黒柱《ブラックピラー》
深い黄土色の地表が眼下を流れる。
さらさらとした空気が、マルスの頬をなでてゆく。
マルスの駆る巨大な灰色の浮上マシンは、安定を失わぬよう両翼の角度と推力を調整しながらも、彼の期待に応えるように、左前方の巨大な黒い柱に機首を翻した。
その”黒柱”はみるみる視界の半分を覆うほどになる。
浮上マシンの差し渡しがマルスの体躯の二十倍ほどあるのに対し、黒柱の大雑把な太さは千倍を超え二千倍に近い。
黒柱へのアプローチが始まると同時に、両翼がうなりを上げて振動を始める。
浮上マシンの両翼は、振動によるカッターも兼ねているのだ。
風きり音がいっそう激しくなり、視界がぶんっと左に傾く。小さな埃のようなものが機体に当たって、コッ、コッ、と不規則な音を立てた。
黒柱は黒い壁のように迫って来、と思った瞬間に高速で反転し、浮上マシンがカッターを兼ねた翼を黒柱に叩きつける。
チィィ、という高い音とともに、黒柱に深い切込みが入る。マルスはひるまずに操縦スティックを黒柱に向けて倒しこみ、さらに浮上マシンの翼を黒柱深くに突き立てた。その亀裂の入る速度のあまりの速さに、黒柱のうちを激しい衝撃波が駆け抜け、はるか空に伸びるその先端まで震わせている。
マルスは間隙をいれず右のペダルを踏み込んだ。浮上マシンの右側補助スラスターがイオンの炎を吹き出し、翼による制御の利かなくなった機体を、黒柱の外側面に沿うように左に旋回させた。
そうして浮上マシンが黒柱を一回りすると、その芯まで届いていなかったはずの亀裂が、黒柱自身の激しい衝撃波共鳴の効果で芯にまで及び、パアン、という甲高い断末魔とともに黒柱の上部と下部を断ち切った。ちぎれとんだ上部は、上空で待ち受けていた同僚の浮上マシン四十機が連携して強力な静電気捕獲アームで掴み、しかるべきところへと運び去っていく。マルスは機体を再び高空に飛ばして右に傾け、満足げに地上に残ったわずかな黒柱の名残を見下ろした。
はるか地平まで単調に広がる黄土色の大地、そこに林立する黒柱。
この世界はただ最初からそのようにあった。
マルスは、そのように聞いているし、少なくとも、彼が生まれたときには、そうだった。
彼が切り飛ばした黒柱は、さほど遠くない”処理場”に持ち込まれ、加工され、さまざまなことに利用されているらしい。少なくとも、彼はその加工品の成れの果てを摂取して生きている。浮上マシンだの”コンテナ”と呼ばれる簡易的な家屋だのも、そうしたものから生み出されている。
総じて単調で、面白みのない世界ではあったが、マルスにはそれを面白くないと思う動機が全くなかった。彼には、彼の役割を果たすことだけが人生の目的なのだと半ば生まれながらに刻み込まれていた。
自分のコンテナのそばの着陸場に浮上マシンを降ろし、各種の飛行後点検を済ませたマルスは、コンテナに入ってまずは一息つき、体を休めた。粘性の低い空気の中を飛ぶ浮上マシンは想像を絶する高速度であり、それを操ることはこの上ない身体的・心理的ストレスなのだ。
殺風景なコンテナの中には、彼を楽しませる類のものは存在しない。すべてが無彩色に近いその空間は、それでも、彼にとっては安らぎの場に他ならなかった。
にもかかわらず、通信アラームが彼の休息を破った。それは、同僚のエリオットからの呼び出しだった。
呼び出しに応じてマルスがエリオットのコンテナを訪ね、軽く挨拶を交わした途端に、
「クリストファーが帰っていない」
エリオットがこう言った。
「クリストファー?」
「たしかお前より6期ほど若い――」
「ああ、思い出した。そうだ、この前も一緒に黒柱刈りに出た」
言ってから、マルスはクリストファーの特徴を思い出そうとする。
特に長所も無ければ短所もない後輩だった、としか記憶していない。とはいえ、好奇心は強く、彼らの個性のバリエーションの中では最も強いほうに位置しただろう、と、彼は小難しく考える。
「白柱の谷のほうへ刈りに出かけていたと思う。マルス、もし直近のノルマが終わっているなら」
エリオットは最後まで言葉にしなかったが、言外に、マルスに捜索を頼んでいるようだった。
マルスは、小さくため息して、わずかに肯定の仕草を見せた。
「見に行ってみよう」
黒柱刈りではなくとも、浮上マシンを駆ることは大層な神経の浪費となる。そのことを思うと気乗りしないのも事実ではあったが、大切な同僚の行方もまた、彼にとっては重大事なのだった。
空を切り裂いて浮上マシンを疾走させ、マルスは白柱の谷を直接目指した。
ほとんど一定間隔で並ぶ黒柱の中にあっては、白柱は異形の存在だ。
黒々と立ち、緩やかに伸び続ける黒柱も不気味なものだが、白ければ不気味さが減じるものではない。むしろ、表面層を通してその内側のおぞましいものが透けて見えるようで、別種の不快感をもたらす。黒柱の不快感を恐怖に近いものとするならば、白柱の不快感はタブーに近いものだろう。
そうした白柱が、この世界にはまだいくつかあるらしい。どうしてそれらだけが白いのかは、誰も答えを知らない。ただ、その組成は黒柱とほとんど変わらないらしく、資源としての使いでは同じだ。だから、この白柱も、黒柱と同様、ある程度の高さにまで育ったところで刈り取られる。幸か不幸か、マルスはまだこの白柱が刈られるところを見たことがない。
マルスの浮上マシンは、その白柱を左手に見ながらぐるりと旋回した。
クリストファーがこちらに向かっていたことは分かっているし、おおむねこの近辺で刈り取られた黒柱を回収したという証言もある。
ただその後の帰還が確認されていない。
まっすぐに居住地に向かったのであればこれまでにどこかで出会っていなければならない。出会わなかったということはそうではないということ。だからマルスは、白柱を中心に螺旋を描きながらその輪を広げていくことにした。
やがてそれは見つかった。
中程度の高さに伸びた黒柱の根元あたりに、一機の浮上マシンが横たわっている。特に大きな損傷は見当たらない。
すぐに、そのそばにたたずむクリストファーの姿を認めるに至った。
不安定な大地との間の静電力を調整しながらマルスは機体を近くに下ろし、ゆっくりとした歩でクリストファーに近づいた。
クリストファーもマルスの姿を認めると、安心ともばつの悪さとも取れる表情を浮かべたようだ。
「どうした、こんなところで野宿する趣味でも?」
案外クリストファーが元気そうなのを見て、マルスは軽口で始めた。
「マシンのバッテリー切れだ。怪物を見たんだ」
脈絡のない二文で彼が応える。
「怪物?」
マルスはまさに怪訝と言うべき表情を浮かべた。
「怪物。あの怪物だ。退治しなくちゃならんが、様子を見るために上空を旋回しているうちにバッテリーが切れちまった」
彼が”あの”怪物と強調したのにはわけがある。
彼らの世界には、それと知られた怪物が存在していた。
怪物は大地を蝕む存在として語り継がれていた。
過去にもそうした怪物が退治された記録が数多く残っている。彼らは、何をおいても怪物を退治せねばならない責を負っていた。
「分かった。ともかく乗れ、帰ろう。それから、怪物退治の相談だ」
マルスが促すと、クリストファーは初めて疲れきったような表情を見せた。
マルスが帰って休んでいる間に、幾波もの斥候が出て行き、帰ってきた。
彼らはそれぞれに異なった情報を持ち帰ったが、総合すれば、彼らの居住地から程近い広陵地に怪物が確かにいるらしい。
怪物の動きはゆっくりとしているが、それでも、黒柱の根元を掘り広げて大地に打撃を与えることもあると言われている。討伐は急がなければならなかった。
黒柱刈りは全面的に中止され、熟練パイロットを中心に怪物討伐隊が編成された。もちろんマルスもその一人だ。
討伐隊長に選ばれたルーカスが、整列する面々を見渡し、その決意の表情に、しっかりとうなずいてみせる。
「諸君。私も含め、諸君は初めて怪物に対峙する。だが恐れることはない。我々の先祖は、幾度も怪物と対決し、制してきた。我々の勇気と知恵と技術をもってすれば、いかに巨体を誇る怪物と言えども、我らにひれ伏すしかないのだ」
と、彼はまず隊員を鼓舞した。
「では作戦だ。怪物の動きはのろい。我々は浮上マシンで近づき、翼のカッターで切りつける。ただそれを繰り返すだけだ」
「怪物の反撃は?」
マルスの三つ右にいた誰かが質問する。
「分からないが、反撃に有用と思われる前肢がある。当然反撃は想定せねばならない」
最優先で討伐すべし、とされている怪物なのだから、何らかの危険があることは想像に難くない。つまり、怪物からの反撃はあるに違いないのだ。
「ここにそろった二十名の浮上マシン部隊を、三つに分ける。一つは八名からなり、空から怪物の背に攻撃を加えるもの。一つは八名からなり、第一の隊と交代で背に攻撃を加えるもの。一つは四名からなり、低空飛行で怪物の注意を集め、可能なら危険な前肢の切断を試みるもの。第三隊は危険な任務ゆえに少数で優れた人員を充てることとなる。貴重な人員の損害を避けるためにも、第一隊、第二隊の果敢な攻撃を期待する」
ルーカスがシンプルに作戦を説明する。そして、それぞれの分隊の行動は、追って指名する分隊長の指揮に任せる、と付け加えた。
それからすぐに人員のリストが読み上げられ、それぞれの配属が決まった。
マルスは、そこに集う中でも最も熟練したパイロットの一人であり、ゆえに、第三分隊に抜擢された。
その危険な任務を思うと、彼は身震いする。それは、恐れでもあり、興奮でもあった。
「諸君、健闘を祈る」
最後にルーカスが言うと同時に、討伐隊の面々はそれぞれの浮上マシンに向けて駆けた。
勢いをつけて浮上したマシンは、ゆっくりと旋回しながら他のメンバーのマシンと編隊を組み、そろうと同時に怪物のうごめく丘へと向けてはじけるように飛び出した。
もうすぐ刈り時の黒柱が残像を残しながらすれ違い去っていく。マシンと黒柱の間に生じた小さな乱流がゴゥ、と機体を揺らす。
大地は小さな谷となりまた丘となり、眼下を流れていく。はるか前方の視界の消失点から次々と大地と黒柱が現れては後方に消えていった。
その小さな丘は、遠くから認められた。
そして、丘にしがみついている怪物の姿も。
それは、陸に上がった鯨のような姿をしていた。
巨大な芋虫に、いくつもの前肢がついているようなおぞましい姿だ。
その前肢を器用に動かしながら、ずるずると前に進んでいるのが見える。
――あの怪物の目的は、一体全体なんだろう?
マルスはふとそんな疑問を持った。
大地を蝕むと言うが、では、あれはどこから来て何をするものだろう?
伝承はそれを一切語らない。ただ、危険な怪物とのみ伝えている。
それはいつか解明されるだろうか。
考えているうちに、怪物の姿は視界を覆うほどに近づいてきた。
第三分隊長のシグナルが飛び、マルスを含む四名は高度を下げ、怪物の眼前に躍り出た。
怪物は彼らの急襲を知ったのか、知らずに無意識に反応したのか、前肢を大きく伸ばし、飛び交う浮上マシンの行く手を遮ろうとする。
マルスの右の僚機が間一髪で前肢との衝突を避け、お返しとばかりに高周波振動カッター翼の一撃を食らわそうとし、惜しくも空を切った。
それとほぼ時を同じくし、甲高い音を立てながら第一分隊が空から駆け下りてくる。
怪物の背にぶつかろうかというその直前に反転し、翼の先端で怪物の装甲を切り裂いた。
反応し体をねじろうとする怪物に向け、再びマルスたちがとびかかり、前肢を狙う。
僚機の翼がついに前肢の先端をとらえ、ギィン、という音とともにマシンの全長ほどもある爪先を切り飛ばした。
その痛みに混乱したのか激怒したのか、怪物は全部で六本ある前肢をでたらめに振り回し始めた。
一方その背中は、第二分隊の急降下攻撃により次々と傷つけられつつある。皮膚を切り裂き身を削るまで、もうあとわずかと見えた。
再び、第三分隊は陽動突撃の態勢に入る。
マルスは、神経をすり減らす緊張の中、スラストペダルをぐいと踏み込んだ。
ランダムに振り回される怪物の攻撃の嵐に吸い込まれるように機体が加速する。
ついに彼の翼の一端が怪物の前肢に触れ、わずかながらその長さを削った。
ふと見ると、僚機も同じように攻撃に成功しながらも、もう一本の前肢が振り下ろされようとしているまさにそこに機体を進めようとしている。
危ない、と思ったときには、マルスは行動していた。
右に見える僚機に向け、機体を右に深く傾けると同時に左の推力ペダルを床が抜けるほど踏み込む。
イオンジェットが吹き出す音が機体を揺らす。
さらにマルスは、両ペダルを踏みこむとともに操縦レバーを前に倒しこんで強引に機体に制動をかけ、ほぼ直角に向きを変えて前肢の真下から切り上げるような恰好でそれに突っ込んでいった。
右肩を激しく引き倒されるような感覚。
右の翼が、落ちてくる前肢に深く深く食い込んだのだ。
彼の下を、僚機がすり抜けていく。
もう安心だ。
マルスが一瞬気を抜いたとき、怪物が、マシンの翼が食い込んだままの前肢を再び振り上げようとした。
激しい加速に彼の視界が一瞬真っ暗になる。
度を取り戻したときには、マルスの機体はくるくると回りながら空に放り出されようとしていた。
彼の眼前で天と地が目まぐるしく交代し、まったく操縦不能としか思えない。
だがそれでも彼はあきらめなかった。
地が見えるタイミングに合わせペダルを踏み、レバーを回転方向の反対にめいいっぱい倒す。
機体はやがて安定を取り戻そうとしていたが、今度は地面に向けて高速で突っ込もうとしている。
再び、推力ペダルとフラップレバーを乱暴に操作し、直角旋回を見せる。
と、同時に、彼はこれで最後とばかりに、視界の端にちらりと見えた前肢に向けて機体を倒した。
ドスッ、という低い音とともに、その前肢は切り離され、空高く舞い上がっていった。
ほぼ同時に、背中への攻撃部隊がとどめの一撃を加えようとしていた。
怪物は、ゆっくりと動きを止めつつあった。
ほっと息をついたマルスが次に気づいたことは、彼のマシンのエネルギーがほとんど残っていないことだった。
しかも、彼の機は直角攻撃で真上に向けて急加速したばかりであり、その勢いは止まらない。彼の背後で彼の故郷がどんどん小さくなっていく。
マルスは焦り、機体を反転させてペダルを踏みこんだ。
だが、イオンジェットは咳き込むように途切れ、それから、永遠に沈黙した。
完全にエネルギーを使い果たし、空力に逆らって機体を大地につなげとめていた静電力までも失って、マルスとマシンはついに空へと放たれてしまった。
もはや、大地に戻ることはかなわない。
マルスは、死を意識した。
今まで見たこともないほどに、視界が広がっていく。
あれほど巨大だった黒柱が、今や遠くに点にしか見えなくなりつつある。
それはさらにさらに小さくなっていき、黄土色の大地をほんのりと灰色に染めているだけの存在になっていった。
やがて、異様なものが視界に入る。
巨大な、あまりにも巨大な空洞。
彼らの居住地と刈り場ののすべてを飲み込んでも余りあるほどの底知れぬ巨大な空洞。
しかもその周囲を、褐色の山脈が取り巻いている。
あれは一体なんだ?
もはや逃れえぬ死を前にしても、マルスは好奇心がほとばしるのを止められなかった。
その空洞のさらに向こうに、空洞の四半分ほどの直径の穴が二つ、こちらに向けて開いているのが見える。
その空洞も、深さをうかがい知ることさえできない。漆黒の円盤が二つ並んでいるようにしか見えなかった。
大地からの距離は、加速度的に広がっていく。それに伴い、異様な風景はさらに異形へと変化していく。
二つの穴が、マルスがこれまで見た丘など問題にならないほどの巨大な山の側面に開いていることが分かるようになってきた。その巨大な山のさらに向こうに、さらに巨大な谷が見え――
その谷底に、透き通った巨大な球の一部が見えているではないか!
あまりのスケールに、マルスはめまいを催した。
単調で無機的な彼の知る世界とは、あまりに違う世界が、広がっていた。
巨大な水晶の一部は、何かの光源を映して輝いていた。
もはや体勢の制御もかなわぬマルスには、その光源に視線を向けることも出来ない。
だが、キラキラと光る光源は多彩に色を変え巨大な水晶球を貴石のように輝かせていた。
マルスは、満足していた。
この広大な世界のおそらくほとんど半分を見、残る半分を占めるであろう七色の世界を水晶の谷に映して見られたのだ。
ある種の幸福感に包まれながら意識の幕を下ろそうとしていたそのとき、彼の目に思わぬものが飛び込んできた。
水晶の谷のさらに向こう、大地が大きく湾曲し落ち込んでいこうとしているその先に。
――おびただしい数の黒柱が、あった。
それも、恐ろしく長大な黒柱が。
今や点にさえも見えないマルスの居住地付近の黒柱に対し、そのはるかかなたの黒柱は、黒々と茂り威容を誇っていた。
無限ともいえる黒柱の海が広がっていた。
彼は、感慨に打ち震えた。
巨大な三つの空洞、水晶の谷、そして無限の黒柱の海――。
彼はついに世界の恐るべき奥深さを知ったのだ。
なんと多様なる世界。無味乾燥と思っていた世界の果てのその向こうに、無限の可能性が広がっていたのだ。
そしてその理解を誰にも伝えるすべもないままに――
――ひげそり用ナノマシンの一機、符号名”マルス”は、テレビに見入る宿主の足元のリビングカーペットの中に静かに落ち、役割を終えた。