5章 17話 わたくしは花になりたい
戦いはさらに激化してゆきます。
撫でるようにナイフが紫の首を掠めた。
「…………ぁ」
黒百合紫の首筋から鮮血がまき散らされる。
飛び散った赤い飛沫は部屋の壁にも及んでいた。
「――――――」
紫は目を見開いて硬直する。
そして数秒。
やっと自分の身に起こったことを理解したかのように彼女は膝をつくと、そのまま顔面から倒れた。
「……陽動ありがとうございます」
氷華は懐から白い紙を取り出すと、ナイフについていた血液を拭き取った。
「つ……ついに犯罪の片棒を担いでしまった……」
一方で、環は頭を抱えて座り込んでいた。
今回の作戦は単純だ。
環が紫の気を引き、氷華が――殺す。
現在、グリーンガウンの対処に追われて悠乃たちは戦力を割けない。
だから――氷華たちが――人間が紫の殺害へと踏み出したのだ。
「気になさらないでください。黒百合紫は――事故死ですので」
「ついに事故死の現場に出くわしてしまったぁ……」
環には氷華のフォローも届かない。
とはいえ、実際に紫は『事故死』で処理される。
運良く、今回はグリーンガウンによって町中が大混乱だ。
その騒動の中で事故死した人間の中に彼女がいても不思議ではない。
「それでは、宮廻さんは先に退避しておいてください。私も、処理を終えたら戻ります」
「処理……」
「――念のために言っておきますと」
氷華は忠告する。
彼女が悠乃たちの大切な友人である事は理解している。
ただここばかりは譲るわけにはいかない一線だからだ。
「処理方法を見れば……こちらも相応の対応を致しますのでお気を付け下さい」
「……ハイ」
そう頷く環。
彼女の表情はこの上なく引きつっていた。
「それでは――」
「速水さんッ!」
氷華が紫の処分を始めようとした時、環が叫んだ。
「――後ろ!」
あまりに鬼気迫る声。
同時に、氷華の直感が刺激される。
「ッ!」
氷華は危険の正体を確かめなかった。
ただ、横へと倒れ込む。
それが――正解だった。
彼女の耳を弾丸が掠めていったのだ。
「わたくしを……殺したと思ったのかしらぁ?」
氷華の背後――そこには黒百合紫がいた。
彼女は首を押さえ、ゆらりと立ち上がる。
今でも動脈からはポンプのように血が噴き出している。
それでも彼女は立っていたのだ。
「《黒百合の庭園》」
紫の号令で植物のツルが彼女の首へと巻き付いた。
そして圧迫によって血を止める。
「油断したわぁ」
紫は三日月形に口を歪めた。
「まさか、人間風情がわたくしの命に届きかけるだなんて」
紫は妖艶の微笑みを浮かべていた。
だが、それこそが不気味。
「それにしても――ただのナイフで首を斬られたくらいで、魔法少女が殺せると思ったのかしらぁ」
その時、紫の首に巻き付いていたツルが外れ、地面へと落ちる。
「あ……傷が……」
環が驚愕の声を漏らす。
それも仕方がないだろう。
たった数秒。
にもかかわらず、紫の首についていた傷は完治していたのだから。
「これくらいの傷、わたくしなら数秒で治せるのよ」
人間であれば死を避けられない負傷。
しかし魔法少女なら致命傷にはならない。
紫がなんらかの回復手段を持っているのは確実。
そうなれば人間の武器で彼女を殺すことが難しいというのは真実だろう。
「――残念だったわね」
紫は拳銃を氷華へと向ける。
先程、氷華は銃弾を躱すために床に倒れ込んでいる。
次の弾を回避できる体勢ではない。
「――終わりね」
恍惚とした面持ちで紫は引き金を――
「ええ。終わりですね」
――引けなかった。
「が……ぁ……!?」
紫の胸から――刃が生えた。
黒い――照明の光をも呑み込む影の刃だ。
「先程、速水さんが貴女とすれ違った時――私は貴女の影に潜ませてもらいました」
紫の背後にいるのは――黒白美月だ。
彼女は最初から氷華の影に潜っていた。
そして氷華が紫の首を斬った時、念のために紫の影へと隠れたのだ。
だからこそ今――完璧な形で紫へと奇襲できた。
「もちろん、魔法少女の力を借りずに魔法少女を殺せるとは思っていません」
氷華はゆっくりと立ち上がる。
「がぁ……」
苦痛に表情を歪める紫。
彼女は恨めしそうに影の刃を掴む。
影を握り潰す紫だが、彼女の心臓が貫かれたという事実は変わらない。
「――っぁあァァァ!」
そんな中、紫は背後に向けて腕を振り払った。
彼女の腕の動きに合わせ、茨のムチが美月を襲う。
「!」
しかし美月は身をかがめてそれをやり過ごす。
振り抜かれた鞭が教室の壁を抉る。
「――そちらばかりを気にしていてよろしいのですか」
現在、紫の目は美月へと注がれている。
この場にいる魔法少女は美月だけ。
そして、紫は魔法少女以外など脅威にならないと判断している。
だから――その隙をついて氷華は紫の懐に入った。
「ッ!」
氷華は体重を乗せてナイフを紫に刺した。
臍のあたりに沈み込む刃。
「ッ……!」
そのまま氷華はナイフを――捻った。
肉の中で刃が回転し、紫の内臓を掻き回す。
「邪魔……ねぇ!」
紫は激痛に顔を歪めた。
彼女は蚊を払うように腕を振る。
「動きは完全に素人ですね」
氷華はナイフから手を離すと、身を引いて紫の腕から逃れる。
そのまま彼女は紫に背を向けて駆ける。
「え、ちょ……!」
氷華に手を引かれ、環は教室の外へと退避する。
美月もすでに影へと沈んでおり、この場を去っている。
「何を――――」
突然3人がこの場を去ったことで、紫も彼女たちが何かを企んでいることを察知した。
――しかし、もう遅い。
「耳を塞いでください」
教室から出てすぐの廊下。
そこで氷華と環は身を伏せ、耳を塞ぐ。
――爆音。
教室内で爆発が起こり、扉が吹っ飛んだ。
「え、ぇぇ……」
そんな光景を前にして環が声にならない声を漏らす。
「な……何したんですか?」
「あのナイフの柄には爆弾が仕込んでありましたので」
氷華は立ち上がり、メイド服のスカートについた汚れを手で払う。
「威力は小規模ですが体内での爆発ですから。内臓を吹き飛ばすには充分でしょう」
「金龍寺家のメイド怖……」
なぜか環が震えていた。
まさに歯の根が合わないといった様子だ。
よほど戦いが恐ろしかったらしい。
「――それでは確認してきます」
氷華は警戒しつつ室内を覗き込む。
そこにあったのは――
「ぅぐ――」
氷華の背後で、環が口元を押さえている。
目の前の凄惨な光景に吐き気を催したようだ。
それも仕方がないのだろう。
腹の部分が吹っ飛んだ死体など見たことはないのだろうから。
「あれが……死」
影の中から美月が現れた。
彼女は痛ましい表情で紫の遺体を見つめていた。
――彼女は魔法少女として《怪画》と戦ってきた。
しかし、彼女は元々ただの中学生だ。
人間の死体など見たことはないはず。
敵とはいえ同じ種族。
黒百合紫の死は美月にとって大きな意味を持っていたのだろう。
「――彼女を殺せば、外の大樹も――」
氷華は窓の外へと目を向ける。
ここでは一本の大木が成長を続けている。
あれは紫の魔法であるというのが彼女たちの見解だった。
紫を殺害した以上、あの大樹も――
「なッ……!」
氷華はわずかに目を見開いた。
大樹が――動いていたのだ。
幾本ものツルに分裂し――絡まり合っている。
再構築される大樹はこれまでとは様変わりしていて――
「わたくしは……これくらいでは死なないわぁ」
紫の声が聞こえた。
彼女は上半身を起こし、氷華を見上げている。
「ゾンビ、なのでしょうか?」
氷華は袖から新たなナイフを構える。
「わたくしは……人間なんかとは違うわ」
そう紫は口にした。
そして――異常が起こる。
彼女を中心として散乱していた臓物が――解けた。
それらはヒモ状になり、紫の腹を埋めてゆく。
「まさか貴女は……」
すでに紫の腹を元通りに戻っている。
彼女が負傷していた証拠は、破れたドレスしか残っていない。
さすがにこの展開には氷華も無反応ではいられなかった。
「ええ」
紫は妖艶に笑う。
「もう、人間なんて辞めてしまったわぁ」
大したことでもないように紫はそう告げた。
彼女の表情は隠しきれない喜悦で満ちている。
人間を辞めた。
そのことに誇りを持っているかのように。
「わたくしの夢は――花になること」
紫はぽつりとそう言った。
彼女は拳銃を持ち上げ、氷華たちへと照準を定める。
妖しい笑みと共に――
「その夢は――すでに半分叶ったわ」
なぜ体内で爆弾が起爆しても紫が死なないのか。
その疑問は、すでに氷華たちの頭にはない。
理解してしまったのだ。
内臓がツルとなり、体へと戻った時に。
首を裂かれても、心臓を穿たれても、臓器を失っても死なない魔法少女。
黒百合紫は――すでに体の半分を植物に作り変えていた。
紫はすでに肉体の大半を魔法で改造しています。
人間嫌いである彼女にとって、『人間』である部位は己自身であっても許せないわけですね。
それでは次回は『花が散る時』です。
ナンバリングは-1話&18話。
つまり、以前の0話のさらに前日譚――紫が現役だった頃に戻ります。




