清水玲〈秋愁 指切り 怖い 。 〉神楽剣志
〈壱零壱壱〉
あの放課後の話し合いから2ヶ月経った日の朝。
「学校行きたくないです」の文字がスマホに参着した。
気づいた時にはすでに登校完了時刻の5分前。もう今日は来れないかと思っていたが、朝の挨拶のために教室に向かうと青い顔をした玲の姿があった。委員長の挨拶で立ったり座ったりはするものの俺の話は全く耳に入っていない様子で、ちょうど1時間目が受け持ちの授業がない空きコマだったので授業が始まる前に連れ出すことにした。
頭が痛いとか腹が痛いとかではなくて、精神的に行きたくなかったらしい。とはいえ、授業を休むのは絶対嫌で、無理やり体を引っ張ってきたのだそうだ。最初は保健室にと考えたが、測ってもらうと熱も無かったし、途中で方向転換して相談室に向かうことにした。机を挟んでお互いソファーに腰掛ける。少し他愛のない話を交えながらこの1ヶ月ことを聞いていると、玲は堰を切ったように話し始めた。
「ほんの数週間前まで本気で死にたくて消えたくて仕方なかったのにそれさえも何処かに行ってしまって、『死にたい』って口に出すこともできなくなったんです。
『死にたい』が私の全てだったのに、それが今じゃすっぽり無くなってしまって何も無くて、そのくせして、何も無いのに急に胸が苦しくて涙が止まらなくなったりするなんておかしいじゃないですか。か弱い子鹿の演技をして、本当はそこらのハエや汚いネズミのくせに。
本当は自分がいなくなっても誰も悲しまないし誰も気づかないのに、『いや自分は存在意義のある人間だ』って、『誰かが自分のことを気にかけてくれてる』って必死に思い込んでるんです。世の中にこんなに無様な人間はいないですよ。空気読めなくて、勉強も運動もできなくて、他人と仲良くできなくて、努力もしないで開き直って、怠惰で傲慢で、生きる価値も意味もないどうしようもない人間な私はこれからどうすればいいんですか」
「なんで?」
咄嗟に、というか、勝手にそんな言葉が口から溢れ落ちた。なんで。なんで?何に対して。そうだ。なんで、なんでそんなふうに考えるんだって。なんでそんなふうに思うんだって。
「なんで、逃げないんだよ」
え?と玲はこちらを向いた。
「どうせ、俺が最初じゃないだろ?他の、中学校のときの先生にだってきっと言ってたんだろ、死にたいって。それでダメだ死ぬなって言われてきたはずだ。『私はあなたが死んだら悲しい』って誰かに言われなかったのか?それでなんで納得しないんだよ。そんなの人が死んだら悲しいに決まってるじゃないか。玲なら死んでも悲しまないとか他の生徒が死んだら悲しむとかそんな訳あるかよ。そんなヤツなんて人間じゃない。それくらい分かってるんじゃないのか。だから、なんで。なんで、この人にもたれかかればいいんだって、任せてしまえばいいんだって投げ出さないんだよ。なんで全部背負って、落としたら全部拾おうとするんだ。置いていけばいいだろ。捨ててしまえばいいだろ。苦しんで、踠いて、足掻く必要なんて何処にあるんだよ。俺はただ玲に生きてほしいだけなのに、なんで」
そうして息を吸い込むと、目の前には大粒の涙を目に溜めている少女がいた。
しまった、と思った。なんでなんでって、俺が言う前にそんなの彼女自身も考えているに決まっている。
「そんなの、わからないでしょ。私が死ぬまで、葬式で本当に先生が涙を流すかなんて証明しようがないし。
私だって死ぬのはイヤだけど、たぶん苦しいし痛いし怖いし、でも、この気持ちをなくすためには仕方ないでしょ?
置いてけって?捨てろって?そんなの出来てたら苦労してないに決まってるじゃん。毎日朝起きて、また朝が来たって憂鬱になって、いつか来る死ねる日を待ちわびる気持ちなんて分かる?お前は姉ちゃんみたいになるなって言われる気持ちが分かる?分からないでしょ。そうやって言われて、いくら学校行きたくなくても毎朝元気なふうに装って学校に行くなんてしたことないでしょ。先生に私の何が分かるんですか」
言葉に詰まった。何と言えば正解なのか分からず、ただ何度も目を瞬かせることしかできなかった。
「もういいです」
玲はふらふらとその場を立ち上がる。
「ちょっと、トイレに行ってきます」
「ああ」
トイレから戻ってきた玲は顔面蒼白で、今にもぶっ倒れそうだったので保健室に連れて行った。関係改善どころか悪化しているような気もしたが、背に腹は変えられまい。無理そうなら早退してもいいと言い残して、俺は職員室に戻った。結局玲はお昼休みまで粘ったが、保健の先生と相談の上、親御さんに連絡して迎えにきてもらうことにした。
迎えにきたのはこの間のお姉さんだった。
「ご迷惑をお掛けしてすみません」
相変わらず小さい声だったが、しっかり聞こえる大きさで言ってくれた。玲の通訳が必要かと思ったが大丈夫そうだ。玲の荷物を届けてくれた生徒に礼を言って玲の帰りの準備をしていると、保健の先生と玲のお姉さんとの会話が聞こえてきた。
「あら、リンちゃんって玲ちゃんのお姉さんだったの?最近どう?」
「いえその、私は……玲はどうですか」
「朝から気分が優れないみたいで。吐いてはないんだけどね。お家でゆっくり休ませてあげて」
「ありがとうございます。あの、少し相談が……」
それ以上は声が小さくて聞こえなかったが、保健の先生の受け答えから察するに近くの内科クリニックではなくて大きな病院にかかりたいらしい。まずは近くの総合病院でとか紹介状を書いてもらって……とか云う話が聞こえてきた。
もう一歩も歩けないという様子だったので、仕方なく玲をおんぶしてお姉さんの車まで連れて行った。暖かな日を背に車を見送っていると、チャイムがそれを見計らったように昼休みの終わりを告げる。
冷たい風がほのかに秋を匂わせていた。
〈壱壱壱〉
リズミカルな鈴の音と共に野太い声がジングルベルを歌っている。まだ12月も始まったばかりだというのに、大きなモミの木には電飾が取り付けられ、あちらこちらにクリスマスバーゲンの文字が見えた。その日は延期に延期を重ねての修学旅行初日だった。
職員会議や保護者説明会では、やい海外だ沖縄だ北海道だと怒号が飛び交い、あまりにも纏まらないので中止も懸念されたが、最終的に決行されることが決まった。何故そんなに揉めたかというと、前年から予約していた大型高級ホテルグループが倒産しテレビを賑わせる騒動に発展、急いで他のホテルを漁ったものの当然既に他の学校が予約していて、その上同じ系列ホテルに泊まる予定だった客がどんどん予約していき、大人数で泊まることができる空きなど無いと断られるというフルコンボだったからだ。結果的に、3日間のうち1日だけ日帰りプラス引率付きで中心県からの新幹線移動を許可し、北陸三県プラス長野という広範囲に及ぶ修学旅行が実施されたのだ。
早朝に学校に集合し、飛行機に乗って関空に到着。バスで石川県まで移動し、金沢駅で各方面に分かれることとなった。金沢まで来て何が嬉しくてわざわざショッピングモールに出掛けるのか知らないが、俺の役割は相生先生と二人でバス一台分の人数を某ショッピングモールへ引率することである。
バスはほぼ計画通り駐車場に到着した。バスの中で最終集合時間と俺の緊急連絡用の電話番号を口酸っぱく伝え解散となった。
交代で遅めの昼ご飯を食べ、おやつの3時を回って相生先生と二人で雑談していたとき。俺の緊急用のスマホが鳴った。自由行動の際は基本人数2人以上という決まりに則って班長の電話番号はあらかじめ提出させ登録してあったのだが、そのどの番号にも当てはまらない。とにかく電話をとって相生先生にも聞こえるようにスピーカー設定に切り替えた。
「先生、せんせい!」
相手は俺の受け持つクラスの岩田さんで、随分と切羽詰まった様子で「先生!」と繰り返していた。
「落ち着け!誰が何処で何をどうしたのか、ゆっくり喋るんだ」
「えいがみててないててといれいって」
「待て待て。深呼吸して、はい、スーハー、映画を見てたことはわかったぞ。それで、その後は?」
「アタシとるーたんは同じアニメ映画見てて、清水ちゃんは他の映画見てたんだけど、上映終わって出てきたらまだ終わってないはずなのに清水ちゃんがベンチに座って泣いてて最初感動して泣いてるんだと思ってたけどだんだん過呼吸みたいなのになって」
「清水ちゃんって、清水玲のことか?」
「うん」
「今、玲はどうしてる?」
「まだ苦しそう。るーたんが大人の人に助けを求めて、その人が今救急車呼んでて、待ってるとこで」
「わかった俺も今から行く。電話は切らずに繋いでおくんだ。映画館で合ってるな?」
「あってます」
俺は相生先生と今後の対応について示し合わせ、俺は映画館に、相生先生は引き続き自由行動中の生徒の引率を担当する事に決めた。それまで俺がいたフードコートはショッピングセンター2階のほぼ中心。に対して、映画館は5階の最東端。救急隊員が来るまでにたどり着かねばとエスカレーターを駆け上がり、ひたすら人混みをかき分けて走った。到着したとき、玲の周りには何人かの集まりができていた。まだ玲は苦しそうにしていて、大きく震えている。岩田さんは玲の手を握り、堀北くんは背中をさすっていた。もう一人の男性は電話中の様子だった。
「玲、俺だ、先生だ。わかるか?大きく息を吸って、落ち着いて」
俺がもう片方の手を握りしめると、弱い力ではあるが握り返してくれた。
「頭が痛いのか。お腹が痛いのか、映画が怖かったのか?」
玲はどの質問にも答えず、さらに呼吸は荒くなり、ただ涙をボロボロと溢すだけだった。ポケットからハンカチを取り出して涙を拭いてやっていると、先ほどの男性が声をかけてきた。
「もしかして、彼女の学校の先生ですか?」
「そうです、神楽剣志です。状況を説明していただいてもよろしいですか?」
「もちろんです。その前に、そこの彼女」
「私ですか?」
男の人は岩田さんたちを呼んで電話を代わるように言った。どうやら通報してそのまま電話を繋いであったようで、状況を鑑みて司令員さんがアドバイスをしてくれるらしい。
「それで、私はあの生徒さんに助けを求められたものの、医者でもないので何をしていいかわからず救急車を呼んだわけです」
この男性も玲が何故こんな風になったのかは知らないらしかった。
その後すぐに救急隊員が到着して、俺は救急車に同乗して病院まで付き添うことになった。学年主任に連絡を入れて、出発前に記載してもらった健康調査票から血液型やアレルギーの有無を確認し隊員さんに伝えた。
病院についてからは親御さんに連絡をして、病状によっては迎えに来てもらうことになると伝えると「その時は姉に行かせます」とだけ言われた。特段心配した様子でもなく、終いには「昼休み終わるんでもう電話切ってもいいですか」なんて言い出す始末で、怒鳴ってやりたくなった。
間も無くして俺は玲のベッドに案内された。最初は眠っているのかと思ったが、俺がそばに寄ると玲はまぶたを上げ瞳をこちらに向けた。
「もう大丈夫か?」
見るからに大丈夫ではないのだが、玲は瞳を静かに下ろし「大丈夫」と小さな声でそう言う。
「ありがとう」
「え?」
「私を救ってくれて」
「俺は何もしてない。救急車だって見知らぬ男の人が呼んだんだ。俺は何も……」
管の繋がった手がするりと布団を飛び出し俺の膝元に忍び寄ってくる。躊躇いながらも俺はそれを手に取り握りしめた。
「何回も生きろって、頑張れって、言ってくれたのは、先生だよ。私の命を救ってくれた恩人は、紛れもなく先生なんだよ?」
「違う。俺は、俺は何もしてない。何もできてないんだ。誰にも、何も」
あの人に恩返しだって、両親や兄弟にありがとうって言うことだって、玲を助けることだって、何も出来ていやしない。理想や虚構を並べて現実逃避を繰り返しているだけだ。
「そんなことないから。私はもう救われてるよ。先生に救われてるよ。だから、ね?」
そんなの嘘だ。夢だ。もし本当に玲が救われたのならそれは玲が玲自身を救っただけだ。俺は何もしてない。そんな思いが一層俺を俯かせた。
「だからさ。指切りしない?」
「指切り……」
「そう。先生が望むこと、何でも一つ、約束してあげる。そしたら、先生は一つ、何かしたことになるでしょ?」
何か一つ。何か、一つ。
「俺より先に、死なないでくれ」
「わかった。死なない。先生より先には絶対死なない」
2人で小指を引っ掛け、緩く、柔く、絡ませ合った。
チクリチクリと赤い糸が交差する。重なり、折り合い、やがて結びつくように。
〈零零壱〉
ガツン、と鈍い音がした。駐車のとき右に寄せすぎたおかげでドアを車庫の支柱にぶつけてしまったらしい。両腕いっぱいの買い物袋を家の中に持ち込み、鞄を取りに車内に戻ったとき、ふと着信に気がついた。玲からだった。
「もしもし?」
返事は無い。いや、できないのだ。また発作が起きて……すぐにそう気付いた。
「息、いっぱい吐いて。大丈夫、時間はいっぱいある」
玲はこの頃、発作を繰り返していた。ちょっとしたきっかけで呼吸困難になって保健室に通う日も多かったし、精神も不安定で、喚くようなことはなかったがよく泣いていた。
電話越しではあるが、だんだん呼吸が整ってきて落ち着きを取り戻していくのが分かった。
「そっちに行ったほうがいいか?」
「ううん。家にいるから、大丈夫。ごめんなさい、急に電話して」
「何かあったのか?」
「昼寝してたら嫌な夢を見て。すごい悲しくて」
夢見が悪くてパニックになるとは、相当な夢だったらしい。
「先生が後ろから抱きついてきて、玲が望む関係になろうって言うんです」
付き合おうとかそういう感じか。それにしても夢の中の俺何してんだよ気持ち悪い。
「それで、家族みんな私以外は旅行に行ってて、部活のみんなとか先生が私の家に泊まることになるんですけど、先生がお風呂上がりにソファーで寝ちゃって」
どんな展開だよ。
「そこまではいい夢だったんですけど、いつの間にか私死んじゃうんです。何も見えなくて何も聞こえなくて、何も感じなくなってて。そんなの怖いし悲しいし、でも地球は滅びないし、神楽先生は生きていくし。言葉にできないですけど、すごく虚しいっていうか。なんで私、生きてるんだろうって、死んだらどうなるんだろうって考えてて、そのうち、『あ、これ夢だ』って気付いて、起きたんですけど。もちろん泊まりにきたはずの神楽先生もいないし、胸がざわざわして、ぐわんぐわんってなって、涙が出てきて、息辛くなって、頑張って電話しました」
「そうか。話してくれてありがとう。大変だったな」
玲は少し間を置いて、「あの」と切り出した。
「私、死にたくないです」
「うん」
「死ぬの怖いです」
「うん」
「私、『死にたい』無しで生きていけると思いますか?」
「大丈夫。玲はきっと素敵な人生を送れるから」
「何ですか、それ」
「なんかすごい今頃だけどさ、死ぬのってもったいないと思わないか?」
玲が先生もそう云うこと言う人だったんですか、と呟くのが聞こえた。
「別に産んでくれた親に感謝しろとか言って説教したいわけじゃないんだ。ただ、将来必ずこれ楽しいってことだとか、これやりたいってことだとか、そういうのを自分で手に入れるときが来ると思うんだ。だから、そこまで行かずして死ぬなんて、もったいないなあと思って」
ちなみに、この言葉は恩師の受け売りである。そう思っているのは本当だが。
「ふーん。私にはよく分かんないです」
そうだろう。俺も昔はよく分からなかった。
「でも、それでも、きっと分かるようになるさ」
「そうですか」
「ああ」
互いに尽くす言葉も無くなって、瞬刻2人の間で何かが共鳴する。
「ごめんなさい、長々と」
「いや、久しぶりに話せて良かったよ。じゃあ、また明日、学校で」
「はい」
電話が終わった途端、俺は冷凍食品をそのまま玄関に起きっぱなしにしていたことを思い出し、急いで家の中に入った。
そこには磨かれた一足の靴。明日は新学期の始業式である。例年より桜は散るのを待ってくれているようで、昨日学校に行った時はまだ満開だった。
また、春が終わっていく。
〈零壱零壱零壱〉
十六で出会って、今年で二十五になるらしい。
年賀状を交換して、誕生日には質素なプレゼントを送り合い、お互いに連絡を取り合い、たまに飲みに行く。まるで父と子のような、そんな仲だった。
「今度結婚するんだ」と報告があった。「高校2年の時の同じクラスの子で、この間みんなで飲みに行った仲間の中にいる」というから驚いた。玲は常日頃俺に恋愛相談しておきながら最後まで相手の名前を言わなかった。幸せかと聞くと「幸せだ」と言う。それから「先生の言っていた通りだ」とも。どうやら彼女は自分自身を見つけられたようだ。
「もう、俺は必要ないな」と言うと、「そんなことないですよ」と玲は言った。
俺には、スルスルと糸が抜けていく音がしっかりと聞こえた。
こんにちは。あと、お久しぶりの方はお久しぶりです。
私の中の気持ち的にも「死にたい」が一段落ついたのもあって、これを書くに至ったわけですが(しかしながら、実はまだ死にたいと思ってるのにこういう話を書いてしまうという矛盾を抱えてます)。これを読んで、そんなに簡単なわけあるかって思ってる人も、だからなんだよって思ってる人も、ふーんって思ってる人もいるだろうなと思います。正直、読者さんがどう感じるのか私には全く想像がつかないので、感想が聞きたいです。(ログイン無しで感想書けるように解放してます)
実は、私事ではありますが、死にたいと思ったことがないという人に、これを読んでもらおうと思っています。何か少しでも伝わればいいなと思いながら画面に向き合う夜です。
お願いだから、生きて。死なないで。あと、伝えたいことは伝えられるうちに伝えておくこと。