3章 1話 金龍寺薫子のとある一日 前編
これまでちょこちょこしか語られてこなかった薫子の日常回。
前編後編に分かれます。
そこには豪邸と呼ぶべき建物があった。
二メートルを超える塀に囲まれているというのに隠すことのできないほどに大きな邸宅。
その大きさゆえに遠近感が狂ってしまうが、あの建物まで歩こうと思えば、門からスタートしても数分を要する。
その建物は名家――金龍寺家の者たちが住まうものだ。
そんな塀の側に少女はいた。
少女が身につけているのは、近くにある名門校の制服であった。
高校の制服なのだが、少女は中学生と見間違いそうなくらいに小柄だ。
黄金のような髪を尻尾のような三つ編みにした少女は塀を見上げている。
そして少女――金流寺薫子は息を大きく吸い込むと――
「えいやッ」
体ごとカバンを振り回し、遠心力を乗せてカバンを放り投げた。
カバンは綺麗な放物線を描いて塀を飛び越す。
「えっと……」
次に薫子は四つん這いになり、近くの茂みに体を埋めた。
茂みをかき分けると――塀に穿たれた穴が見えた。
その穴は完全に茂みに隠れており、気付く者はほとんどいないだろう。
事実、この穴は五年間修復されていない。
「よいしょ……」
薫子は頭に草を乗せたまま塀をくぐり抜ける。
塀を抜けた向こう側には、先程投げたカバンが転がっている。
「……ただいま」
薫子はカバンを拾い上げて、体についた土を払う。
そして彼女は塀に沿うようにして歩く。
そのまま人目を避けるようにして小さな建物へと足を踏み入れる。
もっとも、小さいというのは『この敷地内の建物にしては』という意味であり、彼女が入った建物はそれなりに高級なアパート程度には大きい。
そこは金龍寺家に勤めるメイドたちが住む寮であった。
そして、金龍寺薫子の自宅だ。
金龍寺薫子には秘密がある。
それは彼女が魔法少女だったということだ。
五年前に、彼女は《怪画》という化物から世界を救っている。
だが重い代償を彼女は払うこととなった。
度重なる戦いで疲弊していた彼女は、中学受験の当日に体調を崩したのだ。
結果として受験に失敗した彼女は、両親に敷かれていたレールを外れたことで、家の中でも存在しないものとして扱われることとなった。
このままでは生きていけないと判断した彼女は、メイド長に頼み込みメイド寮の中に生活する場所を確保してもらったのだ。
「――急がなきゃですね」
薫子は自分に割り当てられた部屋の鍵を開け、部屋に入る。
リビングにカバンを置くと、一息つく暇もなく浴室へと向かった。
服を脱ぐと、シャワーを浴びて汗を流す。
手早く、それでいて念入りに体を洗う。
金糸のような髪を。
小さく膨らんだ胸を。
細く白い脚を。
体を清めると、すぐに体を拭き、下着姿で髪を乾かす。
一連の作業を素早くこなすと、下着のまま彼女はクローゼットの扉を開いた。
そこにあったのは――メイド服。
それもコスプレで着るものとは違う、実務のための作業着だ。
「お仕事。開始です」
金龍寺薫子。
昔。世界を救った魔法少女。
現在。女子高生兼――メイド見習い。
☆
「お疲れ様です」
メイド服に着替えた薫子は、同じくメイド服を着た女性に向かって頭を下げる。
女性の名前は速水氷華。
彼女は肩甲骨に届くくらいの長さの銀髪を三つ編みにしている。
豊かな膨らみにくびれた腰。滑らかな脚線美と、女性であれば思わず羨ましく思ってしまうほどの美女だ。
その所作は洗練されており、下手な令嬢よりも気品を感じさせる。
表情こそ控えめで感情が読めないが、それは目立ちすぎないことが美徳である職業ゆえの振る舞いである。
若くして金龍寺家のメイド長を務めており、実質的な薫子の保護者である。
平和になった現代でさえ、家族から見捨てられた小学生が一人で生きられるほど甘くない、
働くことさえ難しいのが現実。
精々どこかの施設に入り、別の家庭でそれまでと違う名を名乗り生きてゆくことになっていただろう。
だからこそ、氷華は金龍寺家の当主にさえ秘密にして薫子をかくまった。
寮に薫子の部屋を確保したのも彼女だ。
彼女が他のメイドに根回しをしてくれなければ、全メイドが結託して薫子に身を隠せる環境を用意してくれることはなかっただろう。
そもそも、薫子の生活費は大半が彼女のポケットマネーから捻出されているため、あらゆる意味で彼女は薫子の生命線だ。
そんな多大すぎる恩を報いるために薫子が選んだのがメイドとして氷華の業務を手伝うことであった。
労働の対価として生活を保障してもらう、という形に落とし込んだのだ。
幸い。金龍寺家の人間は、存在もしないはずの薫子の動向になど注意を払わない。故に五年間この生活を続けられていた。
「お疲れ様です。薫子お嬢様。学校は問題ありませんでしたか」
「はい。登校から下校まで、誰とも会話しなかったので問題は起こりませんでした。死にたくなければ、最初から生まれなければ良い理論です」
「……その事態がすでに問題だと思うのですが。いつものことですね」
「はい。取り返しのつかない過去ではなく、取り返しがつかなくなりそうな未来について考えて生きていきたいと思います」
薫子は笑顔でそう応えた。
氷華が額に手を当てて嘆息しているが気のせいだろう。
「……ともかく、油を売っている時間はありませんね」
氷華は気を取り直すとそう言った。
「はい。身売りをしなくていいように全力で働きます」
「――それでは今日はキッチンに入ってください。動き回れば、旦那様たちの目につくリスクが上がりますので」
「はい」
氷華の指示を受け、薫子は踵を返した。
彼女は、薫子が金龍寺家の人間と出会うことがないように薫子へと仕事を割り振っている。
おそらく、薫子の両親は彼女を邸内で見たとしても眉一つ動かさないだろう。
運が良くて、彼女を不法侵入者として摘まみ出すくらいだ。
ほぼ確実に彼女に対して無関心を貫くだろうし、少なくとも彼女を害そうとすることはないだろう。
その程度の関心さえ残っていないだろう。
だが、氷華は薫子が両親と会わないように取り計らう。
それは気遣いなのだろう。
両親に無視されているという現実を再び見せないための配慮だ。
だから薫子は特に意見を挟むでもなくキッチンへと向かうのだった。
当然、薫子は金龍寺家のゲートを開く手段なんて持っていません。
そのため、塀の穴が塞がれたら人生詰みます。




