そもそも、婚約致していません!
それは、アレグレタ王国の第二王子であるバルカスの成人を祝う宴でのことだった。
「オリヴィナ・マーリスア。貴様との婚約を解消させてもらう」
その言葉を宴の主役である第二王子から言われたオリヴィナは『これは仕掛けられた戦なのだから、平和な日常のためには容赦するべきではない』と判断した。
オリヴィナに険しい視線を向けるバルカスは、不安そうな表情を浮かべている可愛らしい女性の腰を支えていた。その姿はさながら小動物のようである。
その姿を見たオリヴィナは呆れた。
(まったく、こんな場でまではしたない。メリーナ・ホルアード男爵令嬢がお好きなのは知っているけど、場所は弁えていただきたいものね)
オリヴィナ自身はメリーナと直接交流はないが、彼女は目立つ容姿をしているため目につく機会が多いため、バルカスが彼女のことを大変甘やかしていることもよく知っている。
いや、甘やかしているというよりは、バルカスのすべてを肯定するメリーナにのめり込んでいるという形だろうか。
バルカスは突然オリヴィナに婚約解消を言い渡したように、普段から突拍子もないことを独断で実行する。そのためバルカスに従い行動する者は国の未来を考えるなどせず、第二王子であるバルカスを利用することにより私欲を満たそうとしている者ばかりだ。
だがそのような者であっても、自分の利益のために度を過ぎた行動には注意もする。
しかしそれすらもバルカスにとっては煩わしく、バルカスのすべてを肯定するメリーナの言葉はバルカスにとって心地が良かったのだろう。
(だからといって私には関係ないから面倒なだけなんだけれど……こうも派手に喧嘩を売られたなら逃げるわけにもいかないし、仕方がないか)
バルカスが相手であるなら、適当に言いくるめて逃げることもできないことはない。いかんせん、バルカスはあまり話術にも優れていない。
ただし、ここで逃げれば後でもっと面倒くさいことになるのは目に見えている。
何せオリヴィナの生家であるマーリスア侯爵家が黙ってはいない。
マーリスア侯爵家には幼少時から家人に叩き込む掟がいくつかある。
そのうちの一つが、『売られた喧嘩は倍返し』だ。
もしも家訓を破れば、スパルタな再教育を受けることになってしまう。
(会場にこれだけの人がいるんですもの。絶対家族の誰かの耳には届いてしまうわ)
もともと両親と祖父母、そして四人の兄姉の耳は揃って良過ぎるため、届かないわけがない。
そのことを考えれば、未来で楽をするためには先に面倒ごとを片付けるべきだろう。平和な日常を過ごすためには、立ち向かわなければならないこともある。
(さて、とりあえずお返しをしなくてはいけないけれど……わざわざ婚約解消をこの場で突き付けてきたんだもの。おそらくその動機は私を断罪したいだとか、恥をかかせたいというようなものよね。——なら、逆に恥をかいていただこうかしら)
何も考えていないという可能性も一応あるが、オリヴィナは今回それは考えないことにした。
百パーセント考え通りだという自信はないが、相手がバルカスなら大きく外れてはいないだろう。
(しかし、そろそろこのような場で面倒事を起こしてくれるとは思っていたけれど――よりによって、婚約解消宣言だとは思っていなかったわ)
オリヴィナ自身、近い未来にバルカスから喧嘩を売られるだろうと予想はしていた。だから今日のように人が多く集まる宴の場は特に注意が必要だと思っていたので、特に驚いているほどではない。むしろ、例えどんな喧嘩を売られたとしても反論できるだけの材料を揃えてきている。
(でも、これだとそんなの必要なかったみたい)
内容がこのようなものであるのなら、何の用意もしていなくても問題はなかった。
なぜなら、オリヴィナにはバルカスやメリーナはともかく、ほかの会場にいる全員を納得させるだけの主張ができる。
しかも、準備らしい準備は何もいらない。
ただ、それを告げる前にいくつか聞いておきたいこともあった。
「バルカス殿下はなぜ、このような行動を?」
心の中で『無駄な』と付け加えながら素直な疑問を口にしたオリヴィナを、バルカスは鼻で笑った。
「貴様の振る舞いが私の伴侶として相応しくないからだ」
「殿下の伴侶でございますか」
「貴様の悪行はすべてメリーナから聞いている。下劣な言葉、卑猥な言葉の数々に加え、小賢しい嫌がらせに嫌味の数々。差別的な発言に貴様の醜い心が詰まっている」
「では、バルカス殿下はそちらのメリーナ嬢が殿下の妃に相応しいと?」
「ふん、言うまでもないことだろう」
バルカスの妃ということは、一応王家の一員となるはずだ。
その伴侶に求められる対応というのは――少なくとも人に濡れ衣を着せることでも、嘘を伝えることでもない。付け加えるなら、王家に生まれながらも自分で調べることもせず、あっさりと情報に踊らされる者も王家に相応しいのか疑問は湧く。品格があるとは言い難い。
ただ、王家がバルカスを放置するならば、所詮王家もその程度のものなのだろうとオリヴィナも大した期待は抱いていなかったのだが。
「おい、聞いているのか」
「はい。もっとも、何を仰っても私には関係なさそうな話だとは感じていますが」
きっぱりとしたオリヴィナの返答に、メリーナが怯えた……ように装ったのだと、オリヴィナは理解した。
それに気付いたバルカスはすぐにメリーナを慰めている。
(なるほど、そういう行動で殿下を虜にしたのか)
今の話のどこに怯える必要があったのかいまいちオリヴィナには理解できないが、メリーナにとっては可愛いところを見せるよいタイミングだったとは理解できる。事実、そんな彼女にバルカスは優しく対応しているのだから。彼女自身の容姿を生かした最高の演出だ。
しかしそんな二人を見ながら、オリヴィナは冷静に『そういえば最近こんな芝居を見たな』などと思い出していた。もっとも、その芝居はバッドエンドで、主役級の二人はその後残念なことになっていたのだが。
目の前の光景をそう分析したオリヴィナを、バルカスは改めて睨みつけた。
「むろん、私も貴様が自分の非を認めるとは思っていない。当然貴様はシラを切るだろう。万が一己の行動を悔い改めたと言ったとしても本心ではなく、その性根は腐りきっていることも間違いない」
「どう思っていただいても私は気にしませんが、私もここにいらっしゃる皆さまに誤解をされてはいけませんから、一応ご指摘はさせていただきますね」
「はっ、指摘だと? まあよい、貴様はどうあがいても私の婚約者である事実を失う。最後の情けだ。謝罪をする前であればひとつ聞いてやろう」
そうして得意気に笑うバルカスを見て、オリヴィナは思わず小さく苦笑してしまった。
ここにきて、まだそうやって口が回ることはオリヴィナにとっても大変喜ばしい。自らとても楽しい準備を整えてくれるなど、オリヴィナにとっては愉快なことこの上ない。
「……何がおかしい?」
「強いて言えばすべて、でしょうか。どこから誤解されているのかとは思ってましたが、一番最初から全部間違いだなんて可笑しいではないですか」
オリヴィナの言葉に第二王子はますます不信感を募らせた。
そして周囲もオリヴィナの様子から目を離せないでいる。
これなら『倍返し』の条件もクリアできるだろうと、オリヴィナは扇で口元を隠しながら言葉を続けた。
「先程から諸々のお話を無遠慮に仰ってくださっていますが、そもそも婚約解消など不可能でございます」
「何を言っている。私は王族。こちらが破談にすると言えば、それに従わざるを得ないはずだ」
「いえ、王族だとしても不可能です。だって私、そもそも殿下と婚約致していませんから」
そんなオリヴィナの発言で、その場の時が止まった。
周囲は完全に固まってしまっている。
オリヴィナはそんな中でもう一度同じ内容の言葉を繰り返した。
「バルカス殿下は私と婚約されていらっしゃいませんよ。いくら殿下でも、していないものを破談にすることはできませんでしょう? ですから私は、そもそもメリーナ様と殿下がどのようなご関係でも関係ないのです」
そして短い空白の期間を置いて、ホール内は大きな騒めきが駆け巡った。
根本的なところから間違っているということが衝撃的――という人々もそれなりにいた。おそらく第二王子派閥で、彼に肩入れをしていた人たちだろう。そもそも彼らは、バルカスが婚約を白紙にすると公言したときから果てしない衝撃を受けていたようだったが。なにせ、マースリア家の財力と権力を知っていれば無理もない。後ろ盾とするなら最高の条件なのに相談なく手放すと言ってのけたのだ。
(メリーナのことは知っていても、せいぜい妾だと思っていた程度ってところかしら)
しかしその一方で、ところどころには『やっぱり』『正式なお披露目もないから不思議にはおもっていたのよ』などといった声が聞こえてくる。
もちろんオリヴィナ自身もバルカスと噂をされるだろう条件自体が揃っていたこと自体は知っていた。
侯爵家令嬢という肩書き、実家の資産、近い年齢。
それらを鑑みた上で我が物顔でオリヴィナに当たるバルカスを見て、少なくとも婚約者に内定しているらしいという噂自体は聞いたこともある。
しかしあくまで噂であるので、まさか婚約者とされている相手までもそれを信じているとは思っていなかった。そして、それを自身の支持者にも公言しているなど、誰が考えつくだろうか。
バルカスから婚約者らしい行動など一度も取られたことがないし、ここ数年は普通に話すこともない。バルカスはただただオリヴィナに理不尽な命令をしようとするだけだ。もっともオリヴィナもバルカスと距離を置きたいと考えていたため、自分の仕事ではないと思えば反論し、従ったことなどないに等しいのだが。
それなのに、一体どういった経緯で婚約などという誤解が生まれたのか、オリヴィナは非常に気になった。
「……貴様、怒りのあまり頭がおかしくなったのか?」
「いえ、私はむしろバルカス殿下が何を驚いていらっしゃるのか理解できません。冗談だとしてもお戯れが過ぎますよ」
至極当然の言葉を告げるオリヴィナに対し、バルカスの眉間に徐々に皺が寄る。もちろんオリヴィナはそんなことに気遣おうとも思わないのだが。
「実は私、普段からバルカス殿下には意地悪をされておりましたので、このような目立つ場所で殿下から身に覚えのない言いがかりをつけられると予想しておりました。しかし、言いがかりだとしてもその内容は不敬罪や謀反の疑いなどかと思っておりましたので、あまりに予想外でした」
そんな中での婚約解消宣言には心の底から驚かされた。
仮に本当に婚約していた場合、この話が広がれば社交界では恥の象徴として少々動き辛くなることだろう。
しかし、成立していない婚約の解消の宣言となれば、宣言したほうがよほど人々に衝撃を与えることになるだろう。
思っていたよりも数段に楽な展開に、オリヴィナは心にゆとりをもって対応できる。
(個人的には、お仕置きはこれくらいで満足だから早く謝って欲しいんだけど……)
しかしオリヴィナが妥協したところで、バルカスが認めないのであればこの話は終わらない。事実、まだバルカスは吠えている。
「貴様、嘘をつくな!」
(バルカス殿下ですもの、やっぱりそうなりますよね)
嘘などついていないのだが、バルカスがそう主張するのであれば幕引きにはできない。
それならば、先にオリヴィナが舞台を降りるわけにはいかない。
バルカスの自業自得は構わないが、面倒だとオリヴィナは溜息をついた。
「……確かに第二妃様から私をバルカス殿下の婚約者にとの申し入れがあったことは事実です。確か七年前、私が九歳の頃ですね」
「ほらみろ! ならばお前が婚約者だろう!? 断れるはずが……」
「それが、無事に断れてしまったのです」
王子の前では少し失礼かもしれないと思いつつ、オリヴィナは肩を竦めた。
そんなオリヴィナの少しオーバーなリアクションにも周囲の人々の目は釘付けだ。
「ところで、バルカス殿下は私と殿下の婚約証明を見たことがございますか?」
「証明!? 貴様は私の腕輪をしているのだろう! それで足りぬというのか⁉︎」
「バルカス殿下の腕輪? おかしいですね、私、殿下から贈り物を頂戴したことはございませんよ」
今のオリヴィナは腕輪などしていない。
婚約の証で受け取ったというのであれば、オリヴィナだって婚約者の祝いの席にならしてくるくらいの気持ちはある。しかし、そんなものは持っていない。もっとも、バルカスからの贈り物であれば、贈られそうになった時点で全力で拒否したとは思うのだが。
しかしそんな淡白な否定にバルカスは叫んだ。
「ふざけるな! 王家の紋章が入った腕輪を見せびらかしていただろう!」
「わ、私もマースリア様が皆に見せているのを見たことがありますわ!」
それまで黙っていたメリーナもバルカスと同様に強く叫んだのだが、それでも無いものは無いのだ。だが、オリヴィナもメリーナの発言を聞いてようやく誤解の原因が掴めた気がした。
「人に見せる腕輪といえば、おそらく王宮へ出入りするための商人の証ですね」
「商人の証……?」
「私はマースリアの領地ではなかなか有名な商売人ですので、王宮へ出入りもしているんです。もちろんこのシステムは我が家専用のものではございませんから、おそらくこの会場にも同じものを所持されている方はいらっしゃいますよ」
もともと、マースリア家は貿易業と造船業が特に盛んな家柄だ。
領内には国内屈指の中継貿易港がある都市ルーフォレーアがあり、数多くの船が毎日寄港する。さらに領内には立派な河川も流れており、物資運搬に一役買っている。そして寄港地と川を上手く利用した運搬は領内で生産された穀物や特産品のみならず、他領からの輸出品や、逆に輸入した品を運んでいる。
そのような環境下にあることもあって、マースリア家の子弟は幼いころから貿易を学び、より街を発展させるように指導を受ける。
『自分の小遣いは自分で稼げ』
これもマースリア家の家訓の一つだ。
オリヴィナもその教訓のもと、幼いころから……それこそ、絵本を読んでもらう頃から貿易について教えられていた。
そして、その絵本を読んでもらっていた時に、オリヴィナに転機が訪れる。
当時三歳のオリヴィナは、侯爵であり父である人の膝の上でポツリと呟いた。
『陸を走るお船があればいいのに』
その言葉は世の中何ができて何ができないのか、何も知らない子供の率直な感想だった。
マースリア家の領内は河川に沿って船が荷を積み下ろす場所には特に栄える集落ができていた。そしてそれらはそれぞれ、港町ほどではないものの人の出入りが多く、活気に満ちて賑わっていた。
その領内を縦断する『川のルート』が、もしも陸にも作れたなら……横断するルートが作れたのなら、より多くの街が発展するかもしれない。船のような動力を持つものが陸を走れば、それもきっとできるはずだ。
そう考えたオリヴィナにマースリア侯爵は優しく尋ねた。
『陸には水がないけど、その代わりは何がいいと思っているんだい?』
『引き戸の溝の部分みたいに、力を加えてもまっすぐにしか進まないような道を作って、馬車の車輪を走らせればいいと思います。荷馬車の荷台をくっつけていくみたいにして、一番前だけ鉄の馬を作るんです』
『鉄の馬?』
『はい。お船みたいな、強い力で引いてくれるのがいいです。大きいお船を動かせてしまう……動力?があれば、小さいのも動かせるかなぁって……ちっちゃくするだけで……』
その『小さくすること』が容易ではないことを、当時のオリヴィナは理解はしていなかった。しかしだからこそ、思ったことをそのまま言った。
だが、その案を聞いたマースリア侯爵は娘の発案を面白いと考えた。
現実的かどうかは別として、仮に自動で走らせることができる馬車をいくつも連ねることができれば、輸送にも大きく影響が出る。もちろん、いい意味でだ。
言うまでもなく船に関して誇りがあるものの、船から降ろした荷を運ぶ手段としてもオリヴィナの提案は悪くなかった。
そこでマースリア侯爵はオリヴィナの発言をもとに、まず平地に鉄で『レール』という『陸の川』を作った。そしてそれから陸上の船……汽車を発明した。
もちろんマースリア侯爵自身が設計したわけではないのだが、造船技術も進んだ土地で新たな計画を進める中心となったことは間違いない。
『お小遣い』として侯爵自身が貯めていた豊富な資金で人を集めることに苦労はなかった。
そしてマースリア侯爵の努力の甲斐あって、マースリアには『鉄道』というものが徐々に広がりはじめ、ついに五年前からは領地の端から端まで移動できる鉄道が完成した。
その結果、人や物の移動が早くなり、付近の街もより発展し始めた。
小さなオリヴィナが言ったことが実現した、と侯爵は笑ったのだが、当のオリヴィナはその時の発言なんて覚えていない。
ただ、マースリア侯爵はそんなオリヴィナに構うことなく「この鉄道を考案した者は我が娘、オリヴィナである」ということを宣言した。
領民はそのことに大変驚き、それからオリヴィナのことを『マースリアの鉄道姫』と呼ぶようになったのだが……正直にいえば、オリヴィナはそれだけは勘弁してほしいと思っていた。まったく響きに可愛げがなく、いかついようなイメージさえある。
しかしその鉄道姫との二つ名が先見の明を持つ者としてマースリアの地では強烈なインパクトを与え、これからのマースリアの発展に寄与できるならと商人も比較的オリヴィナとの取引は優遇してくれる。
また憧れの念からか、オリヴィナが扱う物は流行の最先端となりやすい。
それがきっかけで、オリヴィナはあっという間にトップクラスの商人へと上り詰めたのだ。
もっとも、子供の戯言をそこまで美化されたことにオリヴィナは強いプレッシャーを感じてはいるのだが。
だが、本人の意向はさておき、そのようなことがあった結果、オリヴィナは高品質かつ多種多様な品物を比較的安く手に入れることができる。マースリアの領地から王都までの輸送費はもちろんいるが、それを上乗せしてもほかに引けを取らないものを用意できるため、王宮御用達になるのも時間の問題だったのだ。
「殿下なら当然、出入りの商人に関する制度はご存じでしょう? 王家に納品も認められているものが、装着します。そもそも殿下のお相手でしたら、王家の紋章ではなく殿下のお印である月桂樹の印のアクセサリーをお持ちだと思いますよ。そうでなければ、誰の婚約者かわかりませんから」
オリヴィナの言葉にバルカスは顔を真っ青にしていた。
どうやら、徐々に事実であることを理解してきたらしい。
しかしいまさらオリヴィナが発言を撤回したり、バルカスのフォローに回ったりすることはない。ただ、淡々と言葉を紡ぐだけだ。
「マーリスア家は第二妃様より打診を受けた際、陛下にお尋ね申し上げました。父が出仕をやめて領地に戻るのと、婚約を諦めるのとどちらがよいか、と。すると陛下は婚約を諦めてくださいました。ただ、もしも私が気に入ればいつでも婚約は成立させると。もちろん、お願いいたしたことはございませんが」
「でも……あなたは、いままでバルカス殿下の婚約者であることを否定しなかったではないですか!」
「だって、尋ねられたことがございませんもの。私だって、知らないところで婚約しているなどと言われて少々困惑はしております」
バルカスに寄り添ったまま悲痛な声で叫んだメリーナに、オリヴィナは溜息をつきたくなるのを堪えて冷静に返事をする。
(だいたい私が婚約者でないのなら、彼女も婚約までの障害が減って喜ばしいでしょうに何を焦っているのかしら)
混乱ゆえにそのような反応になったとしても、少々度が過ぎている。
人を貶めて婚約を白紙にさせたかったからこそ、実は関係がなかったということに焦ったのかもしれないが……もっと何か、別の意図があるような気がする。
そう感じるからこそオリヴィナは意図的にゆっくりと説明を続けながらメリーナの様子を窺った。
「そもそも、婚約をしていない人にあえて『私たち婚約をしていません』と宣言する人はいないでしょう。もちろん、直接殿下に問われれば回答しますが」
そもそもオリヴィナだって、バルカスが自分を婚約者だと誤解していることを確信する出来事なんて何もなかった。だから、言う必要性を感じたことなど一度もない。
やたら当たられることがあるとは思っていたが、それも過去に婚約の申し出を断ったことが原因だと思っていたくらいだ。婚約者だと思っていた者に対して当たり続けた上で他の女性を侍らしているのであれば、倫理観など持ち合わせてもいないのだろう。
う。
(あーあ、バルカス殿下、今度は顔が青から真っ赤になっちゃったな)
まるで幼子のようだと思いながら、オリヴィナは『この国の王子がこの第二王子だけでなくてよかった』と、心の底から思った。バルカスのような者が次代の王となれば、国が不安定になるだろう。
(もっとも、第一王子も相当曲者ではあるのだけれど)
しかし第一王子はバルカスとは違い物事を計算の上で進めるタイプだ。
だからこそ、バルカスの母である第二妃は第一王子に対抗意識を燃やし、何が何でも息子を王位に据えるため、潤沢な資金を持つマースリア家から妻を娶らせようとしたのだろう。ただし成立したかどうかまで確認をとらなかったことや、その後の変化を追わなかったのは致命的だったのだが。バルカスと同じく、王家からの誘いは絶対だとでも思っていたのだろうか?
そんなことを思いながら、オリヴィナは続ける。
「ご婚約なさるのでしたら、どうぞ陛下にご婚約の旨、申し上げてはいかがでしょうか」
ただしメリーナの身分の問題よりも、メリーナが嘘をついてまでバルカスの妃の座を欲したことがどう評価されるのかが問題とはなるだろう。
そして、それはおそらく厳しいだろうとオリヴィナは思う。
ただし、バルカスはそうは考えないが。
「ああ、言われなくてもそうするさ! しかし貴様はメリーナに働いた無礼を謝罪する義務がある! 目に見える形で示せ!」
「そ、そうです! 謝罪と誠意を見せてください! 第二王子の相手に私は相応しくないと……あなたは仰ったではないですか!」
吠えたバルカスにメリーナも続く。
オリヴィナは溜息をついた。
「関係ないことをわめき散らした上に『誠意』ですか。それはあなた方が見せるべきもののはずですが、あなた方にはまだ恥の上塗りをする余裕があるのですね」
すでに会場には彼らに味方する者はいない。この期に及んで、それを信じる人間なんていないのだ。この中にいる第二王子派閥ですら、擁護の声を上げないくらいだ。巻き込まれたくはないのだろう。
しかしそれでもなお尻尾を巻いて逃げないのは、ある意味素晴らしい度胸だと褒めるべきことなのだろうかとオリヴィナはある意味感心した。
ただ、こうして要求をはっきりさせてもらうほうが分かりやすい。
(誠意なんて曖昧な言葉を使っているけど、欲しいのはお金みたいね。私に敵になってほしかったのも、慰謝料を求めるためだったのかな)
残念ながら貴族の世界では金でその場を収めようとすることが、珍しくはない。
ホルアード男爵家はそれほど裕福な家柄ではなく、さらに現当主は散財癖があるという。
その状況下にあっては、たとえバルカスとの婚約が成立したとしても持参金を用意することは困難であるはずだ。
(ならば婚約を白紙に戻すついでに私に難癖をつけ、そこで金銭を得ようとした……っていう可能性もあるのかな)
しかし、たとえそれが正解でも現状でオリヴィナがそれに応じるはずがない。
むしろ、請求したい気持ちでいっぱいだ。
あとは、仮にそのような作戦だとすればバルカスが立案したとは考えにくい。おそらくメリーナが独断で実行したうえ、バルカスを巻き込んでいる。
ならば、メリーナにも少し痛い目を見てもらうほかないだろう。
「あなた方は客観的な証拠を私に示しておられません。私はまずホルアード男爵令嬢と二人きりになったことはございません。ですから、いつ、どこで何を言い、証人は誰だということをお示しください。ああ、口頭で結構です」
「そんなもの……」
「私、その日は何をしてどこにいたかと、毎日日記をつけています。私と会ったと仰るなら場所やだいたいの日くらいはわかるでしょう? 忘れたと仰るのであれば、普段殿下とお会いになるとき以外にお連れになっている殿方たちにお聞きしてはいかがかしら。いつもバルカス殿下の側近の方々と街にいらっしゃるとお話を聞きますよ」
「そ、そんなことないわ!!」
「おかしいですね。懇意にしているご令嬢を一人にしないよう、バルカス殿下が護衛をつけていると有名でしたが……違うのですか?」
すっとぼけた振りをして言ったものの、やっぱりアレは所謂浮気というものだったのだろうとオリヴィナは思った。もちろん、本当は噂自体もメリーナが男をたぶらかしていると言うもので、護衛どうこうではない。
メリーナも街中ならばわからないとでも思っていたのだろうか。木を隠すなら森とはいえども、その木が目立ちすぎるのであれば隠せない。
そんな中、バルカスの顔からは血の気が引いていた。
さて、そろそろ反論することもできないだろうと、オリヴィナは声を鋭くした。
「バルカス殿下。殿下は嘘を根拠にし、私を責め立てられました。私はまず、その謝罪を要求いたします」
その凛とした声に会場は騒めいた。
(……まあ、こうなるわよね)
状況が状況だけに、周囲もバルカスやメリーナの言いがかりについてはおおよそ理解はしていただろう。しかし、それでもなおオリヴィナが真正面から謝罪を要求するとは考えていなかったはずだ。
本来、家臣の要求に応じて王族が頭を下げることはない。
それは、もとより誤った道を選ばないことを前提とされているからだ。
従って、本来なら王族に謝罪を求めるようなことはあってはならない。
そう――本来ならば。
本来ならば不敬になるだろう事柄でも、現状ではバルカスが根本的に誤った認識とひどい言い分で強引にことを運ぼうとしている。
しかしこれでも王族を絶対だと認めてしまうのであれば、後々問題が起こるのは目に見えている。だからこそ、オリヴィナを誰も止められない。
「貴様……正気か」
「ええ、もちろん。王族に謝罪を要求することが異例であることは承知しておりますが、それを禁止する条文はございません。バルカス殿下はご自身の誤りが明らかになってもなお認められない、そんな愚か者ではございませんでしょう」
オリヴィナの挑発に対し、バルカスどころかメリーナからも、新たな反論は聞こえてこない。
メリーナの表情は青ざめ、『こんなシナリオではなかった』と、まるで悪夢でも見たかのような表情で呟いている。
すっかり、演技力も抜け落ちてしまっているようだ。
しかし、それは自業自得だろう。
自分が思い描いた筋書き通りに物事が進むことなど、ほとんど考えられないのだから。
(バルカス殿下にちょっかいを出しても何も言わない『婚約者』を、メリーナは大人しく愚かで陥れやすい令嬢だと思ったのかしらね)
しかしリスクを考えずひたすら自分の思い描いたストーリーを突き進むなど、よほど予想に自信があったのだろうなとオリヴィナは思った。
せめて嘘をつかなければ、このような事態を引き起こすことはなかっただろう。
何にせよ、このままメリーナは放っておいても、もはや何もできないはずだ。
彼女は謝罪することもしばらくは難しそうなほど、現状から目を背けているような状態だった。
そもそも例えメリーナが謝罪できなかったとしても、バルカスが二人分を告げればこの場を納めても構わないとオリヴィナは思ったが、彼はまだ歯ぎしりをしていた。
どうやら謝る気はなさそうだ。
それなら、オリヴィナももう一つお仕置きを加えなければいけなくなるだろう。
「ところでバルカス殿下は私にこのように言いがかりをつけられたことで、マースリア侯爵家が殿下を敵とみなすことをご理解いただいていらっしゃいますよね?」
「一侯爵家が王家を敵と見なしたところで、何かできると思っているのか?」
オリヴィナの言葉に、バルカスはほぼ間を置かず問い返した。
しかしこれまでのオリヴィナの言葉が効いているのか、やや声が安定していなかった。
オリヴィナは笑った。
「ええ、もちろん」
その言葉に、バルカスは息を飲んだように見えた。
「バルカス殿下はご存じですか? 私、王都の鉄道建設事業に金銭と技術の提供を、たくさんさせていただいておりますの」
「それが、どうした」
「殿下が無茶をおっしゃいましたので、私、それを引き上げることもやぶさかではございません。そもそも私には実利が薄い事業ですし、王家からこのような仕打ちを受けるのであれば、必要ないかと」
それがまずいことであるのは、バルカスにもわかったらしい。
何かを言おうとしているが、言葉が続いていない。
「……」
「過去婚約の打診を取り下げてくださったように、陛下は実利をとることを大事になさいます。バルカス殿下がどう、あの事業の補填をされるのかわかりませんし、特に技術力は一朝一夕ではどうにかなるとは思いませんが、それ以上の利をもたらす自信があるからこそ、こういったことをなさったのでしょう」
「ま、まて」
「バルカス殿下は他にも数多く問題を引き起こしていらっしゃいますから、陛下もすでに庇うという選択肢を放棄されたと、私は聞き及んでおります」
実際のところは、バルカスの我儘よりも第二妃の贅沢があまりに過ぎるのが原因だろうとは思う。しかし、バルカスは何もしていない。ただ、バルカスは現状のままであれば王位を継げないだけで済む。
「わ、私を脅そうというのか」
「いいえ。ただ、事実と私見を述べさせて頂いたにすぎません。これを脅しだと捉えるならば、僻地にて癇癪病を治すためのご静養との選択肢もあり得ることですので、お忘れなきよう」
もともとマースリア家はその領地の経営だけで満足しており、代々要職を担ってきたとはいえ、どちらかといえば煩わしさを感じている。それこそ、きっかけがあれば王都を離れることもやぶさかではない。
かつてであれば他領との交易を促進するため人脈を作るという意味合いもあったのだろうが、今ではそれは要職に就くことなく、人との縁は領地の経営、貿易の運営によって作れるようになっている。
職を辞すること自体は特にマースリア家としては困ることではなく、むしろ歓迎する状態にある。
そしてオリヴィナの鋭い声色で緊張感が走る中、ひとつ落ち着いた声がその場に響いた。
「そのくらいにしてやってくれないかな」
その声は決して大きなものではなかったが、静まりかえったホールにはよく響いた。
そしてすらりと背が高い青年が近づいてくるところを見て、オリヴィナは礼を取る。
「シュメロン殿下。御機嫌よう」
バルカスの兄であり、第一王子のシュメロンはそんなオリヴィナに対して力みのない穏やかな声で返事をする。
「御機嫌よう、オリヴィナ嬢。いや、この状況でのご機嫌はよろしくないね」
状況を分かっていながら苦笑するシュメロンをオリヴィナは罵倒したかったが、ぐっと堪えた。
(しかも来るのが遅いわ!!)
しかしシュメロンは散々意味不明な主張を繰り広げたバルカスと違って、何も問題になることは言っていないししていない。そのため、ここでいきなり罵倒しようものなら、崩れるのはオリヴィナに対する聴衆からの信頼度だけだ。
(それをわかって言っているから、この人苦手なのよね。このタイミングで来たのだって絶対わざとだし)
しかし、シュメロンはバルカスと違って話が通じない相手ではない。
一応、この場をできるだけ円満に解決するために出てきたのだろう。
出てくるのが遅かったのは、この状況を楽しんでいたからに他ならないはずだ。
オリヴィナとシュメロンは仕事上話をするため、ある程度は交友がある。より正確に言うならば、シュメロンはマースリアの支持を得る一環として自分に近づいてきているという印象をオリヴィナは受けている。
ただし、持ちかけられる仕事の内容は面倒であることも多いが、マースリアとしても見返りが期待できることも多い。ぎりぎりを見極められているような状況が、オリヴィナにとっては少し不満だ。
しかしながら第二王子が毒にしかならない状況なので、第一王子が万が一にも継承レースに負けようものなら国は滅ぶと理解しているため、積極的に支持するとはいかないまでも、ギブアンドテイクの取引はしている状況だ。領地に害が及ばなくても庶民に害が及ぶのは気持ちがいいものではないし、儲かるならそれで文句はない。
(実際シュメロン殿下は私にとっても貴重な情報源だし、顧客としては大事なのよね)
だから今回も事前に『何かが起きる』と予想したオリヴィナは、以前依頼された仕事での貸しを使って、ある程度シュメロンと情報を共有していたはずなのだが――。
(そこから考えるとシュメロン殿下は、本気でバルカス殿下が私を婚約者だと思いこんでいたことを知っていた風に見えるんだけど……それは聞いていないわ)
もしも予想通りであれば、大事な情報をわざと流さなかったことになる。
いろいろと準備をしていたのに、最初から必要なかったではないかと恨めしさも募ってくる。
一方、シュメロンの登場にバルカスは狼狽えた。
「あ、兄上……なぜここに」
「おや、兄が弟の祝いの席に訪れるのは、そんなに不思議なことかな?」
あっさりとシュメロンは言ったが、ここ数年シュメロンがバルカスの生誕祭に出ることはなかったし、バルカスもシュメロンの生誕祭に出席することはない。
だからここはバルカスの戸惑いが当然なのだが、反論できない圧をシュメロンは発しているようだった。
「話はここに来る途中で聞いたよ。ずいぶんな振る舞いをしてしまったようだね」
「——っ」
王位継承権を争う相手からの言葉としては、あまりに受けたくない言葉だっただろう。
同じ立場の相手には、正論でしか返せない。
黙り込んだバルカスに代わり、シュメロンがオリヴィナの前に出た。
「オリヴィナ嬢、不出来な弟が迷惑をかけた。初恋に浮かれて、周囲が見えていなかったのだろう。私が代わりに謝罪する」
「シュメロン殿下が気に病まれる事柄ではございません。私も、シュメロン殿下が疑いを晴らしてくれるのであればことを大きくする気もございませんので」
なるほど、こう終わらせるのかとオリヴィナは納得した。
シュメロンの言葉でオリヴィナが許せば、バルカス自身の謝罪がなくともバルカスの非が王族に認められることになる。
そしてこれはシュメロンの人徳を周囲に見せ、かつ、バルカスの不出来さを中立派にみせつけられる。
オリヴィナに向かって、シュメロンは優雅に言葉を続けた。
「この件は私が直々に陛下にお伝えしよう。マースリア侯爵へ謝罪にも向かおう」
「もちろんこの件は父の耳にも入るかと思いますが、シュメロン殿下が後始末をつけてくださると伝えれば、特に来ていただく必要もないかと思います」
「いや、私が直接ご説明させていただきたい。それにできれば侯爵だけではなく、君に私たち一族に対する悪印象を残したくないからね」
それに本心がないわけでもないだろうが、先程の続きでバルカスをより落とすためにも意味があるのだろう。
普段ならば、ここで『わかった』とでも言いそうだ。
(しかし、とりあえずはこれで終わりかな。さすがにバルカス殿下のための宴席ということでは続けられないから、お詫びの宴会っていうことで宴は続けるでしょうけど)
それでシュメロンの株はより上がることだろう。
しかし、これではシュメロンは漁夫の利ではないかとオリヴィナは思う。
それなら次の取引で多少ふっかけても悪いことはないだろう。
そう思っている間も、シュメロンはオリヴィナのほうを見ていた。
(もう用事は終わったでしょうに)
そう思ってシュメロンを見ると、彼は笑みを深くした。何の言葉を続けるつもりだ。
いやな予感がしたが、遅かった。
「私は頑張って、君に断られ続けているエスコートの申し入れを受け入れてもらいたいからね」
その言葉は、周囲にもばっちりと聞こえる声量だった。
同時にオリヴィナの顔は引きつった。
シュメロンは相変わらず笑み続けているが、それは……腹黒い気がしてきた。
「おや、疲れているようだね。侯爵邸には私が送ろうか」
「おき、づかい……ありがとうござ、います」
断りたいが、このままここに居続けるのは視線が痛すぎる。
今まではむしろ公式の場では話すらするような関係ではなかったというのに、これではシュメロンが自分に好意を寄せているように見えかねない。
(気遣いだけならともかくどうして余計な一言を言った……! 私は面倒事には関わりたくないのに!!)
詰め寄りたい気持ちを抑えつつ、オリヴィナは早急にこの場を離れることにした。
これで立ち去れば余計な噂が広がることが目に見えている。
だが、申し出を拒否すればシュメロンが次に何を言うかが分からない。
(変な噂が流れても、「ただ単なる再度の謝罪でした」なら、まだ流せる可能性があるし……!)
そうしてオリヴィナはシュメロンが手を差し伸べかけたのを気付かなかった振りをしたうえで、シュメロンとともに会場を後にした。
会場を出るとすぐさまシュメロンの側近の一人が駆け寄ってきた。
シュメロンが馬車を手配するよう伝えると、側近はすぐに用意をする旨を伝え立ち去った。
「じゃあ、整うまでは庭でも散策するかい」
「お断りします。私は『お疲れ』ですので」
何事もなかったかのように申し出るシュメロンに、オリヴィナはぴしゃりと言い放った。人前でないのなら、気にしない。
しかしそれもシュメロンは予想していたのか、驚ろいてはいなかったし、その表情は微塵も悪いとは思っていなかった。
「そんなに怒らなくてもいいだろう」
「私、バルカス殿下の中で婚約者になっていることを知らなかったのですが」
「だって、言ったら君はさっさとそれを訂正しただろう」
恨みがましい視線を送るオリヴィナに、シュメロンは肩を竦めた。
その仕草にオリヴィナはさらに目を吊り上げた。
「当たり前です! それをしてたらそもそも今日の状況、生まれてませんよね!?」
聞いたことがある噂はあくまで自分が候補だというものであったのに、バルカスの中では確定していた。
兄弟仲がよくないとはいえ、たまに高圧的な態度で話しかけられただけのオリヴィナと違って接触する機会はあっただろう。だいたい王位継承権の争奪戦をしているのであれば、相手の婚約者……というよりも、相手の婚約者の家柄は調べていたはずだ。
「ごめんごめん。でも、この方がいいだろう。下手に誤解を解いて逆恨みを買えば、物理的に危険になるかもしれないし。なんだかんだ言って君はバルカスを上手くかわしてたし。なにより、君も私に婚約の件は聞かなかっただろう?」
「ホルアード男爵令嬢と同じようなことを仰らないでください。しかも、顔が笑っていらっしゃいますよ」
「いや、見事だったなと思い出していたんだよ。けれど、一応私が情報提供より効果的な案を提示したのに、きみは秒速で却下しただろう? 私ばかりのせいではないさ」
「何の話ですか」
「私がエスコートをすると言ったのに、断ったからだろう。何度か誘ったはずだが」
睨み続けるオリヴィナに、やはり押し殺せない笑みを浮かべながらシュメロンは応えた。
それに対し、オリヴィナは溜息をついた。
「……殿下のエスコートなど、受けようものならご令嬢の視線に射殺されます。理由がわからなければ受けようがありません」
これは苦し紛れの言葉ではなく、心からの本心だ。
確かにシュメロンからの誘いを受ければ、バルカスの考えをもっと早くに知ることができただろう。自分の婚約者だと思っている相手が、自分の競争相手と共に宴に出てこようものなら必ずバルカスに問い詰められていた。だから、今から思えば有効な手であっただろうとは理解できる。
だが、シュメロンの誘い方は『バルカスへの対策』ではなく、あくまで『今度の夜会、私と一緒にどうだい?』といったような誘い方だった。バルカスへの対策でなければ、オリヴィナには受ける理由がない。
(下手にエスコートされたら、今度はシュメロン殿下の婚約者になったのかと誤解をされたでしょうし)
シュメロンがこれまでエスコートしたことがある女性は王家に近しい血筋の者か、他国から訪れた要人だ。
オリヴィナと同じくらいの立場にある良家の貴族の令嬢であっても、シュメロンからエスコートを受けた者はいない。そのような中で理由もなく申し出を承諾し、エスコートをされるなんてとんでもない行いだ。
世の中には王妃という地位に憧れる女性がいることも知っているが、オリヴィナにとっては単にプレッシャーだらけの面倒な立場だとしか思えない。
加えてこの腹黒さもあるシュメロンが相手となれば、何かと気苦労も多そうだ。
「何か失礼なことを考えていないかい?」
「事実を思い浮かべているだけです」
今更遠慮をしたり猫をかぶったりする間柄でもないので素直に言ってみれば、シュメロンが吹き出した。
それは今までの余裕を持った含みのある笑い方ではなく、少年の面影が残るような笑い方だった。常日頃からこのような表情をしているのであればオリヴィナもエスコートをお願いしたかもしれないと思った。もっとも、あくまで仮定の話に過ぎないのだが。
「やっぱりきみは面白いね」
「そんな言葉は結構です。ですから、今後取引でははぐらかさずにお答えください」
そろそろ馬車も整うことだろう。
その前に、オリヴィナはしっかり自分の主張を口にした。
しかし、それを言いながらも少し妙だとも思っていた。
シュメロンは愉快なことを好むが、雑事を好む訳ではない。
今回のことも第二王子にダメージを与えるにはいい機会だが、シュメロンなら他でも出し抜くことはできるだろうし、わざわざ数年前の誤解を育てて来た意味がわからないし、もっと早くにオリヴィナに売れば、オリヴィナだって相応の謝礼はした。具体的には一度くらいならただ働きでもやってのけた。
本当は何か裏があったのではないかとオリヴィナが視線で訴えれば、シュメロンは肩を竦めた。
「一応、本当に君が困っているなら手を貸す準備はしていたよ。ただ、君がバルカスの幼稚な仕掛けで本当に困ることなんてなかったでしょう。少しばかり面倒なだけで」
「ええ、その面倒が問題だったんですが」
実際にバルカスになんだかんだ言われても、大半は正当な理由を以て追い返していたのが実情だ。ただしそれすらも面倒だと思っていたし、それをすることでさらにバルカスがよりオリヴィナにつっかかり、粗探しをしてくるということは増えていたのだが。
「でも、私には都合がいい時間稼ぎだったよ。バルカスが君に付きまとうお陰で、君に言い寄れる男も現れなかったわけだし」
「人の婚期が遅れるかもしれないことを喜んでいたのですか? 悪趣味にしても度が過ぎませんか」
それではあまりに最低な男ではないかと睨みを効かせたつもりだったが、先ほどよりもずいぶん近い位置にシュメロンがいたうえ、彼が少々屈んでいるためか頭の位置が近いことに驚いた。
そして思い切り後ろに飛びのこうとしてしまったところで、腕を掴まれた。
「一応、私もずっと口説いてきたつもりなんだけどね?」
「はい?」
「遠回しに言ってきたけど、全く気付かないから徐々に直接的に言っていたんだけど……これでもまだ可能性すら考えていなかったという顔だね」
聞き間違い……だと思おうとしたが、それにしては距離が近すぎる。
それならばまだ、からかわれているという可能性のほうが高い気もする。
しかしながら、普段冗談を言ったりからかったりする時とシュメロンの表情がやや異なる。声の調子は変わらないというのに、目が笑っていない。
オリヴィナの本能が『まずい』と警鐘を鳴らしている。
一歩後ろに下がったところで、シュメロンが一歩距離を詰めれば何の意味もない。
「私はあまり諦めるということはしたことがないんだよ」
「は、はぁ……」
「君が気付く様子があまりにもないから、どこで気付くか、気付いたらどうなるかって思っていたけど……永遠に気づかなさそうだから、もうそこは私の負けでいいよ。ただ、それ以外で負けるつもりはないからね」
そんな話は聞いていない。
そもそも勝負をしていた自覚がない。
だいたい、いつシュメロンが自分のことを気に入ったのか、むしろ気に入っていたのかというのがオリヴィナにはわからない。
(面倒事が晴れたと思っていたのに、面倒事はまだここにもいたなんて思うわけもないでしょう!?)
しかも、諦めが悪いと自分で言っている相手が腹黒いとなれば、追い込まれている気がしてならない。
「珍しい表情をしているね」
「誰のせいですか!」
「私のお陰じゃないのかい?」
オリヴィナにとってのシュメロンはそういう対象ではなかったはずだ。
今のオリヴィナが一番感じているのは混乱で、どうしてこのような状況になっているのか理解できない。
ただ、一番理解できないのは今一番感じているのが、嫌悪ではないということだ。
(いやいやいや、ちょっと待ってって! ここは怒るべきよ、私!)
しかしそうは思うものの、余りに楽しそうにしているので、オリヴィナから出るのは長い溜息だけだ。
しかも、それがよりシュメロンの笑みを深くする。
「じゃあ、覚悟をしておいてね、未来の婚約者殿? やっぱり君といたら飽きなさそうだ。ああ、式は君の好きにしていいよ」
「ちょっと! そもそも、私たちは婚約致してませんから!」
うかうかしていると勝手に話が進んでしまう。
そう思ったオリヴィナは遠慮なくシュメロンの足を踏んで言葉を打ち切らせた。
さすがに驚いたようだが、それ以上にオリヴィナも驚かされたのだから謝らない。
(平穏に暮らすために戦ったはずなのに、なぜか平穏が駆け足で去って行っているような気がする)
昔から、オリヴィナの勘は悪くはない。
ただ、だからといって「はい、そうですか」と言うのも性に合わない。
だから、まっすぐ目を見てはっきり言った。
「でしたら、惚れさせてみてくださいな。少なくとも今のプロポーズは零点です」
気の強さなら負けてはいない。
その思いを込めた言葉でついにシュメロンは噴出した。
「お手柔らかにお願いするよ」
そんな話をしていた後日、城内ではある噂が広がっていた。
普段は愛想笑いしかしない第一王子からマーリスア侯爵令嬢が自然な笑みを引き出していた、というのがまず一つ。
加えて第一王子がマーリスア侯爵令嬢に求愛していたというのがもう一つ。
そして最後はマーリスア侯爵が娘にちょっかいをかけていないだろうなと第一王子に確認及び抗議をしにいったというものだったのだが――最後の一つだけは、事実ではないことをオリヴィナは願った。
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同日、『その喫茶店主は、転生した召喚師!~ようこそ、こちら癒しのモフカフェです~』の連載、開始しました。
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