6章 エピローグ2 黄泉戸喫
黄泉戸喫――黄泉の国の食べ物を食べてしまうと、もうこの世には戻れなくなってしまう。
大理石で造られた広大な部屋。
それは《怪画》たちが住む城に設けられた一室だった。
巨大な体を持つ《怪画》もいるため、この部屋の天井はかなり高い位置にある。
全てのスケールが人間を越えている部屋。
その中心にあるテーブルもまた巨大だ。
顔が映り込むほど艶やかな机。
そこには所狭しと料理が並んでいた。
「グリザイユよ。人間というのも、案外馬鹿にはできんのかもしれんな」
そう口にすると、灰髪の男――ラフガ・カリカチュアは料理を口にした。
彼が食しているのはハンバーグだ。
「そう……ですね。お父様」
ためらいがちにそう答えると、エレナはハンバーグを口に入れた。
――エレナは魔王グリザイユとしてこの世界に帰ってきた。
そこからラフガがしたことは、人間の料理を振る舞うことだった。
無論、調理をしているのは別の《怪画》だが、それでも昔の彼を知るエレナからすると意外なことだ。
そもそもラフガが他人を気遣うような行動をすることなどほとんどない。
まして、人間の文化を取り入れた行動などさらに考えられない。
「料理か。我々には馴染みのない概念だな。なるほど、確かに嗜好品としては上々だろう」
《怪画》の食料は人間だ。
それ以外は、摂取したとしても生命維持に役立つわけではない。
だから人間の料理は《怪画》にとって嗜好品でしかない。
(きっと、こういうところで理解が進めば話は単純なのじゃろうな)
そんなことをエレナは思う。
たとえば、キリエは人間の文化に触れた経験があると思わせる言動があった。
案外、《怪画》の中にも人間の文化を楽しめる者はいるのだろう。
エレナが人間界に溶け込めているように。
(とはいえ、お父様がそれで人間の存在を認めるということはないじゃろう)
所詮は嗜好品――娯楽だ。
いくらでも代えが利く。
ラフガが人間という存在に敬意を持つ理由としては脆弱だ。
きっとラフガはこれからも人間を弄んでゆくことだろう。
「我は女神を殺し、絶対の存在となるのだ。娯楽は多くても困らんだろう」
――料理人はある程度残してやるべきかもしれんな。
そうラフガは口にする。
彼にとってこの雑談は、家畜の管理とたいして変わらない。
同じく理性を持つ種族同士でありながら、ラフガは決して人間と対等などとは思っていない。
(じゃが5年前、お父様は人間の文化への興味など微塵もなかった)
だとしたら、これは変化だ。
封印されていた時間が、ラフガの中で何かを生み出したのかもしれない。
そんな期待を……してしまう。
《怪画》は人間を食らう。
その前提がある以上、共存は難しい。
しかも、遊びで人間を殺す《怪画》までいる始末だ。
だが、《怪画》が人間を同じ知的生命体として尊重できたなら。
無益な殺生はなくなるのではないだろうか。
それこそが――魔王グリザイユが信じていた道だった。
「どうだ? グリザイユ。美味であろう」
そうラフガが問いを投げかけてきた。
無論、人間界で暮らしている間にハンバーグを食べた経験は数知れず。
すっかりエレナには馴染みのある料理となっていた。
「はい。美味しいです」
人間界に置いてきた生活を想い、わずかにエレナの唇が震えた。
そのせいかハンバーグの味が懐かしく感じられ――
「5年ぶりの食事だ。それは良かった」
――時が、止まった。
「…………………………………………え」
ラフガの言うことが理解できない。
エレナの思考はストップした。
「人間とは馬鹿にできんだろう?」
ラフガは指をさした。
その先にあるのは、すでにエレナが口にしたハンバーグだ。
「その血肉で、我らの心身を満たしてくれるのだから」
「ぁ…………」
思い違いをしていた。
最初から、ラフガは人間の文化の話などしていなかった。
終始――
「5年ぶりの人間はどうだ?」
――人肉の話をしていたのだ。
「――――――――」
エレナはハンバーグを見下ろした。
濃いソースで味付けされており、肉の風味は分からない。
それは料理に不慣れだったからだと思っていた。
だが違う。
この味付けは――
――何の肉かをエレナに悟らせないためのもの。
「ぅぐッ……!」
気が付くと、エレナは椅子から転がり落ちていた。
そのまま彼女は地面に這いつくばり嘔吐する。
「吐き出してはもったいないな。せっかく回復した魔力が失われる」
ラフガは人間へと一切歩み寄っていない。
彼らの文化に興味などない。
ただ――エレナに気付かせずに人間を食わせるには最適だと判断した。
「ぁぁ……ぁ……ぁ」
エレナは涙をぼろぼろとこぼす。
(妾は誓いを――)
灰原エレナは誓っていた。
生涯、人間を喰わないと。
それこそが、人間として生きるためのケジメ。
そう思っていた。
そんな誓いを今、破ってしまった。
「ぁ、あ、ぁぁ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
エレナは慟哭した。
多大なストレスのせいか、内臓が裏返る。
耐える間もなく、エレナは胃の内容物を床にぶちまけた。
だがそれで罪が雪がれるわけではない。
――わずかに回復した魔力がその証拠だ。
すでに口にした人間の血肉は、エレナの一部となっている。
(妾は、妾は、妾は……!)
己の誓いを蔑ろにしてしまったという事実がエレナを苛む。
今の自分の行動は、自分が人間として生きられないことを証明してしまうものだった。
「どうした? グリザイユ。もったいないだろう」
――食え。
そうラフガは床を指し示す。
そこにあるのは胃液と、そこに浮かぶ肉片。
「それとも、お前の親代わりとやらをしていたらしい人間の肉のほうが美味そうか?」
「ぁ……」
エレナはラフガを見上げた。
涙と吐瀉物によって無様も極まった姿で。
彼は言っているのだ。
ここで人間を食えと。
人間と決別せよと。
《怪画》として生き直す決意を固めろと。
でなければ――
――お前の大切な人を殺すと。
(それは――)
エレナは思い出す。
何の損得勘定もなく彼女を拾い、育ててくれた善良な老夫婦を。
彼女たちが、無残に殺されてしまう。
それほどに恐ろしいことがあるだろうか。
「――お父様」
エレナは声を絞り出す。
言わなければならない。
言わねば、あの人たちが殺される。
「――床を汚してしまい。ごめんなさい」
「お父様のお気遣い。妾は――グリザイユは無駄にいたしません」
そう言って、エレナは床を舐めた。
――肉を美味しいと感じてしまう自分の体に自己嫌悪を抱きながら。
☆
「お姉さまッ……!」
「やめなよ」
ギャラリーはエレナの姿を見た時、正気を失いそうになった。
そのまま感情に任せ、魔王たちのいる部屋に飛び込みかけるのと制止したのは――キリエだった。
「キリエッ……!」
「なんだい」
ギャラリーは憎悪を込めてキリエを睨む。
しかし彼女に動揺はない。
「そんなに、お姉様が苦しむのを見ているのが楽しいのかしらッ……!」
「……別に、そうは言っていないじゃないか」
「じゃあ、何で止めるのよッ……!」
あのままエレナを放っては置けない。
すぐにでも彼女を助けに行きたかった。
「無駄だからだね」
一方で、キリエは無情にそう言った。
そしてそれは――正論だ。
「今、君が出ていけば間違いなくお父様に殺される。で? あんな精神状態な妹ちゃんの目の前で、君は無残に殺されてみせるのかい? しかも、妹ちゃんを庇おうとした結果として。妹ちゃんは喜ぶだろうね。泣いてさ」
「ッ……!」
キリエの言葉で、やっとギャラリーの頭が冷える。
彼女の言う通りだ。
あのまま飛びだせば、ギャラリーはラフガに殺されるだろう。
それでも良い。
それくらいの覚悟はある。
――それがエレナのためならば。
だが、そうはならない。
彼女の性格を思えば、ギャラリーが殺されてしまえば逆効果だ。
すでにヒビの入った心は、完全に壊れてしまうだろう。
ギャラリーの手で、エレナの心を殺してしまう。
悔しいが、キリエの指摘は正しい。
黙って見守ることしか、できない。
「――ねえ、キリエ」
「なんだい?」
やり場のない怒りを胸に、ギャラリーは問う。
「これが――アンタの願った未来なの?」
先代魔王の復活はキリエの悲願。
それが叶った今。
目の前の光景は、彼女が待ち望んだものだったのか。
そう問い詰めた。
「………………そうだよ」
その問いへの答えは――肯定。
あくまでキリエは、ラフガの在り方を尊重した。
「でもアイツは、自分を助けたアンタのことなんて――」
「――たとえアタシが、お父様の目に映っていなくても」
キリエの声が、ギャラリーの言葉を遮った。
「ここにいてくれるだけで良いんだ」
「だって――あの人は、アタシの……たった一人のお父様なんだ」
そう言うキリエは笑いながら――涙をにじませていた。
「……キリエ」
そこにいたのは《前衛将軍》でもなければ、《残党軍》の首領でもなかった。
魔王の座を与えられなかった無冠の女帝。
そしてなにより――
――父からの愛情を貰えなかった、憐れな娘だった。
スーパーDV系魔王ラフガ・カリカチュア。
《正十字騎士団》はわりと仲良しな雰囲気となっているのですが、《新魔王軍》はわりとギスギスです。原因はほぼ魔王。
さて、次話より7章『もう一度ここから始めよう』に突入します。
その内容は端的にいうと、女神と魔王の前哨戦です。
逆に、悠乃たちは本筋からは少し離れることとなります。
薫子と《正十字騎士団》。エレナ――グリザイユと《新魔王軍》。その関係を書いていきたいですね。
グリザイユとキリエの関係なども少しずつ変わっていくと面白いですねぇ。
それでは次回は『あの日、僕は恋をした』です。
7章プロローグにして、物語のプロローグ。5年前のイワモンの物語です。




