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97、いちごジャム

 

 時が来てしまった。

 優しい日奈様の作ったセーヌ会にとどめを差すのは涙が出るほど胸が痛むが、月乃はロワール会の会長として負けるわけにはいかない。セーヌ会を圧倒する素晴らしい演説をし、改めて生徒たちのハートをがっちり掴むのだ。

「よし・・・行きますわよ」

「月乃様、気合が入ってますね」

「もちろんですわ」

 ロワールハウスの玄関の鏡に勝利を誓う月乃と林檎は、髪型やリボン、スカートのプリーツに至るまで自分の身なりを完璧にしてからドアを開けた。

「月乃様ぁ!」

「おはようございます月乃様! 今日は頑張りましょう!」

「応援していますっ!」

 全校生徒の半数近くが寮の前に集合していた。想像を超える人数のお出迎えに月乃はちょっぴり気後れしたが、風を受けて回る風車のように月乃のお嬢様ハートに火が付いた。今は日奈様の事を忘れ、毅然として冷たいロワール会の姿勢を見せる時なのだ。

「皆様、行きますわよ!」

「はい!!」

 恋に負けてはいけない。月乃のお嬢様としての意地が今、1000人の少女たちの声援を追い風にして未来に進み始めた。



 一方、圧倒的に支持者が少ないセーヌ会の朝食は、窓辺の花のように静かで慎ましやかである。

「日奈様♪ 緊張してるの?」

「えっ」

 いつの間にかコーンスープを無意味にくるくるかき混ぜていた日奈は、リリーさんの優しい声で我に返った。

「大丈夫よ。私がマドレーヌ寮の会議室でやったように演説すればいいんですわ」

「そ、そうですよね」

 とは言っても日奈はリリーさんの演説を直接聴いていなかったし、演説の内容も林檎さんへの愛の告白という、奥手な日奈にはほとんど参考に出来ないものだった。巨大な大聖堂の正面ステージに立ったら、おそらく日奈は頭の中が真っ白になるだろうから、アドリブとかは一切やめて、一週間かけて書いた原稿を頼りにして今日を駆け抜けるしかない。

「私がついてますわ♪」

 まだ不安の拭えない日奈の足を、リリーさんはテーブルの下から両足でぱふっと挟んできた。リリーさんのソックスの感触がふんわり温かくて、日奈はくすぐったく思いながらも、胸をほっこりさせた。

「・・・あの、あんまりなでなでしないで頂けますか」

「あらバレちゃった?」

 油断しているとリリーさんは日奈のスカートの中にまで足を伸ばしてくる。



 ゴシック建築のベルフォール大聖堂の内部は連なった鳥かごのような不思議な形の天井なので、生徒たちの小さな話し声は遥か頭上の瑠璃色のステンドグラスに複雑に反響して客席まで降りてくる間に天使の歌声のようになっている。ちなみに上のほうのステンドグラスの模様をハッキリ見るには双眼鏡が必要だ。

「月乃様、各寮の生徒たち、順調に集まっているようです」

「分かりましたわ」

 最前列に腰かけ、祭壇の香炉の煙を浴びつつ目を閉じ、日奈様への雑念を振り払っていた修行僧のような月乃は、耳元に林檎さんの報告を受けた。ささやき声だと林檎さんと桜ちゃんの声の区別が一層つきにくい。

「・・・月乃様、たった今報告があったのですが、マドレーヌハウスの生徒が一人遅れているようです」

「あら、他は全員そろってますの?」

「いえ、セーヌ会のメンバーが一人も到着していないのでまだ時間はあるのですが・・・」

 林檎さんは月乃の耳にチューでもするんじゃないかという程唇を寄せてきた。

「実は桜なんです・・・まだ来ていない生徒は」

「あら・・・」

 ドジな妹ちゃんが行方不明らしい。



「はんぺん! ほら、掴まってぇ」

 なぜか食パンのトーストを片手に持っている桜ちゃんは、オープンテラスのパラソルの上に向かって背伸びしながら桜の木の棒を振っている。

「ほーら、はんぺーん・・・」

「桜様、何してますの?」

「わわ!!」

 桜ちゃんは食パンと棒を宙に放り出してしまったが、パンの方は無事にキャッチできた。桜ちゃんを直々に迎えに来たのは彼女の姉ではなく生徒会長の月乃様である。

「今日は大事な集会ですけど、お忘れですの?」

「も、もちろん覚えてます! でも、はんぺんが・・・」

 白うさぎのはんぺんはパラソルの上で震えていた。自分で上ったくせに下りられなくなったらしい。

 実は先程、桜はこのテラスで朝食を食べていたのだが、彼女の膝の上にいたはんぺんが、近くを通った温厚なミツバチちゃんに興味を持ち、追いかけてパラソルに上ってしまったのだ。桜が気が付いた時にはもう、はんぺんは桜の手の届かないところにいた。

「椅子に乗れば届くんじゃありませんの?」

「そうなんですけど、パンのせいで片手が塞がってて椅子を動かせないんです・・・」

「そのパンを一度お皿に置けばいいんじゃありませんの?」

「あ!!」

 桜ちゃんはみるみる顔を真っ赤にしてトーストをお皿の上にそっと置いた。人は夢中になると簡単な事にも気づけないものであるが、桜ちゃんの場合はそれが顕著である。

 靴を脱いで青銅の椅子に上った桜ちゃんは、両手ではんぺんをふわっと捕まえた。はんぺんは桜の腕の中へピョンと跳ねて飛び込み、まぁるくなった。早くも一件落着である。

「マドレーヌハウスの生徒は桜様以外揃ってるらしいですわよ。早く大聖堂に行きましょう」

「は、はい! でも、まだ朝食が残ってて・・・」

 ベルフォール女学園は食べ物を大切にする。

「じゃあ、食べて下さい」

「はいっ」

 ウサギを抱っこしたままの桜ちゃんは、申し訳なさそうに月乃を上目遣いに見ながらトーストをもぐもぐ食べ始めた。誰もいないカフェテラスで二人きり、見つめ合いながら、ウサギの耳の揺れと共にゆっくり時間が過ぎていく。ちょっぴりシュールな光景である。

「仕方ないですわね、お手伝いしますわ」

「あっ」

 月乃は桜ちゃんのトーストを指でちぎってパクッと頬張った。

 一枚の食パンを分け合って食べているこの状況に桜ちゃんはドキドキしてしまったが、顔を赤くしてボーッとしている場合ではないので、黙々と食べ続けた。

「ちょっとジャム塗りすぎじゃありませんの?」

「そうですか?」

「まあ、いいですけど」

 月乃は普段いちごジャムなどという可愛らしい調味料を利用しないので、照れ隠しにそんなことを言ってみたのだ。本当はとても美味しかったのである。



 さて、このとき大聖堂にはもう月乃と桜ちゃん以外の全ての生徒が集合していた。

(ひ、日奈様も来てますわ・・・!)

 大聖堂の北口の扉の隙間から愛するエンジェルの姿を確認した月乃はしっかりクールな顔を作ってから入場した。

「それでは、あれ・・・それでは、臨時の特別演説会を開催します」

 マイクのスイッチが分からず一瞬うろたえた林檎さんが司会である。林檎さんは結構機械に弱い。



 大多数の生徒にとってこの集会は、ロワール会への忠誠を改めて誓う場であり、セーヌ会の演説に貸す耳などないわけだが、この世一の美少女と噂される姉小路日奈様の顔や声を公に楽しむことができる珍しい機会なので、内心楽しみにしていた生徒は多い。

「ロワール会の代表細川月乃様とセーヌ会の代表姉小路日奈様のお二人が演説をされますが、どちらからになさいますか」

 林檎さんはいつも通り巨大な帽子を被っているので誰に尋ねているのかよく分からないが、とりあえず月乃が答えることにした。

「まあ、ここは姉小路様に初手を譲りますわ」

 危うく「日奈様」と言いそうになってしまったが、そこはお嬢様の反射神経でカバーした。

 が、このとき月乃は違和感を覚えたのである。

(なんだか頬の感じがいつもと違いますわ)

 図画工作の授業で手にノリが付いた時のような感覚が、月乃の左のほっぺでムズムズと主張してきたのだ。口を動かすまで気付かなかったが、ほっぺに何か付いているらしい。

 月乃は左手首の腕時計に隠された小さな手鏡を僅かな動きで一瞬で取りだし、背筋や頭を一切動かさないまま、目だけで自分の顔を確認した。ちなみにこの動きはお嬢様の基本であり、月乃は小学校を受験する時に母から教わった。

(あ!!!!)

 イチゴジャムである。

 月乃の心臓は徒競走の直前のような冷たい痛みを伴って脈打ち、全身がカッと熱くなった。

(さっきのトーストのジャムですわ!)

 いつもと違うものをいつもと違う場所で食べるからこういうトラブルになるわけである。

(なんで騒ぎになりませんの・・・?)

 学園で一番尊敬されているお嬢様が頬にジャムを付けて登場したら誰かが気付いて会場がざわつきそうなものである。

(わかりましたわ! 左のほっぺについてるから、北口から入って最前列に座ると誰からも見えないんですわ!)

 と推理したところで月乃は我に返った。今はトラブルの原因とか現状の紐解きなんてどうでも良い。とにかく頬のジャムを拭き取らなければならないのだ。

(うぅ・・・)

 ハンカチやティッシュはもちろん持っているが、このタイミングで拭き拭きしていたら確実にバレてしまうだろう。今、月乃の背中に集まっている視聴率はちょっと普通じゃないレベルなのである。

(こ、こ、こうなったら、しばらく我慢して機会をうかがうしかありませんわね)

 しかし月乃は厳しい現実に直面する。通路を挟んだ左側の席にいた日奈様が立ち上がったのだ。そりゃ自分が演説する番になったら誰だって腰上げるだろう。

 月乃は咄嗟に下を向き、顔を右に向けた。司会席の林檎さんが見える。

「り、林檎様、そのマイクを姉小路様に・・・!」

「え? はい。分かりました」

 恥をかく事なくその場を乗り切るプロフェッショナル、それが月乃である。

 しかし林檎さんからマイクを受け取った日奈様が演壇に立ったら話は別だ。余程意識して無視しない限り日奈様は確実に月乃の顔を見てくることだろう。よりにもよって日奈様にジャムを見られてしまったら、月乃は恥ずかしさのあまり卒倒して長椅子の下に潜り込んでしまうことだろう。大ピンチである。


 いっぽう日奈のほうも大変緊張していた。

(どうしよう・・・いっぱい見られてる・・・)

 マイクを受け取った彼女は、なかなか勇気が出ず演台に上れずにいた。ここに上った瞬間、日奈は今までの人生で最も多くの注目を集めることになるだろうし、そして何より大好きな月乃様に顔をじっと見られることになるのだ。

(あぁ・・・月乃様に見られちゃうぅ・・・)

 月乃様を救いたい気持ちや、戒律を変える事への使命感が、過度な緊張を前にしてそのパワーを弱めてしまっている。月乃様の前で恥をかいたら、きっとひどく動揺して原稿の字を読み間違え、同じ行を二回読み、声が裏返ったりして、ドミノ倒しのように失敗を重ねるに違いない。そんな事になったらただでさえ不利なセーヌ会に勝ち目はない。

「姉小路様、どうぞ、演台へ」

「は、はい」

 林檎さんがせかしてきた。頼りになるリリーさんは見晴らしがいいからとかいう理由でずっと遠い二階席にいるし、もう日奈はこの困難に一人で立ち向かうしかないのだ。

(ど、どうしよう・・・足が動かない・・・)

 勢いに乗っていれば本心も語れるのだが、日奈は外見以外は普通の女の子なのでやっぱり厳しい。大好きな人の前で、大勢を敵に回した戦いをする勇気を、野の花に求めるのは酷かも知れない。日奈はこのまま演説に失敗し、月乃様やこの学園を救えない運命なのだろうか。


 日奈が絶体絶命の危機に陥っているその時、妙な出来事が起こった。月乃様が急に立ち上がったのである。

「え?」

「何かしら、月乃様」

 生徒たちのささやきに気付き、日奈も顔を上げて客席に目をやった。

「うっ」

 日奈と目が合った月乃様は、ちょっぴり声を洩らして顔を赤くしながら、ほっぺに勢いよく左手を持っていった。頬に触れてペチッと音がするくらいの素早い手の動きである。

「わたくし、ちょっと御用ですわ・・・!」

 そして大聖堂の北口のほうへ駆けていってしまったのだ。


 客観的に見れば意味不明な行動であり、月乃本人も散々考えた挙句ほっぺのジャムを誰かに見られる前に拭きにいく作戦を強行しただけに過ぎないのだが、日奈の捉え方は全く違っていた。

(月乃様が・・・頑張れって言ってくれてる・・・!)

 月乃様が自分自身の頬を引っ叩いて「気合を入れて頑張りなさい。勇気よ、勇気」とメッセージを送ってくれたと日奈は勘違いしたのだ。確かに月乃は生徒会同士の争いを抜きに考えれば日奈の事を誰よりも応援しているが、日奈の想像力は大したものである。

(月乃様、私が緊張しちゃうから、わざと席を外してくれたんだ・・・)

 こういう辻褄も合うわけである。

(月乃様に助けられてばかりじゃいけない・・・今度は私が助けるんだから・・・!)

 天使の羽を得た日奈は、香炉の香りをいっぱいに吸い込んでから、演壇に上がった。扉の外で聴いてくれているであろう月乃様に聞こえるように、日奈は精一杯声を張って挨拶することにした。

「ごきげんよう、皆様。セーヌ会の会長、姉小路日奈です」

 深い星空色のステンドグラスが、生徒たちで埋め尽くされた客席に木漏れ日のような光を幾筋も落として輝いていた。

 

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