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バルコニーでエドワードと別れた後、正門前まで降りてきたエミリアは乗りつけられたレブルス家の馬車を見て少々面食らった。
もちろんバルコニーから青薔薇の家紋が入った馬車は見えていたので、当家のものだろうとは思っていた。
しかしエミリアの記憶違いでなければ、御者のハンスは二時間後に迎えに来るよう父から指示を受けていた。
しかし今はまだ披露宴の開始から一時間も経っていない。
何故行き違いが発生しているのか疑問に思いつつも、エドワードの言葉に従ってエミリアは馬車で両親とタリアを待つことにした。
ヒールを鳴らしてエミリアが近づくと、まるでそれが合図だったかのようにハンスが腰を上げた。
黒のオーバーコートを手で軽く払いながら、御者台から降りてくる。黒の鍔つき帽を目深に被り、恭しくエミリアの手を取った。
なんだか今日のハンスは一つ一つの動作が優雅な気がする。というか、ハンスはこんなに背が高かっただろうか。
違和感を覚えてエミリアは覗き込むようにハンスの顔を見上げた。帽子の下に隠れた紫色の瞳と視線がぶつかる。エミリアが知る中でこの色の瞳をしている人物は一人しかいない。
エミリアが息を呑むと、目の前の男は自らの口の前で人差し指を立てた。
静かに────。
目でそう告げられて、エミリアは呆然とするよりほかになかった。
今日はもう会えないと思っていた、ずっと会いたいと願っていた人が、何故か御者の格好をして目の前にいる。
驚きと嬉しさが混ざってエミリアは目を潤ませた。
「どうしてここに……」
涙声で問いかけるとヨシュアは申し訳なさそうな顔で微笑んだ。
「不安にさせてすまない、エミリア」
優しい声音で告げられてエミリアは堪らずヨシュアの胸に飛び込んだ。
ヨシュアはしっかりと抱き止めると、まるで子供をあやすかのようにポンポンと背中を叩いた。
「落ち着いたか?」
「はい……。すみません」
冷静になってみると、いきなり抱きついたりするなど淑女にあるまじきことだ。
恥ずかしさで顔を上げられず、エミリアは意味もなく前髪を直す素振りをした。
ヨシュアは気にしていないという風に首を振ると、エミリアに手を差し出した。
「疲れているだろう。座って話そう」
エミリアは頷くと遠慮がちにヨシュアの手をとった。本来なら嬉しいはずの気遣いすら、申し訳なく感じてしまう。エスコートを受けて馬車の座席に腰掛けると、向き合う形でヨシュアも反対側に腰を落ち着けた。
周囲に人の気配はない。これなら気兼ねなく込み入った話ができる。
エミリアは重たい口を開いた。
「私、ヨシュア殿下に謝らなければいけないことがあるのです」
もうとっくにご存知とは思いますが、とエミリアは前置きして言葉を続けた。
「私に公爵家の血が流れていないこと。それどころか罪人であるカリル侯爵令嬢が実の母であること。殿下を騙すつもりはありませんでしたが、結果的にご迷惑をお掛けしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
エミリアは膝に額がつくほど深く頭を下げた。
「私のせいでヨシュア殿下のお名前に傷が付くようなことがあってはいけません。婚約破棄を望まれるようでしたら、謹んでお受けいたします」
頭を下げたままエミリアは一息に言い切った。
言葉はすぐには返ってこなかった。
気分を害されただろうか、と不安になっていると、目の前でヨシュアが動く気配がした。
「エミリア」
「はい」
名前を呼ばれてエミリアは顔を上げた。
向かい側に座っていた筈のヨシュアは、エミリアと目線を合わせるように目の前に片膝をついていた。
あまりの距離の近さに狼狽えるエミリアをよそに、ヨシュアは真剣な面差しで言葉を紡いだ。
「私が出自や血統で君を疎んじるような奴だと、そう思った?」
僅かに悲しみの色を含んだ声音にエミリアは慌てて首を横に振った。
「っ、いいえ! ヨシュア殿下は生まれや育ちで人を差別するような方ではありません! ……でも、妻になるというのなら話は別だと思うのです」
ヨシュアの優しさが上部だけのものでないことは、エミリアにもわかっている。
だがエミリアが本当に危惧しているのは、自分という存在がヨシュアの人生の足を引っ張ることになりかねないということだ。真にヨシュアのことを思うのであれば、この婚約は破棄する以外に選択肢はない。
自分からプロポーズした手前破談を言い出しずらいとヨシュアが思うのであれば、エミリアから切り出すよりほかにない。
「ヨシュア殿下。私との婚約を」
「偽りの公女に私生児の王子。お似合いだとは思わないか? エミリア」
「え?」
──解消してください。そう申し出るつもりが、エミリアの言葉はヨシュアによって遮られた。
「君は私がまた王宮で肩身の狭い思いをするのではないかと危惧しているようだが、そんなことはどうだっていいんだ」
平然と言ってのけるヨシュアにエミリアは戸惑った。
「どうだっていいだなんて、そんな……。だって、王家の一員として認められる為に、今まで苦労してこられたのに」
第二王子であるヨシュアの母は王宮で働く侍女だった。
王の子を身籠ったことがわかると王宮から去り、市井で一人ヨシュアを育てた。
ヨシュアが王子だと発覚したのは七歳の時であり、それまでヨシュアは平民として生活してきた。
王の子であるとはいえ、半分は平民の血が流れているヨシュアに対する貴族達の風当たりは酷いものだった。
今日、ヨシュアが貴族や民から向けられる信頼は、彼がこれまで積み上げてきた努力の賜物であり、エミリアは研鑽を積むヨシュアの姿を幼馴染として一番近くで見てきた。
だからこそ「どうだっていい」というヨシュアの言葉をすんなりと受け入れることは難しかった。
そんなエミリアの心の内を見抜いたかのように、ヨシュアは真剣な表情で口を開いた。
「十年間、君に釣り合う人間になる為に努力してきた。君以外に妻に望む人はいない」
動揺するエミリアの手を握ると、「それに」とヨシュアは言葉を続ける。
「スラム出身で汚らしい身なりの私を君は差別したりしなかった。兄上以外王宮に味方のなかった私にとって、君の優しさは心の支えであり、救いだった」
ヨシュアは真剣な表情から打って変わって、困ったように微笑んだ。
「君に付随する地位は関係ない。ただ君のことを愛しく思っているからプロポーズしたんだ。私の気持ちを知っても、まだこの婚約は破談にするべきだと思う?」
エミリアはヨシュアの顔を見るのが恥ずかしくなってギュッと強く両目を瞑った。
そんなにも自分のことを想ってくれているなんて、思いもしなかった。
国内唯一の公爵令嬢である故に、王子のうちどちらかと婚姻を結ぶであろうとは昔から言われてきた。
エミリアはてっきりヨシュアからのプロポーズは、国内にレブルス家以上に位の高い貴族家がない為、消去法で自分が選ばれたのだと思っていた。
ヨシュアが王族としての地位を盤石なものにする為に、公爵家の後ろ盾が必要だというならば、エミリアは喜んで利用されるつもりだったのに。
そんなものは関係なく、ただ愛しいから妻に望んだなんて言われたら。
「ずるいです。そんな風に言われたら、破談にしてくださいなんて、お願いできないじゃないですか……」
エミリアが気持ちを吐露すると、ヨシュアは端正な顔に笑みを浮かべた。
コンコンッと、頃合いを見計らったかのように馬車の扉が叩かれる。突然のことにエミリアは体を強張らせた。
「殿下、そろそろ……」
闇の中から男の囁き声が掛けられる。
ヨシュアは硬い声音で「わかった」と短く返事をすると、エミリアに向き直った。
「エミリア。私が愛しているのは君だけだ。これから何が起こっても、これだけは信じてほしい」
真剣な眼差しで乞われて、エミリアはしっかりと頷き返した。
その答えに満足したようにヨシュアは微笑むと、帽子を深く被り直した。
「今日は会えて良かった。そのドレスもよく似合ってる」
「えっ、あ、あの、ありがとうございます」
唐突に褒められてエミリアはしどろもどろになりながら礼を述べた。
慌てふためくエミリアにヨシュアは笑みを溢すと、馬車を降りた。
「おやすみ、エミリア」
「おやすみなさい、殿下」
従者の男とともに去っていくヨシュアが見えなくなるまで見送ると、エミリアは糸が切れた人形のように長椅子に腰掛けた。
頬に手をやると体温が高いのがわかる。エミリアは長々と幸せな溜め息を吐き出した。
それでも興奮冷めやらずエミリアは座席に倒れこんで足をバタつかせた。
いつもなら行儀が悪いと怒られるが、今は他に人もいないからいいだろう。
そう思っていたエミリアであったが、コンコンッと再び馬車の扉が叩かれた。
「あの〜、エミリアお嬢様? 何を暴れていらっしゃるので?」
困惑した表情のハンスと窓越しに目が合ってエミリアは飛び起きた。
「ハ、ハンスッ!? これは、そのっ」
「はいはい。ハンスは何も見ておりませんよ」
ハンスは苦笑すると、御者台に腰を掛けた。
恥ずかしいところを見られたことで、エミリアの浮ついた心はようやく落ち着きを取り戻した。
するとふと、エミリアの頭に疑問が一つ浮かんだ。
「今日、どうして披露宴に来て下さらなかったのかしら」
誰に聞こえることもなく、エミリアはポツリと疑問を口にした。