008[蚕葉]
僕と亘は息を切らし、部屋の中へと駆け込んでいた。
勿論、やかんを火に掛けてなんかはいない。
そもそも、この家には火に掛ける「やかん」は無く、
やかんはやかんでも、「電気ケトル」しかないのだった。
『あっぶなぁ~…もうちょっとで、
エンドレス悪口を聞かされ続けるトコロやったでぇ~…』
『あぁ~でも、あのお婆さんから、
202号室の住人の事を聞いたのは、初めてだよ……。
何時も202号室の事は言葉を濁していたから』と、僕が言うと亘は、
『プリペイド携帯の地図では、
裏野ハイツの真ん中、指示しとったし、調べてみようや』と、
202号室と隣接する壁を拳でコンコンっと叩く。
『おかんの知り合いやったら、
多少の事は目ぇ~瞑ってくれるやろうし、大丈夫や!』
僕は、何処から来るのか分からない亘の自信に苦笑いし、
隣人に興味がなくはなかったので、亘の探検に付き合う事にした。
『じゃ、まずは下調べやな』と、僕のPCで亘が、
202号室の隣人と、201号室のお婆さんの事を調べる。
まぁ~調べても、普通は、普通の暮らしをしていさえすれば、
何にも出てこない。
続いて調べるのは、蚕葉町の周辺情報。
でも、何故か、空き部屋情報すら出てこない。
『あれ?空き部屋とか、どうしたんやろ?』と亘が不思議がるので、
『この物件とか、PCやタブレットじゃなく、
紙に印刷された情報だけしかなかったみたいで、
囲さんが店の奥から持って来てたよ』と僕が言ったら、
『そっか…そうよな……。
訳有り物件とか、リンク付けられたらアウトやもんな』と、
なんか凄く納得している様子で、
更に、蚕葉町を調べてみたら、店もバス停も無い感じの、
住宅と公園に隣接した小さな森や池しかない、小さな地域だった。
『道路沿いのパン屋って、隣町になるんやな』
亘の感想に、僕も素直に納得する。
情報がなさ過ぎて、僕と亘は、不完全燃焼で撃沈してしまう。
『しゃぁ~ないなぁ~、昼寝してから、201号室の婆ちゃんに、
突撃レポート行ってみよか』との亘の意見に僕は賛成し、
エアコンの風で程よく冷えたフローリングに寝そべる。
割合的に頻繁に、囲さんが家政婦さんしてくれているので、
床は綺麗で、寝転がっても服は汚れない。
僕がゴロゴロしていると『じゃ、俺も』と、亘も真似をしてきた。
昼寝用に、亘にソファーを譲ったつもりだったのだが、
世の中上手くいかない。
僕と亘は、途切れ途切れ雑談をし、何時の間にか、寝てしまい。
次に僕が目覚めた時、部屋は起き上がれない程に、
虫の糸まみれになっていた。
近くに亘の姿は無く、名前を呼んでも返事は無かった。
僕は心細さと、糸の多さにちょっと恐怖して、
メッセンジャーアプリで蔟家のメンバーの助けを呼んだ。
僕が打ち込んだ文章は直ぐに既読になり、囲さんから、
『その糸、回収に行くから、動かんと待っててな!』
との、ちょっと悲しい連絡があった。
僕は静かに、直ぐには助けて貰えない救助を待ち続け、
隣人宅から聞こえてくる足音のような音が、直ぐ近く、耳元で、
まるで自分の周囲を歩き回る様な音に聞こえて来て、
その錯覚の為に精神を摩り減らし、
暖かい手で、俯せている状態の僕の背中を撫でられた様な、
背筋に寒気が起こる感覚に恐れ戦いて振り返り、
何かに驚いて意識を手放した様な気がしたのだが、
気付けば寝ていて、起きたら、夢だったかの如く、糸は消えていた。
メッセンジャーアプリを起動して確認しても、
僕の書いた筈のメッセージは存在すらしていなくて、
今日1日ずっと、一緒に居た筈の亘に電話しても繋がらず。
友保さん同様に、亘とも連絡が取れなくなってしまっていた。
次の日になっても、亘と連絡が取れないままだった。
気になって、亘の事について、問い合わせの電話を掛けた相手、
囲さんも、護さんも、迎さんも・・・
『大丈夫やわ、何時もの事やし、
探求心を満たしたら、ちゃんと帰ってくるから』と、
亘の事を心配していない御様子だった。
そう言う事に慣れていない僕は、隣の足音が何時もよりはっきり、
複数に聞こえ、其処に、亘と友保さんが居るような気がして、
その日から眠れなくなってしまい、体調を崩し、
不眠のまま、囲さんに会いに行ったら、
『金曜日までは忘れて、しっかり仕事しいや、
休みになったら、思う存分、2人を捜したらええやん』と言う。
僕は「全くもって、その通りだ」と思い、
一時、行方不明なっている2人の事を忘れる為に仕事をし、
囲さんに言われた通りに、夜に眠れなくてもベットに入り、
部屋を暗くして目を閉じ、体を休めながら休日を待った。
そして金曜日の仕事帰り、どうしても確認したくなって、
荷物を持ったまま、202号室の扉の前に立つ。
インターフォンを押そうとすると、中から何故か、
103号室の小さな少年が出てきて微笑む、
『お兄さんも、来てくれると思ってたよ!待ってたんだ』と、
小さな少年は僕の荷物を受け取り、僕の手を取って、
僕をゆっくり、家の中に誘って行った。
中には誰もいなかったが、何故か足音だけが絶えずに複数、
弱まる事なく聞こえてくる。
何も無い部屋の中、部屋の壁には、
自室でも時々見掛ける綺麗な虫の糸が、部屋の2つの角を中心に、
大きな繭を作るように張り巡らされていた。
何度確認しても、誰も居ないのに床が軋み、足音が鳴り止まない。
僕は無抵抗に小さな少年に手を引かれ、奥の部屋に連れて行かれて、
桑の木生い茂る6畳の洋室に閉じ込められる。
背中を押され、四つ這い状態になり、後ろで鍵を閉められた瞬間、
僕は自分の思考を軽く停止させて、茫然となる。
僕の周囲は、白い幼虫と桑の葉で埋め尽くされていた。
荷物は103号室の小さな少年の手で、202号室の玄関に置かれ、
僕は今、連絡手段を何一つとして持ち合わせておらず。
此処に来る事すら、誰にも話していない。
助けを呼ぼうとして、声を出そうとしても、声は嗄声の症状に侵され、
一言も発する事が出来なかった。
身動ぎして、木に少しでも触れると、
葉を端から貪っていた白い幼虫が、ボトボトっと何匹も床に落ちる。
僕はその存在に恐怖して、よろめき、床に手を突き出し、
その幼虫を手で踏み潰しそうになり、それを避けようとして、
自室の自分のベットの上から床へと落ちて、目を覚ました。
そこは自宅、寝室にしている6畳の洋室、
桑の木も葉も、もちろん白い幼虫「蚕」も、その場に存在しない。
僕は、胸が痛い程に心拍数が上がってしまった胸を押さえ、
ベットの宮部分で充電していた携帯電話に手を伸ばし、
スマートフォンの画面を見ると、
亘と友保さんを捜すはずだった土日の休日を過ぎてしまった月曜日、
平日の何時もの起床時間になっている事に気が付いた。
僕はパニックに陥りながらも急いで身支度を整えて、
仕事に行く途中で、蔟不動産に立ち寄る為に早めに家を出る。
家を出て階段を下りると、
103号室の小さな少年が、僕を見送り、笑顔で手を振っていた。
少年の手には、桑の葉が沢山付いた桑の枝が握られている。
そして、103号室の夫婦の手にも桑の葉付き桑の木の枝があり、
101号室のオジサンも、201号室のお婆さんも、
桑の葉を付けた桑の木の枝を持っている。
僕は挨拶もそこそこに、何となくぞっとして、その場を走り去った。
駅までの道程、蚕葉町を出るまで、
生垣の桑の葉が、通行人が持つ桑の葉の付いた桑の木の枝が、
視界から消える事は無かった。
僕は走って息を切らし、空腹と喉の渇きで吐きそうになりながら、
蔟不動産に辿り着く、
そこには、既に仕事モードの護さんが居て、僕を見るなり、
囲さんと一緒に駆け寄ってくる。
そこで僕の意識は消失し、次に病院で目を覚ます。
そこで会社の上司と、護さんが視界に入った。
僕と目が合うと上司は、
『体調が悪い時に申し訳ないが、溜りに溜った有給休暇の消化の為に、
休暇届へのサインをしてくれ』と、
有給休暇の書類を僕に差し出してきて、
僕が訳の分からないまま、有給休暇の書類にサインをすると、
上司は『営業に過労死されたら、会社が困るからな』と言い。
『仕事で私生活を誤魔化すのは良いが、
過労で倒れるまで働くのは、ナンセンスだぞ』と言って帰って行く。
僕は、僕を僕と識別するリストバンドの付けられた手首と、
その腕に突き刺さる点滴の針、そこから繋がるチューブの分岐点、
そこから枝分かれして繋がる注射器を乗せたシリンジポンプ、
点滴されている本体の方のチューブに設置された輸液ポンプ、
点滴されている物の量を見て、
『僕って、何か危なかったんですかね?』と、護さんに訊くと、
『そやな、取敢えず、誰かの為じゃないと自炊できん佳土には、
今日の午後の退院後から、ウチで療養して貰うで、
正直、ウチで貸してる貸し物件で死なれたら困るしな』と、
僕を抜きにして決められた決定事項が返答として返ってきた。
僕はそれを重く受け止め、
『何か本当に、ごめんなさい!御世話を掛けます。』と
ベットに座りながら深々と頭を下げると、
『気にせんとったり、ウチのおかんとか、
佳土って名前の外猫飼ってるつもりで佳土の世話してるから、
気にしたら負けや』なんて、護さんに凄く楽し気に笑われ、
僕は頭を小さな子供の様に撫でられた。
僕は護さんの宣言通り、その日の午後、迎さんの車で、
文字通り迎えに来られ、
蔟不動産のビルの5階にある蔟家のスペースに連れて行かれ、
囲さんの仕業であろう「ケイト」と書かれた看板、
同じく、囲さんの仕業であろう女の子みたいな部屋に、
僕は僕の同意を取って貰えないまま連れ込まれ、
囲さんチョイスであろうシンプルで愛らしいシルクの寝具に寝かされ、
そんな、女の子の部屋みたいな場所に住まわされる事になった。
因みに僕は、そんなこんなで今日も、
亘と友保さんと連絡は取れず、捜す事すらできなくて、
「元気になったら、捜しに行くから」と言う決意も空しく、
その日の夜、僕の意思を無視して、
「桑原佳土」としての僕の人生を強制終了させられてしまう。
囲さんが準備したシルクの寝具から、大量の蚕が湧き出し、
蚕達は僕を消費し、化蛾の為に糸を吐いて繭を作っていた。