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2.幻影の市場

私たちは、港市国家グラースィエラに来ていた。

 グラースィエラは神聖ゲルトルート帝国の北東の内海に面した港湾都市であり、北方大陸や東方大陸との交易で栄える都市国家だ。

 私たちが出会った村から比較的近かったことに加え、商業都市ならば情報もよく集まるだろう、という期待から最初の目的地として選ばれた。

 「いやぁ、長かったね。あの村を出てから。」んん…と背伸びをしながら、アイラは言う。

 

 ——私、エオラスは二ヶ月前に家族を失った。悲しみと罪悪感に襲われ、自殺を考えていたところ、失った記憶を取り戻す旅をする彼女に出会った。そうして、彼女と共に旅をすることとなった。

 私の故郷を発ってここグラースィエラに至るまで一ヶ月ほどかかった。

 記憶を失ったアイラが地理的知識などないと思っていたのだが、彼女の方からまずはグラースィエラに行こう、と提案してきた。

 

 「本当だよ。アイラの寝坊癖がなければ、もっと早くついたんじゃないかい?」

 これまでの旅の間、彼女は毎朝寝坊をしていた。

 なぜ起こさなかったのかって?

 起こせるなら起こしたさ。

 「まあまあ、私の寝坊のおかげでこのお祭りの時期に来られたんだし。感謝してよ。」彼女は両手を広げて、ほら、と言う。

 「それは……まぁ、そうだけどさ。」

 そう。この街では大きな祭りが開かれていた。

 流石に商業で栄えているだけはあって、街は色とりどりの旗や、種々の花で彩り豊かに飾り付けられていた。街を歩く人々は皆、明るい笑顔をしていて、今にも踊り始めそうなほど楽しそうだった。

 その楽しげな空気にあてられて、私達も自然と笑顔になっていた。

 「遊びに来たんじゃないんですよ。あなたの記憶を取り戻すために来たんですから——」そういう私の目も、手がかりを探してなどいなかった。

 「あ、あの屋台の、美味しそう!」

 そう言って彼女が向かったのは果物に溶かした飴をからめたお菓子を売る出店だった。

 林檎に、葡萄に、柑橘に、どれもとても美味しそうだ。

 その屋台にかける彼女を、ああ待って、と言いながら追いかける。

 「——あらお嬢ちゃん、ひとつでいいかい?」

 優しげな女性が彼女に言う。

 「いえ、そこにいる彼の分も、二つお願いします。」

 彼女の優しさが見られるようだが、違う。代金を払うのは私だ。

 しかし、はい、と手渡された黄金に輝くお菓子を前に、そんな些細なことはどうでも良くなった。

 その後私たちは一日をかけて祭りを回った。村を出たことすらなかった私には、全てが新鮮で、気がつくと宿屋で横になっていた。

 私とアイラは、まだ直ぐに困窮するというほどではないものの、旅がどれだけ長引くか分からず、無駄使いは出来ない。

 それ故に、当然同じ部屋に泊まる。

 それは元々予定していたことだ。

 しかし、問題なのは宿屋のおっちゃんが気を利かせて、ベッドをひとつにしてくれやがった事だ。

 なるほど確かに年頃の男女二人が宿屋に来て、一部屋しか取らないというのであればそう思われても仕方がない。それは仕方ないにしても、私たちはそんな関係では無い。

 しかし……私だって朴念仁では無いのだ。

 美しい少女と一晩ひとつのベッドで過ごすこととなれば、みっともなくドギマギしてしまう。

 「——なんだろうね。いつもすぐ近くで寝てるのに、改めて一緒に寝るとなると緊張しちゃうね。」彼女は、こちらに背を向けて言う。私たちはやや大きなベッドの端と端に、互いの背を向け合うようにして横になっていた。

 普段はどうしても野営が多いので、二人で並んで寝るなんて事はいつもの事なのだが、やはりベッドという特殊フィールドの上では、緊張してしまう。もちろん、手を出すつもりも、出されるつもりもない。

 「なんなら、私は床で寝ましょうか?」

 まぁ、春だし少し床は固いが問題なかろう。

 「いや、お互い疲れてるし、いいよ。何もしないってことはここ二ヶ月でわかってるし。」

 随分と信頼されているようだ。

 なんだか少し情けないような……

 いやいや、その信頼は裏切るべきではなかろう。

 そうして、私たちは眠りについた。

 否、アイラは眠りについた。

 私はなんだかんだ緊張して寝付けなかった。

 

 次の日も、特になんという会話もなく、ごく自然に祭りの会場に来ていた。

 しかし、「——違う!!」祭りの中心で、アイラは不意に、そう叫んだ。

 私たちは近くの屋台で買ったものを日陰の椅子で涼みながらつついていた。

 「……?ああ、やっぱりこっちの味が良かった?いいよ、口つけてないし、交換してあげる。」そう言って、タコの足を入れて丸く焼いた奇っ怪な食べ物を差し出す。茶色の、独特な風味のソースがかかっていた。

 「ちがうわ!」

いいツッコミだ。

 「分かっていますよ。アイラ。情報収集でしょう。でも私たち、この街に来たばかりなんですし、少し遊んだって良いでしょう。」

 私の心は次はどこへ行こうかということばかり溢れていた。

 「分かってないわね。祭りだから、人も、情報も沢山集まるの。だから今がチャンスなのよ!」

 なるほど確かにそうかもしれない。

 うーん、次はどうやって言い逃れようか……と私が呑気に考えていると、何やら聞き捨てならない会話が近くから聞こえてきた。

 「……なぁ、お前聞いたことあるか?——幻影の市場ってやつ。」

 男の声だ。ヒソヒソとなにかに怯えるように言っていた。

 「ああ、知ってるさ。死んだやつの記憶、なくした記憶。何でも売ってるって言う市場だろ……」

 応える男の方も、祭りの喧騒なかき消されそうな小さな声で言った。

 「ねぇ、エオラス……」

 「……お誂え向きですね。少し怪しくないですか?」

 欲していたところに、欲していたものが偶然転がっているなんてことあるだろうか、と少し心配になる。

  対するアイラは自分の記憶の手がかりとなりうるならなんでもいいらく、

 「怪しくて結構。行きましょう!」

 と期待感を声に滲ませて言う。

 そうして、近くにいた青年ふたりは、背の高い青年と、目をガンギマらせた少女とに囲まれ、幻影の市場について話すこととなった。

 

 ——幻影の市場。死んだものの記憶や無くした記憶を入手出来るとされる。グラースィエラの——地区——番の裏路地を進み、月が南中する頃に、突き当たりにある門を8の字に五回ほど回ると現れるという。

 欲する記憶を手に入れるには、自らが最も大切にする何かを手放さなくてはならない。

 

 ——オーサー氏著「不可思議な伝承録」より。

 

 私たちは夜になる前に一度宿で休むことにした。

 体力を温存するためだ。

 昨日からそのままとってある宿の一室に荷物を置いて、近くの酒場で少し早い昼食を摂ることにした。


 訪れた酒場は、昼間の間はランチやお茶を提供する喫茶店のような事をしているらしい。

 ……こういうのを二毛作と言うんだったか。

 メニューにある料理は、さすが港町と言うべきか、他の地では珍しい香辛料や、海鮮がふんだんに使われた料理で、私もアイラも舌がとろけそうになった。

 と、斜め前に、アイラの肩越しに、ある男が見えた。

 その男は、窶れた様子で、魚の包み焼きを力なく食べていた。

 かつて私もそうだったのだから分かる。

 あれは生きることに絶望した奴の目だ。

 そう思うのと同時に、私は席を立って彼の方へ歩いていた。

 「よろしければ、一緒に食べませんか?物珍しくて色々頼んだのですが、二人では食べきれそうもないので。」

 「……はぁ、いいですよ。」

 こちらを見上げて力なくそう言う彼の目の下は赤く腫れ上がっていた。

 アイラは俺の突然の行動に唖然としていた。

 かくして、やつれた男と、記憶をなくした少女、そしてその少女のお供による奇妙な食事会が始まった。

 

 「アイラと申します。失った記憶を取り戻すため旅をしています。」

 と、先ずアイラが挨拶をする。

 その態度は初めて会った時のような静謐で、神聖さをも纏ったものだった。

 「私は、彼女と共に旅をしているエオラスです。」

 次に俺が挨拶をする。一応初対面ということで丁寧に。

 「私はアルフォンスというものです。この街で商人をしている……いたものです。」

 いくら落ち込んでいても、丁寧に挨拶をできるあたり、やはり商人と言ったところか。

 しかし、

 「……していた、とはどのような意味ですか?」

 「……文字通りです。私はかつて商人をしていましたが、今はもう何者でもありません。」

 もう何者でもない。

 どこかで聞いた言葉だ。

 ——どこかで、では無い。村で私自身が家族を失って自殺を考えていた時、ずっと思っていた事だ。

 「……何があったか聞かせていただけませんか?役に立てるとも限りませんが、話すことで楽になることもあるでしょうし。」

 私は知っている。

 誰にも相談できずに、自死を思う辛さを。

 私は、たまたま通りかかったアイラに救われた。出来れば、今度は私がそうなりたい。

 外は少し風が強くなったようだ。窓が少しきしんでいる。

 「……。」

 やはり話しづらいだろうな。

 三人の間に沈黙が流れる。

 と、アイラは突然、指先に小さな火を出した。

 「……?魔法、ですね。」

アンフォルスは少し困惑している。

 もちろん私もアイラの意図が読めずにいた。

 「これは、これは少しだけ思い入れの深い魔法なんです。」

 そうして、アイラは語り出した。

 私と出会い、私の過去を話した時のことを。

 私もかつて自殺を考えていた、というくだりではアルフォンスも驚いたようなこちらを見ていた。

 「——というわけで、彼も人に思いを話すことで今では、小言を言えるほど元気になったわけです。私が特別何かをした、という訳ではありません。ただ、人に話す、というそれだけの事でも幾らか楽になるのではないかと思うのです。どうか話してくださいませんか?」

 そう言うアイラの顔は慈母のように穏やかだった。

 「分かりました……聞き苦しい話かとは思いますが、少しお聞きください。」

 

 ——私は幼い頃からこの街で育ちました。この街の者は、みな商人です。自分もいつか、と思いながら生きていました。

 私には幼馴染がいました。彼女は、私の家の隣に住む家族の娘でしたが、その家はあまり商売が上手くいっていないらしく、少々貧しかったように思います。

 それでも、私たちは歳も近いということもあり、とても仲が良かったのです。

 十歳の時、彼女と婚約をしました。

 もっとも、親の承認を得たものでもなかったので、二人だけの秘密、と言うやつでした。

 あの頃はまだ幸せだった……

 

 そこまで話したアルフォンスの目には、既に涙が溜まっていた。

 

 あれは、私が十五歳、彼女が十四歳のときです。

 彼女の家はついに借金で首が回らなくなり、一人娘を手放したのです。

 ここは商人の街。金さえあればなんでも買えます。それこそ、一人の若い娘でも。

 彼女は家のために、どこの馬の骨とも知らないような商人の奴隷となったのです。

 その後何をされたであろうかは、考えたくもありません。

 

 アルフォンスの声は震えていた。哀しみと憤りが混ざっていた。

 

 私はそれを知って直ぐに、彼女の家へ殴り込みました。彼女の両親とも何度か話したことがあり、話せば彼女を戻してくれると思ったのです。

 しかし、青臭いガキの言うことなんて聞いても貰えませんでした。

 ——今思えば彼らも辛かったでしょうし、若い正義感に燃えた私を相手にする余裕はなかったのでしょう。

 そして、私は決意しました。

 この街で商人として名を上げ、彼女をクソ野郎から買い戻して、結婚するんだ、と。

 それからというもの、日々死にものぐるいで働き、二十歳になったときには、一人の奴隷程度直ぐに買えるだけの財を成していました。これが昨年のことです。

 私は彼女を探し、ついに彼女を買ったという商人を見つけました。

 

 外の風はいよいよ強くなってきて、窓はガタガタとなっていた。

 

 私は大金を持って殴り込みました。

 あの女を返せ、金はくれてやる、と。

 相手方も当初は困惑していたものの、彼女の特徴を話すと、ああ、あいつか、と気づいてくれました。

 しかし、その後発せられた言葉は全く予想だにしなかったものでした。

 死んだよ。去年。一応墓はある。よってやりなさい。

 その言葉を聞いた時の目の前が真っ暗になる感覚は今でも覚えています。

 震える足で、人違いかもしれない、と思いながら言われた墓の場所へ行きました。

 しかし、墓標に彫ってあった名は間違いなく彼女のもの。私は絶望しました。

 その後も何とか今日まで生きてきたものの、元はといえば彼女のために始めた商売、もう今では金貨の一枚を見るのにさえ嫌気が差します。

 死にたい、切実にそう思いました。

 しかし、彼女と過ごした幸せな日々の記憶が失われるのが恐ろしくて死ぬことは出来ませんでした。

 そうして、日々酒に沈み、店の経営も立ち行かなくなり、長期間の深酒のせいであんなに大切にしていた彼女との記憶も薄れてしまいました。

 もう、いいのです。大切にしていたものは全て無くなりました。

 生きる価値なんてないのです……

 彼は最後にそう言って、俯いてしまった。

 いたたまれない。

 外に吹く風は今は少し寂しげに花を揺らしていた。

 「じゃあ、今夜私たちと幻影の市場、とやらに行きませんか?」

 沈黙を破ったのはアイラだ。

 「何でも、失った記憶を取り戻すことが出来るというのです。」

 アイラがそう言うと、アンフォルスは静かに目を上げ、

 「その話、本当ですか?」

 と言った。目に少し活力、というか希望が灯ったように見えた。

 「ええ。私も自分の記憶を取り戻すために行こうと思っていたのです。是非共に、いかがですか?」

 「……行かせてください。」

 そういったアンフォルスは少し力強かった。

 

 

 その夜は、雲も少なく、月は私たちの足元を照らしていた。

 「……。」

 誰もが沈黙を守っている。

 話してはならない、という訳では無い。

 しかし、その場に流れる重たい空気が、三人を押し黙らせていた。

 しばらく歩くと、話に聞いていた通りの門が現れた。

 私たちは互いに顔を見合せ、小さく頷くと、例の儀式を始めた。

 

 青年たちから聞いた通りの方法で門の周りを回る。

 一回、二回、三回……ゆっくりと慎重にまわる。

 「いこうか……。」

 そう言って私たちは四回目の周回を終え、門をくぐった。体の感覚がフッと消え、意識が遠のく……

 

 「はっ!」意識が戻った。

 夜中に突然目が覚めた時のような感覚だ。

 アイラは……こちらも今気がついたようだ。

 辺りを見回すと、昼間のグラースィエラの活気を知るものにとっては少々信じ難いようなか光景が広がっていた。

 全体に体に悪そうな薄い霧に覆われ、薄暗い。

 ぽつりぽつりと露天のような物が出店しているようだが、店番の人間は見当たらない。驚くほどに静かだ。

 いや、よく見ると全く人間がいない訳では無い。

 市場全体に点々と客と思われる人間が居た。彼らは皆揃って夢遊病患者のように、まるでそれは自らの意思ではないかのようにフラフラと市場を徘徊していた。そうして、たまに露店の前で立ち止まり、何か話しては、次の瞬間にはフッと消えてしまっていた。

 なんなんだ……ここは。

 ところで、一緒に門をくぐったはずのアンフォルスが見当たらない……

何らかの理由でこちらに来られなかったのか、或いは別の場所に飛ばされたのか……

 と、

 「エオラス!あれ!」

 彼女が指さした方にはフラフラと誰もいない露店で一人で話すアンフォルスがいた。

 「あ!そこにいましたか!」

 そう言って近づくも、彼がこちらに気づく様子はない。

 目の前で手を振っても気づかないのだ、見えていなのだろう。

 「——ええ、そうです。彼女との記憶を——」

 私たちに見えないだけで、彼には誰かが見えているのだろうか。

 「え、しかしそれは——」

 何やら困惑している。

 その人が最も大切にしているものを代償に、というやつなのだろうか。

 「っ………、分かりました。それでお願いします。」

 最後にそういったアンフォルスは口を真一文字に結び、覚悟を決めたような顔をしていた。

 そして、前に手を差し出し、何かを受け取ったように見えた途端、私が瞬きをした一瞬のうちにフッと消えてしまった。

 私たちはしばらくの間、ただ呆然と、彼がたっていた場所を見つめていた。

 

 「——で、あんた達何もんだい?」

 突然後ろから声をかけられる。

 驚いて振り向くと、擦り切れたローブに身を包んだ、浮浪者のような男が立っていた。

 アイラは、一歩前へ出ると、

 「私は記憶を失ってしまったのです。ここではそうした物を売ってくださると聞いてやって来ました。」

 と言った。

 「——知ってるさ。見えるからな。」

 見える、とはどう言うことだろうか。

 私がその疑問を口にしようとした時、

 「だが、お前に記憶を売ることは出来ない。そっちの男は良いが、お前はダメだ。」

 と、浮浪者のような男は言い切った。

 「なぜ、ですか?」

 「そういう決まりだからだ。」

 どうにも煮えきらない答えだ。

 「どうしてもダメなのですか。大したものは持っていないかもしれませんが、それでも差し上げられるものは差し上げます。」

 「ダメなものはダメだ!アンタに記憶なんか売っちまったら何されるかわかんねぇ!悪いが帰ってくれ。」

 男は声を荒らげた。何かを恐れているようにも見える。

 「……分かりました。……しかし、帰り方が分かりません。」

 アイラは案外素直に言うことを聞いた。

 「ッチ、仕方ねぇなあ。この鍵に触れろ、そしたら元の場所な帰れる。」

 男はぶっきらぼうにそう言いながら、胸元から小さな鍵を取りだした。

 私とアイラはただわけも分からず言われた通りに鍵に触れた。

 

 気がつくと、向こうへ渡る時に通った裏路地に倒れていた。

 アイラは……いた。

 彼女も今気がついたようだ。

 アンフォルスは見当たらない。

 私たちは思い通りにいかなかった失望感と、何が何だか分からないという困惑とを胸にとぼとぼと宿へと帰った。

 

 

 昨晩の事はなんだったのだろうか。

 二人で頭を悩ませる。

 「なぜ、私は良くて、アイラはだめなのか……アイラ、何か心当たりはない?」

 私たちは昨日と同じ酒場に来て、また昼食を摂っていた。

 「分からない。でも彼は何かを恐れているようだった。」

 ある少女に記憶を戻してはならない、と誰かが命令したのか。

 或いは単純にアイラの何かが規約みたいなものに引っかかっていたかのか。

 後者の方が確率は高そうだが、彼は「アンタには」と言った。やはりアイラ個人との取引が出来ないと言うことなのだろうか。そうだとすれば、

 「もしかして、アイラが迷いの森で記憶を失って目を覚ましたのと関係がある……?」

 口に出してみると、なんだか有り得そうに思えてきた。

 「……可能性はあるわね。」

 「何かほかに不思議なことはなかった?」

 「……そうね。前にも話したと思うけど、女神みたいな人が夢の中に現れて、あなたと会うようにお告げをくれたわ。彼女は私の記憶が戻って欲しいかのような口ぶりだった。」

 女神。荒唐無稽な話だ。しかし、その女神のお告げで彼女は私に接触し、結果私は今生きている。信用しても良いのかもしれない。

 「女神……記憶……」

 私はそれらの単語を口の中で転がらせる。

 何か、何かに気が付きそうだ……

 

 と、私はある男がこちらへ歩いてくるのに気がついた。

 アルフォンスだ。

 しかし、その顔はもうやつれてはいない。

 昨日までの彼を知るものにとっては少々不気味な程に幸せそうだった。

 「やぁ、君たち。昨日はありがとうね。おかげで目が覚めたよ。」

 彼はそう言いながら、私たちと共にテーブルを囲う。

 「え、ええ。もう大丈夫なのですか?」

 アイラも私も少し困惑している。

 「ええ、昨日まで悩んでいたのが嘘のようですよ。はは!」

 「え、えと、何があったんですか?」

 彼が幸せならそれでいい気がしなくもないが、一応聞く。

 「ああ、あの後もんをくぐったらね、いきなり君たちがいなくなってびっくりしたんだけど、でも直ぐに近くの露店にただ一人だけ人がいるのに気がついたんだ。こいつだ、って思って話しかけてみたら、そいつが記憶を売ってくれるって言うんだ。」

 その声は終始楽しそうだ。

 「でも、確か最も大切なものを代償にしないと行けないんじゃありませんで

 したっけ。」

 「ああ、そうさ。」

 「何を支払ったんですか?」

 「……彼女への恋心さ。愛と言い替えてもいい。どちらにしても今は綺麗さっぱり残っていない。」

 はは!と笑いながら言うアルフォンスの顔に寂しさはないように見える。

 それで、良かったのだろうか。

 そう思ってしまった。

 彼は彼女を愛するためにこれまでの人生を費やした。それを踏みにじってしまったのでは無いか。

 しかし、自らの恋心を差し出す時のアルフォンスは、覚悟を決めたような顔をしていた。

 これが、彼の望んだ結末なのかもしれない。

 しかし……

 「まぁ、失っちまったもんは仕方がない。」

 アンフォルスの顔に、先程までの軽薄な明るさはない。

 「失った愛はこれから取り戻すつもりだ。彼女との思い出と一緒に。」

 そういった彼の目は寂しげに笑っていた。

 さっきまでのは空元気だったのかもしれないな。

 少し安心した。

 あんな女の子となんて、とか言い出したら、きっとやるせない気分に沈んでいただろう。

 「ええ、これから、ですよ。頑張ってくださいね。」

 窓の外にはもう風は吹いていなかった。

 ただ、暖かな日差しが私たちを見守っていた。

 その後、私たちは酒場を離れて、また少し気まずい一晩を過ごしたあと、グラースィエラを発ったのだった。

 

 彼、アンフォルスが本当に幸せになれたのかは、分からない。

 もしかしたら、彼の望みは彼女との幸せな思い出と共にこの世を去ることだったのかもしれない。

 しかし、私は思ってしまった。

 彼には死んで欲しくない、と。

 かつての自分に重ねて、勝手に、みんな生きている方が幸せなのだと言う考えを押し付けた。

 これは私のエゴだ。

 しかし、最後に会った彼は少し寂しげながらも、その目に絶望や死の色は全く見えなかった。

 

 そんなことを胸の中で呟きつつ歩いていると、前を歩くアイラはこちらを振り返ることなく、そよ風にその黒髪の毛先を静かに流しながら言う。

 「……忘れているって幸せなこと……なのかしら……。」

 私は、その言葉に何かを応えることは出来なかった。

 アイラは、最後に少し立ち止まって、清々しい晴空に包まれた赤屋根の街と、その屋根の下の日陰とを見ると、また静かに、それでいて力強く歩き出したのだった。

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