第2話「起動条件:自己否定率92%以上」
視界がぐにゃりと歪む。
耳の奥で、「キイイ……」という高音が連続する。
その直後、映像が流れ始めた。
──教室。
隅の席。
誰もこっちを見ない。
俺が提出したプリントだけ、なぜかスルーされた。
「……ああ、一ノ瀬? ごめん、見えてなかったわ」
担任の曖昧な笑顔。
──違う。見えてなかったんじゃなくて、「見たくなかった」だけ。
次の映像が割り込む。
──体育の授業。
クラス全員がペアを組むなか、最後まで残された俺。
「え、マジで一ノ瀬かよ。まあ……いいけど」
失望のような、諦めのような、そんな声と目つき。
さらに映像が変わる。
──昼休み。机に置いた弁当箱が、何者かに蹴飛ばされ、床にぶちまけられた。
「……なんか、邪魔だったからさ」
そいつは、何の悪意もないような顔で笑っていた。
また変わる。
──自分の部屋。深夜2時。
鏡の中の自分に向かって、声にならない問いかけを繰り返す。
「どうして生きてるの?」
「なんで何もできないの?」
「誰か一人くらい、気づいてくれたっていいじゃん」
脳が焼けるような感覚。
胸が締めつけられる。
呼吸が浅くなる。
目の奥が、涙でも汗でもない何かでじわじわと熱くなる。
感情のメーターが、液晶に表示される。
【自己否定率:88.4%】
葉月の声が、どこか冷たく、機械的に響く。
「まだよ。あなたの“絶望”は、そんなものじゃないでしょう」
再び映像が流れた。
──母親の背中。
弟の通知表を見て笑う声。「すごいねぇ、あんたはほんと優秀」
そして、こちらを見もせず、食器を片づけながら言った。
「……あんたも頑張りなさいよ。そろそろ“人並み”にはなってくれないと」
──冬の校庭。雪が降っている。
ひとりでベンチに座っていたとき、通りすがりの生徒が言った。
「うわ、幽霊かと思った」
それが、俺の日常だった。
【自己否定率:91.6%】
限界は、すぐそこにあった。
映像が強制的に切り替わる。
目の前に、コクーンの姿。
巨大な、冷たい繭。
それはまるで、俺の負の感情を呑み込むためだけに存在していた。
そして、ついにメーターが振り切れた。
【自己否定率:92.3%】──起動条件、達成。
次の瞬間、機体が低く唸りをあげて目を開けるように光を放つ。
歩夢の全身が、黒いインターフェースの波に呑まれる。
葉月の声。
「起動確認。──やはり、“君の絶望”は、本物だった」
コクーンが、ゆっくりと立ち上がった。
数値が閾値を超えた瞬間、
どこかで──低く、濁った音が鳴った。
ズゥゥン……という地の底から響くような振動。
歩夢の目前に立つ**機体「MD-01 コクーン」**の胸部が、微かに開いた。
まるで、長い間閉じられていた蓋が、重苦しい呼吸と共に動き出すように。
「……っ、これ……」
歩夢の目が、細く見開かれる。
機体の表面が、黒い波のようなノイズを纏い、脈打つように震えている。
反応率、3%……5%……8%……ゆっくりと、しかし確実に上昇。
監視室にいる研究員がざわつく。
「コクーン、反応開始──!」
「コアが共鳴を始めました! これは……」
葉月の声が、冷静に告げる。
「──起動条件、満たされたわね」
彼女の目が、モニター越しに歩夢を見つめる。
「“自己否定率92%以上”。君は、自分の存在をここまで追い詰めて──ようやく、動かしたのよ」
歩夢の体が、足元から崩れていくような錯覚に襲われる。
「そんな……俺が、これで……?」
「俺なんか、いなくてよかったのに。ずっとそう思ってたのに──」
そのときだった。
機体が応えるように、「低く、唸った」。
地鳴りにも似た音と共に、コクーンの両肩部が開き、内部の駆動構造が露出する。
まるで、誰かの心の奥にある“黒い叫び”が、形になって溢れ出したようだった。
そして次の瞬間、歩夢の足元から黒い神経ケーブルが立ち上がり、彼の全身を巻き取っていく。
接続準備。
適合率:63%……71%……85%……
「やめろ……やめろよ、俺は、こんなの望んでない……!」
でも、機体は歩夢の心を、もう離さなかった。
──お前の“無価値”が、必要だ。
──その自己否定こそが、俺たちを動かす。
「……っく、ふざけんな……!」
歯を食いしばる歩夢の身体が、黒い座席に沈み込む。
そして、MD-01 コクーン、完全接続。
絶望を燃料にする機体が、ようやく目を覚ました。
「準備は完了。MD-01 コクーン、発進します」
冷徹なオペレーターの声が響く。
歩夢の意思など関係なかった。
自己否定率92.3%。──この数字がすべてだった。
「……っ、動くな、動くなよ……!」
コクーンの視界が展開される。歩夢の意識と接続され、戦場の映像が神経に焼きつく。
灰色の空。崩れた校舎のような瓦礫の山。
その中を、にじり寄る異形。
──端末型ヌル。
黒い有機的な球体に、幾本もの手足のような触手が生えた、感情のない“意思なき捕食者”。
「お前がやるんだ、一ノ瀬」
葉月の声が、通信越しに響く。
「君の“生きている価値のなさ”は、敵の存在構造を否定できる。
だから、君が戦うしかないのよ」
「なんだよそれ……そんな理屈で……」
コクーンの内部で、歩夢の手が震える。
コントロールレバーに置かれた手が、自分の意思に反して動き始める。
端末型ヌルが、接近する。
その触手がひとつ、歩夢の乗るコクーンに向けて放たれ──
「うああああああああっ!!」
絶叫と共に、全身の神経が焼かれるような痛みに襲われた。
だが同時に──コクーンの関節部が黒い稲妻を纏い、反応率が跳ね上がる。
感情トリガー:無力感・否定感・消失願望、臨界突破
視界が赤く染まった。
歩夢の中で、ひとつの言葉が浮かんだ。
──「どうせ俺なんか、何をやっても、最後には失敗する」──
その瞬間、コクーンが咆哮した。
腕部から伸びた黒い刃が、迫るヌルの触手を一閃。
そのまま、機体が重力を無視した挙動で跳躍。
敵の頭上から振り下ろされる。
斬撃。
衝撃波。
粉砕。
わずか数秒。
端末型ヌルは断末魔すら上げられぬまま、黒い灰となって消えた。
静寂。
歩夢の身体が震える。
機体内に冷たい汗が流れる。
「……な、んで……こんな力が……」
その直後。歩夢の口元から、真っ赤な血がこぼれ落ちた。
吐血。
頭の奥で何かが切れたような感覚。
コクーンの視界がブラックアウトする。
歩夢の意識は、そこで途切れた。
施設内部、観測室。
モニターを見つめていた葉月が、ぽつりと呟いた。
「この子……“深い絶望”を自家発電してるわね」