005[御近所さんと蚕蛾]
就職に当たり、実家を出た先をシュアハウスにした僕は、
初めての一人暮らしになった今回、
蔟家の皆さんの御蔭で、須くの事から不自由する事無く、
新生活をゆっくりゆったり過ごしている。
そんなある日の休日、
買い置き用のコーヒーを買いに行く為に、家を出た矢先、
階段の出入り口に張られた細い数本の虫の糸に顔を顰め、
溜息を吐きながら、その階段を下りて行くと、
蛾と呼ぶべきか?蝶と呼んでやるべきか?
退化して小さくなった羽を持つ、真っ白でモフモフな感じの虫と、
その虫と遊ぶ、
引っ越してきた時、103号室で見かけた小さな少年の、
1頭と一人に、階段の途中、踊り場で鉢合わせとなった。
少年は僕の表情から何かを察して、『蚕だよ』と、
虫を僕に見せてくれ、
『見ててね』と言って、その蚕を上った階段の上から、
裏野ハイツを囲む桑の木でできた生け垣へと飛ばして見せてくれる。
蚕は不器用に飛び…いや、寧ろ……。
蚕なりに格好良く、生け垣に向かって斜めに落ちて行き、
不器用なりの必死さが伝わってくる様子で
生け垣にしがみ付く、
少年は『すごいすごい!カッコイイ!!』と大喜びして、
蚕を階段を下り迎えに行き、また階段を昇って、
『すごいでしょ?もっかい見ててね』と、
階段の上から、生垣へと飛ばす行為を続けて繰り返してくれている。
蔟家の皆さんが仕事で忙しく、暇だった僕は、それを眺め、
『僕は何で、この光景を見せられているんだろう?』と、
少し微妙な気持ちになっていた。
因みに、普段、休日の日でも、
「本当に子供が一緒に住んでいるのか?」と、
疑いたくなるレベルで静かな103号室の御子様は、
今日に限って、ハイテンションで子供らしかった。
そこへ、良く言えば、気さくで面倒見の良い。
悪く言えば、とっても御節介な201号室のお婆さんが、
カートを押しながら、入りきらなかった買い物を抱えながら
ゆっくりとゆっくりと、通りがかる。
小さな少年は、蚕を連れて行き、それをお婆さんに手渡した。
お婆さんは、嬉しそうな顔をして、
『一緒に遊んでくれてありがとうね』と、
少年の頭を撫でて、僕に軽く会釈してから帰って行く、
少年も、蚕を渡すと早々に、家の中に入って行った。
それから数日後の朝、お婆さん会うと、
『この間は、ごめんねぇ。103号室のお子さんと、うちの孫が、
そっちの階段で遊んでたでしょ?』と、言う。
僕には、最初、意味が分からなかった。
僕の記憶にあるのは、数日前に103号室の小さな少年が、
お婆さんの所有物であろう蚕で遊んでいた事くらい。
「もしかして、その前かその後、後日にでも、
103号室の御子様と、まだ見た事の無いお婆さんの孫が、
階段で遊んでいたのかもしれない」
僕は、そう勝手に解釈して、
『僕は気にならないんで、気にしないで下さい。』と、答えた。
あの日から、103号室の小さな少年が、
子供らしく遊んでいる所どころか、声や気配も感じない。
何時も通りの裏野ハイツに戻っている。
それでも、お婆さんは嬉しそうに、
『最近は、子供の声を耳にするだけで、
顔を顰める人もいるでしょ?良かったわぁ~』と笑いながら、
御孫さんの事を一方的に話して『何時も、持ち歩いてるのよ』と、
ボロボロの写真を大事そうにして見せてくれた。
「御孫さんって、幾つだよ……。」
僕は表面上笑いながら『可愛いですねぇ』と、適当な事を言う。
実質、古そうな写真は風化が進み、傷みが激しく、
写真の子供の顔を確認するに難しい状態である。
可愛いかどうか?何んて事、僕に知る由も術もない。
僕は、不意に顔に触れた虫の糸を掃いながら、
「もしかして、このお婆さん…
痴呆症に御罹りなさっていたり?したりして?」の、上での、
「息子か?娘か?の写真と、
孫の写真を取り違えなさっていたりするのではなかろうか?」等、
色々考えながら『あ、そろそろ時間が』と時計を見て、
『すいません、遅刻しますんで、そろそろ行きます。』と、
会社へと向かった。
で、その日は、裏野ハイツの住人と縁のある日だったらしい。
仕事帰りに立ち寄った、家とは反対側にある格安スーパーで、
101号室に住むオジサンと同じレジに並ぶ事になる。
そのレジの列には、先に僕が並んでいた為、小心者な僕は、
そのオジサンから逃げるに逃げれず、長い会計待ちの時間、
そのオジサンに御近所の噂を強引に話された。
正直、101号室に住むオジサンも感じの良い人ではあるが、
201号室のお婆さん同様、無駄に話が長いので、僕は少し困る。
『201号室のお婆さん所に、
家族らしき人が会いに来るのを一度も見た事がない』とか、
『102号室の人は、引籠りなんじゃないかな?
毎年、年末の2日間以外外出している様子がないんだよ』とか、
『202号室って気味悪いよね?
201号室の婆さんが、何か飼ってんじゃないかって心配だ』とか、
『103号室の子供は、
ネグレクトされてるんじゃないかと思うんだよ』と、囁かれるとか、
僕が知ってても、ほぼ何にもならない、眉唾物の噂話を長々と、
繰り返し繰り返し、語られてしまう。
同じ話を繰り返し、一段落終えて、
そこから聞いた話として、話を発展させて繰り返し話す事から、
噂の発信源、発症元が、
この101号室のオジサンである事を僕は確信した為、
話を鵜呑みにしない事に決めたが、
そのオジサンの話では、このレジの店員の女性は、
103号室の奥さんだと言う事だ。
それだけは、確実に本当の事で、順番が回ってくると、
103号室の奥さんは「こんにちは」と、軽く会釈して微笑み、
気まずいだろうに、通常の接客をしてくれる。
その間も101号室のオジサンは、話掛け続けて来て、
『同居人が待ってるから、「早く帰らなきゃ」とは思うんだけど、
そのまま帰ると、酒の肴に困る事になるんでね』と、
酒のツマミにしか見えない、買い物カゴの中身の事について、
僕になのか?103号室の奥さんに対してなのか?
オジサンは言い訳をしてくれていた。
僕の分の会計が終わり『では、御先です。』とレジから離れると、
手に虫の糸が触れる。
「最近、虫の糸との縁も強いらしい」
僕は糸が触れた手の甲を夏用のスーツの裾で拭い、
101号室のオジサンの会計が終わるまでに、袋詰めをして、
逃げる様にスーパーを後にする事にする。
そうして、少し急ぎ目に袋詰めをし、
スーパーを出て空を見上げると、空を夜が支配し始めていた。
6月下旬から7月上旬の日の入りは遅く19時頃である。
「あれ?103号室の奥さんの御子さん、大丈夫なのかな?
ウチの子持ちのパート社員さんでさえ、
19時までには、御迎えに行かないとイケナイからって、
仕事が残ってても、保育所に行くのに……。
あ、でも…遅い時間の保育料は、高いって言ってたから、
スーパーのパートの時給じゃ、保育料が足りないか?
じゃあ、旦那さんが見てるのかな?」
僕は、僕が心配しなくても良い事を心配しながら、
101号室のオジサンに捕まらない様に少し速足で、
蔟不動産のビルへと向かい、蔟不動産のビルに辿り着くと、
階段を駆け上がり、3階にある亘のIT会社の受付に顔を出す。
この時間になると、綺麗な受付嬢さんはおらず、
警備員さんが、その場所に常駐していて、僕を見るなり、
『社長っすよね?今、会議室ですよ』と、教えてくれた。
僕が警備員さんに言われた通り、会議室の前に行くと、
『佳土さんだぁ~!』と、この会社の社員さんが扉を開いてくれる。
会議室の中では、
僕より若い、亘と同世代の正社員や、亘の通う大学の同級生社員が、
流し素麺を楽しんでいる姿があった。
僕がスーパーで購入してきた物は、
大きいサイズの刻み葱2パックと、お徳用のポテトチップス5袋
花椎茸の瓶詰、得用のなめ茸の瓶詰、その他、僕が食べる用の惣菜、
勿論、惣菜以外は、亘から連絡があって買ってきた物だ。
『今日は、素麺だったのか……。
そう言ってくれれば、もっと、何か買ってきたのに』と、僕が言うと、
社員に交じって流し素麺を楽しんでいた囲さんが、
僕が買ってきた物を取りに来て、
『そう言う風に頼んだら、何を買ってくるか分からんやん……。
しかも、絶対に亘と悪乗りに走って、
罰ゲームみたいな展開になるんやろ?今回は、させへんで?』と、
身を乗り出して怖い感じの笑顔を見せてくれる。
こうなってくると今日も、楽しい夕食に成る事は間違いなく、
僕はそれを心から楽しんだ。
その帰り道、103号室の旦那さんの方に出会った。
彼は御近所さんから、桑の葉の付いた枝を貰って帰る所だった。
僕が『こんばんは』と声を掛けると、ちゃんと挨拶を返してくれ、
『良かったら、なんですけど……。
健康食品とかで目にするマルベリーってフルーツ、
貰って貰えたりしませんかね?』と、
黒紫色の小さな果実の詰った小さなコンビニの袋を渡してきた。
『え?良いんですか?』と、僕が言うと、
『まぁ~、マルベリーって言っても、
これって、ハイツの生垣になってる桑の実と一緒なんですけどね、
家では、葉っぱが必要で、家で育ててたりするし、
近所から貰ってきたりするんですけど、実は食べないんですよ』と、
静かに笑って、有無を言わせず袋を持たされる。
僕はその時、この人の家の御子さんの事を思い出し、
「もしかしたら、御子さんが、
201号室のお婆さんから、卵か幼虫でも分けて貰って来て、
蚕を飼い始めたのかもしれないな」と思い、納得し、
更に僕は桑の実の味に少し興味があったので、そのまま貰って帰り、
洗って家で食べてみた。
甘酸っぱい味が口の中に広がり、桑の実は正直、美味しかった。
僕は残りをタッパーに詰め、冷蔵庫に入れて、
明日の朝、囲さんの為に蔟不動産に持って行く事にする。
あそこに持って行っておけば、囲さんが独り占めしたりしない限り、
護さんや、迎さん、亘の口にも入るであろう。
「確か、マルベリーは、目に良かった筈だ」
僕は、書類やPC画面と睨めっこする3人の事を考え、
『美味しいし、大丈夫だよな』と独りで笑った。