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99、ラストドール

 

 白いリボンは少女たちの間に急速に広まっていった。

 まるで春先の公園で可憐な花をつける雪柳の枝のように、ベルフォール女学院の暗い街角が純白に華やいでいったのだ。

「私、葉子の笑顔が見たい!」

「私は一条先輩に・・・告白したい」

「うち、大きな声で笑いたいわぁ」

 生徒たちの望みは様々である。

「私はもちろん、月乃様の笑顔のためよ」

「日奈様を応援するわ! 学園の明るい未来のために!」

「戒律と戦いましょうっ」

 南大通りのカフェテラスは大盛り上がりである。

 今まで天罰に怯えながら懸命に戒律を遵守してきた生徒ほど、戒律に逆らって行動を起こした日奈様の勇気を称えてセーヌ会に協力的になっているから不思議なものである。彼女らには民衆を導く自由の女神が必要だったのであり、戒律への不満と恐れは噴出口を探して地下をうごめく溶岩みたいなものだったのだ。


「月乃様・・・」

「うぅ・・・私たちはどうすれば・・・」

 ヴェルサイユ広場の噴水のそばに群れを成して集まっているのは、林檎さんそっくりの黒帽子を被っている生徒がいることから明らかなように、ロワール会ファンたちである。今日までロワール会に魂を捧げてきた硬派なお嬢ちゃんたちも、月乃様の「わたくしは皆さんの幸せを願っている」という発言により、自分自身の本当の望みについて考えるようになった。どんなに無表情なお人形のフリをしても、鏡の中にいるのは偽りきれない恋する乙女である。

「私は細川月乃様を残してセーヌ会に行くなどできません・・・!」

「皆同じ気持ちです! ですが、日奈様のお気持ちを見習うべきでしょう!」

「・・・日奈様は月乃様に恋をしておきながら、月乃様の幸せのために嫌われ役を買って出たのです」

「月乃様はそれで、幸せになれるでしょうか」

「私たちが戒律という籠の中の鳥で居続けることを、月乃様は望んでいませんわ」

「月乃様の幸せのために、まず私たちが白いリボンに着替え、自由を勝ち取らないと」

「うう・・・月乃様!」

 両生徒会長の慈愛に、生徒たちは涙した。実に苦しい選択だが、もっと苦しい選択をした月乃様や日奈様のために、ここはオトナな答えを出さなければならないのだ。



 ほんのり甘い香りの更衣ロッカーの中で、高校生モードの月乃は息をひそめていた。

「何か心当たりがあるという月乃くんを信じてみるか・・・」

「そうですね」

 ロッカーの扉にある郵便ポストの口みたいな狭い隙間から保健室を見渡す月乃は、東郷様と日奈様が席を立つのを見てホッと胸を撫でおろした。

「戒律をいじろうとすれば、集団で頭痛とか記憶喪失とか、酷ければ失踪とかが起こるかも知れません」

「し、失踪!?」

「もしもの事があったら、保科先生、よろしくお願いします」

「わ、分かった・・・できる限りの事はするよ」

 保健の先生も大変なお仕事ですわねと月乃は思った。

「桜様、月乃様がいらっしゃる場所、ご存知ないですか?」

 月乃は背筋がぞくぞくしてしまった。日奈様の声はいつもオルゴールの音色のように優しい。

「月乃様は、えーと・・・あれぇ、どこに行かれたんでしたっけ・・・う~ん!」

 ここですわよと月乃はロッカーの中で小さく手を振っておいた。

「あ、それじゃあ小桃ちゃんの場所はご存知ないですか?」

「小桃ちゃんは昨日の夜、麓の街に戻ったみたいですよ。そうですよね、保科先生」

「え? ああ、うん。次の検査までは留守だよ」

 月乃は昨夜、とある事情により林檎さんから「ありがとう」の言葉を貰い、高校生に戻ることに成功したのだ。ちなみにその林檎さんは保健室には来ていない。

「そうですか、それじゃ仕方ないですね。先生、今日はお邪魔しました。また来ますね」

「うん。その・・・がんばってね!」

「はい!」

 日奈様としゃべる時、保科先生がちょっぴり頬を赤くしているのを月乃は見逃さなかった。


「ふう、狭かったですわ」

 直立タイプの棺から目覚めたヴァンパイアのように月乃はロッカーから姿を現した。

「気持ちは分かるけど、何も隠れなくて良かったんじゃない?」

「だって、急に日奈様が保健室に来るんですもの。そんな事より先生、日奈様の前で照れるのやめて頂けます? 先生は教師ですのよ」

「わ、分かってるって。えへへ」

 楽しそうな職場である。

「失礼します」

「ひ!」

 突然新たな訪問者が来た。おそらく会議が終わるのを廊下で身を潜め、待っていたに違いない。

「ど、どうぞー」

 月乃がロッカーに隠れるより早く、先生が来客を入れてしまった。

「失礼します」

 林檎さんだった。彼女は更衣ロッカーに体の右半分を突っ込んで人体模型のフリをしている月乃にすぐに気付いた。

「月乃様、こんなところで何を? 不気味なのでやめて下さい」

「べ、別に・・・深い意味はないですわよ」

「大変な時期なのですから、しっかりして下さい」

 ごもっともである。

 ロッカーから出て来た月乃がベッドに腰かけると、林檎さんはなぜか保科先生ではなく月乃のほうに体を向けて診察椅子に座った。林檎さんは何も言わず、無表情な小顔を帽子の下でちょっぴり俯けたままだった。月乃は林檎さんの気持ちを察し、いつもよりちょっと優しい声で彼女に尋ねることにした。

「林檎様」

「はい」

「わたくしに何かお話がありますの?」

 林檎さんは可愛い唇をきゅっと噛んでさらにうつむき、しばらく間を置いてから小さい声で「ええ、まあ」と答えてくれた。

「それでしたら、どこか広くて爽やかなところに行きましょう」

「そうですね」

 若干保科先生に失礼な事を行って、二人は保健室を後にした。




「白いリボンが流行しています・・・」

 夕暮れ時の静かな風が、二人の髪を優しく撫でていく。

「そうですわね。ここからだとよく見えますわ」

 二人は北山大聖堂の見晴台から学園を見渡した。

 熱せられたビードロ細工のような西の空の色は、月乃の頭上に広がる透き通った浅葱色とみずみずしく溶け合って、まるで真珠のような美しさである。

「それで、お話って何ですの?」

 月乃はささやくようにそう切り出した。喜びと悲しみが熱く渦巻いているはずの大聖堂広場上空を、白いハトたちが音も無くゆっくり旋回している。

「昨晩・・・小桃にも相談した事なのですが・・・」

「あら、小桃さんに? 何を相談しましたの?」

 月乃は何も知らないフリである。

「私は・・・どうすればいいのだろうか、と」

 林檎さんは言葉を選んでいた。昨夜この場所で彼女はもっと赤裸々に自分の悩みを月乃に吐露していたのである。

(しょうがないですわね・・・)

 月乃は銀色の手すりにもたれ掛かり、一息ついてから言葉足らずな林檎さんに助け舟を出してあげることにした。

「桜様の事が気がかりですのね」

「え・・・」

「あなたの妹の桜様はきっと、セーヌ会の下で暮らすほうが幸せですわね。あなたが黒いリボンをつけて近寄るだけで桜様は緊張して怯えながら笑顔を隠す、それに胸を痛めてるんでしょう?」

 まるで本物の女神様か司祭のように自分の本心を見抜かれて、林檎は動揺した。

「こ、小桃から聞いたのですか?」

「いいえ。わたくしは小桃さんと会った事も、電話でしゃべった事もありませんわ」

 事実である。

「もしも自分がセーヌ会に行くと言ったら、月乃様はどう思うだろうか・・・小桃さんに相談したのはきっとこんな感じですわね」

 林檎さんは返事をせず、月乃に背を向けた。夕日に照らされる林檎さんの細い肩に月乃はシャボン玉でも飛ばすようにふんわりと温かい声で続けた。

「それで、小桃さんは何と言ってましたの?」

 林檎さんが肩を震わした。

「月乃様は・・・そんな事で怒るようなお人では無い、と」

 泣き出しそうな声だった。

「あら、正解ですわよ。それ」

 月乃は昨夜、林檎さんに相談された後もここに残ってずっとこの学園の事や自分の事、そして日奈様の事を考えていたのだ。月乃にもう迷いはない。

 林檎さんはしばらく涙をこらえてハムスターのように小さくなっていたが、やがて急に振り返り、月乃に掴み掛かった。

「このままでは月乃様はロワール会と戒律を終わらせた歴史上の汚点になってしまう!」

 林檎さんの帽子は月乃のおでこにぶつかって足元にポトリと落ちたので、桜様によく似た可愛いお顔が丸裸である。林檎さんの目が思っていたより充血し、潤んでいたので月乃はドキッとした。

「そんなのあんまりだ!! 月乃様はいつだって私たちの憧れで居続けて下さったのに、最後は独りぼっち、敗軍の将になるなんて、間違っている!」

 こうしている間にも林檎さんは人前で喜怒哀楽を表現した罰を受けている。月乃のように小学生に変身させられるわけではないが、代わりに視界に妙なものが映り込むのだ。これくらい顔をくっつけないと、宙に浮かぶ果物が邪魔で月乃の顔が見えないのである。

「私はあなたを裏切れない!! 月乃様という最高のお嬢様を見捨てて、自分たちだけ幸せになるなどっ!! ありえません!!」

 いつもクールな林檎さん。月乃に唯一嫌味を言って私生活を諫めてくれる林檎さんが今、意地とプライドを燃やして線香花火のように熱くスパークしながら月乃に胸中をさらけ出してくれた。林檎さんの熱い友情は、昨夜小桃状態の時にいっぱい聞かせてもらったので月乃もよく分かっていた。

「いいんですのよ、林檎様」

 月乃は小柄な林檎さんの髪をそっと撫でてあげた。

「林檎様の性格の本質は双子の妹の桜様と一緒のはずですのに、あなたは努力でここまで来ましたのよ。もう十分頑張って下さったから、幸せになっていいんですのよ」

「な、ならば・・・月乃様もご一緒に!!」

 月乃はポニーテールを揺らしてそっと首を横に振った。

「私は硬派なお嬢様を目指した皆さんの最後の夢ですわ。最後の一秒まで、美しい人形で居続けますの」

 これは幼い頃からクールで無表情で完璧な女性を目指して生きてきた月乃自身への誠意でもある。本当はすぐにでも日奈様の元へ駆け寄り、お友達ライフを送りたいが、月乃は最後に意地を見せなければならないのだ。

「セーヌ会に行けばリリー様も待ってますわ。桜様やリリー様と、幸せに過ごすんですのよ」

 林檎の温かいほっぺを伝う涙を親指でそっと拭った月乃は、そのまま手をゆっくり下げて彼女の襟元の黒いリボンに指を掛け、優しく引いたのだった。

「今までありがとうございます、林檎様。あなたはもう自由ですわ」

「あっ!!」

 黒いリボンはするりとほどけて林檎さんの襟元を離れ、月乃の指先で風に泳いだ。

「つ、月乃様・・・月乃様・・・」

 林檎さんはしばし声にならない声を出して震えていたが、やがてぎゅっと目を閉じ、月乃の手を握った。

「月乃様のために・・・最高のアールグレイをご用意してお待ちしております!! 全てが終わったら・・・またお茶会をご一緒させて下さい!!」

 林檎さんはそう言い残して帽子を拾い上げると、深く深く頭を下げて「失礼します!!」と叫び、泣きじゃくりながら教会堂前の石段を駆け下りていった。


「もう・・・林檎様ったら、暑苦しいですわね」

 月乃はベンチに腰掛け、夕焼けの結晶のような宵の明星が小さく瞬いているのを見ながら、ほっと一息ついた。頬を撫でる風は昨日ここで感じたものより柔らかで、心地よい疲労感が足元からじんわり上ってきた。月乃は昨夜この場所で林檎さんにお礼を言われ高校生モードに戻った後も、寮でずっと考え事をしていたため少々寝不足である。


 元生徒会長の西園寺様と東郷様は自分らの影響力を考慮して今回の騒動でリボンの色は選ばないらしいので、月乃はこの瞬間、ロワール会の最後の一人のメンバーになった。しかしこれもまた運命である。大好きな大好きな日奈様がこの学園を引っ張っていってくれるのなら、きっと素晴らしい世界になるに違いないし、月乃も最後まで硬派なお嬢様でい続けられるのだ。正直日奈様の前にいると恋心を抑えきれなくなってしまいそうなのでボロが出る前に早く自由にして欲しいくらいである。

「日奈様・・・わたくしと一緒に・・・宿題・・・」

 夕空の残照に輝く街並みを見下ろしながら、いつの間にかウトウトしていた月乃は、子供っぽく寝言を言いながらベンチの上で眠りの世界に落ちていった。



「小桃ちゃん」

 月乃は夢の中でその声を聴いた。

「寒くなあい?」

 日奈様の夢はよく見るので、月乃はその声に返事をすることにした。

「お姉様・・・ポカポカですわ・・・」

「よかった」

 月乃は先程のベンチの上で日奈様に膝枕されているようだった。空には満月が昇っている。

「小桃ちゃん、もうすっかりお姉さんだね」

「もちろんですわ・・・わたくしは・・・最高にカッコイイお嬢様ですのよ」

 日奈様の温かい手に頭を撫でられ、月乃はとっても幸せだった。

「お姉ちゃん、全部見てたよ。・・・本当によく頑張ったね。えらい、えらい」

 月乃は日奈様のぬくもりに子猫のように甘えた。月乃は独りぼっちなんかではなかったのだ。

「月乃様は、最高にカッコイイお嬢様ですよ」

 夢の中なので小桃と月乃がごちゃ混ぜであるが気にしてはいけない。月乃は小さく丸まって日奈様のスカートにほっぺを押し当てながら、ちょっと強がってみせた。

「知ってますわ・・・」

「ふふ、それは失礼しました♪」

 日奈様の優しい笑い声を聴いて身も心も安心した月乃は、また深い眠り世界に落ちるのだった。

「・・・おやすみなさい。月乃様」

 日奈様はちょっぴり前かがみになり、膝枕した月乃の顔に胸をふわっと押し当てるようにして、彼女をやさしくやさしく抱きしめたのだった。

 それが夢の中の会話でなかった事に、月乃は最後まで気付かなかったのである。

 

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