0.春風の丘にて
短編にしようか迷って迷った末に生まれてしまった作品なので、次の第一話を先に読まれても問題ありません。
風が吹いている。
まだつめたい春の風が。
私はこの時、村外れの丘陵で独り、空を眺めていた。
「……」
静かに流れる雲は、何にも縛られることなく、その自由を誇っているように見えた。
と、その時近くの小径に、見慣れぬ風貌の少女が歩いているのに気がついた。
いや、気がついたのでは無い。目を奪われたのだ。
春風に吹かれて空に舞った花々がその少女を彩っていた。しかし、鮮やかに飾る花々とは対照的にその少女は、雪のように白く透き通った肌に、美しくたなびく黒い髪を誇り、その身に纏う気品のある空気に加えて、なにか人間離れした美しさをもっていた。
あまりに彼女の方を見つめていたからであろう、彼女もこちらに気が付き、少し戸惑った後、静かに会釈をして私の近くを通り過ぎようとした。
何とか彼女を引留めようと自然と言葉が出た。
「あの……旅の方ですか。」
彼女は少し驚いた後、静かな声で言った。
「ええ。あなたはそちらの村の方ですか?」
彼女の指さす方には私の村があった。
「はい、私の村に御用でしたら、私が案内しましょうか?」
精一杯の笑顔をした。
「宜しいのですか?できればお願いしたく……実はまだ今晩の宿を決めていなくて……春になったとはいえまだ外は冷えますし……」彼女は突然の提案に申し訳なさを覚えたのか、或いは怪しいものの声がけかどうか判断しかねたのか、やはり少々戸惑いながら、丁寧にそう言った。
「なら是非私の家に泊まっていってください。ちょうど部屋が何部屋か余っているんです。」
言っておいてなんだが、知らない男が、いきなり自分の家に泊まれなどとは怪しくないだろうか。
「え!?よろしいのですか?私、お返しできるものなんて……」
私の不安とは裏腹に、花が咲いたように、彼女は微笑んだ。どうやらこいつは安全そうだと判断されたらしい。
「何もいりませんよ……と言いたいところですが、何もしないでというのもかえって不安でしょう。そうですね……今晩の夕食と、旅先での体験談を対価に、というのはどうですか?」大丈夫、丁寧に接せられているはずだ。私の心臓は先程から破裂してしまいそうなほどに鼓動している。
「はい!もちろんそうさせてください!」
ああ良かった、受け入れて貰えた。ふぅ、と胸をなでおろしそうになるのを抑える。
「ところで、お姉さんはどちらからいらしたんですか?」
彼女の先程までの明るい笑顔に急に影が差した。
「……言えません。」
ああ、まずい、聞いてはいけないことを聞いてしまったようだ。すみません、私がそう言おうとしたとき、彼女は続け様に言った。
「分からないのです。どこから来たのか、私が誰なのか。それを知る旅をしているのです。」
「……分からない?何があったのですか?」
「ええと、どこから話せばいいのやら——私は目が覚めると、知らない森にいたのです。」
そこから彼女が語り出した話は凡そ信じられないような内容ではあったが、この時の私には何か信頼するに足る根拠がある話として受け入れられた。
——私は、目が覚めると知らない森にいたのです。後で知ったことですが、そこは迷いの森とあだ名されるような森で、そこから出てこられたのは本当に奇跡としか言いようがありません。森を出ると、明かりが見えました。街の灯りでした。火に飛び入る虫のように、わたくしも街の灯りに引き寄せられました。その街は迷いの森を開墾する過程で作られた街だそうで、若い労働者で大変賑わっていました。私は、近くの人に話しかけ、自分の境遇を話すと、親切にもその方はしばらく家に泊めてくださりました。そして、自分のことを思い出す為にも旅をしたらどうかと、この旅道具すら与えてくださいました。そうして、私は自分の記憶を探す旅を始めたのです——
確かに迷いの森はひとたび踏み入れば中々抜け出せない迷宮として名高い。近年、そこを開墾して農地にしようという話があったことも確かだ。しかし、だからこそ、少女が独りで居られるような場所では無いのだ。
「……それは、大変だったでしょう。御家族なども分かっていないのですか?」
「ええ、分かりません。存在したのかどうかすら……私には家族は存在しないも同然なのです。」
俯いてそういう彼女に、そうですか、あなたもですか——そう言いそうになった。
まだ春風は冷たい。
その後、世間話をしていると、自宅の前についた。
どうぞ、ここが私の家です、と手を広げる。
「わぁ!こんなに広いお宅にすまれているのですか!?何人で住んでおられるのですか?」彼女は緊張がほぐれたのか随分と楽しそうだ。
「……いえ、独りです。」口角を上げながらそう言う。
「こんな広いお宅に!?お金持ちなんですね!」
いえいえ、と誤魔化して彼女を家にあげる。こんな家、もう何にもなりはしないのに。
彼女は、旅の途中で学んだのだという各地の料理を家にあった食材で再現してくれた。久しぶりに食卓が賑やかに彩られた。
「すごいです。こんなに豪華なご飯は久しぶりですよ。」声は弾む。
「……あの、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか。」
彼女は少し気まづそうに言った。
「はい、なんなりと。村のことですか?それともこの地域の?」
「いえ、初対面でこんなことお聞きするのも良くないとは思うのですが、ひとつだけ……家の中が妙に綺麗というか……本当にここで生活されているのですか?」
気づかれてしまったか、軽く唇を噛む。
この家に生活感がない。それは彼女の言う通りだ。凡そ家具と言えるようなものはこの机と椅子しかないし、床だってうっすら埃を被っている。確かに、あまりに生活感のないこの家にいきなりあげられ、ここで一晩をあかせなどと言われれば不安に思うかもしれない。この家に人が住んでいる痕跡が見つけられないのは、私の生活力不足によるところでは無い。
しかし、その真実を語るには大変な覚悟が必要なのだ。
しばらく、一人で思案していた。
この村は住み良い土地だ。いや、だった、と言うべきかもしれない。しかし、私のようなものがいるべき場所では無くなりつつある……
長い、長い時が流れた。
いや、もう隠すことも無い。いつまでもうじうじとしている訳にも……
何かまずいことを聞いてしまったのだろうかと戸惑う彼女を尻目に、私は大きく深呼吸をして話し出した。罪を直視して、それを背負う覚悟を決めた。
「……本当は、」少し言い淀む。
「 本当は、私を含めた家族10人の住む家でした。」
「でした——?」
——はい。私たち家族はこの村でも有名なほど仲の良い家族でした。気前のいい父さんに、優しい母さん、うるさくも可愛らしい弟妹たち。私はそんな家族のなかで、忙しくも充実した、幸せな日々を送っていました。
ある晩——風の強い晩でした、一匹の魔物が家に侵入しました。普段ならその音で目が覚め、直ぐに逃げられたでしょうし、助けも呼べたでしょう。しかし風の強いあの晩だけは、誰も危険に気がつけなかった。
最初に襲われたのは1階の寝室で寝ていた弟妹達です。まぁ、後で現場検証をした兵士の方から聞いた話ですが。そして次に祖父母、最後に父母が襲われました。その時、私は何をしていたと思います?一人でヤケ酒をしていたんです。村外れの酒場で。ちょうどその日、珍しく父親と将来の事で喧嘩をしてしまって、どうにも腹立たしくて仕方がなかったので、一人酒を飲んでいたんです。家族が襲われているというのに……翌朝、ふらつく足で、親父に謝らないとなぁ、なんて思いながら家に帰り、戸を開けた瞬間、自分の目を疑いました。そこには一面の血の海が広がっていました。そして、きっとまだ酔いが覚めて居ない所為だと思って、もう一度よく見直しました。光景は変わりません。ちぎれた妹の足を見つけた時、もう酔いは覚めていました。目の前が真っ暗になるなんてよく言いますが、あれは嘘ですよ。本当に絶望した時は、かえって冷静になれるものです。直ぐに村のみんなに知らせて、隣街の駐屯所に走りました。
これが1ヶ月前のことです。
私は、家族を失った次の晩から、わたしは毎晩同じ夢を見ています。酒を飲んでいたお前だけが生きているなんて許せない。早くこちらに来い。お兄ちゃん、早く。そんなことを一晩中叫ばれるようになりました。頭ではわかっています。皆がそんなこと言うわけないって。精神の問題なんです。もう今生きているのが夢か現かも分からなくなりました。
これが先週の話です———
私が話す間、頬を涙で濡らしながら静かに聞いていていた。
机の上に置いていた蝋燭がフッ消えた。開けていた窓から風が吹き込んだのだろう。
ああ、なんて都合がいい——
それで、身辺整理を始めたのが数日前です。縄か或いは家族と同じように獣に喰われるか、悩みましたが、やはり確実な方をと、縄を選びました。丁度今晩、首を括るつもりでした。
声の上では淡々と語り続ける。
彼女は暗闇の向こうで驚いたように顔を上げた。
それでこの家は、あなたが言うようにこんなに生活感がないのです。もう生きた人間は誰ひとりとして住まないのですから。それで——最後にこの村を眺めようと、今日あの丘にいました。
ついにこの村に束縛されたまま死ぬのだ——そう考えて、自由な雲を羨んでいました。
そこに通りかかったのがあなたでした——
私を迎えに来た死神か、或いは生きろと言いに来た天使か、私は後者に賭けて、話しかけてみることにしたのです。
頬に涙が伝うのを感じた。冷たい、懺悔の涙だ。
「わたしが、来たから——」
「ええ、実際はお姉さんはただの旅人でしたがね。そして、お姉さんの登場で、ある意味で一人の村人としての私は死にました。」
「——どういうことです?」
「お姉さんを見ていて、少し羨ましくなってしまいました。そして、どうせ死ぬ筈だったのなら、残りの人生で旅をしてみたい思ってしまいました。どうかお姉さん、私を貴女の旅にお供させて貰えませんか。家族を裏切った私をどうか許して貰えませんか——」
しばらく、彼女は黙り込んだ。
長い沈黙の間、彼女のすすり泣く声だけが暗闇に響いている。私は俯いて、衣服を濡らすことしか出来ずにいた。
そして、彼女は掠れた声で、泣きそうになりながら言った、言ってくれた。
「ご家族は——それを裏切りだなんて思わないでしょう。でも、それは私が他人だからこそ言えることです。旅をしたいと言うならば、貴方はその苦しみを背負っていかなくてはなりません…………それは、本当に辛いことでしょう。ですから、私にもその苦しみ、半分分けてください。旅の仲間として。」
彼女は、そういいながら指先から小さな炎を出して、ろうそくに火を灯した。
彼女は優しく微笑んでいた。私は、その時、ああ、まだ、生きていたい、そう思った。例えそれが終わることの無い懺悔を意味していたとしても。
火の灯った蝋燭に照らされ、私の涙は彼女の前に晒し出された。
しかし、それももうどうでもよかった。
窓からはやわらかな風が静かに吹き込んでいた、
翌朝、私たちは私達家族のものだった家財を売り払い、それを旅費とした。そして、家族の墓に花束を添えて、村を発った。
不意に、後ろから温かい風が吹いた。優しい、この一ヶ月ほど忘れていた温もりを思い出した。
もう帰らない、もう帰る場所はない。そう決めたはずの覚悟が揺らいでしまうようだった。
件の丘を二人で歩いて行く。
丘の上からは故郷の村とその先に広がる平原がよく見えた。
春の花々に飾られた景色は私に最後の土産物を送ってくれているように思われた。
突然、お姉さんは思い出したかのように言った。
「ああ、そうだ。旅をするにあたって一つだけ条件があります。」
髪を押さえながら振り返る彼女は相変わらず、春風の中にとても美しく映えていた。
「なんですか?というか、出発してから言うのはずるくないですか?」
ずるくありません、と言いながら彼女は言う。
「私のことは、お姉さんじゃなくて、名前で———アイラと呼んでください。」
「それがお姉さんの名前なんですか?」
「ええ、今名付けました。いい名前でしょう?」そう言ってアイラは微笑む。
「ええ、じゃあアイラ、私のことはエオラスとお呼びください。名乗り遅れて申し訳ありません。」
「敬語もやめようよ。多分同じくらいでしょ?」
彼女はもう前を向いていたが、突然名前で呼ばれたからか、或いはタメ口に慣れないのか、彼女の耳は赤く染っていた。
「そうかい?じゃあこれからはそうしよう——」
これから、その響きは心地よく思われた。
二人で歩く丘には、風が吹いていた。
もう随分と暖かくなった春の風が。