◆第1章:召集されし陰の者たち■第1話「誰にも気づかれない僕が選ばれた」
俺の名前は、一ノ瀬歩夢。十四歳。
──たぶん、このクラスで俺の名前を知ってるやつは、三人もいない。
朝のホームルーム。誰かが席を立ったり、誰かが笑ったり、先生がいつものように何かを話している。
でも俺の周りだけ、空気が薄い。というか、そもそも存在していない。
俺は、いないほうが空気がいいタイプの人間だ。
いてもいなくても変わらない。いなければ、誰も困らない。
もしかしたら、最初から「俺」という個体はこの世界に必要なかったのかもしれない。
学校でも、家庭でも、同じだった。
親は別に俺を無視してるわけじゃない。ちゃんとご飯も出てくるし、話しかければ返事もある。
でも、そのやり取りには、何も感情がない。
俺の感情にも、最近は俺自身が興味を持てなくなっていた。
うれしいとか、悲しいとか。そういうものを感じるには、たぶん俺は少し“遠い”。
──そんな俺が、“それ”に巻き込まれたのは、
本当に突然だった。
いつも通りの昼下がり。教室の窓から射す光が、わずかに揺れた気がした。
次の瞬間、窓の外の校舎が──ぐにゃ、と歪んだ。文字通り、光が“めくれた”ように。
世界が一秒だけ停止したような感覚。
「……え?」
誰かの小さな声。教室中の視線が一斉に外へ向かう。
地鳴り。振動。奇妙な耳鳴り。
──そして、空が裂けた。
“それ”は、黒い粘性の靄のような塊だった。
形がない。目も口もない。言語も音も発さない。
ただ、存在だけが圧倒的だった。
後にそれは「ヌル」と呼ばれる存在だと知る。
でもそのときの俺たちには、そんな名前すら与えられていなかった。
叫び声。誰かが泣き始める。教師も何もできず、ただ立ち尽くしていた。
生徒たちが次々にその場に崩れ落ちていく中で、──何故か俺だけが、動けていた。
目の前に、白い光のリングが展開された。
宙に浮かぶ、いびつな機械の目のようなものが俺を見つめている。
【コア反応──有】
「……なに、それ」
意味がわからない。俺には何も起こっていないのに。
次の瞬間、教室の天井が解体されるように崩れ、無数のワイヤーが俺を絡め取った。
「ちょ、ま──」
声を上げる暇もなく、俺の身体は教室の外へ、光の中へ吸い込まれていった。
……誰一人、止めようとする人はいなかった。
それが、ちょっとだけ面白かった。
連れてこられた場所は、無機質な鉄と黒いガラスに囲まれた、まるで施設のような建物だった。
後にその名を【陰影機関】と聞かされる。
目の前に現れたのは、白衣を着た女。30代後半くらいに見えるけど、目がまったく笑っていない。
「名前は?」
「……一ノ瀬、歩夢」
「ふうん。なるほどね」
彼女──葉月と名乗るその担当官は、俺を一瞥し、冷たい声で言った。
「君の“価値のなさ”が、この星にとって唯一の希望よ」
意味がわからなかった。言ってることが、現実味を持たなかった。
「……そんな、冗談だろ……?」
目の前の彼女は、淡々と答えた。
「ううん、冗談じゃない。
“自己否定率92%”。君が選ばれたのは、それだけが理由よ」
俺が、世界を救う?
そんなバカな話があるか。
でも──そのときの俺はまだ知らなかった。
この“何の価値もない自分”が、本当に世界と向き合うことになるなんて。
四時間目は理科だった。
先生の声が、ホワイトボードを擦るマーカーの音に混じって遠く聞こえる。
「……というわけで、二酸化マンガンを加えると……」
教室の中は、まあ、普通だ。
俺の斜め前で小西があくびしてるし、後ろの席じゃ、スマホを膝に隠してなんか打ってるやつがいる。
何も変わらない、何も起こらない、ただの学校の日常。
──だったはずなのに。
ふと、窓の外の光が、ぐにゃりと“ねじれた”。
まばたきをする間もなかった。
太陽の光が、液体みたいに歪んで校舎に落ちてきて、空間の端がきしむような音がした。
「……なに、今の」
誰かの小さな声。
先生が言葉を止めたと同時に、天井の照明がバチバチと音を立てて瞬き始める。
その時だった。
校舎が、崩れ始めた。
床が揺れるでもなく、爆発音もなかった。
ただ、“構造がほどける”みたいに、壁が、梁が、窓ガラスが、静かにズレていく。
目の前の空間が、現実の重力を拒絶するようにゆっくりと崩落していくのがわかった。
「なに……これ……」
教室中がパニックに飲まれた。悲鳴、ざわめき、机の軋み。
俺は立ち上がろうとしたけど、体が言うことをきかなかった。
そんな中、“それ”は現れた。
──黒い、影。
いや、影ではなかった。
視界の端に見えるはずが、正面からも見える。
立体なのに、深さがない。色があるのに、光を持たない。
その存在は、すべての理屈を否定するものだった。
形のない黒い塊が、まるで意思を持って校庭に降りてくる。
周囲の空間がバリバリと割れ、音のない悲鳴が空を走る。
誰かが言った。「アレ、何……!? 化け物……?」
いいや、それは化け物なんかじゃなかった。
それは、もっと根本的な、“この世界じゃない何か”だった。
のちに俺たちは、それを「ヌル」と呼ぶことになる。
それは語らず、動かず、ただ“在る”だけで、
教室中の空気を凍らせた。
「……っ!」
誰かが逃げようとして立ち上がり、次の瞬間に膝から崩れ落ちた。
その体が微かに震えている。
目を合わせた瞬間、感情が抜けるのか──誰もが、叫ぶ間もなく“沈黙”していった。
隣の席の男子も、前の席の女子も、皆、目を見開いたまま動かない。
“ヌル”がそこにいるだけで、人の心が壊れていく。
でも──なぜか、俺はまだ意識を保っていた。
俺だけが、“それ”を見ていられた。
息が苦しい。でも、目が離せない。
そのときだった。
空間のどこかが、ひび割れた。
白い光の円が、俺の周囲に展開される。空間に“輪”が浮かび、何かが俺を見ていた。
視線? 意識? 理解できない“観測”の感触が、俺の脳に直接触れる。
【対象検出。適性:起動可能。】
機械音のような何かが、頭の中に響いた。
次の瞬間、天井が崩れ落ち、無数のワイヤーのような光の糸が俺の身体に巻きついた。
悲鳴を上げる暇もなく、俺の体は浮かび上がる。
「ちょ、ま……っ!」
声を出したときにはもう、教室は遠ざかっていた。
光の渦の中へ、俺はひとり、連れ去られていった。
──誰にも、呼ばれていないのに。
落下するような浮遊感のあと、
俺は見知らぬ白い空間に、うつ伏せに倒れていた。
目の奥が焼けるように痛い。耳鳴りが止まらない。
それでも俺は、確かに“まだここにいる”ことだけはわかった。
「……コア反応、確定。対象確保」
機械のような、でも妙に生々しい女の声が響いた。
直後、何本もの機械アームが俺の身体を包囲するように迫り、動けなくなる。
「え、なに……? 俺……なんで……!」
反射的にもがいた。が、それすら空しい。
腕も足も感覚が希薄で、息を吸うたびに金属の匂いが鼻についた。
「一ノ瀬歩夢。年齢十四歳。負性値、臨界突破」
「コア反応、安定しています。記録と一致。プロファイル通り」
「輸送優先度S。至急、機関本部へ転送」
何を言ってるのか、半分もわからなかった。
でも、その声の向こうで、確かに“誰か”が俺を見ていた。
「ちょ、待って、俺……なに、したの?」
叫んだ。情けない声だった。
でもその声に、ようやく“人間の女”のような存在が応える。
「あなたが選ばれたのよ。世界の構造にとって、最も“何者でもない者”として」
女──白いスーツの女性が、こちらを見下ろしていた。
冷たい目をしていた。見た目は綺麗なのに、どこにも情がなかった。
「え、選ばれた……? 俺が……?」
「ええ。一ノ瀬歩夢。あなたの“価値のなさ”は、唯一の希望」
その言葉は、何よりも重く、そして、笑えるくらい無慈悲だった。
「ふざけんなよ……そんな理由で……」
「コア反応が発現した時点で、あなたの意志は無関係です。
あなたは“兵器の起動条件を満たした”──ただそれだけ」
そう言いながら、彼女はスッと目を細める。
「陰影機関へようこそ、歩夢くん。
君は今、“自分を否定し続けた”その生き方で、ようやく社会に役立てるのよ」
俺は、何も言えなかった。
認めたくなかったけど──頭のどこかで、わかってしまっていた。
この世界で“役に立つ”唯一の方法が、これだったんだって。
気がつくと、俺は白くて無機質な部屋にいた。
壁も床も、すべてが無反射のグレーで覆われていて、まるで感情そのものを吸い込んでしまう部屋のようだった。
機械のような音だけが、静かに、絶え間なく鳴っている。
俺の腕にはいつの間にか細いコードが何本も刺さっていて、点滴のような装置から透明な液体がゆっくりと落ちていた。
脇には監視カメラ。天井には無数のセンサー。
──病院でも、学校でもない。
でも“牢屋”とも違う。
ただ一つ、確実だったのは。
ここが現実じゃない場所だということ。
「起きたみたいね」
声がした。
すうっと扉が開いて、そこにひとりの女性が立っていた。
白のジャケットに、軍服のような黒のパンツ。背筋は真っすぐで、髪は艶やかに肩で切りそろえられている。
だが、何より印象的だったのは──その目だった。
見下ろすようでも、見捨てるようでもない。
ただ、冷たい水のように沈んでいて、「関心がない」ことに慣れすぎている目だった。
「あなたが一ノ瀬歩夢くんね。正式にようこそ、“陰影機関”へ」
彼女は名乗らなかった。こちらの名前だけを一方的に呼んだ。
「ここは、人類の“負”を戦力化する実験機関。……まあ、分かるわけないか。
簡単に言えば、“絶望することで敵と戦う場所”よ」
何を言ってるんだ、こいつは。
口に出そうとしたけれど、声が詰まった。
「今日、学校で見たわね。あの“ヌル”。あれが、敵よ。
人間の内側にある空白、虚無、疎外感……そういう“負の感情”に反応して、現れる存在」
俺は、首を横に振るしかなかった。意味が、わからなかった。
ただ、この女の人は──本気で言ってる。
「……じゃあ、なんで俺が……」
震えながら、ようやく絞り出した言葉。
そのとき、彼女は薄く、笑った。
「君の“価値のなさ”が、唯一の希望だったからよ」
言葉の意味を、俺の頭はすぐには処理できなかった。
「今の人類にとって最も貴重な資質は、“何者にもなれなかったこと”なの。
社会に居場所がない。誰にも必要とされていない。
自分なんか、いないほうがマシだと思っている……そういう“強い自己否定”こそが、
この世界で最も強力なエネルギー源なのよ」
俺の指先が震えた。
「冗談……だろ……」
言った瞬間、自分の声が異常に小さくて、情けなくて、泣きたくなった。
だけど、彼女は首を横に振るだけだった。
「冗談を言うほど、私は暇じゃないの。──それに、あなたも分かってるでしょう?」
彼女の目が、真っすぐに俺の内側を見ていた。
「君は、自分のことを、ずっと“いないほうがマシ”だと思って生きてきた」
図星だった。
口を開くことも、目を逸らすこともできなかった。
「それが“価値”になる時代なのよ、歩夢くん。皮肉だけど、ようやくあなたの居場所ができたの」
部屋の天井が、静かに開いていく。
巨大な機械アームに繋がれた何かが、こちらへと降りてくる。
それは人型をしていた。だけど、人間じゃない。
鋼鉄の繭のような殻。
その名は、《MD-01 コクーン》。
葉月と名乗った女は、静かに言った。
「さあ、“絶望”の力を見せてちょうだい。君にしかできないことがあるわ」