3章 3話 とあるメイドの独白
速水氷華の日記より抜粋。
私は速水氷華と申します。
現在、金龍寺家のメイド長を務めさせていただいております。
名家のメイド長という立場柄、それなりの給金を貰っており労働者の中ではそれなりに恵まれた立場にいると自覚している私ですが、職場での悩みが尽きることはありません。
無論、悩みのないホワイトな職場など現実にはないでしょう。
大なり小なり、人は悩みや不安と共に生きています。
しかし、私の悩みは毛色が違うといいますか……レアケースなのです。
その悩みとは、旦那様のご息女――金龍寺薫子様。より正確に申せば彼女を取り巻く環境でございます。
薫子お嬢様は、金龍寺家においていないものとして扱われています。
いえ。扱ってさえもらえていないのが現状でしょうか。
キッカケは、薫子お嬢様が小学6年生だった頃です。
彼女は受験当日に熱を出してしまい、受験に失敗なされてしまったのです。
そして旦那様は――それを許さなかった。
完璧なレールを外れてしまった彼女を、旦那様は切り捨てた。
それが始まりでした。
そこからの私の行動は我ながら速かったと思います。
すぐにメイドたちと口裏を合わせ、薫子お嬢様をメイド寮に泊められるよう手配いたしました。
今では、薫子お嬢様も立派なメイド道を歩まれております。
ここまで話せば分かる通り、薫子お嬢様の人生は順風満帆とは言い難いものでした。
彼女の人生が破綻した最初の原因は――受験での失敗。
それにより旦那様が思い描いたルートが変わり、彼女は捨てられた。
ではなぜ、旦那様は『完璧』を信仰なさるのか。
それには旦那様の出自を明かさねばなりません。
結論から言いますと、旦那様は金龍寺家の人間ではございませんでした。
旦那様は婿入りをした、元は一般人の方でした。
彼は優秀な人です。
だから、己の実力だけでのし上がり、金龍寺家の当主として恥ずかしくない男となられました。
でもそこまでには多くの障害がありました。
その最たるものが、周囲からの誹謗中傷です。
特に多かったのが、彼が一般人であることを揶揄するものでございました。
旦那様は平凡な学歴の男性でした。
優しいだけの、普通の男性でした。
金龍寺家を背負う男性となって初めて、彼の隠れた才能が発揮されたと言っていいでしょう。
隠れた才能。それは隠れているがゆえに認めてもらいにくい。
平凡な学歴。名家の人間の間では、それだけで嘲笑の的となる。
そんな世界に踏み入れたからこそ、旦那様は知ってしまったのだと思います。
自分の経歴に穴があれば、敵に隙を見せるようなものだと。
その隙を執拗に責められる日々がいかに苦しいのかを。
だから子供には完璧を求めた。
――自分と同じ苦労を子供にはさせたくないから。
だから完璧を崇拝し、信仰した。
完璧を強いるのは、旦那様なりの愛情だったのかもしれません。
だけど、私は言ってあげて欲しかった。
旦那様にだけは、消沈する薫子お嬢様に言ってあげて欲しかった。
『完璧じゃなくて良い』のだと。
『失敗してもやり直せば良い』のだと。
努力で周囲を押さえつけ、当主となった旦那様にこそ言ってあげて欲しかった。
一度の失敗など、いくらでもやり直せると。
多少のミスや弱みなど、努力と結果でいくらでも取り返せるのだと。
そう、教えてあげて欲しかった。
完璧である事の大切さではなく。
逆境から立ち上がる術を教えてあげて欲しかった。
旦那様だからこそ、それを教えられたはずなのだ。
それが、残念でなりません。
……これは誰にも見せられませんね。
メイド――それもメイド長が、雇い主を批判するなど。それも、本人のあずかり知らぬ場でなどとは恥ずべきことです。
ともかく、薫子お嬢様がすごしたこの数年間は、彼女にとって過酷なものであったことでしょう。
本来であれば両親の庇護下で好きに生きることができていたはずの年頃です。
大人のまねごとをして、少しずつ大人になってゆく時期です。
ですが、彼女は大人にならざるを得なかった。
彼女は自分から放課後にメイドとしての仕事を始め、自分が生きてゆくための金銭を確保するようになってしまわれました。
――彼女の年齢を思えば、私が彼女を完全に保護することが普通でしょう。
実際に、彼女一人を養えるくらいの収入はあります。
頑固な旦那様を説得できていない私が、薫子お嬢様を支えるのは当然のはずです。
しかし、彼女は自分の足で立ち、生きてゆくことを望まれました。
確かに仕事の融通などは私が行いましたが、当時中学生になったばかりの薫子お嬢様に就ける職場がない以上は仕方がないことでしょう。
昼は学校。放課後はメイド業。
それ故でしょうか。薫子お嬢様には友人と呼べる方はいませんでした。
おそらく、例の件で挫けてしまったせいで卑屈になってしまった性格も災いしているのでしょうが。
きっと現状は、薫子お嬢様にとって恥ずかしいものだったのでしょう。
薫子お嬢様は小学校時代の親友にさえ自分の近況や連絡先を教えることなく小学校を卒業なさり、今に至りました。
ある日のことです。薫子お嬢様の口から懐かしい名前を聞くことができました。
蒼井悠乃。
朱美璃紗。
このお二人は、薫子お嬢様が小学校時代に親しくされていた方たちです。
どうやら最近になって、お二人と再会なさったそうです。
それを聞いたとき、不覚にも涙が流れそうな思いでした。
薫子お嬢様の生活といえば、普段は学校とメイド。休日は街を徘徊するだけという寂しいものでした。
そんな彼女に友人が現れたとなれば嬉しくないわけがありません。
友人と会われるためか、最近はメイドとしての仕事の頻度を減らすように頼まれたり、帰りが遅くなることもあります。
そもそもメイド業は薫子お嬢様がいないことこそが正常な状態なので問題はございません。
帰宅が遅いのは気になりますが、態度を見る限り悪い事をしているようには見えません。
――強いて言うなら、5年前の薫子お嬢様を彷彿とする奇行が目立つことでしょうか。
5年前のお嬢様は、いきなり外出をなさったりと不自然でしたし。
ですが、ある意味では今の薫子お嬢様の生活のほうが現代の高校生の平均的な生活に近いのではないかと思います。
だからこそお嬢様のご友人二人には感謝していますし、お嬢様にはさらなる幸せのあらんことをと祈っております。
……そういえば最近、溜まった有給休暇を消化するようにと言われていましたね。
溜めすぎるのはかえって良くない。私が使わないと部下も休みにくい。などと諭されてしまいました。
そう言われたのであれば、私としても強くは出られません。
そういうわけで、すでに来週に有給休暇の予定が入っております。
しかし突然降って湧いた休暇をどうすべきものかと途方に暮れていた時、私の中に一つのアイデアが生まれました。
――薫子お嬢様とお友達を連れて海へ行くというアイデアが。
なぜか薫子の父のほうが掘り下げられてゆく……。
子供の幸せを願ったが故の『完璧主義』は目的と手段がいつしかすり替わり、完璧である事こそが至上命令となってしまった。
そんな形骸化した完璧主義の被害者となったのが薫子ということですね。
さて、明日には悠乃たちが海水浴に行ける――はず!
……季節が真逆ですみません。
設定的に、3章は8月なんです……。
現在の季節との不一致は、連載モノの宿命ですよね。
ちなみに1章は4月。2章は6月です。
 




