晩夏の鐘
陽炎のたつ風の街。
八月のシカゴは蒸し暑く、その年異常発生した蝉の鳴き声に覆い尽くされ、街全体が震えているようだった。
僕は立ち止まり、額の汗をシャツの袖で拭った。そして空を仰いでから大きく息を吸い込んだ。
空港からタクシーを西に走らせ、小さな教会の近くにある公園へ向かう。着いたのは正午を少し回った時刻だった。ここに来るのは二度目になる。
以前ココを訪れたのは十一年前。父の出張と僕の夏休みが重なったこともあって家族でここまでやってきた。父にしてみれば、目一杯の『家庭サービス』のつもりだったんだろうが、当時の僕にしてみれば迷惑以外のナニモノでもなかった。夏休みに外国に連れてこられるより、友だちとの遊びの方がよっぽど大事な用事だった。少なくともあの頃はそう思っていた……ココで君と出会うまでは。
通りでタクシーを乗り捨て教会の前をゆっくりと歩いて通り過ぎる。
公園に足を踏み入れかけたとき、僕は立ち止まってサングラスを外した。視界に広がるバミューダグラス芝の鮮やかな青。その先には大きな樹と白いベンチが佇んでいた。
見覚えのある木製のベンチは所々ペンキが剥げ、とても手入れが行き届いているとは言えない。僕はそこに腰掛け、足を投げ出して目を閉じた。あの頃あまりの騒々しさに眉を顰めた蝉の鳴き声も今では何だか懐かしい。僕は思わず頬が弛むのを抑えられなかった。
強い陽射しを避けた木陰のベンチで僕は君と出会った。
肩まである栗色の髪に、スラリと伸びた手足。そして僕を覗き込む好奇心の強そうな瞳。最初は『ガイジンさん』なのかと思った。君も父親の仕事の都合でシカゴに滞在していると言っていた。
あの時、僕は十一歳で君は十三歳。思い返せば、始めから僕は君に惹かれていた。会うたびにいつも僕の心臓はドキドキしていた。
『なんかさあ……運命ってカンジよね?』
奇跡なんだと君は言った。十一歳で初めてここに来た僕と十三歳で初めてここに来た君。日本からこんなに離れたところで、初めて来た者同士がこうして知り合うという偶然。
『素数ゼミって知ってる?』 よく判らないといった顔をした僕に『素数ゼミ』について話してくれた。いま頭上で騒いでいる蝉。素数の周期で成虫になり、地上に発生する周期蝉。
『素数ゼミみたいじゃない、私たち。11も13も素数だし』
お互いに日本で生まれ、日本で育ち、初めて来たシカゴで出会った僕ら。いまになって思えば蝉に似ているのかも知れない。
『でも蝉は一週間ぐらいしか生きられないけどね』 君は口に手を当てて笑った。
夏の陽射しと蝉の声、それに君の横顔。遠い記憶の中で切れ切れになった君の言葉と街の景色。遠い異国で出会った年上の女の子。僕は強く君に惹かれていた。
一週間ほどして僕の『旅行』は終わった。日本に帰る日がやってきた。それを伝えたときの君の明るく振る舞う姿が妙に淋しかった。
『ねえ。素数ゼミの話、憶えてる?』
君は笑みを浮かべてそう尋ねた。
僕は黙ったまま小さく頷いた。
「また会える?」
今度は僕は尋ねた。
君は何も応えてくれなかったけど、瞳は刹那揺らめいたようだった。それがどういう意味だったのかは今でもよく判らない。
結局、僕は君の事を何も聞かずに別れてしまった。知ってるのは名前と年齢だけ。どうして何も聞かなかったんだろう? 僕は後悔した。それでも普段の生活に戻ってしまえば忘れられるだろうと思っていた。だけど……
相変わらず僕は君に惹かれていた。十年間、ただ君に逢いたいと想い続けてきた。
僕らの出会いは紛れもなく奇跡だったのだろう。でも幼かった僕は気付きもしなかった。漠然と次も奇跡が起こることを信じて疑わなかった。だから君のことを何も知らないまま『サヨナラ』ができたのだ。きっと君には全て判っていたんだろう。
僕は時々考える。
素数の意味について。
決して絡み合うことのない数字の迷路について。
彼女の13と僕の11の関係……出会うはずのない数字が出会ってしまった奇跡について。
そして僕らの出会いを素数ゼミに準えた君の感性に、僕は笑みを浮かべ同時に深く落胆する。
足元に転がる蝉の骸が、季節が変わりゆくことをそっと僕に気付かせる。まるで現実の世界に連れ戻そうとするかのように。
頭上では蝉が喚き続け、時折吹く風が髪を撫でる。
サングラス越しに映る街はセピア色で、僕の色褪せた記憶と重なり心を強く締め付ける。
あれから十一年。僕は二十二歳になった。
もう顔を合わせてもお互いを認識することすら難しいのかも知れない。僕は変わりすぎてしまった。きっと君も変わっているのだろう。
偶然を信じた無邪気な子供は分別のつく大人になってしまったのだ。
君に繋がる手がかりを、僕は何一つ持ち合わせていない。君が僕のことを憶えていてくれてる保証だってどこにもない。それでも僕はココで待ち続ける。もう一度奇跡が起こることを信じて。
夕刻の公園に教会の鐘の音が優しく響く。一瞬セミが押し黙ったような気がして僕は立ち上がり、静かに振り返った。