8章 6話 望まれない福音
8章も中盤にさしかかっております。
「――何をしているんですか?」
薫子は首をかしげる。
彼女が首を動かしたことで、肌に触れていたナイフの刃が食い込む。
一筋の血が流れた。
「斬って……良いんですよ?」
薫子が微笑む。
彼女は確信しているのだ。
速水氷華に金龍寺薫子を害することはできないと。
だから彼女は回避動作さえ取らなかった。
(このまま斬ったところで薫子お嬢様が死ぬことはない)
彼女は治療魔法を持つ魔法少女だ。
人間の力で首を裂いたところですぐに復活する。
だから――躊躇わなくていい。
今の薫子は世界を見ていない。
勝手に自分ですべての現象を推測し、自分の頭の中で構築された世界を現実だと信じ続けている。
だから、壊す必要がある。
彼女が絶対に想定しない未来を作る必要がある。
彼女の妄想と現実の間に、隠し切れない矛盾を突きつける必要がある。
そこまでして初めて、薫子に言葉が届く。
彼女が閉じこもっている殻を砕くことができる。
氷華はそう理解した。
だから、氷華が薫子を斬るという絶対にありえない未来を用意する。
薫子の妄想では説明しきれない現実を演出する。
そうなれば強制的にでも薫子の意識を氷華に向けさせられる。
そこまで来て初めて、やっと薫子を説得するための前提条件が整う。
だから――
(私の力では、どう失敗しても薫子お嬢様を殺せない)
だから――
(だから躊躇う必要なんてないのに……!)
ナイフを持つ手が震えた。
感情が氷華の体を縛り付ける。
そんな予感はしていた。
それでも、最後は動いてくれると思いたかった。
しかし――
「やはり私に……薫子お嬢様を傷つけることはできません……」
ナイフがこぼれ落ちた。
それを拾うことは……できなかった。
(ダメ……ですね)
死に至らないと分かっていても、大切な人を武器で脅すなどできない。
むしろ、首につけてしまった傷跡を今すぐにでも治療したい衝動が湧き上がってくる。
「お願いです。薫子お嬢様」
だから氷華にできるのは哀願だけだった。
氷華は涙を浮かべ、懇願する。
「自分自身のためではなく、私のために……戻ってきてください」
頭を下げ、乞う。
「私の大切な人を……奪わないでください」
薫子に乞う。
人間として生きて欲しいと。
自分のために生きることができないのなら、それを望む人のために生きていて欲しいと。
薫子が終わらない地獄に歩むのを止めたい人たちの気持ちを汲んでほしいと伝える。
「女神がいなければ世界は滅ぶ」
すでに氷華もその事情は聞いている。
だが、
「女神の代役が必要だというのなら――他の魔法少女に任せれば良いではありませんか」
氷華は納得できない。
そのために薫子の未来が奪われることを許容できない。
「必要なら、私が手を汚してでも――」
きっとそれは外道の所業だ。
大切な人のため、貧乏くじを他人に押し付ける。
それは地獄に堕ちるべき悪行だろう。
それでも良い。
覚悟はある。
薫子を女神の後継者という立ち位置から外すためなら、他の候補である少女への脅迫だろうと躊躇わず――
「誰をですか?」
「誰を犠牲にすれば――良いのでしょうか?」
そう薫子が問いかけた。
女神候補のアテがあるのか。
そんな趣旨の質問――ではない。
(どうして……?)
氷華は違和感を覚える。
ほんのわずかだが、薫子の目に人間味が戻った。
これまでの言動とはまた別の動機の存在を感じさせる。
まるで、他の適正者を庇っているかのように。
だがそんな異変もすぐに消えてしまう。
「それにもう……手遅れです」
薫子はうつむく。
垂れた前髪。
そこから覗いた口元は――
「だってわたくし――もう女神になってしまったんですからぁっ……!」
――嗤っていた。
「……!」
薫子の足元に曼荼羅が出現する。
顔を上げた彼女はこれまでにない変貌を遂げていた。
猫のような左目。
幾何学模様の浮かぶ右目。
機械的な趣のある光輝く片翼。
その姿はまるで女神だ。
この世界を救うために設けられたシステムだ。
「そんな――」
氷華は愕然とした。
薫子の変化。
それは彼女が女神としての力を継承したことを示すには充分で――
「うふふ。やっぱり、わたくしが女神になるだなんて滑稽ですよね?」
薫子は微笑む。
穏やかに。
包み込むような温かさで。
「でも、見ていてください」
「女神としての価値は、結果で示します」
薫子は歩き出す。
二人の距離は縮まり――消えてゆく。
「《女神の涙・叛逆の魔典》」
そう彼女が唱えると、二人の体が交わった。
体を重ね、すり抜ける。
そのまま薫子は氷華の体を素通りし、路地を歩んでゆく。
薫子によって『接触』の未来は爆破され、触れることは叶わない。
だが、それは数秒程度の話。
今、氷華が振り返ったのならそこには薫子がいるはず。
手を伸ばせば触れられるはず。
なのに――動けなかった。
追いかけることができなかった。
追いかけたとして、追いついたとして。
自分では彼女の心を変えられないと分かってしまうから。
「薫子お嬢様…………」
氷華の声は、雪のように溶けた。
今の薫子は職業:女神Lv1といったところでしょうか。
女神なので魔法少女の頃より強いのですが、女神固有の権能は一切持っていない状態です。
だから厳密にいえば『女神に匹敵する魔法少女』くらいの立ち位置です。マリアから女神システムを継承するための器を用意している段階ですね。まだギリギリ魔法少女に戻れます。
ちなみに覚醒状態の薫子って、《化猫憑依》による猫耳&猫目&尻尾+女神特有の幾何学の瞳&光の翼という風に結構装飾過多な見た目なんですよね。
それでは次回は『新しい自分と床に散る死体』です。




