僕にはニューロンが見える
僕にはニューロンが見える。
そう、ニューロンとは脳の神経細胞の事。
ヒトデのような独特な図であらわされるその突起物は別の神経細胞との情報のやり取りが多い程太く強固になり、使われない突起物は弱り衰えてゆく。
いくら細胞の中で最大の大きさを誇ると言われていたって実際に僕の目に頭皮や頭蓋骨が透けてニューロンが見えるわけでは無い。
僕に見えるのはその人の体を包み四方に伸びている触手だ。理科の教科書でニューロンの図を見た時にあまりにそっくりなのでそれから勝手にニューロンと呼んでいる。
そしてその性質も神経細胞ととても似ているんだ。
この触手はその人の他人とのつながりを表しているらしく、つながりが強い程太く、疎遠になってゆくとその触手はぷつりと切れる。
(これが噂のオーラと云うやつなんだろうか)
そんな事も考えたけれどテレビ番組で云うように様々な色はなく、ただの白い靄のようなものだ。
ただこの靄の様な触手はオーラと呼ばれるものと同じように誰にでも見えるものではないらしい。
今の所、僕以外でこれが見える人物とは遭遇していない。
僕もそうだが、ニューロンが見えると公言して歩いているわけでは無いので実は身近に仲間はいるのかもしれない。
公言しないのはSF小説のように謎の組織にこの能力がばれるとヤバいと云う事ではない。ただ『変な事を言う奴』で終わってしまうので言わないだけだ。
実際、生活の中でこの能力があって便利な事は無かったと思う。だからと言ってとても困ると云う事もなかった。
けれどこの能力のせいで相手の深い部分を垣間見た事は何度かある。
今日は君にその一端をお話しよう。
全開にした窓から入った風にカーテンが大きく揺れる。その動きと共に甘ったるい金木犀の香りが教室を漂い僕の鼻をくすぐった。
(腹減った)
反射的にそう思う。甘い香りのせいだろう。
校庭からは部活の準備を始めた運動部の声だ。新人戦に向けての気合を感じさせる。
校舎からは金管楽器の音合わせの音が鳴り出した。ブラバンの練習が始まったのだろう。
体育館の方からは「あ・え・い・う・え・お・あ・おー」と呪文のような大声が聞こえる。これは演劇部。文化祭も近いから発声練習も熱心だ。
僕は大きく一つ溜息を付き、箒を握り直した。
(早く終わらせて僕も部活に行かなくちゃ)
そんな事を考えていた。
僕は新聞部に所属している。
新人戦やブラバンのコンクールの結果次第で紙面の構成が大きく変わるのでまだ忙しくは無いのだが、練習風景を取材したいと思っている。
僕の中学には写真部が無いので写真を撮るのも僕らの仕事だし、何より二学期から僕が部長になったのだ。指示を出すはずの僕が遅れて行くのはまずい。
「工藤、なんで掃除してる」
僕はチリトリにホコリを集めているところだった。だがその作業を途中で止め、声のした方を向く。
「掃除当番だからです」
目線の先には担任の数学教師、鬼頭だ。
数学の教師だというのにジャージに竹刀のいでたちで闊歩する教師はすでにトレードマークとなっている竹刀を床にバシッと打ち付けた。
「俺はなぜお前が一人で掃除をしているかを聞いてるんだ。三浦達も掃除当番だろう」
「逃げられました」
僕は正直に答えた。
三浦達と言うのはこのクラスでもヤンチャな連中。学級委員の僕はそのお目付け役に彼らと同じ班に入れられてしまった。
僕は彼らに「掃除当番なのだから手伝え」と言うが毎回逃げられる。まあ教師達でさえ恐がって声を掛けようとしない奴等に注意している僕はかなり頑張っていたと思う。
「なんでお前を三浦達と同じ班にしたと思ってるんだ。ちゃんと決まりを守らせるためだろう?」
担任はコツコツと竹刀の先端で床を突きながら僕を見ていた。完全にイライラしているのが分かる。
その様子に僕はカチンと来た。
「僕は毎回彼らに注意しています。それにそもそも【生徒への指導】は教師の役目じゃないですか。学級委員だからって僕がやる事では無いと思います」
だってそうだろう?教師さえ手をやいている生徒だ。同じ生徒でしかない僕に何が出来ると思う?
「連帯責任だ」
担任は僕の肩をつかむと廊下に連れ出し、突き飛ばすように窓辺に押しやった。
僕はよろめきそうになり、壁に手をつく。
「歯を食いしばれ」
担任の言葉は唐突なものであったが、素直な少年だった僕の体は言葉どおりに反応する。
次の瞬間には尻からしびれるような痛みが脳天を貫いていた。
僕は滲んだ涙を隠すことなく担任に振り返り、上目遣いに睨みつけた。
今ではPTAやマスコミがうるさいからこんな事はないだろうが、僕が学生の頃にはそれほど珍しいことではなかったんだ。だがサボった連中を抜きにしての行為など連帯責任が聞いてあきれる。
担任は薄ら笑いを浮かべ、僕を見下ろしていた。
僕のその反抗的な態度を理由にまた何かしてきそうにも思えて僕はそのまま目をそらした。
だがその時、担任の背後に形づくられたニューロンの触覚のひとつが明らかに太くなったのだけは目の端に捉えることができた。
担任はとりあえず満足したのか「ちゃんとやっとけ」とだけ言うと、肩に竹刀を乗せて廊下をゆうゆうと歩いて行ってしまった。
僕はまだ痺れている尻の方に手をやったが、触らずにおいた。今触れるとまた痛みがぶり返しそうだったからだ。
僕は中途半端な姿勢のままホコリを集め、机を整理した。
そして黒板を水拭きする。
教室の前にある黒板には明日の日付と日直の名前を書き入れた。
次は教室の後ろ側の黒板だ。そこには三浦達の格好の落書き場所でご丁寧に黒の油性のペンで書いた卑猥なマークやイラストで埋め尽くされている。
水で湿っている間は黒板が深い緑色になるためそのイラストたちはだいぶ薄くなった。だが乾いてくるとそのイラストはまた浮かび上がってくる。僕はその様子をげんなりしながら眺めていた。
ふと先程の担任のニューロンが頭に浮かぶ。
急に太くなった触手。それは僕が担任に対しての感情を強くしたためだったのだろうか?
今まで信頼関係や愛情などでこのニューロンの触手は増えるのだと思っていたけれど違うのだろうか?
考えていてもわからない。僕はカバンを肩に掛け、慌てて部室へと向かう。その時には尻の痛みも落ち着いていた。
「こんにちは、部長」
新聞部が部室としている印刷準備室の扉を開けるとニコニコとした顔が飛び込んできだ。
「前年度の二学期発行の新聞を出しておきました」
僕にそう言った後もファイルを動かしたり棚を整理したりちょこまかと動き回ったままだ。
おかげで今まで雑然としていたこの準備室は彼が入部してからとても綺麗になった。
「田坂君」
僕が呼ぶと動きを止めて、小さな部屋なのに走って僕の隣に立つ。
「はい、部長」
「まあ座んなよ」
僕に声を掛けられて、田坂君は躊躇するようにキョロキョロとまわりを見回す。だがそれは一瞬の出来事で彼は僕の向いの椅子に腰を掛けた。
田坂君は担任の鬼頭とは逆にニューロンの触手がとても少ない。
それを見ると彼の今の様な行動は他人に好かれたくて気を使っているんだろうなと思う。
「古賀は?」
「いえ、まだ…」
その時、部室の扉がガラガラという音を立てて開いた。そして入ってきた人物は茶色の封筒をぽんと僕の目の前に投げ出すとまた部屋から出て行った。
「おい、古賀」
呼ばれても振り向こうともしないで部屋を抜け、廊下をすたすたと歩いてゆく。
「おい、待てって」
僕は古賀の肩に手を置いて止まらせた。だが、古賀の方はその手を振りほどき、なにも言わずにまた歩き出した。僕は諦めて部室へと戻った。
古賀と言うのは同じ二年生の新聞部員。彼もニューロンの触手が少ない人物だ。だが、古賀の場合は田坂君と違って他者との関わりを完全に排除している。
部室に戻ると田坂君が所在なさげにキョロキョロしていた。
「古賀はやっぱり帰っちゃったよ。二人で進めよう」
古賀が置いて行った封筒の中身を見ると各部活の練習風景を収めた写真が入っていた。
たった三人の新聞部。だが古賀はいつもあの調子で帰ってしまう。けれど新聞部で必要な写真をきっちり撮って置いて行くのでやる気が無い幽霊部員という訳では無い。
しかも古賀の写真の腕はピカイチなのだ。
ただし、どの写真も隠し撮りのような状態で取られているので後で撮られた人物に「この写真を載せたいんだけど使って良いか?」と確認に行くのが一苦労だ。特に女子は隠し撮りされたと気味悪がる。
だから最近の紙面は交渉に行ってもすんなり話がつく男子の写真が多くなった。
「あれ、これ鬼頭先生ですよね?」
田坂君が手にした一枚の写真には確かに鬼頭先生が写し出されていた。いつもの通りのジャージ姿。だが、その背景は学校ではなく場末の酒場といった感じだ。
薄ら笑いを浮かべた鬼頭の足元にはいかにもチンピラといった格好の男が顔を腫らして倒れている。倒れた男の腕は普通ではありえない方向に伸び、頭部からは赤黒い液体が広がって…。
田坂君は汚物にでも触れたようにその写真を慌てて離し、手を大きくぶらぶらと振り回す。
写真はひらひらと僕らの動揺をからかいながら机の上にうつぶせに落ちた。
机の上の写真は真っ白な背中を見せながらも、そこに写っている情景を僕たちの脳裏に力強く誇示している。
僕らは顔を見合わせ、相手が何か言葉を発するのをお互いに待った。
僕は沈黙に耐えかねて顔を引きつらせたままその写真を封筒に入れた。そして誰も見ないような古い新聞部の資料ファイルの奥深くに突っ込む。
「部長…」
僕は彼の問い掛けにただ首を横に振った。
自分では正義感の強い人間だと思っていたけど、こんな大事は手に負えない。
その事件は今朝の新聞の片隅で見た『組抗争での被害、冴樹組組員撲殺』の事件の記事そのままだ。確かこの事件で縄張りを争っている堂譲組の組員が逮捕されている。
この事件に鬼頭がどう関わったのかわからないが、恐ろしくて真相を確かめる気にはなれなかった。
その後、鬼頭がどうなったかって。
残念ながら僕は知らない。
卒業までは僕の通っていた学校に教師として在籍していたのは覚えているが、あれ以来鬼頭とは関わりたくなかったからね。
当時の新聞部員はどうしているか?
ああ、それなら知っているよ。二人とは今でもたまに会っているからね。
古賀は戦場カメラマンとして飛び回っている。何年か前にピューリッツァー賞を取ったあの古賀恭一だ。
坂田君は福祉関係の仕事をしている。昔の好かれたいという思いからの気使いが今では自然な物になったようだ。よく気が付く介護者になって、今では触手もすごく多くなっていたよ。
そう、ニューロンはその人物の人間関係の多さをあらわしてるだけで、才能や人格をあらわしてはいないのだ。それに増えもすれば減りもする。
え、君のニューロンの様子を教えてほしいだって?
本当に良いのかい。余計な事を知っても君のためになるとは思えないけれどね。
ん、それでもどうしても知りたいだって。
そうか、そんなに言うならしかたがないね。
君のニューロンは……




