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92、アザラシ

 

 月乃は困るとネコのような顔をする。

「うぅ・・・」

 大通りを駆ける夜風は冷たいが、月乃の右手は春の昼下がりの紅茶のようにほっこりしていた。

「あ、あ、あの・・・」

「ん? なあに、小桃ちゃん」

「うっ・・・!」

 斜め上方から降り注ぐ陽光のような優しい声に月乃は背筋がぞくぞくして、ちょっと内股になってしまった。月乃の幼い体と硬派なハートには、日奈様の美はあまりに刺激が強い。

「あらぁ、随分大人しいんじゃない? 小桃ちゃん♪」

「う、うるさいですわ!」

「かぁわいい♪」

「うるさいですわよ!」

 流れ星のような綺麗なブロンド髪を星座の間に泳がせているリリーさんは、小学生をからかって遊んでいる。子供っぽいのはあなたのほうですわよと思いながら、月乃は不機嫌な猫の顔でそっぽを向いたが、日奈様と手は繋いだままである。


「あのあの・・・どこに向かっていますの・・・」

「晩御飯、どこかで食べたいなぁと思って。みんなで食べよ♪」

 日奈はもう、小桃ちゃんのことを小学生だからという理由で今回の騒動から仲間外れにする事は出来なかったのだ。セーヌ会の味方になれと言いたいわけで無く、大切な友達としてきちんと話しておかなければならないと思ったわけである。

 小桃ちゃんが一緒の状態で東郷様にお会いできれば幸いであるから、日奈とリリーは四番街の湖を目指してマドレーヌ広場を横切った。日奈様が行く先々には生徒が集まるから、広場はマドレーヌ寮生のみならず、様々な寮の生徒が群れを成し大混雑だった。

 堂々としているリリーと違い、ちょっと緊張している日奈は、眉が8時20分を指す時計の針のように申し訳なさそうな角度に落ちている。月乃様を救うという信念があってセーヌ会を再結成し、おまけに花のように美しいのだからもっと胸を張って欲しいところである。

 そんな日奈の前に、サクランボのように顔を赤くした見知らぬ一年生が飛び出して来た。

「すみません、ちょっとお話いいですか、姉小路様っ」

「は、はい!」

 日奈はぎこちなく身構えた。ロワール会を厚く支持する生徒だったら襲われる可能性がある。

「と、東郷様なら、湯桶とタオルを抱えて鼻歌を歌いながら、三番街へ行かれました!」

「えっ」

 協力者だった。周囲の雰囲気に負けず勇気を出して日奈に情報をくれたのだ。

「ありがとうございます。ちょうど東郷様をお探ししてたところなんです」

 月に照らされる日奈様の優しい微笑みに、一年生の少女の顔はほころんだ。実は日奈たちを応援したいと思っている生徒はたくさんいるのだが、ロワール会の正しさと美しさ、そして戒律の恐ろしさを知っているため互いに様子を見合っているのだ。

「東郷様、どこに行かれたのかしらね」

 リリーは首を傾げた。

「お風呂に決まってますわ。湯桶とタオル持ってバンジージャンプになんか行きませんわよ」

 月乃は小学生状態でも容赦ない。

「きっとシャンパーニュハウスですわ」

 グランドの向こう側にある、スーパー銭湯扱いを受けている寮、シャンパーニュハウスへはここから歩いて10分である。

「それじゃあ、行ってみましょうか♪ 着替え持って」

「そうですね」

 リリーと日奈様の会話を頭上に聴いた月乃は、自分の推理が通ったことが誇らしくてサーカスのライオンみたいな顔になったが、やがて事態の重みを知る。

「え!? お風呂に行きますの!?」

「そうよ、お姉さんたちとお風呂行きましょうねぇ♪」

 空いていた左手をリリーに握られ、月乃は保護された宇宙人みたいなポーズになった。もう逃げられない。月乃は日奈様と一緒にお風呂に入ると頭の中が南国の大晦日のカウントダウンのようにパラダイスになってしまい、理性を打ち上げ花火にして夜空に吹っ飛ばしてしまうから注意が必要なのである。

「わたわた、わたくしやっぱり帰りますわ・・・! ちょっと保科先生が腰を痛めてまして、重いものを持ってあげないと・・・」

「あーら、力持ちなのね小桃ちゃーん♪」

 リリーさんはさらに強く絡みつくように手を握ってきた。ウソがバレバレである。



 セーヌハウスに寄って着替えなどを手に入れた三人は、さっそくシャンパーニュハウスを目指した。小桃の着替えが用意されているあたりにこの学園の小学生好きの姿勢が窺える。

「見て見て! 日奈様とリリー様と、小桃ちゃんよ」

「どこに行かれるのかしら」

 バスターミナル付近で天体観測と洒落込んでいた少女たちがざわめいた。空の星より学園のスターに目が釘付けである。

「シャンパーニュでひとっ風呂ですわ♪」

「ええっ!」

 リリーは正直に物を言う。

 シャンパーニュハウスにたどり着く頃には、三人の周りには大勢の少女がくっついて巨大な一団を形成していた。安い天丼の海老天がこんな感じである。



「あ、あ、姉小路様!? リリアーネ様も!?」

 シャンパーニュハウスの陸上部の生徒は目を皿のようにして仰天したが、小学生の姿は見えていなかったようなので、月乃はピョンピョンジャンプして存在をアピールした。月乃はプライドが高い。

「突然来てしまって申し訳ありません。東郷様はいらっしゃいますか?」

「は、は、はい! つい先程お越しに」

「私たちも入浴オッケーかしら♪」

「はい! はい! どうぞ!」

 さて、ここからは脱落者の続出である。

 まず日奈様と一緒のお風呂に入るという事実を脱衣所の手前で認識した生徒たちが卒倒していき、脱衣所の入り口の暖簾にふんわり残った日奈様の髪の香りに脳をやられた生徒たちが気を失った。そして日奈様が制服を脱ぎ始めたら、もう常人の精神に居場所はない。海老天の衣だった部分は全部剥がれ落ち、三人だけが残った。今幸せそうな顔をして倒れている少女たちは、この後もれなく戒律を破った天罰により、頭痛や眩暈や物忘れに苛まれる。

(み、見てはダメですわ・・・! 耐えるんですわよわたくし!!)

 月乃は幼少からお嬢様精神を鋼のように鍛えているのでギリギリ理性を保っているが、まあこれも時間の問題であるし、そもそも理性を保てなくなったから小学生に変身させられているのだから無駄な努力である。

「ねえ小桃ちゃん」

「ひ!」

 なぜ日奈はこのタイミングで話しかけてくるのか。

「ごはん、お風呂上りでもいい? なんか、流れで脱いじゃったから」

 日奈の照れ笑いは太陽のように眩しいが、彼女の脱ぎかけのブラウスから覗く胸もアンタレスのように輝いているので月乃は目のやり場がない。

「わ、わたくしやっぱり帰りますの・・・!」

「ほぉら小桃ちゃーん、日奈お姉様のだけじゃなくて私の胸も見てごらん♪」

 アホウがうつるので見てはいけない。

 リリーに無理やり連れて行かれる形で、月乃はお風呂場に入る事になった。


 日奈様の裸を直視したらアザラシに変身させられるという厳しい設定を頭の中で作って自分を追い込んだ月乃は、洗い場の椅子に腰かけて湯けむりを大きく吸い込み、気合いを入れた。体が小さいのでちょっぴり見上げる形で目の前の鏡を見ることになるから、すぐ後ろを日奈様が通ったら即アザラシである。下を向いて髪を洗うのがいい。

「やあ、奇遇だね」

 浴場を柔らかく反響して月乃の右耳をくすぐって来たのは東郷様の声である。本当はここに三人が来ることを知っていたんじゃないかと思うような落ち着いた様子だ。

「東郷様、実は、大事なご相談が・・・」

「うっ」

 日奈様の声が自分のすぐ頭上で聞こえて、月乃は小さな体をさらにぎゅっと縮こまらせた。実はもうちょっとで「小桃ちゃん、髪洗ってあげようか?」と優しく声を掛けられる直前だったのだ。



「さあて、今日は一体何のお話かな」

 天井のライトの光を漂わせている水面が自分の鼓動でわずかに震えているのに気付いた月乃は、なんとなく心細くなって注ぎ口のライオンのたてがみに胸をペタッとつけた。勢いよく水が出ているのにライオンは少しもぶるぶる震えていないのでとてもカッコイイ。体が小学生だと感性もちょっぴり幼くなる。

「他でもないんですが、戒律と、神様についてです」

 注ぎ口のライオンのすぐ向こうに日奈様がいることに気付いた月乃は慌てて飛び退いた。危うくライオンに騙されるところだった。

「戒律を廃して、天罰もやめて貰えるよう神様に交渉するやり方、教えて下さりません?」

「うっ」

 リリーは真面目な話をしながら小桃を後ろからふわっと抱きしめた。天然温泉のちょっぴりトロっとした泉質が、月乃の背中を滑るリリーさんの胸の感触を少々いやらしくした。

「神様についてか。既にキミたちにしゃべった事以上の情報は特にないよ。私にも難しい問題だからね」

 月乃は真面目に話を聞くためにリリーさんの腕の中から泳いで抜け出し、再びライオンにくっついた。東郷様の話は非常に重要である。

「もし戒律を撤廃してしまった場合、どんなことが起こるんでしょう」

「分からないね。未だかつてない規模の天罰がくるかも知れないし、案外何も起こらないかも知れない」

 きっと全員アザラシですわよと月乃は思った。本当に神様を怒らせたら、小学生にされるだけでは済まないに違いない。

「ねえ東郷様ぁ。神様は交渉が通じる相手かも知れないと東郷様はおっしゃってましたけど、本当ですの?」

 リリーは泳いで小桃の背中に追いつき、また胸を押し当ててきた。こんな大人になってはいけない。

「私は彼女を我々と同じような人間だと思っている。だから話し合いが通じない相手だとは考えない」

 リリーさんの温かい体にむぎゅうっとされた月乃は目を見開いて振り返り、背後の彼女を威嚇したがあまり効果がなかった。

「どうやって連絡をとりますぅ? 電話番号は分かりませんわよ」

「こちらから交信するのは無理かも知れないが、向こうからのアプローチはイヤでも来るわけだから、来た時にコミュニケーションをとる、それくらいだね」

 確かに戒律を破った時、鐘の音や謎の甘い香りと共に気配が迫ってくるのを月乃も感じる。案外神様はそばで見ているのかも知れない。

「確かに戒律を破った時、不思議な甘い香りと一緒に気配が迫ってきますわね。神様は案外、そばで見てるのかも♪」

 リリーさんと同じことを考えている自分がちょっと恥ずかしかったが、そんなことより月乃は時折自分に視線を向けてくる天使の存在への対処に一杯一杯である。日奈様も小桃が大好きなのだ。

「そういえば東郷様、その甘い香りっていうのは一体何なのですか?」

 日奈は例外的に天罰を受けない特別な体質なので神様から接近されたことがないのだ。

 東郷様は早くからこの香りについて研究しており、匂いがそっくりなラズベリーのジャムを生徒にプレゼントして反応を確認し、天罰を受けたことがあるかどうかを探ったりしてきた。

「おそらく、香料にも使われるギ酸エチルという化合物だ。ラズベリーのような甘酸っぱい香りだが、宇宙空間、特にこの天の川銀河にたくさん漂っているとされる物質さ」

 どうやら神様はこの銀河系にいるらしい。実に細かくて有効なヒントである。

「魔法のカーペットに乗った女神様が空の彼方からぬうーっと降りてくる時、あの香りもついてくるのさ」

「なるほど・・・。でも、どんな人なのか、想像できませんね」

「うん。どうしてこんな戒律を無理やり少女たちに守らせているのか、それが分からない事には話し合いなんて上手くいかないだろう」

 月乃はライオンに寄りかかりながら真剣なネコの顔をして東郷様の目を見ていたが、視界の隅に裸の日奈様がちらほら見えており、正気を保つのが困難になってきたので自分も話し合いに参加してみることにした。

「そういえば、あれはどうですの。鐘の音」

「鐘の音?」

「ガランガラーン、ですわ」

 東郷様はまっすぐに小桃の瞳の奥を覗き込んで、やがて笑った。

「小桃くん、のぼせちゃったかな。少し涼んでくるかい」

「え」

「あーら、それならリリーお姉様と露天に行きましょうネ」

「ええ・・・」

 なぜか話が通じず、突如シュールなことを言い出したと思われたらしい。ちょうど熱くなってきたところだったし、これ以上日奈様の近くにいたらゆでダコになってしまうので、良かったのかも知れない。

「じ、自分で歩けますわっ」

 月乃はリリーの腕の中から逃れ、タオルで身を隠しながらぺたぺたと露天風呂に向かった。

(東郷様ともあろう方が、鐘の音を知らないはずがありませんのに・・・)

 重いスライドドアの隙間から一気に全身に流れ込んできた冴えた空気に頭を冷やした月乃は、先程の東郷様の反応を思い返していた。



「可愛いね」

「はい。本当に・・・」

 小桃ちゃんの小さな背中を見送った東郷様と日奈は、聖母のような眼差しである。

「小桃ちゃんにはどんな話をするんだい」

 日奈は少し天井を仰いでからつぶやくように答えた。

「・・・ロワール会のかっこよさについて、教えてあげたいと思います」

「おや、意外だね。勧誘しなくていいのかい? 小桃ちゃんを慕う子は多いから、セーヌ会のメンバーが一気に増えるかも知れないよ」

「いいんです。ただあの子の前で隠し事をしたくなくて」

 そっと微笑んだ日奈はちゃぷんといわせて自分の肩にお湯を掛けた。

「月乃様たちは最高に美しくてクールで無表情なお嬢様になろうとしている。私たちはお節介にも月乃様たちに笑顔になって欲しいと思っている。そういうちょっと可笑しな戦いを、真面目にやっていた世代があるんだって、小桃ちゃんが大きくなった時、周りに話してくれたらいいなって、思ってるんです」

「そうだね」

 ライオンが景気よくジャボジャボ吐くお湯の音が二人の間の静寂を温かく満たしていった。

「立派になったね、日奈くん」

「えっ」

 日奈は顔を赤くしてもじもじした。自分の外見でチヤホヤされる時と違う、重くて澄んだ誉め言葉だった。

「・・・戒律の廃し方に加えて、もう一つだけ課題があるんだが」

「課題、ですか」

「うん。ロワール会の月乃くんのことだ」

 日奈はなんとなくお湯の中で正座した。

「もしこのままキミたちの想いが生徒たちの間で広まり、少女たちが本当の青春の在り方、真に素敵なお嬢様とはどんなものか考え直し、大勢がセーヌ会の味方になったとしても・・・」

「しても・・・?」

「・・・いや、この先は自分の目で見たほうがいいかな」

 東郷様はイジワルである。

「とにかく、これは夢と夢のぶつかり合いなんだ。キミはもう後戻りできない下り坂を、不思議絵の中のように転げ上がっていっている。諦めるにはもう遅い。キミの想い人の姿と心を、どうか最後まで見失わないでくれ」

 東郷様は誰よりも深く日奈の恋を応援してくれているのだ。

「はい・・・」

 日奈は東郷様の隣りに優しく寄り添い、おでこを東郷様の肩につけるようにしてお辞儀をした。

「ありがとうございます」

「く、くすぐったいな」

 さすがの東郷様も日奈の天然小悪魔挙動にたじたじである。


 日奈が露天風呂へ行った後、東郷様はライオンにもたれ掛かって一人でじっと考えた。

「鐘の音・・・か・・・」

 そっと目を閉じた東郷様は、月乃と同じように鳥かごの中で囚われていた自分の幼馴染の元生徒会長の寂し気な横顔を思い出していた。

(美冬・・・)

 東郷様が西園寺様のことを想わない日はない。なんとかして彼女の笑顔を取り戻そうと、あらゆる努力をしてきた東郷様の一つの結果がまもなく出ようとしているが、上手くいくか否かは定かでない。

 切なくてうっとりするようなその姿の向こう側に、スライドドアが開く音を聞いた東郷様が目を開けると、目の前で威勢のいい湯しぶきがあがり、湯波と一緒にアザラシのような子が泳いでやってきた。慌てた様子の小桃ちゃんの顔は真っ赤である。

「どうしたの、小桃ちゃん」

「うう、わたくし、アザラシですわ・・・」

 ライオンの陰で俯き、小さな両手で顔を隠した月乃は、恥ずかしさのあまり足をバタバタ動かした。露天風呂で日奈様と何かあったらしく、そのウブな様子を見た東郷様はくすくす笑った。

「うう・・・こんな事してる場合じゃありませんのにぃー・・・!」

 全くである。

 

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