21
夜も更けると、父は「名残惜しいけれど」と言い残して王宮を後にした。
カリル侯爵令嬢の冤罪疑惑や、今も寝込んでいる母のことを考えると心は休まらない。それでも父が家族の秘密を打ち明けてくれたことで、蚊帳の外にされていた時に感じていた閉塞感からは解放されたように思えた。
父と別れた後、エミリアは自分に用意された客室ではなく、そのすぐ隣の部屋の扉を叩いた。
夜も遅いし、もう眠っているかもしれない。そんな考えが頭を過ったが、どうしても会って話がしたかった。
さして待つこともなく目の前の扉は開いて、寝衣姿のタリアが顔を覗かせた。普段一纏めに括られている髪は解かれており、絹糸のような銀髪が胸にかかっている。
「遅くにごめんね。休むところだった?」
申し訳なくなってエミリアが謝ると、タリアは気に障った様子もなく「別に構いませんよ」と言って部屋に招き入れた。
エミリアがソファに腰掛けると、タリアは当然のように飲み物を用意してサイドテーブルに置いた。甘く優しい香りが、立ち上る湯気と一緒に部屋に広がる。
白磁のティーカップに注がれていたのは、蜂蜜紅茶だった。就寝前、エミリアが好んで飲んでいるものだ。
エミリアとタリアは二人並んで甘い蜂蜜紅茶を飲んだ。幼い頃から飲み慣れた優しい味とホッとする温かさにエミリアはフゥ、と息を吐いた。
「旦那様とは話せましたか?」
見計らったようにタリアが口を開く。
エミリアはティーカップをソーサーに戻すと、頷いた。
「私ね、タリアにお礼を言いたくて」
「お礼?」
聞き返すタリアはいまいちピンときていないらしく、難しい顔をした。
「お父様に言ってくれたんでしょう? ちゃんと話すべきだ、って」
そこまで言うと、何に対する感謝なのか思い至ったようで、タリアは「あぁ」と小さく呟いた。
その声音に動揺や照れに似た気配を感じて、エミリアは妍麗なタリアの横顔を見た。
けれどやっぱり、そこにあるのはいつも通りの澄まし顔で、エミリアは苦笑した。
「私ね、今日やっとお父様と本音で話せたって思うの。本当の娘じゃないって伝えられてからは、心の中で線を引いてしまっていて、本当に聞きたいことも聞けなかったし、聞くのが怖いと思ってた」
両親の愛を疑っていた訳ではない。それでも真実を知ってからは、これまで通り過ごすことができなくなっていた。
自分のこと、ソフィアのこと。常に付き纏う不安と罪悪感。レブルス公爵令嬢として暮らした日々が幸せであればあるほど、真実は受け入れ難く、苦しいものだった。
「でも目を背けても、耳を塞いでも、やっぱり根本の解決になんてならなかった。なんにも知らずにただ流されて生きる毎日は怖かった。でも、お父様と話すきっかけの一つをタリアがくれた」
不器用で臆病な親子の背を、タリアはそっと押してくれた。
エミリアはタリアの手をとると、真っ直ぐに目を見つめた。
「ずっと私を守ってくれて、私の味方でいてくれて、ありがとうタリア。私ね、タリアが側にいてくれたから頑張れたよ」
婚約披露宴の時も、ソフィアの存在を知った後も、全部全部、タリアに救われてきた。
「タリアも公爵家のみんなも、私なんかには勿体無いくらい素敵な人たちだなって、いつも思ってる」
気恥ずかしくなって声を落とすと、唐突にタリアに両頬をつねられた。
「い、いひゃいっ! いひゃい!!!」
容赦なくつねられてエミリアは悲鳴を上げた。何故こんなことをされているのか、理由も分からず困惑するエミリアの耳にタリアの低い声が響いた。
「私なんかって、なんですか」
声音と表情から怒りを感じとったエミリアは、喚くのをやめて呆然とタリアを見た。
さぁ、なんとか言ってみろ、と言わんばかりに頬をつねっていた指がゆるむ。
エミリアは恐る恐る言葉を紡いだ。
「あ、えっと、それは、その……。理由があったとはいえ、公爵家はソフィアがいるべき場所だったわけで、今私が享受している幸せは、私が受け取るはずのなかったものだから……」
エミリアの答えにタリアは苛立った様子でため息を吐いた。
「まだそんなこと言ってるんですか。やっぱりお嬢様は何もわかってませんね」
タリアはエミリアの顔を上向かせると「いいですか!?」とまるで物わかりの悪い子供に言い聞かせるように言った。
「私や公爵家のみんながあなたを大事だと思うのは、あなたが公爵令嬢という立場に置かれているからじゃないんです。これまであなたが篤実に生きてきた結果なんですよ! 肩書きじゃない。いつだってエミリアという個人に向けられた感情なんです!!」
タリアの声音は叱責に近いが、言葉からは切実な愛情が伝わってくる。
それがどうしようもなく嬉しくて、でも向けられる温かな想いを受け取りきれなくて、エミリアは目に涙を溜めたままタリアを見つめ返した。
タリアはそんなエミリアを見下ろすと、嘆息した。
「まだ不安、って顔ですね」
そうじゃない、嬉しい。そう言葉にしたくても、声を発したら涙が溢れ落ちそうで何も言えない。そうして涙を堪えていたら、とうとう鼻水が垂れてきた。
八方塞がりのエミリアに代わってタリアがハンカチで鼻水を拭ってくれた。
「お嬢様が旦那様の本当の娘でないことは、最初から知っていました」
「……ぇ?」
タリアの告白にエミリアは情けない声を漏らした。
「母が公爵家に乳母として雇われたのは、赤子の面倒を見れない奥様の代わりと、子供を取り替えた事実を屋敷の人間からも完璧に隠すためでした。当時私はまだ三つと幼かったですが、ある日突然、母が腕に抱く赤子が別人になったことには気付いていました」
タリアは鼻水がついたハンカチを畳みながら、淡々とした口調で言った。
「どうして子供を取り替えるなんてことをしたのか、理由は知りませんでしたけど。でも、全部私にはどうでもよかったんです」
そう言ってタリアは遠い目をした。
「お嬢様、ルフェンの家訓はご存知ですか?」
唐突な問いにエミリアは首を振った。
「仕えるは唯一レブルスのみ、です。そしてレブルスといってもそれは公爵家全体ではなく、当主であるレブルス公爵ただ一人です」
鼻水が止まったので、エミリアはおずおずと口を挟んだ。
「正確には一族ではなくて、個人に仕えているっていうこと?」
「その通りです。だからレブルス公爵が決めたことであれば黙って従う。疑問を抱くことも許されない。子供の取り替えにしたって同じことです」
「どうしてそこまで尽くせるの? レブルスとルフェンの成り立ちはわかっているけど、でも恩があるっていったって、何百年も前の話でしょう?」
「今でこそ暗殺を生業としていますけど、伯爵家の始祖は忠義に厚い騎士の家系ですから。一族の人間は大体同じように忠誠心が厚い者ばかりなんです。家ではなく個人に仕えるというのも、そこからきているんですよ」
どういうことなのか理解できず、エミリアはきょとんとした。
タリアはそれを馬鹿にするでも、面倒くさがるでもなく、説明を開始した。
「レブルス公爵家は大貴族ですから、傍系を含めると血縁者はかなりの数にのぼります。そして彼ら一人一人、違う人間であればこそ主義や信条は異なる。万が一、レブルス一族の中で争いが起こった時、ルフェンの人間が個々人に忠誠を誓えば、家がバラバラになりかねない。だから、当主たった一人に仕えるという家訓があるんです」
「あれ? でも伯爵家にそんな決まりがあって、当主に疑問を抱くことも許されないっていうなら、タリアのやったことって……」
伯爵家としてはいけないことなんじゃ……。
エミリアはとんでもない事実に思い至り、血の気が引いた。するとタリアがジロリと不満げな視線を寄越して言った。
「そうですよ。私、家訓を破ったんです。家よりもあなた個人を選んだんです」
「だ、大丈夫なの? あとで怒られたりしない!?」
エミリアはタリアの肩を掴んで揺さぶった。
ルフェン伯爵は厳格な人だ。この一件でタリアが罰を受けたり、専属侍女から外されるような大事になるかもしれない。
慌てるエミリアとは対照的に、当事者である筈のタリアは落ち着き払っていた。
「平気ですよ。小言はもらうでしょうけど」
タリアは気怠げに乱れた髪を後ろに払った。
「専属侍女になるのを許された時から、私の優先順位はお嬢様が一番って決まってます。侍女になる為に家督の相続権だって弟に譲ったんですから。……ここまで尽くしても、まだ私なんかって思われますか?」
不満そうなタリアの物言いにエミリアは勢いよく首を横に振った。
知らなかった。タリアが自分の為にいろんなものを捨ててまで側にいてくれたことを。
一度引っ込んだはずの涙が込み上げてきて、エミリアは両手で顔を覆った。
「タリア。私、もう自分を卑下するのはやめる」
公爵令嬢としての十六年を自分で否定するのも、ソフィアに負い目を感じるのも、幸せな日々を送ることに罪悪感を覚えるのも、全部。
「やめるね」
その夜、姉にも等しい存在にエミリアは誓った。




