87、癒し風呂
さて、問題はその後である。
湖上レストランにてクリームシチューの甘い口溶けに溺れかけた小学生の月乃は、満月が東の山の頂に顔を出す頃、なんとか解放されてレストランの外に出た。静かな湖面を滑る冬の風は、火照った月乃の頬に心地良い。
(よし・・・さっさと保健室に帰りますわよ)
月乃は日奈様たちに挨拶もせずに小舟に乗り込み、オールをじゃばじゃば漕ぎ始めた。が、ボートは全く進まない。
(あれ・・・なんで進みませんの・・・)
柔らかい髪をデンデン太鼓のように揺らして小舟の周りを確認した月乃は、自分の背後から小舟のしっぽを押さえている綺麗な手を見つけた。
「小桃ちゃん、つかまえたよ♪」
「ひ!」
桟橋にしゃがみ込んで、日奈様は笑顔だった。
「ねえ小桃ちゃん、もう少しお姉さんに付き合ってくれない?」
「い、いやですわ!」
「お願いっ」
星空のように輝く日奈様の瞳に月乃の精神は落っこちた。もう抵抗することが出来ない月乃の小舟に日奈様は乗り込み、ゆっくりゆっくりオールを漕ぎ始めたのだ。
桟橋に木の葉のようにたくさん並んだ他のゴンドラたちに続いて、小桃の舟も岸にたどり着いた。舟から上がった直後は足元がフラつくので気を付けないと恥ずかしいことになる。
「小桃ちゃん、おいで」
「ど、どこへですの・・・」
「こっち♪」
無邪気に笑いながら後ろ向きに歩いてマドレーヌ寮へ向かう日奈様が本当に楽しそうで、彼女の幸せな時間を邪魔しようなどという発想を月乃は抱くことができなかった。ついていくしかない。
二人はマドレーヌ広場の噴水前のベンチで少し時間をつぶし、昇降口の混雑が去ってから寮に入った。緊張している月乃はずっと無言である。
「お姉ちゃんの部屋ね、3階なんだ」
階段を上りながら日奈様がそう言った時、月乃は早々に抱くべきであった疑問にぶち当たった。
「え、どこへ行きますの?」
「私の部屋だよ」
「お、お姉様の部屋で何をしますの!?」
「今日は泊まっていっていいからね♪」
「い、いやですわ!!」
「ほら、階段危ないよ」
美しい日奈様は小桃の返事も聞かずに笑顔で手のひらを差し出てきた。自分に自信がなく、いつも悲しい顔をしている日奈様がたまに見せるこの強引さは一体なんなのか、月乃にはよく分からない。
(小桃ちゃん、ずっとついて来てくれる・・・かわいい)
とにかく日奈は子供が大好きなのである。自分が普段苦しんでいる恋の世界とは無関係な、無邪気な子供の存在が日奈の気持ちを癒してくれているのだ。もっとも、小学生の小桃ちゃんが自分に恋をしていないというのは、日奈の大きな勘違いであるが。
「ここの一番隅っこだよ」
3階はじゅうたんの赤がちょっと鮮やかだった。人があまり来ないからかも知れない。
「ちなみに隣りはリリー様だよ」
「え・・・」
小舟を漕ぐのがやたら上手いリリーさんは、タイミング的にもう部屋に着いているはずなので、警戒しないといけない。ちなみに飼育委員の桜ちゃんはウサギのはんぺんを飼育小屋に帰しに行っているので帰宅はまだである。
「はい、どうぞ♪」
ブルーのタグが付いたちょっと古風なキーを使って、日奈様は部屋を開錠した。マドレーヌハウスがかつてマルセイユハウスと呼ばれていた頃から使われているものに違いない。
「あああのわたくしもう帰りますわよ!」
と月乃が言い切る前に、ドアは開いてしまった。
日奈様のお部屋、それは本来誰も足を踏み入れることが出来ない魔界である。
月乃はかつてセーヌハウスの日奈様の部屋に入ったことがあるが、その時のゾッとするほどの緊張と興奮が、鼻をくすぐる甘い香りを一緒に月乃の体に再び流れ込んで来た。全身がフワッと浮かぶような快感に包まれて、月乃は立ちすくんだ。
すると、月乃たちが上がってきた階段の方から、少女たちの声が聞こえてきた。
「本当ぉ!? 小桃ちゃんが来てるの?」
「姉小路様と一緒だったみたいよ!」
「いやぁん素敵!」
月乃は追手の少女たちから逃げるために、とっさに日奈様の部屋に飛び込んでしまった。きっかけというのはいつだってささやかなものである。
ドアが閉まった瞬間、月乃は自分が置かれた状況の恐ろしさと、寮部屋の静けさを小さな全身でいっぱいに感じた。日奈様と一緒にいる場面は多いが、二人きりになる時はあまりない。
「お風呂用意してくるね♪」
日奈様がなぜか湯舟を洗いに行った。本当に月乃は今夜ここに泊まるらしい。
(どどどうしましょう!!)
月乃はこっそり帰ってしまおうかと思ったが、あんなにノリノリな日奈様を残して無断で去るのは月乃のお嬢様精神に反する非道である。
「すぐ沸くからね」
「なにがですの・・・」
「お風呂だよ♪」
裸足の日奈様がベッドに腰かけた。精神に余裕がない月乃にはよく見えていないが、部屋は楚々としていながらもどこかお姫様チックなホワイトで飾られていたため、月乃には日奈様が童話の中のプリンセスのように見えた。
「おいで、小桃ちゃん♪」
月乃は日奈様のすぐ隣りに座るよう誘われたが、聞こえないフリをして部屋をウロウロした。日奈様の勉強机の上のノートの表紙や、壁に貼られた時間割表の綺麗な字などを観察するタイムである。
「高校の勉強も、結構楽しいよ」
「そそ、そうですのね」
勉強に興味があると解釈してもらえて月乃は少し嬉しかった。
「小桃ちゃんは学校好き?」
「さ、さあ・・・まあまあですわ」
「それって、小学校? それとも、ここ?」
「どっちもですわ・・・」
「そっか」
聖母のような眼差しから逃げるように月乃は机の陰にしゃがんだ。日奈様のスクールバッグには小さな白い貝殻のブローチが付いていて素敵である。
そういえば月乃は海にあまり縁がない。いつか綺麗な海原が見下ろせる素敵な街に住んで、カモメだかウミネコだか分からない謎の鳥の声を楽しみながら、レモンティーでも飲みたいですわねと月乃は思った。
不意に、伝統ある寮に不似合いな21世紀感溢れる愉快なアラームがお風呂場から聞こえてきた。
「あ、沸いたよ」
月乃が現実逃避をしているあいだにお風呂が沸いたらしい。ここからが現実の本当の厳しさを知る時間である。
うっとりするような湯けむりの中で、月乃は線香花火の火玉のように赤くなっていた。
「あったかいね♪」
月乃は返事の代わりに小さな肩をビクッとさせた。
月乃は共同浴場として利用される大きなお風呂には日奈様と一緒に入った事があるが、このような狭い湯舟で二人きりの入浴は初めてであり、経験したことがあるものとは異質な状況である。月乃は日奈様に背を向けて湯舟の中で体育座りをして小さくなっているが、すぐ後ろから日奈様の優しい眼差しやら柔らかな温もりやらが迫ってくるので毎秒油断できない。
「えい♪」
「ひ!」
日奈様の綺麗な両足が月乃を挟むように伸びてきた。どうやら日奈様も体育座りをしていたらしい。
(うぅ・・・動けなくなりましたわ!)
月乃は猫型文鎮のように動かなかくなった。少しでも足を開いたりしたら日奈様の長い足に触れてしまうからだ。
このとき日奈はふざけて脚を閉じ、小桃ちゃんをサンドして遊んじゃおうかと思ったが、自分の内ももに人肌を感じるのが少し恥ずかしかったので直前でやめた。
「ねえ小桃ちゃん」
代わりに話しかけることにしたのだ。
「ねえ、小桃ちゃん」
「んな、なぁんですの!?」
「気持ちいい?」
お風呂は確かに温かく、昼間の寒さが溶けていくようだったが、そんなものを感じる余裕はなく、返事にも困った月乃は黙ったまま首を傾げた。
緊張してるのかな、と日奈は思った。小桃ちゃんは病弱なせいで同い年の子が通う学校に滅多に行けず、この街で保科先生のお世話になっているから、お友達が少なく、一緒にプールへ行ったりしたことがないに違いないのだ。幼い頃から美しすぎたため普通の友情を育めなかった日奈には、こういう時の緊張感がよく分かる。
「小桃ちゃん」
日奈は小桃の両肩にそっと手を置いて、耳元でささやいた。
「お姉ちゃんね、小桃ちゃんの大事なお友達になりたいな・・・」
「うぅっ・・・!」
月乃は耳だけ天国にいっちゃったようなゾッとする快感に襲われた。もう少しで日奈様のおっぱいが月乃の背中に当たるところである。
「ねえ、いい?」
月乃は散らかったおもちゃ箱の中から鉛筆を見つけ出すように理性を掘り起こし、全然深くない深呼吸をしたあと、肩越しに日奈様の目の見ながらそっとうなずいた。
(わぁ・・・)
その目を見て日奈は少し不思議な気持ちになった。
小学生とは思えない、幾重にも秋色を重ねたような切ない瞳は、晴れ空を閉じ込めた軒先のツララみたいな澄んだ初々しさも見せていて、人の魅力やその質に年齢は関係ないと日奈に気付かせるには十分なほど美しかった。
(なんだか・・・月乃様に似てる・・・)
日奈はここで月乃様のことを思い出した。
つい先ほど日奈は、月乃様のことをどう思うか東郷様から尋ねられたのだが、上手く答えることが出来なかった。確かに日奈も桜ちゃんたちと同じで、ロワール会メンバーを少し可愛そうに思っているのだが、あれだけ大勢に聞かれている場で意見を言うことに抵抗があったし、日奈がその時抱いていた感情は同情だけでなかったのだ。
(月乃様・・・)
恋する月乃様への素直な気持ち、東郷様には発言できなかったその気持ちを、日奈はなんとなく小桃ちゃんに言っておきたくなった。大人っぽくて、しかも子供である小桃ちゃんの前でなら素直に話せる気がしたのだ。
「小桃ちゃん・・・」
月乃はまた肩をビクッとさせた。月乃は敏感である。
「私ね・・・あ、急に違う話になるんだけど」
月乃の幼い肩には日奈様のすべすべの手が乗ったままである。
「私ね・・・たぶん・・・その・・・」
桃の入浴剤の甘い匂いが二人を包んだ。
「月乃様にはね・・・笑顔で暮らして欲しいの・・・」
「えっ」
月乃は一瞬、大変驚いた。なぜ日奈様が今「月乃様」の話を始めたのか分からなかったからだ。
「これは・・・みんなに内緒ね?」
「う・・・は、はい」
失いかけている論理的思考で推理した結果、どうやら正体はバレていないようだったが、月乃の動揺は止まらない。
(わた、わたくしが、笑顔で!?)
今の生き方と真逆の暮らしである。
「月乃様には・・・幸せになって欲しいの・・・」
日奈は月乃の後頭部にトンと優しくおでこをつけた。
胸いっぱいに膨らんだ熱い感情が涙になってあふれそうになるのを、月乃はこらえていた。自分は今世界一幸せな時間を過ごしているはずなのに、それを日奈様に伝えられない悲しみと、高校生の自分に向けられた、愛と表現して過言でない思いやりが、月乃のハートを左右に揺さぶったのだ。
(で、でもでもでも! わたくしはお嬢様ですのよ!! 高校生に戻ったら、絶対笑顔で生活なんて出来ませんわ!!)
これは月乃の全尊厳に関わる問題なのである。入学までは母と二人三脚で追及してきたお嬢様らしさも、今となっては細川一族のみの物ではない。学園の全ての生徒、ロワール会に憧れて戒律を守る少女たちの皆の夢なのだ。もう恋や友情を理由にして引き返せる時ではない。
(戒律を破ったらみんな罰を受けることになるんですのよ! わたくしや林檎様で憧れの模範生の姿を示し続けなきゃ、苦しむ人がもっと増えますわ・・・!!)
月乃は随分と難しい立場に身を置いたものである。小桃ちゃんがしくしく泣きだしていることに日奈は気づいた。
「こ、小桃ちゃん、大丈夫? 悲しくなっちゃった?」
月乃は首をぶんぶん横に振った。湯しぶきが日奈の唇をかすめる。
「わ、わた、わたくしは、じゃなくて・・・月乃様は・・・いつも不幸なわけじゃないと思いますのよ!」
「え?」
「あ、あなたのお陰かも知れませんのよ! だっ、だから、お姉様は・・・そんな悲しい顔をしないで下さい」
日奈は顔が熱くなった。やっぱり小桃ちゃんにしゃべって正解だったのだ。こんなにも一生懸命励まし、癒してくれる友人を、日奈は他に知らない。
「小桃ちゃん・・・」
日奈は我慢が出来なくなった。こんなに素敵な友達である小桃ちゃんと、向かい合うこともなくお風呂に入っているのがもどかしくてしょうがなくなったのだ。
「小桃ちゃん、こっち来て」
「あ・・・うっ・・・! うう!!」
月乃にとって、人生でも指折りの衝撃的瞬間が訪れる。自分を引っ張る日奈様の腕にわずかのあいだ身を任せたら、なんと月乃はくるっと身を反転させ、日奈様の体に正面からくっついてもたれていたのだ。お姉様の優しい体に、うつぶせで抱きついちゃったわけである。
「あっ・・・うぅ・・・んっ・・・!」
小さな全身を駆け巡る愛の感触に、月乃は本当に目が回った。ピーチの香りの谷間に溺れそうになってもがくと、ますます体は日奈様を感じることになる。胸も、お腹も、手も、足も、頬も、唇も、全部が日奈様と密着して、離れたくない、離れたくないと叫んでいるかのようだった。
「小桃ちゃん・・・」
日奈は優しく微笑みながら、月乃をさらに強く抱いた。
「私、小桃ちゃんのこと、きっと一生忘れないよ・・・」
月乃は本当に本当に幸せで、もうどうしようもなくて、何も考えられないまま、返事の代わりに日奈様をぎゅうううっと抱きしめ返した。滑らかな弾力とたまらなく愛おしい体温に包まれた月乃は、切なさと幸福感で、熱い涙を日奈様の大きくて綺麗なおっぱいの谷間に落とした。
「小桃ちゃん」
最高に美しいその人の声が直接体に響いてきた。
「・・・気持ちいい?」
小桃はしばらくじっとして動かなかったが、やがて顔を伏せたまま小さく小さくうなずいたのだった。
なぜこのタイミングで気持ちいいかどうか訊いたのか日奈自身よく分からなかった。もしかしたら自分は月乃様だけじゃなくて小桃ちゃんにも特別な感情を抱いているのだろうか、そんな疑問を感じないでもなかったが、気付かないフリをして日奈は小桃ちゃんを抱きしめ続けた。こうして抱きしめ合っていると、本当に本当に癒されていくのだ。
励ましてくれてありがとう・・・日奈が小桃ちゃんにそう言ったのはおよそ10分後であるが、それまで二人はお互いの心と体を求めてずっと抱きしめ合って、小さくゆっくり撫で撫でし合っていた。「ありがとう」を言われてしまったらもう月乃は小学生じゃいられないから、大慌てで適当な言い訳やら挨拶やらジェスチャーやらをしてお風呂場を抜け出したのだった。お姉様のお部屋に泊まるのはまた今度になったわけである。
一人残された湯舟の中で少々キョトンとした顔をしていた日奈もしばらくして我に返り、けむり立つ湯舟のお湯に視線を落とした。体がちょっぴり熱い。
「月乃様も・・・あんな顔するのかな・・・」
そう呟いて日奈は静かに頬を染めて顔をジャブッと湯につけた。月乃様と一緒にお風呂だなんて、想像もできないほど恥ずかしいのである。




