96、夢の中の姉妹
夢であることは分かっていた。
なにしろ月乃は日奈様とラブラブであり、淡いピンクとブルーの花が咲き乱れるガーデンにはソーダ水のような爽やかな風が吹いていて、二人の間の白いテーブルに置かれた小さなメリーゴーランドは、フルーティーなアールグレイの香りの中で踊りながら、軽やかな音色で異国の聖歌を歌っていた。
「あの、月乃様」
「なんですの」
月乃がちょっと念じるだけでティーカップは薄紫の綿あめに乗って宙に浮かび、口元へやってくる。月乃は目一杯カッコイイ表情をしながらクールにお茶を味わった。
「桜たちの誕生日プレゼントですけど、もう決まりました?」
「え?」
なぜ日奈様が桜ちゃんの事を呼び捨てにしているのか分からず、月乃は紅茶の香りの中で困惑したが、仲が悪くて呼び捨てにしている感じではなかった。まるで家族のようなのである。
「あの子たちから聞き出すのは大変ですね。ちょっと呼んでみましょう」
「よ、呼ぶ?」
日奈様は髪を揺らして振り返った。
「桜ぁー、林檎ぉー、下りてきなさぁい」
「え・・・」
家庭的な日奈様の声にドキッとしながら目を向けた先に月乃が見たのは、巨大なスズランの花の階段を妖精のような可憐なステップで下りてくる二人の女の子だった。年は小学校の低学年といった具合で、変身してしまった時の月乃によく似たサイズである。
「おまちなさい桜っ」
「わぁ、林檎おねえちゃんが追いかけてきますぅ!」
鬼ごっこ中らしい二人は、間違いなく月乃のよく知る若山姉妹である。桜ちゃんはますます無邪気な天使になっており、黒い帽子の林檎さんも動くフランス人形のようでとても可愛い。
「ほら二人とも、月乃様の前で走り回ったりしないの」
日奈様は聖母のように優しい声で桜ちゃんと林檎さんを呼び止め、ぼんやりと美しく輝いている白い手で二人の頭を撫でた。どうやらこの夢の中では若山姉妹は日奈様の娘か、幼い妹であるらしい。
「だってだって、林檎おねえちゃんが10数えないで追ってきたんです。ずるいんです」
「私の10秒はあなたのそれより早いんです。桜は相対性理論ご存知ないのね」
ちょっと生意気な林檎さんの声がとても可愛くて、月乃は彼女の顔をまじまじと見てしまった。
「林檎。ゆっくりゆーっくり数えれば、月乃様のような落ち着いた大人の女性になれるのよ」
「本当ですか!? 姉上!」
姉上だったらしい。
「うん、本当だよ」
日奈様が楽し気にうなずくと、林檎さんは目を輝かせて花のように笑い、ゆっくりゆっくりカウントを始めたのだった。
「私も数えますぅ!」
逃げる役のはずの桜まで一緒になって数え始めた。やっぱり仲がいい姉妹である。
「よーん、ごーお、ろーく!」
微笑ましい光景に口元が緩みかけた月乃は、表情を誤魔化すために念力で再びティーカップを口に運んだ。紅茶の香りに頭の芯から足のつま先まで包まれて、月乃はとっても幸福だった。
不意に、月乃の背後でけたたましい警笛が鳴った。
「月乃さん、今笑ったわね」
「え!?」
お巡りさんの格好で登場したのは、なんと西園寺様だった。彼女はいつも通りの無表情だが、長くて綺麗な髪が今日はとても冷ややかで、彼女をいつもよりずっと厳格な印象にしている。
「戒律を破ってしまったのね。やむを得ないわ」
「わ、わたくし笑ってませんわ!」
「じゃあ恋愛感情を抱いたわね」
「う・・・」
それは否定できない。まるで日奈様と夫婦であるかのような幸せな午後のバルコニーにキュンキュンするなというほうが無理がある。言葉を詰まらせた月乃の背後に金髪のお嬢様婦警さんがやって来て、カラフルなグミキャンディーのロープで月乃をぐるぐる巻きにしてしまった。
「捕まえたわよ、小桃ちゃん♪」
「小桃ちゃん!? な、なにを言ってますの!? わたくしは月乃ですのよ!」
「あらあら、もう皆知ってるわよ、月乃様の正体。本当は小学生なんでしょう?」
「ぎゃ、逆ですわ! 小桃の正体がわたくしですの!」
「あーら白状しちゃったわね♪」
「ひ!」
夢の中でもリリーさんの人を食ったような態度は変わらない。
月乃はリリー警部補に引かれ、フランス王室のようなエンブレムが付いた豪華な檻の馬車に乗せられた。馬がヒヒーンといなないたので、さあどこに連れていくつもりかしらと月乃は正面を向いて身構えたが、次の瞬間馬車後部の檻の部分だけが落とし穴のようにストーンと地面の裏側へ落下したのだった。
「ひぃ!」
展開にサッパリついていけない月乃はとりあえず檻にしがみついたのだが、眼下に広がった光景にすぐに息を呑むことになる。花畑の裏側は巨大なクリスマスツリーの展開図のような一面の星の世界だったのだ。月乃は名前とは裏腹に宇宙とはまったく縁の無い暮らしをしているが、ここが地球でないらしい事はハッキリ分かった。なにしろ月乃がいる檻の中は東郷様が言っていた宇宙空間の甘酸っぱい香りに満ちていたからだ。これは月乃が天罰を受けて小学生に変身する時に感じる匂いと同じである。
幸い夢の中なので窒息したり凍死したりすることはないから、景色にうっとりするだけの時間はあった。
(戒律を破って・・・宇宙に・・・来たということは・・・)
神様に会えるのではないか、そんな予感がキューピッドの矢のようになって月乃の胸にポーンと刺さった。セーヌ会の復活のせいで戒律による秩序が危機的状況にある今、夢の中で神様とコミュニケーションがとれるのであれば、それはもう運命に違いない。月乃は辺りをキョロキョロした。
が、神様らしきお姉さんは一向に現れない。
月乃は宇宙に浮かんだ檻の中でソファーに座り、流れ星を数えていたが、やがてため息をついてソファーに寝転がった。ちなみに流れ星は地球の大気との摩擦で小さな塵が燃えていく現象であるから宇宙空間では見えないはずなのに、ここではお食事タイムの鯉たちのように惜しげもなくその姿を見せてくれる。さすがは夢の中である。
「あら・・・」
よく見ると檻に使われている鉄柱には小さな字でたくさん戒律が書かれている。原文と異なり日本語で記されているあたり親切な設計だ。
「現実でも、夢の中でも、わたくしは戒律に縛られていますのね・・・」
もう少しさっきのテラスで日奈様たちとおままごとをしていたかったですわ・・・月乃は日奈様の笑顔を思い出して胸がキュッと苦しくなった。夢から覚めればもう月乃はクールなお人形にならなきゃいけない。夢の中でさえ幸せになれない境遇を月乃は呪った。
「日奈様・・・」
月乃はまるで空腹の子猫のような切ない声を出した。
「戒律なんて・・・」
胸の苦しさが目頭にぎゅっと集まって、熱い雫になって瞳にあふれた。
「戒律なんて・・・キライですわ・・・」
月乃の本当の気持ちが、彼女の瞳から零れ落ちた。涙は小さな流れ星になって宇宙の風に乗り、檻を抜け出して星座の彼方に消えていった。月乃はきっとこのままイジワルな神様が用意した戒律に囚われて生き続ける運命であり、その苦々しい想いを誰かに相談する事もできないまま、無表情な人形として暮らしていくに違いないのだ。ソファーの上でバウムクーヘンのように丸くなりながら、月乃はしくしく泣き続けたのだった。
突然の出来事である。
檻の中の月乃は打ち上げ花火の炸裂音に似た大きな音を続けざまに3回、眼下に聴いた。
「ななな、なんですの!?」
夢の中で居眠りをしかけていた月乃にとっては衝撃の出来事である。月乃は慌ててソファーから飛び降りて檻のへりに駆け寄って棒の隙間から顔を出した。
「わぁ・・・」
先ほど月乃の涙が落ちて行った先の遠い銀河の点から、ソメイヨシノに似た可憐な花弁が極彩色に色づきながらシャワーのようにぞくぞくと吹き出し、まるで虹の大河でも流れているかのような絶景を作っていったのだ。そしてその川の中央を、桃色に光る星を結んで出来たような星座の馬車がこちらに向かって駆けてきており、まるで命を与えられたクリスマスイルミネーションたちのパレードのようである。
「こ、この音・・・」
馬車はガランガランという月乃が聴きなれた鐘の音を汽笛のように鳴らしながら走っていた。月乃は小学生に変身する時、いつもこの鐘の音に包まれるのである。
「こ、こ、こっちに来ますの!?」
夢の中とは言え月乃はちょっと怯えた。花びらを舞い上げて光り輝く馬車は、まっすぐに月乃がいる檻に向かってきたのだ。
「ひ!」
鐘の音と激しい桃色のフラッシュに包まれた月乃は頭を抱えてソファーの裏にしゃがみ込んだ。
が、教室ほどの大きさがあるその馬車は無数の光によって作られていたため、檻を華麗にすり抜けて花吹雪のように月乃の体を撫でて駆け抜けたのだ。しかもどういうトリックか不明だが、檻の中から月乃だけをスポーンとさらい、自分の乗客にしてしまったのである。目を開けた月乃は、自分が檻から自由になり、虹色の子馬たちのたてがみと鐘の音色が描く螺旋状の五線譜を駆け上がっていることに気が付いたのだ。全身を駆け抜ける星の息吹に月乃は胸のドキドキが止まらなかった。ちょっぴり怖くて、夢のように美しい・・・まるで日奈様との初恋のようである。
鐘の音の馬車はぐんぐん速度を上げて回転しながら上昇していき、やがてその正面にステンドグラスのように緻密に敷き詰められた花びらの天井が見えてきた。宇宙の果てはこんな感じなのかも知れない
「ひいい!」
ぶつかると思った月乃は馬車の銀色のポールにしがみ付いた。鐘の音の振動が月乃の頬に伝わって、胸の底を震わした。
真夏のプールで深く潜水し、勢いよくザバーンと水面に顔を出した時の感覚に似ていた。
馬車は花びらのしぶきを豪快に噴き上げて青空に飛び出し、魔法が解けたように風に溶けて花と一緒に宙で散り散りになった。
「ひ!」
さっきから「ひ」しか言っていない月乃は、あまりにも美しい空の色に見とれる暇もなく、落下し始めた自分の身を案じた。だが心配は無用である。彼女の体はクレマチスによく似た24色の花たちのベッドが受け止めてくれる。
「キャ!」
地面がトランポリンのように柔らかかったのか、月乃は花たちにポヨーンと胴上げされた。そして月乃の体は次の瞬間、彼女が全く予想できない場所にすっぽりと収まって落ち着くのである。
「はい、小桃ちゃん、つかまえた♪」
「へ・・・?」
花びらの中で月乃は何者かにお姫様抱っこされていた。眩しい太陽を後光に微笑むその人はまぎれもなく日奈様である。しかも月乃はいつの間にか小桃に変身していたらしい。
「私の事は、お姉ちゃんって呼んでいいからね♪」
高校生の月乃は布団を投げ出すように上半身を起こして目を覚ました。決戦の舞台である演説会当日の朝の窓辺は、まだ深い青に沈んでいた。
宇宙を飛び回るとんでもない冒険をして最後に日奈様の柔らかい胸に抱きしめられたのだから、もう少しその幸福を味わっていても良かったのだが、不意に月乃の頭脳に訪れた衝撃的な気づきが、彼女の体を目覚めさせてしまったのである。月乃は自分の胸を触って気持ちを落ち着かせながらつぶやいた。
「もしかして・・・神様は二人いますの?」
月乃の胸の中ではまだ、夢の中で聞いた救いの鐘の音が響き続けていた。




