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9、ハッピーサンデー

 

 翌日は幸い日曜日だった。

「朝だよ、お嬢様」

「・・・ほっといてください」

 月乃は今日中に元の女子高生の体に戻ることが出来れば平日の授業にも間に合うため色々試してみるべきなのだが、本人がすっかりやる気を無くしており、保健室の白いベッドの上でうつぶせになったままいじけている。

「どうせわたくしなんて、一生小学生のままなんですわ・・・」

「そう言うなって・・・私も協力するから・・・」

 昨夜二人は月乃の身に起きた現象についてあーでもないこーでもないと深夜まで議論を交わしていたのだが、その結果月乃は細胞の構造と機能を無視して若返ってしまう症状がいかにありえないか、そして元のサイズに戻ることがどれほど困難であるかを知り、一方先生はこの小桃ちゃんが少なくとも高校生の思考力を持っている少女であることを確信したのだった。

「早く起きな」

「わたくしはこのまま保健室のヌシになりますわ・・・」

「今なら朝食に私のパンを分けてあげるけど」

「地縛霊ですのよ。もうここから動きませんの」

 ヤケになった月乃は非常にめんどくさい女である。

 ブラウスに白衣を羽織った先生は口にチョココロネをくわえて、うつぶせに眠る月乃の頬にその先っちょを寄せたが、月乃はチラッとコロネを見ただけで、「ふん」と言って窓の方に寝返ってしまった。月乃を手懐けるには安い菓子パンひとつでは足りないらしい。

「パンで思い出したけど、バスケ部の子からこんなもの貰ったんだよね」

「なんですの・・・」

「人気のパンの引換券。今日の昼は美味しいパン食べに行こっ」

 先生に髪をポンポンと撫でられた月乃はしぶしぶ体を起こした。ちなみに高校生の時の月乃はかっこいいポニーテールだが、小学生モードの彼女はなんかもう面倒なので長く柔らかい髪をそのままストレートにおろしている。


 そもそも体が小さくなること自体ありえないのだから、元に戻る方法も常識にとらわれず探したほうがいいのかも知れない。二人はゆるい石の階段を息を切らせて上りながら、月乃が小学生になってしまった現場と思われる北山教会堂に向かっていた。

「そういえば先生、昨日の電話で西園寺様はなんとおっしゃってましたの?」

 高校生の細川月乃がこの世から一時的に消滅しているため、先生は昨夜月乃が暮らすロワールハウスに電話を入れてくれたのだ。

「細川さんが少し体調を崩してるので今日はこちらで安静にさせますって言ったら、至ってクールな声で分かりましたって言ってたよ」

「そうですの・・・」

「会長さんのためにも、早く元の体に戻れるように全力を出さないとね」

「そうは思いますけど、昨日みたいなことはイヤですのよ・・・」

 昨夜先生は検査と称して執拗に月乃の体のチェックを迫ったのだ。

「い、いや、忘れてるかもしれないけど私内科医だからね。あくまで君の身を案じて・・・」

「先生が不埒な女性であることはバレてますのよ」

「あのね、私は高校生の女の子が好きなんであって、小学生にはぜーんぜん興味ないの」

「怪しいものですわね」

 月乃は先生を見上げてじっと睨みつけた。小学生に見えるが中身は高校生のお嬢様なので睨みつける威圧感はそこそこである。


 北山教会堂は昨日の出来事が嘘のように優しい時間の中で静かに佇んでいた。

「こっちですのよ」

「あー・・・先生もうつかれた」

「置いていきますわよ」

 ちなみに月乃はサイズが合う靴がないため、先生が保健室前のテラスで使っていた大きなサンダルを借りて歩いており、まるでペンギンのようである。

 昨日に比べて倍の広さに感じられる教会堂を少し怖がりながら月乃は歩き回り、自分がめまいに襲われた時の状況をなるべく細かく先生に説明しながらその時の再現なども試みてみたが、結局月乃の体の変化に関する手がかりは何ひとつ掴めなかった。あわよくば突然ボワーンと白い煙に包まれて体が戻ったりしないかと期待していた月乃はますます落ち込んでしまった。

「んー、ベルフォール大聖堂にでも行ってみる?」

「あの辺りは人が多くてまともに調べられる気が致しませんわ・・・」

「ま、とりあえずお昼にしよっか」


 すっかりブルーな気分の月乃を連れて先生が向かったのは、美味しいと噂の北大通りのパン屋さんである。お腹がいっぱいになると思考力が落ちるというが、行き詰まった時に気分を変えることもまた重要だというのが保健の先生の考えである。

 図書館付近のお洒落なレンガの街並は裏道が多くて訳が分からないので、ひとまず二人は西大通りに出たのだが、保健室がある第4学舎の近くを通りかかった時に事件は起きた。咲き匂う薄紫の藤棚の陰に圧倒的な存在感を放つあの少女が立っていたのである。

「う・・・!」

 月乃は慌てて先生の後ろの隠れて白衣をぎゅっと握った。

「お、日奈ちゃんだ。今日も相変わらずお美しい・・・。日奈ちゃーん!」

「なななんで呼ぶんですの!?」

「え・・・まずかった?」

 月乃は日奈の前では普段の実力の100分の1も出せないので、逆に言えば日奈とのコミュニケーションにはエネルギーを100倍使ってしまうということであり、生徒の体調管理を支える立場である保健の先生が、無神経にこのような危険な場面を作ってくれちゃって月乃は遺憾である。ここで月乃がぶっ倒れたら先生のせいなのだ。

「こんにちは先生。それから、小桃ちゃん」

 やってきた日奈はやっぱり笑顔で月乃に挨拶をしてくれた。月乃は恥ずかしくって先生の背中におでこをぴったり付けたまま動けなかった。ちなみに日奈の髪は高校生モードの月乃と同じポニーテールである。

「日奈ちゃん、お散歩中?」

「はい。小桃ちゃんの顔を見にきてしまいました」

 月乃は肩をビクッとさせた。

「小桃ちゃん、今日の体調はどう? 大丈夫?」

 月乃は爽やかなレモングラスの香りがする先生の白衣に顔を押し付けたまま素早く二度うなずいた。

「あはは・・・小桃ちゃん少し照れてるみたいで」

 余計なことを言ってくれた先生の脇腹を月乃はきゅっとつねった。

「そうだ、日奈ちゃんがよかったら、これから3人で一緒にパン屋行かない? 店内で食事できるらしいんだけど」

「一緒に、ですか?」

「うん」

 日奈は少し悲しそうな顔でうつむいた。

「えーと、私は遠慮しておきます。宿題がありますし、今日はあまり外にいられないんです」

「そっかぁ。それじゃ、また今度行こうね」

「はい」

 実は日奈は小桃ちゃんと一緒にお昼を食べに行こうと思って保健室に向かっていたので、パン屋に誘ってもらえるなら願ったり叶ったりであるが、人が多いところが苦手な日奈はもっと静かなお店に行くつもりだったから、つい断ってしまったのである。

 日奈の背中が見えなくなってから、先生は月乃に言った。

「君はいま月乃ちゃんじゃなくて小桃ちゃんなんだから、恥ずかしがらないで堂々と日奈ちゃんと触れ合っていいんじゃないの?」

「そういう問題じゃありませんのよ・・・。今の私が感じている胸の痛みは、細川月乃が感じている本物の痛みですから・・・」

「なんだその・・・哲学みたいなの」

「哲学なんて、生まれる前に知っていたことを思い出すだけの学問ですのよ」

「元の体に戻れればベストだけど、小桃ちゃんのままでもいいんじゃないの」

「全然よくないですわ・・・」

 道の真ん中でおしゃべりしているうちに、姉小路日奈様を追っかけてきていた生徒たちの一部が保健の先生と睦まじくする幼い少女を見つけて集まってきてしまった。

「先生! その子だれですか?」

「親戚の子ですか? それとも、妹さん?」

 生徒たちはロワール会の月乃が目の前にいると知らないので戒律のことなど気にせず少々笑顔が多めである。

「ああ・・・この子は私が担当する患者さんで、しばらくここで預かることに」

「かぁわいい!」

 月乃は「素敵ですね」とか「かっこいいですね」とかは言われ慣れているのだが、「かわいい!」などと叫ばれたことが無かったのでどんな対応をしていいか分からず、先生の周りをメリーゴーランドのようにぐるぐる回って生徒たちから逃げた。好奇心旺盛な子犬から逃げるネコちゃんがこんな感じである。


 さて、厄介な追っ手から逃れた月乃は先生と共に北大通りのパン屋さんに到着した。

 ちなみに北大通りと言った場合は学園の中央にそびえ立つベルフォール大聖堂から北に伸びていく大通りのことであり、賑やかなカフェが並ぶ南大通りに比べると静かで真面目な店が多いエリアなので、明るい雰囲気のこのパン屋さんだけが妙に浮いている。

「なんだか今日に限って随分混んでますわね・・・」

「んー、日曜くらいみんな私服になればいいのに」

 先生がまた変なことを言っているので月乃はネコのような顔をして先生の腰の辺りをパフッと叩いておいた。

 ホットカーペットの電熱線みたいな形の行列の中で二人が順番待ちをしていると、月乃は後方に見覚えのある人物を見つけてしまった。その少女は日奈様と違って会話に全くエネルギーを要しないお手軽な友達だが、小学生モードで会うのは初めてなので月乃は少し緊張してしまった。

「どうかした?」

「・・・知り合いがいますわ」

 月乃が先生の陰に隠れながら様子を伺うのは、同じクラスの若山桜ちゃんである。あんなに小柄で可愛らしいと思っていた彼女が、今の月乃にはずっと年上のお姉さんに見えてしまう。

「この列は特製サラダブレッドの列になりまーす。ただいまから整理券をお配りしまーす」

 この店も例にもれず生徒が経営しているのだが、今日は日曜日ということもあって一層学園祭みたいな雰囲気が漂っている。

「こんにちは先生、券をどうぞ」

「あ、引換券はもう持ってるんだけど」

「そちらは無料引換券ですので、この整理券と一緒にお持ちください」

「なるほど」

 売り切れ必至の人気商品のようだが、月乃は少し引っかかることがあって整理券を配る2年生と思しきおねえさんに声を掛けた。

「あの、お訊きしたいことがありますの」

「はい。君にも整理券」

 店員の生徒は券を渡しながら月乃のあごをこちょこちょくすぐってきた。目の前の小学生がロワール会の新星とも知らず舐めた真似をしてくれるものである。

「あ、あの、特製サラダブレッドってどんなパンですの」

「野菜をたっぷり挟んだクロワッサン風のパンだよ」

「パセリは使ってますの?」

「うん! パセリとセロリが中心の大人の味わいだね」

「うっ・・・!」

 誰にも言っていないことだが、月乃はパセリみたいな香りが強い野菜が小さい頃から大の苦手である。

「先生、先生っ」

「ん?」

「わたくし特製パンは要りませんわ。自分で別のパンを買いますの」

「でも小桃ちゃん財布持ってないじゃん」

「じゃあ立て替えておいて下さい」

「んー、さては小桃ちゃん、嫌いな野菜でもあるのかなぁ?」

「ち、ちがいますわ!」

 プライドの高さは見た目が幼くなっても変化しない。

「大丈夫、きっと美味しいって。人気商品なんだから。案ずるより食うが易しだよ」

 先生のような何とかなるさの精神に浸かって培養された女性には月乃の繊細な味覚を理解できないのだ。

「申し訳ありません・・・整理券はこちらのお客様まででして、本日は売り切れになります」

「えー! 残念ですう・・・」

 すぐ近くで桜ちゃんが悲しむ声が聞こえる。列が大きく蛇行している関係で10人くらい後方にいた彼女は偶然月乃たちのすぐ隣りに来ており、どうやら特製パンの販売数が桜の直前で尽きてしまったらしい。

「はぁ、今日は買えると思ったのになぁ・・・」

 随分と独り言が大きい娘である。

 と、ここで天から月乃に名案が舞い降りてきた。それは自分に訪れようとしている災難を回避し、意外と重めな落ち込み方をしているクラスメイトをも救っちゃう天才的一手であった。

「もし」

 ベルトパーティション越しに月乃が声を掛けると、桜は親戚のお姉さんみたいな親しみ深い微笑みを向けてくれた。

「あ、日曜日の学校見学の子?」

「まあそうですのよ」

「なにか分からないことでもあるのかな?」

「これ差し上げますわ」

 月乃は特製パンの確保を約束された整理券を差し出した。

「え! だめだよこれは君の分でしょ」

「わたくし医者からサが付く食べ物の摂取を禁じられていますの」

「えっ、じゃあサクランボやサクラ餅やサクラ大根もダメってこと?」

「そうですのよ」

 なぜサクラばかりなのか。

「へえ! 変わったアレルギーなんだねぇ! じゃあこれ、貰ってもいいの!?」

「いいですのよ」

「やったー! ありがとう!」

 桜ちゃんは何でも信じてくれるいい子である。


 ありがとう・・・そう言ってうやうやしく券を握った桜の両手が、月乃の小さな手から券を持ち上げた、その瞬間のことである。焼きたてパンのこうばしい香りがふんわり泳ぐ店内のどこからか、壁のハト時計が鳴くくらいのささやかな音量で鐘の音が聞こえてきたのだ。月乃は教会の鐘の音が先日のちょっとした恐怖体験に結びついているのでドキッとしてしまった。

「せ、先生!」

「ん?」

「聞こえます?」

「な、なにが? お腹でも鳴った?」

 気のせいなんかではなかった。生徒の談笑や食器の触れ合う音、店員の明るい声に紛れ込んだその鐘の音は次第にハッキリと月乃の耳に迫ってきている。今度はどんな災厄をプレゼントしてくれるのか分からないが、またしても月乃の身に何かが起こる可能性が高い。

「先生! 先生!」

「な、なんだ急に」

 月乃は先生の大きな手を引いて列を抜け出し店を出て、大通りを見渡した。

 あまりにも急な事なので、自分の体が次にどうなってしまうのか考える余裕もないが、高校生の姿から小学生モードになってしまった時、月乃は裸だったらしいので、彼女はとにかく人目につかない場所を探していた。いかなる状況でも恥をかかないように努めるのがお嬢様の本能である。

 日陰が誘う路地裏に目を付けた月乃が滑り込むようにその角を曲がった瞬間、彼女はあの時と同じような両足の脱力感に苛まれ、激しいめまいに襲われたのだった。

「月乃ちゃん!」

 大通りには生徒がいるのにそんな大きな声でわたくしの本名を叫ぶなんてダメな先生ですわねと思いながら、月乃は路地裏から望める細長い青空に見守られるように先生の腕の中へスローモーションで落ちていった。


「月乃ちゃん! 月乃ちゃん!」

 寝不足の時に聞く目覚まし時計のアラームみたいなアグレッシブなマイペースボイスに、月乃は短い眠りから覚めた。

「おお! 私のこと、分かる?」

 保健の先生はまず自分のことに気づいて欲しいらしいが、月乃が今一番気になっているのは細川月乃自身のことである。月乃は路地裏の空をバックに興奮した様子で目を輝かせる先生の腕の中から上半身を起こして自分の手のひらを見た。

 間違いなかった。そこにあったのは消しゴムのカスを集めて練り消しを作ったり、無邪気に他の家のワンちゃんを撫で回したりする小学生ハンドではなく、紅茶を片手にフランス語の環境論文を読解し、料理もちゃちゃっとこなしちゃうお嬢様ハンドだった。

「あら、誰の手かと思ったらわたくしの手じゃありませんの」

 微妙なキメ台詞である。

「戻ったんだね! 月乃ちゃん!」

 先生は月乃の肩をガタガタ揺さぶった。不思議なことに月乃は制服を着ていて、足元には彼女の鞄と黒い雑巾が一枚落ちていた。おそらく昨日小学生に変身する直前の状態にそのまんま戻ったのだろう。保健室の備品だった体操服みたいな着替えと先生が貸してくれたサンダルはどこかに消滅してしまったが、そこはもう許してもらうしかない。

「まさか君が本当に細川月乃ちゃんだったとは・・・」

「信じて頂けました?」

 月乃はちょっぴり得意気である。

 路地裏に曲がった瞬間、つまり先生が目を離した1秒未満の隙に月乃の体は高校生に戻っていたらしく、それでは小桃ちゃんと月乃ちゃんが同一人物かハッキリとは分からないはずだが、どうやら先生は月乃の手を一度も離していなかったらしく、路地を曲がったら手を繋いでいた子が女子高生になっており、自分のほうにバサッと倒れてきたというのだ。

「戻れた原因がサッパリ分かんないけど、とにかくよかった・・・少し歩いてきたらどう?」

「そうですわね」

 月乃は先生にとってもお世話になり仲良くなっていたので、いざ問題が解決した時の別れ際のセリフが思いつかなかった。

「また保健室に遊びにおいで。大体いつも暇だから」

「気が向いたら行きますわね」

「気が向かなくても、経過観察させるように」

「気が向いたら行きますのよ」

 月乃は照れ隠しに冷たくそう言ってから、先生に深々と頭を下げた。

「先生、ありがとうございました」

「あ・・・うん、まあ、いいよ」

 先生は頬を赤くしてそっぽを向いた。先程までとかなり態度が違っている。


 女子高生に戻れた時にまずなにをするか決めていなかった月乃は、猛烈に日奈様のことが気になったが、とりあえずロワール会の会長、西園寺様に会いに行くことにした。月乃の意識にはロワールハウスがすっかり自分の家として定着していたらしく、早くあの寮の真面目で落ち着いた空気を吸いたいと思ったのだ。

 つい先程まで高層ビルみたいに見えていた大通りのお店が、いつもの可愛らしい童話の国の砂糖菓子の家に戻っているし、生徒は皆月乃と同じかちょっと低いくらいの背丈になっていて、一歩足を出すだけで景色はぐいっと前へ進んだ。月乃は体の大きさが違うだけで風を受ける感覚が全然違うことに初めて気がついた。帆船を操る心得があれば風を利用して全然疲れない歩き方ができるんじゃないかなと月乃は思った。

「見て、細川様よ」

「素敵ですわぁ・・・」

 そうそう、もっと見ていいんですのよと月乃は心の中でつぶやきながら、自慢の美しいポニーテールと黒いリボンを揺らして、ロワールハウスに続く路地に右折した。やはり月乃は人から羨望の眼差しを受けて生きる星の下に生まれたカッコイイお嬢様だったのである。昨日と今日の不可解な出来事は月乃と保健の先生の二人だけのヒミツにして、すっかり忘れ去るのがいいに違いないのだ。姉小路日奈様に関する悩みは全く解決していないが、恋の戒律を破って罰を受けた月乃が結局許されて元の姿に戻ったのだとしたら、月乃にもまだ硬派なお嬢様としての人生を歩むチャンスがあるということなので、現在の最高にハッピーで前向きな気持ちを力に変えていけばきっと恋にも打ち勝てるに違いないという謎の自信が月乃の胸を熱く燃やしていた。保健室の妖精になろうとしていた今朝のネガティブな月乃が嘘のようである。


 ロワールハウスが見えた時、月乃は玄関の前で壁にもたれて立つ西園寺様の姿に気がついた。

「西園寺様!」

 思わず月乃は先輩の名を叫んで小走りになってしまったが、笑顔にならないように注意した。

「あら、おかえり」

「はい、戻りましたわ」

「体は大丈夫なの?」

 月乃は貧血かなにかで倒れたという設定になっているのでそれに合わせてしゃべらなければならない。日奈には恋心を知られたくないという理由で秘密にしていたが、西園寺様には戒律を破る破らないの関係でやはり内緒にしたほうが良さそうである。

「え、ええまあ。わたくしは平気だと申しましたのに、先生がどうしても泊まっていきなさいとおっしゃるものですから」

「そうなの」

 怪しい先生である。

「会長はここで何をされていたんですの?」

「少し外の空気を吸っていただけよ。入りましょう」

「はい」

 ああ、何もかも元通りですわと月乃は思った。悪夢みたいな出来事がすべて過去のものになった今日という日に月乃は心から感謝した。


「月乃様ぁ!」

「あら・・・?」

 寮の玄関に入りかけた月乃の背中に、聞き覚えのある庶民的ボイスが飛んできた。

「月乃様!」

 やってきたのは三つ編みが可愛い小柄なクラスメイト若山桜ちゃんである。

「そんなに急いでどうしましたの?」

「実はですね! この前ジュースバーの話をした時に月乃様、パセリがお好きみたいなこと言ってたじゃないですか」

 月乃はイヤな予感がした。

「そこで、じゃん! 大通りのパン屋で売ってた限定のサラダパンです! 美味しいパセリたーっぷりの大人の味わいらしいです! 月乃様に食べて頂きたくて今日は並んじゃいました!」

 桜はパセリのいい香りがする紙袋を月乃に手渡してくれた。

「並んだのが後ろすぎて本当はギリギリ買えないところだったんですけど、学校見学の子が譲ってくれたんですよぉ! 今度会ったらお礼しなきゃ」

「そ、そうですわね・・・」

「ぜひ今食べて感想を聴かせてください! さあ、遠慮なさらずに!」

 ハッピーな事ばかりが続くとは限らないのもまたお嬢様人生である。

 

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