なのはなおじいちゃん
川のきらめきを、偏向グラス越しに眺めため息をつく。
透明なラインの向こうがわで、必死に魚の真似事をさせながらアタリを待つが……どうやら今日も無理そうだ。僕は乱暴にリールのハンドルを回していく。
「釣れたか?」
「ぜんぜん」
兄は、にししと笑い、 僕にそれを見せびらかす。
見せびらかしているのは、長方形の手のひらサイズの画像……つまりはスマホだ。
「……ってデカッ!!」
その写真に写っているのは濃い緑色と黒いライン、ラージマウスバスと呼ばれる魚だ。
「また俺の勝ちだな」
「くっそーっ!!」
これで、今年に入って五連敗だ。
……というか、未だに釣果ゼロの呪いから抜けられていない。
「あ……」
苛立ちながら片付けをしていたせいで、ルアーのフックが上着の裾を釣り上げる。
イライラは増すばかりだが、一つ呼吸を置いてゆっくりとフックを外した。
ベロを出したような形の疑似餌が、そのギョロッとした瞳でみつめてくる。
その様子が、バカにされているように見えて……そいつは永久封印しようと心で決める。
「じゃあ、俺そろそろ出勤だから」
いつのまにか帰り支度を済ませた兄が、駆け足で河川敷の駐車場に走っていく。
……今日が休みでよかった。ただでさえイライラしているのに、さらにストレスの上乗せとか冗談じゃない。
だが、もう釣りの続きって気持ちにもなれない。ともかく、釣り道具は全てケースに直して帰ってゲームでもしようと思ってた。
その足が、ふと止まる。
「…………」
最大の寒気とやらを乗り越えて、ようやく開いた金色の花。
「……もうそんな季節か」
僕は、懐かしい思い出を胸に河川敷を歩きだす––––––––。
––––––––十年前。
僕は当時、祖父の作る料理が嫌いだった。
祖母は、カレーライスや唐揚げ、ハンバーグにオムライスと僕の好物ばかりを作ってくれる。
だが、祖父の作る料理はいつも決まって鮭のホイル焼きだった。
鮭と、バター、きのこ、菜の花、たまねぎ……それらを胡椒で味付けしてホイルに包み、ガスコンロの魚焼きグリルで焼いて完成。
ただでさえ、僕の嫌いなものは魚だったのに、さらに畳み掛けるように、きのこ、菜の花、玉ねぎと苦いもののオンパレード。父も母も、おいしいおいしいと何度もその料理を褒めるが、一切僕には理解できなかった。
正直祖父が笑顔で帰ってくる時は最悪だった。白髪の熊が、鮭を大量にバケツに入れてやってくるのだ。
……だけど、祖父とキャンプに行った時、釣りを教えてもらった。
釣りは、ものすごく面白かった。
銀色のキラキラひかる疑似餌をゆっくり泳がすと、きらめいた鮭が飛びついてくる。
投げても投げても釣れないのに、祖父はホイホイと釣り上げていく……その歯がゆさと言ったら口では言い表せない。
だから、初めて食いついた時の爽快感は、今でも忘れられない。銀かと思えば、虹色にかがやくその美しさに、僕は釣り上げた喜びも忘れてしばらく見惚れてしまった。
そして、その日のバーベキュー。初めて魚が美味しいと感じた。
ホイル焼きではなかったものの、肉とともに焼かれた鮭は、自分が釣ったという嬉しさが、不思議なスパイスとなって最高の味に仕上げていた。
まだ、きのこや菜の花は苦手だが……これなら今度、祖父がホイル焼きを作った時はおいしく食べれるだろうと思っていた––––––––。
それから一週間ほどだっただろうか?
––––––––祖父はヒノキの箱の中で、眠っていた。
結局、あれからほとんど魚は食べてない。
釣りもキャッチ&リリースが基本のバス釣りにシフトした。結局、社会人になるまで見向きもしなかった。
さらに祖父が死んだ後……あの川は、その日を待っていたかのように桜鱒が全面禁漁となった。
社会人となった今では、海でも他県の川でも、釣ろうと思えば釣れる。
だが……僕はそう簡単に割り切れなかった。
菜の花をひとつつまむと、僕は小さな金色の花に笑みをこぼした。
スーパーで鮭買って、おばあちゃんの家に行って作りかたでも聞いてみよう。そう思って菜の花を助手席に乗せて、僕は車を走らせた。
「え? じいちゃん、釣ってなかったの!?」
「ああ。あの人のいつもの手でねぇ……正直小さかったアンタ以外は、全員気付いとった」
嘘だろ…………おい。
おばあちゃんが、クスクスと笑うその話はいたって単純。
実はおじいちゃん。釣りの腕はからっきしだったらしい。
キャンプの時はなぜか調子が良くて、釣りまくってたらしいが……いつもは、ほとんど釣れてなかったらしい。
そして、釣れなかった日はいつも決まって菜の花をつんで、友達のいる養殖場に行って生きた鮭を買ってきて、自分が釣ってきたと言い張るのだ。
だから、じいちゃんの葬式の日……死ぬ前のキャンプで爆釣だったのは「鮭が、あまりにも可哀想なおじいちゃんを見て、釣られてやってたんだろうねぇ」という話題で持ちきりになっていたらしい。
僕は、葬式の時は本当にショックで、そんな話を聞く余裕などなかった。
てっきり、ずっとあの川で釣れた魚を食べていたのだと思っていた……。実際に食べていたのは桜鱒ではなく、ごく一般的な養殖の銀鮭。
僕が、当時のバーベキューの思い出話をしたら、おばあちゃんは腹を抱えて「そりゃおいしいに決まってるさ! 天然物の鮭だったんだから!!」と笑われた。
……考えてみればそうなのだ。桜鱒は、幻の高級魚とすら呼ばれる貴重な魚なのだ。
そんな魚を毎回毎回釣ってくるなら、おじいちゃんはもっと有名になっている筈だ。
おじいちゃんが作ってると思った料理も、元々はおばあちゃんの料理らしい。
孫にいい顔を見せたいおじいちゃんが、必死におばあちゃんに習って、慣れない手つきで覚えたらしい。
しかも、味付けは最悪。
孫の前で頑張ったおじいちゃんに恥をかかせるわけにもいかず、全員で口裏合わせておいしいと言っていたらしい。
兄は、なんとなくそんな雰囲気を察して、苦笑いでおいしいと言っていたらしい。
だが……流石に幼い僕にはそんな空気は読めず、心のままにまずいと言っていたという––––––––。
「随分悔しかったんだろうねぇ……それからもアンタがくるたんびにホイル焼きやろうって張り切って、釣れもしない釣竿片手に川に行ってたんだよ」
焼きあがる待ち時間……。そんな思い出話で盛り上がっていた。
「意固地にホイル焼きだけを覚えて、いつかアンタをおいしいって言わせてやろうって……だから、最後のキャンプでおいしいって言わせられて、あの人も満足だっただろうさ」
「おじいちゃん……」
そんな不器用な優しさに触れ、僕はおかしくなった。
孫においしいって言わせたい。……ただそれだけなら、鮭にこだわらずに、もっと簡単なメニューすればいいのに…………。
「おまたせ」
おばあちゃんがお皿に盛り付けた銀鮭のホイル焼きを見て、その懐かしさに涙腺が刺激される。
銀の皮と赤い身。きのこ、菜の花、玉ねぎに、溶けたバターと胡椒。あの時のままだった……。
僕は、祖父の優しさを再現した料理に喉を鳴らし……あの時の祖父の笑顔を思い出しながら、「いただきます」と祈るように呟いた––––––––。