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001[蔟不動産]

彼女の両親に、結婚に向けての挨拶する約束をした日、

闘病中の僕の父親の患っている病の事を彼女に語った日まで、

『どんな事があったとしても、この気持ちは変わらない』と、

彼女の求めるまま、一緒に住むシュアハウスの皆の前で誓い合い。

『死ぬまで一緒に居よう』と、微笑み合っていた筈の僕は今、

彼女が欲しがり、注文し、購入した婚約指輪を渡した翌日。

皆が集まり、婚約パーティーを開いてくれた席で、

彼女に『新しい恋人が出来たから別れて欲しい』と、

シュアハウスに住む皆の前で告白され、

相手が同じシュアハウスに住む、取引会社の人だった為、

僕は、シュアしていた部屋を出る決意をし、

通勤の時に見掛け、この数日間、

何となく心惹かれ続けていた「マブシ不動産」の、

自動ドアの押しボタンスイッチに触れた。


拭き痕もなく、綺麗に磨かれ、

端々に植物の葉を磨りガラス風に御洒落にあしらわれた自動ドアは、

愛らしいチャイムと共に開き、

『あらあら……、いらっしゃいませぇ~!』と、

カタログ通販に出て来そうな感じの、

シンプルなシルクニットのアンサンブルを、

タイトスカートと、ハイヒールで着こなす美人さんを、

僕の前に連れて来てくれた。


その、アンサンブルのカーデガンの左胸に

社名と同じ「蔟」と、「囲」の文字、その文字の下に、

「MABUSI KAKOI」と書かれた名札を付けた美人さんは、

『お兄ちゃん、めっさ疲れた顔してはるなぁ~…大丈夫かぁ?

ちょっと座って御茶飲んで行きぃ~や……。』と、僕の腕を取り、

店内の応接セット椅子に僕を座らせてしまってから、

慌てて用意した氷の入った硝子のコップに、

『ウチの趣味のんで悪いんやけど、これ「桑の葉茶」やねん、

健康に良いから、取敢えずの飲みや』と言って、桑の葉茶を注ぎ、

もう一度、姿を消して、

『店長さん、まだ来てはらへんから、茶菓子無いねん、

営業時間前やし勘弁したってなぁ~、

ウチの酢昆布と、飴ちゃん分けたげるから嫌いでも食べたって!

倒れる前にちょっとでも、血糖値上げときや!』と、

皿に盛った酢昆布と、

透明のセロファンに包まれた琥珀色の飴を手渡して来た。


僕は、想定外な美人さんの言葉遣いと、展開の早さに、

全く付いて行けずに呆然とし、

『あっ!まだ、営業時間前やけど気にせんでえぇ~よ、

体調が悪い時は御互い様やし、行き倒れられたら寝ざめ悪いから、

ゆっくり体、休めて行ったってな』と言われて、我に帰る。


そして僕は、何時もの様に時計に目をやり、残念な事に気付いた。

其処にあったのは、『ペアなの!』と、

彼女から、誕生日プレゼントとして貰った「対となる腕時計」。

僕は溜息を吐きながら「未練がましいな」と、それを腕から外し、

僕より彼女に似合っていた腕時計の、

少しカジュアルなデザインの文字盤に目を向ける。

その時計の針は、午前8時を指していた。

店内に掲げられた蔟不動産の鳩時計も8時で、

土日の営業時間は、「午前10時~午後8時」となっていた。


僕は、休日の時間の感覚に馴染めず、

社畜的な普段の生活リズムを崩せなかったらしい。

「いや…違う……。

僕は、同じシュアハウスに住む、住人全てに会いたくなくて…

人が起き出す前に、家を出たかったんだ……。」

僕は、無意識とは言えど、馬鹿みたいに、

何時もの通勤時間通りに家を出てしまっていた事に、

今更ながら気が付いて、

自分に「小心者め!」と、心の中で悪態を吐いた。


悪態を吐いてみれば、更に自分の中で実感がこもる。

「実に本当に、小心者で臆病者だな……。」

残念過ぎて、僕から溜息が洩れ、零れ落ちる。

僕は俯き、暫く目を閉じ、自己嫌悪に陥り泣きたくなった。


の・だ・が!此処で泣く訳にはいかない。

僕が必死で涙を堪えていると、

『良かったら、コレもど~ぞ!使ったって』との声、

声に反応し、僕が顔を上げると、蔟不動産の蔟さんから、

店の自動ドアと同じ植物がデザインされたハンカチが、

目の前に差し出されていた。、

僕が中々受け取れないでいると、ハンカチは蔟さんの手で、

僕の頭の上に載せられた。


『ウチの店、初回の御客さんにハンカチプレゼントしてんねん。

不動産関係に用事がある時は、よろしく頼むで』と、

蔟さんは、屈託のない笑顔を僕に向けてくれる。

僕は蔟さんの顔を見て、迷惑を掛けてしまっている蔟さんへ、

心から詫びるつもりで、

『どうもすみません…ありがとうございます……。』と言った。

言った後、僕は急に恥ずかしくなって俯き、

上目づかいで、蔟さんが出してくれた酢昆布の山を眺める。


所で僕は「大量の酢昆布と飴を恵まれてしまう様な

酷い顔色をしているのだろうか?」と、気になった。

近くには鏡が無く、僕自身も鏡は持ち合わせていない。

仕方なく、ここ数日の事を振り返って思い出し、

「そう言えば…彼女と別れた日曜から今日、土曜日まで、

ちゃんと食事取って無かったな」と、思い至る。

こうして僕は、酢昆布に手を伸ばし、

その山の一番上にあった1枚を口の中に放り込んだのだった。


強い酸っぱさで、目尻に涙が滲んだ。

僕は貰ったばかりのハンカチで涙を拭い、蔟さんを呼び止めて、

『ちょっと時間が早いのは知ってますけど、出来れば今から、

駅の近くで借りられる安めの物件を紹介して下さい!』と

まだ、涙目な状態のまま御願した。

蔟さんは嫌な顔一つしないで『えぇ~よぉ~、予算は?』と、

タブレットPC片手に、僕の目の前の席に着いてくれた。


蔟さんは予算を訊いて、『少なめやね』と言い。

タブレットに、

予算を少しばかり超える物件情報のページを開いたまま、

『預貯金も少ないんか?そやったら、ちょっと待っててな』と、

少しの間、席を外して、

『最寄駅徒歩7分、敷金無し、4万9千円どや?』と、

紙の資料を持って来た。


僕は、タブレットに表示されたままの物件情報と、

紙の物件情報を見比べて、

『えぇ~っとぉ~…訳有り物件ですか?』と、訊くと、

蔟さんは『ん?』と、可愛らしく少し首を傾げ、

『表示義務がある限り内での、事件事故は無いよ』と、言う。

「…怪しい……。」と、僕は正直に思った。


バスとトイレと洗面所が一緒の3点ユニットでも、

バスとトイレが一緒の2点ユニットでも無く、

バスとトイレが別なセパレートの上に、

その間には、脱衣所として使える洗濯機スペースが、

キッチリ確保された洗面所のある物件……。


蔟さんは『ソコがセールスポイントやのよ』と言い。

『独り暮らしやなかったり、お客さん来た時とかにな、

トイレに行く時とか、風呂の出入り時とか、

かち合うリスクがあるんやけどね、

ユニットバスみたくに、誰かが風呂に入っている時とか、

トイレに入れないなんて事もあらへんのよ』と言う。

しかも、ワンルームではなく、

築30年、9畳のLDKと6畳の和室と言う1LDK!

コンビニも郵便局も無い、田舎の最寄り駅徒歩7分ではない。


僕は、「電気・ガス・水道」等の光熱費と、

TVは購入しない方向で、NHKのを節約するとしても、

外せない携帯やPCの「基本料金・通信料」、

生活に必要で、購入しなければ生活に不便な家電、

窓の数だけのカーテンかブラインド、物干し竿、

タオル、トイレットペーパー、箱ティッシュ、

ラップ、キッチンペーパー、鍋釜食器等のキッチン用品に、

調味料の購入費用、食費&雑費に、今回の引っ越し代金を計算し、

築年数+20年、2点ユニットバス、ワンルーム9畳、

敷金要相談、礼金は5万なので、家賃も5万な物件と比べる。


どんな「おまけ」が付いて来るか分からない安値を取り、

挑戦者となってみるか?

確実そうな安全牌を選ぶかは、僕の自由!

僕の決断に掛かっているが……。

正直、結婚するつもりだった恋人に、

給料3か月分のプラチナリングを贈った今月、

贈った翌日に僕が捨てられ、送ったリングは返還される事も無く。

普通に、散財しただけで終わたな、世知辛いマジな現実。

シュアハウスの家賃は、契約満了までの期間中は、

支払い続けなくてはならず、あと9か月残っており。

敷金無しのリスク、修繕費に幾らか取られる可能性もある。

更に、其処に引っ越し代と、値段不明の仲介料、

初回、転居先に払うお金を考えると、

選択の余地が無い気がするのは、僕の気の所為だろうか?


僕は大きく溜息を吐き、

『裏野ハイツの物件だけ、見せて貰っても良いですか?』と、

蔟さんに言ってみた。

蔟さんは営業スマイルではあるのだろうが、優しく微笑んで、

『仕方ないなぁ~、

モーニング食べに行く序に連れて行ったげるわ』と、

車を出してくれた。


因みに・・・

『モーニングを食べに行く序』とは、冗談かと思ったが、

ガチの本気で、蔟さんは牛丼屋に僕を連れて行き、

『株主優待券持ってるから奢ったげるわ』と、

牛丼大盛りの朝定食を奢ってくれ、

彼女も同じ物を注文し、僕の目の前で軽く間食してくれた。


其れから連れて行かれた「蚕葉町の裏野ハイツ」、

「表札等にて名前を出さない」と言う。

理由も分からない、謎の暗黙のルールはあったものの、

2階建て1階3戸、計6戸の静かな佇まい。

玄関東向き、ベランダは西側、2階の角部屋、

203号室の部屋の雰囲気は、明るく清潔感漂う、

「絶対、訳あり物件でしょ?

こんな部屋が、4万9千円である訳が無い!」と、

叫び出したくなる様な、素敵で魅力的な物件だった。


そう、そんな物件だったのに僕は、

定食屋で奢って貰い、

朝食を食べながら引っ越しの理由と、愚痴を訊いて貰い、

長年の友達の様に仲良くなってしまった蔟さんの、

『此処は、桑原クワハラ佳土ケイト君の為の物件やと、

ウチは思うよ!なぁ?佳土くん?

直ぐにでも、契約したくなる物件やろ?』と、

此処で蔟さんに、初めてフルネームで呼ばれた僕は、

軽いボディータッチと言うスキンシップと、笑顔に負けて、

蔟不動産の営業時間が始まる前の時間、角部屋の特権で窓が有り、

初夏の日差しの外からの照り返しが入って明るい、

リビングダイニングキッチンの床にて、

用意周到に準備された契約書に判を押してしまったのだった。

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