拒否の言葉を発する。
「行きたくない。もう……自分が壊れてくのを感じる。
俺なんかが戦って……誰が救われるんですか」
葉月は何も言わなかった。ただ、席を立ち、ドアの前で足を止めた。
「嫌なら、いいのよ。無理強いはしない」
そして、振り向かずに付け加えた。
「でも──みんな、死ぬだけ」
その言葉だけを残して、彼女は出ていった。
*
施設の外が赤く染まっていた。
煙と炎。ひび割れた建物。逃げ遅れた人々。
その中に──ひとり、泣きながら蹲っている小さな男の子がいた。
歩夢の目に、それが焼きついた。
何もできない自分。
今も、何もしていない自分。
気づけば、彼は出撃ゲートに立っていた。
足が勝手に動いたような感覚。
ヘルメットをかぶり、装置に座り、コア接続を要請する。
「コア適合率、89%……91%……94%、起動ライン突破」
接続ケーブルが体に突き刺さるように繋がり、感情が数値になる。
「……俺……」
自分の中から、なにかが出てきそうだった。
「俺、誰かのために──」
その瞬間、警報が鳴る。
《感情共鳴に異常! 安定値逸脱! コア強制遮断処理!》
機体が唸りを上げ、座標認識が崩れる。
画面が揺れる。警告ランプが点滅する。
「……ちがう……ちがう、ちがう……!」
歯を食いしばりながら、歩夢は呟いた。
「“誰かのため”じゃダメなんだ……!
“俺なんかじゃ無理”って……思わなきゃ……!」
その言葉と同時に、感情共鳴が安定域に入る。
《適性再構築。自己否定率:96%。共鳴安定。武装展開》
《MD-01 コクーン》の背面から黒い殻が展開し、細い刃が十字に伸びる。
鋭利な音を鳴らし、白い街の上に“負”の記号を刻み込む。
歩夢の目は、なにも映していないように虚ろだった。
だがその中で、かすかに何かが揺れていた。
「こんな俺でも……“何か”になれたんだ。
それが、どんなに……間違っていても」
司令室のモニターを見つめながら、葉月は笑わなかった。
「この子……“深い絶望”を、自家発電してる」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
ただ静かに、沈黙の中で世界が、また少しだけ“歪んで”いった。