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夜風が体に吹きつける。
バルコニーの手摺に寄りかかっていたエドワードは、その冷たさに背を丸めて身震いした。
──あの二人、ちゃんと話はできただろうか?
胸ポケットから懐中時計を取り出し時刻を確認する。エミリアを見送ってから既に三十分ほど経っていた。
そろそろ頃合いだろう。なにより寒空の下でぼんやりと佇むのにはもう飽き飽きだ。
エドワードは両腕を上げて縮こまった体を伸ばすと、被り直した金色の髪を軽く整えた。
「さぁて、戻るとするか。……あぁ寒っ! 優しい兄に感謝しろよな、弟よ」
「兄? 弟? やはり変装していたのですね」
闇の中から凛とした女の声が聞こえて、エドワードは息を呑んだ。
声の方へ目を向けると、呆れ顔のタリアが立っていた。さすが暗殺を生業とするルフェン家の娘だ。高いピンヒールに装飾の多いドレスを纏っていながら、足音はもちろんのこと気配すら全くしなかった。
だが関心している場合ではない。
「変装? 何を言っているんだタリア。まさか酔っているのか?」
エドワードは真面目腐った顔つきで尋ねた。
しかしタリアは気に入らなかったらしく、ダンッと乱暴にエドワードの顔の横に手をついた。
まさか壁に追いやられるとは思いもせず、エドワードは面食らってしまった。
「君がこんなに積極的な女性だとは思わなかった。婚約者がいる男にこんな真似をするなんて」
「その猿芝居、まだ続けるおつもりですか?」
「猿芝居もなにも、私は第二王子のヨシュアって、いだだだだだだだだ!!!」
エドワードの言葉を無視して、タリアは無理やり金髪の被り物を剥ぎ取った。
絡まった地毛が何本かもっていかれる感覚がして、頭皮の将来が不安になる。一方のタリアはといえばエドワードの痛がる声にも顔色一つ変えずにいる。
「やはりエドワード殿下ではありませんか」
タリアは冷めた表情で次期国王であるエドワードを見遣った。元が美人なだけに冷ややかな目を向けられると迫力が凄まじい。
エドワードは被り物をタリアから取り返すと肩を竦めた。
「君のその振る舞いも相変わらずだな、まったく。幼馴染とはいえ王族と貴族。君より身分の高いエミリアですら最低限の礼儀をもって接してくれるというのに」
「敬ってほしければそれ相応の威厳と性格を身につけてからもう一度同じことを仰ってください。それに我がルフェン伯爵家の主君はレブルス公爵家です。王家ではありません」
「そのレブルス公爵家が王家に仕える以上、ルフェン伯爵家は王家に忠義を尽くすべきと思うけれどね」
「ルフェンは特殊な家柄ですから、一般論は通用しません」
「まぁ、それもそうか」
タリアの主張にエドワードはあっさり納得した。
たしかにルフェン伯爵家は王家と微妙な関係にある。そしてそれには伯爵家の成り立ちが関係している。
伯爵家の祖は王家に重用された騎士だった。その武勇は凄まじく、求心力も兼ね備えていたルフェンの人気は王家を遥かに凌ぐほどであった。
これに焦りを感じた時の王は、戦場でルフェンを孤立させ謀殺しようと目論む。
主君の罠に嵌り絶体絶命に陥ったルフェンを救ったのが、レブルス公爵家だった。
戦時中であることを逆手にとったレブルス公爵は、ルフェンの力なくして勝利はないと王に進言し、両者を和解させることに成功する。
その後戦争に勝利すると、ルフェンは功を認められ爵位を得た。しかしルフェン伯爵の心は既に王室から離れ、命の恩人であるレブルス公爵家へと傾いていたのである。
初代ルフェン伯の忠義は現在まで絶えることなく受け継がれており、タリアの発言もこうした過去の因縁が根底にある。
今はルフェン伯爵家の武力が必要となるような時代ではないが、優秀な人材であることは確かで、王家が逃した魚は大きい。
まったく、馬鹿な真似をしてくれたものだと、エドワードは心の中で自らの先祖に悪態を吐いた。
「それで? いつから気付いていたんだ?」
エドワードが問うと、タリアは露骨に嫌そうな顔をした。
「最初からです。目ざとい自分が嫌になります」
「へぇ、最初からねぇ……」
弟の婚約者であり、至近距離で接したエミリアには当然気付かれるとは思っていた。
だがタリアは遠目にも関わらず一目でエドワードに気が付いた。そんな芸当は普段からよく相手のことを見ていなければできる筈もない。
渾身の変装が見破られた悔しさ以上に、気付いてもらえたことが嬉しくてエドワードは口元を緩めた。
「なに笑ってるんですか」
「いや、別に。愛されてるなぁと思って」
「は?」
エドワードがしみじみと呟くと、タリアは眉間に皺を寄せた。
「あーそれより、エミリアを探しに来たんだろう? 彼女なら馬車で君やレブルス公が戻ってくるのを待っているよ」
「殿下が帰宅を勧めたのですか?」
「あぁ。長居しても辛いだけだろうからね。エミリアの元へ行かなくていいの?」
「その前に、お聞きしたいことがあります」
「えーなんだろう。私に答えられるかなぁ」
真剣な面持ちで口を開いたタリアに、エドワードはあえて茶化すような物言いをした。
しかしそんなエドワードの態度を無視してタリアは疑問を口にした。
「王家は一体、何を考えていらっしゃるのですか? これほど騒ぎになっているお嬢様の出自を、王室の方々が知らなかった筈はありませんよね」
タリアの声音は質問というよりは詰問に近い。まぁ、彼女が腹を立てるのも当然か、とエドワードは心の中で呟いた。
「まぁそうだね。出生に関する報告はおそらくエミリア本人よりも先に受けていたのではないかな?」
「なら全て知った上でヨシュア殿下はお嬢様にプロポーズしたのですよね? だったら何故、お嬢様を蔑ろにするような態度をとられるのですか?」
「うーん……、教えてあげたいところだけど、どうしようかなぁ。あぁ! 可愛くお願いされたら喋ってしまうかもしれないな〜」
「あ゛?」
「嘘嘘冗談、今のなし」
ドスのきいたタリアの声にエドワードは慌てて発言を撤回した。わかっちゃいたが、やっぱり怒られた。
「教えてあげたいって気持ちに嘘はないんだけどね、ほら、どこで誰が聞いているかわかったものではないし。ごめんね」
「聞かれたらまずい話だってことだけはわかりました」
タリアは素っ気ない態度でそう言うと、エドワードから顔を背けた。
本格的に機嫌を損ねてしまったようだ。
エドワードは肩を竦めるとどう言ったものかと言葉を探した。
「でもまぁ一つだけ言えるのは、エミリアが公爵家の血を引いていないからこそ、ヨシュアはエミリアを選ぶことができたってことかな」
その言葉にピンとくるものがあったのか、タリアはハッとした顔でエドワードを見つめた。
やはり彼女は察しが良いとエドワードは目を細めた。
「殿下はそれでいいんですか? 本当ならお嬢様は貴方に嫁ぐ筈だったのでしょう?」
僅かに気遣いを含んだタリアの声音にエドワードは正直驚いた。
タリアはいつだってエミリアのことを第一に考えている。エミリアが幼い頃からヨシュアを慕っていたことだって彼女は知っているし、ヨシュアとエミリアの婚約を両手を上げて祝福しているものとばかり思っていた。
まぁ、実際祝福はしているのだろうが、まさかこちらのことを気遣ってくれるとは思ってもみなかった。
エドワードはバルコニーの手摺に肘をつくと、笑みを溢した。
「いいに決まってるじゃないか。ねぇ、タリア。君はエミリアが王妃に相応しい人物であると思うかい?」
「国内唯一の公女であるお嬢様以上に、王妃に相応しい身分の女性はおりません」
エドワードの問いにタリアは即答した。
「身分ね。そう、身分の上ではエミリア以上の適任はいない。では彼女個人の資質はどうだろう」
エドワードが重ねて問うと、タリアは即答することなく黙り込んだ。
「私はエミリアには荷が重いんじゃないかと思う。あの子は美しく心優しい女性だが、それだけでは国母は務まらない。相対的に物事を考え、利を見定める能力。危険から己の身を守れるだけの自衛力。そして時には非情な選択も迫られるだろうが、それに耐えうる強靭な心がなくては、エミリアには難しいだろう」
タリアの言う通り出生に関するいざこざがなければ、エミリアはエドワードに、いや、時期国王に嫁ぐ筈だった。
現在この国にはエドワードとヨシュア、二人の王子がいるが、ヨシュアが王位に就くことは絶対にない。
第一王子エドワードの母が隣国ミネシアから嫁いだ王女であるのに対して、第二王子ヨシュアの母は平民。
生まれた順番に加えて母の身分に差があるというのは言わずもがな、一番の問題は外交的な面によるところが大きい。
エドワードの母はミネシア国王が特に可愛がっていた末姫だった。しかしエドワードの誕生後に侍女が第二王子のヨシュアを産んでいたことがわかると、ミネシア国王は大切な末姫が蔑ろにされたと激怒した。
このうえエドワードを差し置いてヨシュアが即位してしまえば、ミネシアとの関係に亀裂が入ってしまう。
だからこそどんなにエドワードの出来が悪かろうと、ヨシュアに王位継承権が渡ることはない。
「エミリアのこともヨシュアのことも好きだから、幸せになってもらいたいんだよ」
「殿下って損な役回りをしてますよね」
「えぇ? 自由気ままに生きてるだけさ」
「馬鹿なふりしているのだって、ヨシュア殿下の居場所を城内に作るためじゃないんですか?」
つまらなそうな顔をしてタリアがエドワードの内側を暴露する。
つくづくこの人には敵わないなとエドワードは思わされた。
「さぁ? なんのことだか」
エドワードは口元に笑みを浮かべて嘯いた。
実際、エドワードは損な役回りをしているとは思っていない。むしろその逆なのだが、目ざといタリアにもそれだけは見抜けていないらしい。
少しだけ残念に思いながら、エドワードは夜空に瞬く星を見上げた。