清水玲〈死にたい 鍵 選択肢 生きる?〉神楽剣志
〈零零〉/〈零壱零零〉
いちばん初めに顔を合わせたのは何年前のことだろう。言い方は悪いけど、少し変わった子だった。苗字は清水で名前は玲という。パッチリした目に小さな鼻が愛らしさを強調させていて、笑顔が素敵な子だった。
〈壱壱壱〉
まるで取引先とのやり取りのようで個人的な話など一切無く、事務的な連絡が主だったのに、ある日唐突に「死にたいです」の文字が送られてきた。もし彼女が今その手にカッターや頑丈なロープを握っていたら、若しくは誰かと手を繋いで海辺や川沿いに立っていたとしたら、と酷く困惑した。
「ダメだ」それとも「やめてほしい」?
とにかく彼女が命を断つのだけは阻止しようと思った。結果、絞り出した答えは「死ぬな」だった。
「どうした?」と送ると「なんでもないです」と、それからしばらくして「やっぱり死にたいです」とも返ってきた。
「少なくとも、俺は死んで欲しくないと思ってるよ」
思った通りに言っただけだった。ただ、今思えば、何のかわり映えもないはずだったその日、彼女の命をこの世に繋ぎ止めている細い細い糸を俺は自らの指に絡めてしまったのである。
電話でもSNSでも、もちろん対面でも、何度も何度もやりとりをした。何度も「死にたい」を聞いたし、何度も自嘲的で自虐的で自問自答的な言葉を目にした。もちろんその度に「死ぬな」「生きろ」「俺はそうは思わない」と繰り返すのだが、彼女とやり取りをしていると昔の自分を見ているような気分になった。昔、死にたくて苦しくてたまらなかったとき、自分もそんな風にある大人に話したことがある。傍迷惑で、あちらに大きな荷を背負わせていたのではないかと思ったが、今更確かめることもあるまい。
元来、自分は手首にカッターを突きつけただけで背筋が凍るほどの臆病者だったし、そんな真似事だけで「やった気」になって、血が出るほど刃を強く押し付けることなんて出来た試しがなかった。「そんな自分が本当に彼女を手助けなんてできるのか、いや絶対に死なせてはいけない」と何度も自分に言い聞かせたものである。
――いま、俺に出来る事はなんだろう。やるべき事は何だろう――
玲に接するたびにそれと交戦した。もちろん、一番は来るべき日に行われる玲の自殺を止めること。でも、ただそれだけじゃない。彼女の枷になっているもの――つまり、これがあれば(これが無ければ)生きてもいいやと思える鍵――を見つけること。それから、玲の拠り所を作ること。俺は一介の教師にすぎない。彼女が旅先で迷子になったとき、その道の端で地図を広げて案内役こそすれど、永遠に同じ道を歩き共に旅をする事はできないのである。その旅の彼女の同行人が家族か恋人か友人かは分からないけれど、とにかくいつもそれを念頭においていた。
〈零零零壱〉
まっていたぞ、とでもいうかのように、俺が部活を抜けて職員室に戻ってきてすぐに玲がやって来た。家に帰りたくないとか少し話がしたいとか言うので、2人でゆっくり喋れる場所を探していると、隣の席の筋肉オタクならぬ相生先生にコミュニティルームなる部屋をオススメされた。お互い来るのは初めてだったので少し探索してみることにした。お堅い本ばかりじゃなくて漫画やトランプも置いてあった。窓辺には小さな花が咲いていて、黒板には陽気なキャラクターが落書きされている。最近空き教室を活用して作られたらしいが、不登校気味だったりクラスに馴染めない子の小さなコミュニティの場になっているらしい。玲が棚にあったボードゲームを取り出してきて、どうしてもやりたいと言うので仕方なく机に広げてサイコロを振った。
「私は、答えを先送りしているだけなんです」
玲が劣勢になり明らかに不満げな顔になり始めたとき、彼女はそう言った。
「何の答え?」
「自分が死ぬべきかどうか。ずっと立ち止まってる」
それはもちろん、そうだろうと思う。死にたいと思い続ける限りその問いはいつも降りかかってくるし、“死にたい”と決別するための転換期はそう簡単にはやって来ない。しかし、俺にも彼女にも変わらないことが一つあった。
「玲はずっとおんなじ場所で立ち止まってると思ってる。だけどそうじゃないよ。何回も進んでは立ち止まって『生きる』を選び続けているだけ。なんかこう、死にたいと思うたびに今進んでる道の左側にヒュンって死への道が現れるんだ。でもずっと君は右側……つまり『生きるほう』を選んでる。だから今も君は生きてる。そういうことじゃない?だから、死ぬのを先送りしてるってのは、まあそうかもしれないけど、それだけじゃなくて、生きるってことも選び続けてるんだよ」
「はあ」と締まりのない答えが返ってくる。
どうたらこうたらと話は右往左往し、俺がうどんの話をしているとついに返事が曖昧になってきて、まもなくして玲は目を瞑って眠ってしまった。ひどく青白く生気のない顔だった。近くに毛布があったことに気づいたので掛けてやったのだが、不意に手が玲の頬に触れてしまった。玲はそれを振り払うことも目を開けることもなく、静かに寝息をたてているだけだった。
たしかに俺は玲に「自分たちは進み続けている」と言った。俺だって何回も何回もその疑問にぶち当たった。本当に進んでいるか、この道で合っているか、逆走してないか、立ち止まってないか。でも、進んでいると信じなければ進めない。それはいつでも変わらない真実だ。今まさに壁をよじ登ろうとしている彼女にも、ぜひそれが伝わっていてほしいと思う。
そして、彼女と話していて分かったことがたくさんある。多少難はあるものの両親や兄弟との仲は比較的良好であること。クラスや部活内でいじめにあっているわけではないこと。虐待やDVはないこと。ただ何があった訳でもないがとにかく死にたいこと。
鍵探しは難航した。警察のように取り調べれば証拠や解決法が見つかるという訳ではなかったからだ。
「心中とか入水自殺って、良いと思いませんか?」
「俺もそう思ってた時期はあった。でも生憎、その期間は過ぎたんだ。それに立場的にも。素直に共感できなくてごめんよ」
「そうですか。ひょっとして、先生となら、と思ったんですけどね」
つまり、俺と一緒なら海や川で死ねる……ということらしい。彼女の性格や価値観は謎要素が多くて厄介だ。たとえば、ちゃんと自己分析力があって自分が何をすべきか分かっているしそれに取り組む力もあるのに「何も出来ない」であったり「努力が足りない」なんて言っていて自己肯定感が低いとか。
とにかく玲の“死にたい”に帰属する価値観や考え方を掘り下げていかなければ。そう思っていた矢先――
玲が病院に運ばれた。
学校に連絡があった際にその場にいなかったので、教務主任から自分のスマホに連絡がきた。もしやと冷や汗をかいたが、自殺未遂などではなく、熱中症で倒れたらしい。
アポを取って次の日の昼休みに病院に行くと、点滴を受けながら本を読む玲の姿があった。4人部屋だが一床は空いていて、残り3つのうち一つは病人不在でもう一つはカーテンが閉められていた。彼女のベッドは入って左の窓側である。
「ほら玲、先生が来てくださったわよ」
病室には母親もいて、「お忙しいのにわざわざご足労いただいてありがとうございます」と丁寧に挨拶して席を譲ってくれた。
「先生、来なくてもよかったのに」
「こら、そんなこと言っちゃだめでしょ。先生に謝りなさい」
「大丈夫ですよ、気にしないので」
「はあ、そうですか」と気の抜けた返事が返ってくる。顔は似てないなと思ったが、返事の仕方はさすが親子、よく似ていた。
「申し訳ないのですが2人で話したいので席を外して頂いてもいいですか?」
「分かりました。玲、先生に失礼なこと言っちゃダメだからね」
「はーい」
母親は今日は下の子が早く帰ってくるからと言って帰り支度をし、病室を出て行った。
「もう大丈夫なのか?」
「ご覧の通り。朝起きたんですけど、普通に熱中症でへばって寝てただけなので。久しぶりにいっぱい寝れました」
「そうか。玲、まさかとは思うが」
「大丈夫です。わざと水分補給せずに炎天下にいたとかじゃないですから」
そう言うと玲は読んでいた小説をパタリと閉じ、起こしていた体を枕に預けた。
「それに、もうあんなのは嫌です」
「あんなのって?」
「静かに聞いてください」
玲はこちらを睨んで、それから目を伏せた。彼女には睡眠不足と軽い栄養失調が見られたと聞いている。母親の話ではダイエットだと言って最近あまり食べていなかったらしい。
「倒れる前、何も考えられなかったんです。苦しいとか、やっと楽になれるとか。そりゃあ高熱でフラフラしてるのに頭冴えてたらおかしいですけど。なんか、もし死ぬ時もおんなじ感じだったら嫌だなって思って。起きたとき、まだ私生きてるって、死んでないって喜んだんです。こんなに死にたいのに、苦しいのに、『死なずにすんだ、良かった』って。結局私はその程度だったのかって思ってしまって。もう、今すぐ死んでしまいたいです」
「なんだよ、絶対ダメだからな。飛び降りとか、するなよ?」
「わかってますって。そんなの怖くて無理です」
「それならよかった。なあ、玲。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「何ですか?」
「本当にダイエットと夜更かしなのか?」
「何ですか、急に。乙女がダイエットするのは世の断りでしょう」
「夜更かしは乙女の大敵だろう?」
「分かりましたって。言いますよ。言いますから、そんな顔しないでください」
玲は「今読んでる小説の神官長みたいな顔してる」とかなんとかブツブツ言いながらシーツを被り、話し始めた。
「私、全然寝れてないんです。本当に夜中の3時とか4時とかにしか寝つけなくて、しかも必ず数時間で目が覚めるし。なんかそのうち食欲も無くなってきて」
「それはいつから?」
「去年の3月くらい」
よくそれで毎日学校に来れたものだ。それに、確かに細身ではあるが、4月から激痩せしたとかそんなことはないように見える。考えられるのは無理して食べていたか、それともサプリなどで栄養を補填していたか。
「お母さんには?」
「毎日数時間しか寝れないとは言ってないですけど、『あんまり寝れない』とは言いましたよ。でも『どうせ夜更かししてるんでしょ』って言われて、もういいやってなったので」
「俺からお母さんに伝えようか?」
「無駄ですよ。両親は私と姉のことなんてどうでもいいので。血が繋がってるから仕方なくご飯と寝床を用意してるだけなんですよ。兄と弟が大好きなんです」
「でも、お母さんすごく心配そうだったぞ。どうでもいいなんてことないだろ」
「だから、それは兄弟や父の心配をしてるんです。私のせいで家事ができないから『万全の状態で息子や夫の帰りを出迎えられないかもー』って。私のことを気に留めるくらいなら明日の息子の弁当の具を考えてるような人ですよ」
色眼鏡で見ているところはあるだろうけれど、その日から俺は少し玲の母親への見方を改めることにした。
間も無くして彼女は退院し、学校生活に戻った。ただ、その日から「死にたい」と云う文字が一切送られてこないことだけが気がかりだった。
〈零〉
デミグラスソースのハンバーグが無性に食べたくなったことにその日が長年追いかけている小説家の新作の発売日であったことも相まって、俺は仕事終わりに家路にあるショッピングセンターに出かけていた。
ハンバーグの店を予約をして書店へ向かう道すがら、以前の教え子や保護者、それから同僚に出会した。極め付けは以前俺にラブレターを送ってくれた子が書店のレジの店員だったことである。今日は何かあるなと思っていたが、案の定、関千也博の本を購入して書店を出た途端に玲と鉢合わせした。
「珍しいですね。先生とこんなところで会うなんて」
「こんばんは。お買い物ですか」
「はい、姉と」
しかし、そう言う彼女の周りにそれらしき人影は見当たらない。逸れたのだろうか?
「いつものことですけど、姉が買い物中に気分悪くなったんであっちのソファーで休ませてるんですよ。で、パシリに使われてるってとこです」
俺が考えていたことを察したのか、玲は右手に持つ水のペットボトルをチラつかせてそう言った。
「お姉さん大丈夫?」
「大丈夫です大丈夫です。ちょっと外に出るのと人が苦手なだけなので。それに、行きたいって言ったのはあっちだし」
「そうか。あんまり遅くまで居るんじゃないぞ」
「はーい」
そう言って俺は左へ、玲は右へ。神の悪戯なんて本当にあるのだなと感心していたのだが。
「「あ」」
駐車場でまた遭遇してしまった。
とっくに9時を過ぎていたのでこんな時間まで何をしていたのかと尋問していると、運転席から高身長の女性が降りて出てきた。おそらく玲のお姉さんだろう。暗がりで顔はよく見えなかったが、長い髪を後ろでまとめていて、腰まであるシンプルな白いTシャツと黒いパンツ姿の控えめな女性だった。蚊の鳴くような小さな声で、目を逸らして、胸の前でくっつけた両手の人差し指で山を作ったり平地に戻したりしながら話していた。玲によれば、いつも妹がお世話になっています的なことを言っているとか。結局、2人が何をしていたのか分からず有耶無耶なまま別れることになった。
本当に、死んでしまわないだろうかと、そんな不安が頭をよぎる。いよいよ夏休みが迫っていた。玲はどう生きて、これからどうなるのか。俺には全てが分からない。
やがて糸は小さな輪を潜り抜け、決して解けないよう堅く結ばれる。小さな玉は決して布を通り抜けず、彼方の果てで始まりを告げるのである。
続きます。