最終章 54話 感染する狂気
天魔血戦の主軸からは外れていますが、大事な意味を持つ一線です。
「今……なんて」
唐突に紡がれた言葉。
信じがたいそれを倫世は聞き返した。
聞き間違いだと信じて。
だが、リリスは笑みを深めると――
「なんかさァ……全部全部全部――壊したくなってきちゃったんだヨネ」
「膿み堕とされて病みに手折れて」
リリスは唱える。
――Mariage。
己が秘めた、絶望の真名を。
「《暴虐の侵蝕病魔》ォォ」
リリスが汚泥の涙を流す。
黒い泥が唾液のように口から溢れる。
背中には黒翼にも見える触手が生えていた。
何度見ても怖気がする狂気の結晶。
この姿を見て、彼女が世界を救済する存在と思う者はいないだろう。
あれはむしろ、世界に混沌をもたらす者。
破滅という概念そのものだ。
「手伝っては――もらえそうにないわね」
倫世は手に大剣を握る。
肌に殺意が刺さる。
リリスは狂気に浮かされるまま、倫世に敵意を向けていた。
いや。敵意――という表現は不適切かもしれない。
彼女は倫世を憎んでいない、恨んでいない、殺したいと思ってさえいない。
誰でも良い。
誰でも良いから、欲求のままに壊したい。
ただ、そこにいたのが倫世だったというだけ。
いうなれば、リリスの破滅主義の捌け口となっただけ。
もはや災害に遭ったようなものだ。
「手伝ってほしいというのは私の我儘。断られても納得するつもりだったけれど――それは、さすがに見過ごせないわ」
今のリリスは暴走している。
壊れた本能のままに暴発している。
だとしたら、それを抑え込むのはここにいる倫世の役目。
「リリスさん。悪いけれど、今は貴女と戦っている暇はないわ。後にして欲しいのだけれど」
「我慢できるのは、衝動って言わないでショォ?」
リリスは聞く耳を持たない。
分かってはいたことだ。
1万人以上の一般人を虐殺した魔法少女。
彼女を仲間に引き入れる以上、こんな事態も考えられた。
タイミングを呪う気持ちはあるが、そのリスクを背負ったのも倫世だ。
自分自身で責任を取る。
それもまた運命なのかもしれない。
「《救世の乙女の剣》」
倫世の大剣が魔力を纏う。
(彼女の魔法はウイルス)
掠るだけで致命傷となる殺人ウイルス。
しかし、そこには欠点がある。
――ウイルスの軽さだ。
衝撃波など、リリスの攻撃を跳ねのける手段は多い。
(魔法の前兆にさえ注意すれば、攻略するのは難しくない)
どんな魔法であれ、発動の直前には前兆がある。
それは魔力の動きであったり、些細な仕草であったり。
そこから魔法を事前に察知し、《救世の乙女の剣》による風圧でウイルスを散らす。
同じ組織で戦った仲間。
だからこそ互いの手札を知っている。
ゆえにその対策も――
「きははッ……!」
――無駄だヨォ。
リリスは笑う。
「もうみィんな、絶望に感染してるんだカラ」
「ッ、ッ、ッ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!?」
突如、倫世の全身を異変が襲う。
「ぁ……ぁぁ……っ」
糸の切れた操り人形のように倫世はその場に崩れ落ちた。
「ぅ……ひぐ……くぁ……!」
言葉にならない声が漏れる。
手足に力が入らない。
すさまじい勢いで衰弱してゆく肉体。
思考力さえも奪われてゆく。
「《色欲の厄災》」
リリスの《花嫁戦形》――《暴虐の侵蝕病魔》。
その能力は七つの大罪に由来する七つのウイルス。
この中でもこれは色欲をルーツに持つものだ。
殺傷力は皆無。
しかし、戦士の刃は錆びつき、戦意を抱くことさえ許されない。
衰弱した体では魔力を制御することもできない。
倫世を守っていた鎧が粒子となって消えてゆく。
「アタシの《花嫁戦形》の最大の特徴は――圧倒的拡散力」
リリスは恍惚とした表情で語る。
彼女の魔法は武器というよりも兵器に近い。
数十キロに及ぶ攻撃範囲。
それは戦争という現状において、嵌まりすぎるほどに嵌まっていた。
――元々、リリスの役割は戦争だったのだ。
町全体を戦場にした戦争において、リリスは最強の魔法少女を歯牙にもかけない。
強力な聖剣も、無差別なウイルス兵器には打ち勝てない。
「アタシのウイルスはすでに町全体に感染してるワケ。もちろん、倫世と会うよりも前にネ」
最初からリリスはウイルスを散布していたのだ。
彼女が戦場に現れた時には、すでに倫世は感染していた。
初めから戦いは決していたのだ。
ある意味で、リリスの戦い方は魔法の特徴を最大限に活かしている。
ウイルスという目に見えない脅威。
そして、ウイルスを取り込んでもリリスの意思がなければ症状は現れない。
言うならば、リリスは誰にも気付かれることなく体内に爆弾を仕掛けられるのだ。
無差別という欠点も意に介さないリリスにとって、あらかじめウイルスをバラ撒いておくという戦法は合理的なものだ。
(このままでは――)
倫世はうずくまったまま動けない。
筋肉の伸縮さえ、今の彼女には重労働だった。
歯を食いしばって力を込めても、指先がピクリと動く程度。
《色欲の厄災》には殺傷能力がない。
だがそれはウイルスが安全である事を意味しない。
過程こそどうあれ、死につながらない魔法などリリスが有しているはずもない。
殺傷能力がないという事実が意味するのは、どのウイルスよりも長く苦しめられ、緩慢な歩みで死へと向かうということ。
心身共に追い詰められた果てに死が与えられるということ。
まるで救済のように。
生きる意志をすべて摘み、安息の皮をかぶった死を植え付ける。
そんな未来が待っているということ。
(このままでは――町にいるすべての生物が彼女に殺される)
破滅の女神は、嗤いながら倫世を見下ろしていた。
☆
(これ……は――)
町中の人々が倒れてゆく。
中には道路標識にしがみついて耐えている人間もいた。
だが、動ける人間はいない。
それは彼女――速水氷華も例外ではなかった。
未知の感覚に抗う術もなく、彼女は道端に座り込んだ。
「んっ…………ぅっ…………」
無差別に降りかかった攻撃は、街にパニックをもたらしている。
それでも氷華は必死に正気を繋ぎ止める。
だが、すでに気を失っている人間も少なくない。
最悪なのは、それが車を運転している人物だった場合。
――その結末は、道端の火事が示していた。
「大丈夫……ですか?」
氷華は傍らに倒れている女性――宮廻環に声をかけた。
彼女は首を横に振るだけで答えない。
声を発する余裕さえないのだろう。
(まだ避難誘導が――)
唐突に起こった戦争。
偶然にも同じ場所に居合わせていた氷華たちは、人々の避難誘導をしていた。
この戦いは悠乃たちにとって避けられない戦い。
そして、周囲に気を配る余裕さえない過酷な戦い。
だからこそ、二人は少しでも多くの人を救うために動いた。
悠乃たちが戦場から戻った時、彼女たちの笑顔に影が差さないように。
この戦争で一般人を死なせない。
難しいことだ。
だが、傷つく人を一人でも減らせるようにと二人は動いていた。
そんな中で起こった異変。
それらしい人物がいない以上、この魔法は無差別に放たれたもの。
(場合によっては、町中がこの魔法の影響下にあるかもしれませんね)
回らなくなりつつある頭で氷華は考える。
症状はすぐに死へとつながるものではない。
だが、戦場の中で逃げることもできないことがどれほど危険かは考えるまでもない。
このままでは、遠くない未来に氷華たちは嬲り殺される。
(誰でも――構いません)
(誰か――この魔法を止めてください……!)
この町から、誰もいなくなってしまう前に。
試合形式で戦えば、倫世が10回中8~9回は勝てます。
逆に、ルールも始まりの合図もない殺しあいなら、リリスの勝率は逆転します。
決闘を得意とする倫世と、殺戮を得意とするリリスの違いです。
ちなみにリリスのMariageは
傲慢――対象強化
色欲――強制衰弱
強欲――感染爆発
嫉妬――抗体無効
憤怒――精神汚染
怠惰――魔力欠乏
暴食――肉体分解
という設定です。まあ、七つあっても全部使うことはないと思うので……。
それでは次回は『狂ってゆく戦場の歯車』です。




