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86、クリームシチュー

 

 月乃は緊張のせいで何度もつまずいた。

 長い脚とスカートたちのダンスの間を縫うように大通りを南へ下る小学生の月乃は、すぐ前を歩く日奈様に全ての意識を持っていかれているから、足元の小石なんか目に入らないのである。

「姉小路様と小桃ちゃんよ!」

「かぁわいい!!」

「あぁ、私急に頭がクラッと・・・!」

「私も~」

 いつもは人から注目されることに命を懸けているお嬢様の月乃も、小学生モードの時ばかりは他人からの視線が苦しくて仕方がない。保科先生が用意してくれた上着がよりにもよって真っ白なふわふわ中わた入りロングジャケットだったため、今の月乃はまるで雪ん子のような状態であり、月乃が理想とするレディーの美しさとは程遠い。足元の小さなレンガの段差につまずきかけた小桃を見た日奈様が「手ぇ繋ごっか」と温かい手のひらを差し伸べてくれたが、月乃は冷たくそっぽを向いて回避した。人前で手を繋ぐなど狂気の沙汰である。


 火灯し頃のマドレーヌ寮はその壁面の美しい意匠をカボチャ色に染めて日奈たちの帰りを待っていた。

「ここだよ。マドレーヌハウス」

「は、はい・・・知ってますわ」

「お姉ちゃんね、今はセーヌハウスじゃなくてここに住んでるの」

「はい。知ってます・・・じゃなくて、知りませんでしたわ」

 日奈様のことを知りすぎていることがなんだか恥ずかしくて、月乃は途中から知らないアピールをした。

「あらぁ♪ 日奈様。妹ちゃんとお出かけ?」

 寮のエントランスから不意に金髪の悪魔が現れたので、月乃はすぐに首を傾げながらアゴを上げて目を見開き、リリーさんに鋭い視線を送った。月乃は威嚇の仕方が独特である。

「リリー様っ。今帰って来たところです。小桃ちゃんと遊ぼうと思って」

「まあ素敵♪」

 月乃は「日奈様と二人きりの時間を邪魔したら承知しませんわよこの破廉恥女」と心の中で叫びながら威嚇を続けたが、リリーはそんなのへっちゃらである。

「小桃ちゃ~ん! 可愛い顔してどうしたのぉ♪」

「わんわん!」

「元気なお返事ね♪」

 猛犬のフリをして追い払おうとしたが効果がない。

「ねえ日奈様、少し早いけれど、一緒に晩御飯を食べに行きません?」

「え、いいんですか?」

「もちろんですわ♪ 小桃ちゃんも、行きましょう!」

「わんわん!」

「可愛いぃ♪ わんわん♪」

 小学生モードの月乃は何をやっても迫力がないのだ。



 白うさぎのはんぺんは興味深げにコーヒーカップを覗き込み、彼女の柔らかい毛並みによく似合う白い湯気を顔いっぱいに浴びてご機嫌な顔になった。

「こらこらはんぺん。東郷様のコーヒー飲んじゃダメだよ」

 桜ちゃんは両手でひょいっとはんぺんを持ち上げて自分の膝の上に戻した。

「よく懐いているね」

 東郷様はアコーディオンをシャンシャン鳴らしながら爽やかに笑った。

 ウサギの散歩中だった桜ちゃんは、湖上レストランへ行ってアコーディオンを弾きに行こうとする東郷様に偶然出会ったのだ。セーヌ会を解散してからの東郷様はますます自由人になっており、学園のあちこちで小さな演奏会を無断開催して生徒たちを楽しませている。今夜も東郷様が演奏するらしいと風の噂で聞きつけ、マドレーヌを中心とした各寮の生徒らが小舟を漕いでレストランに集まっていた。

「あらっ! 姉小路様とリリー様だわ!」

「小桃ちゃんもいますよ!」

 音楽に耳を傾けながら窓の外を見てウットリする系女子の皆さんが、湖上レストランにやってきた日奈たちに一早く気付いた。他の生徒たちは一斉に自分の髪や服を整えて、美少女の到着に備えた。

「こんにちはぁ」

「いらっしゃいませええ!!!!!」

 ドアベルの音と同時に、店員の生徒とそれ以外の少女たちによるウェルカムの大合唱に迎えられたので、日奈と小桃は一時停止のパントマイムのように固まったが、リリーさんに背中を押されて入店することになった。



 日奈、小桃、リリー、桜、東郷様、ついでにはんぺんというハッピーなメンバーが集まった長テーブルは、少女たちに囲まれて大賑わいだった。

(そんなに笑顔を見せたら・・・皆さん罰を受けますわよ・・・)

 内心そう心配する月乃のそばで、さっそく何人かが気絶して倒れたりしたが、彼女らの顔は皆天使の腕の中にいるような幸せそうな表情だったので、別にいいのかもしれない。

「美味しいわぁ♪ このゴーヤピザ」

「リリー様、こっちのピーマンとセロリのパセリパスタも美味しいですよぉ」

 もう少し食べやすいものを注文して欲しいところである。

「小桃ちゃんは、これかな」

 日奈様がクリームシチューのお皿を月乃の前に持ってきてくれた。月乃は日奈様が隣りの席に座っている緊張のせいで食欲など全く湧かなかったのだが、いざシチューの香りに小さな鼻をくすぐられると、そのクリーミーな魅力に心を奪われてしまうものである。

 月乃はすぐにシチューを食べ始めるとお腹ペコペコだったみたいでカッコ悪いので、しばらく自分の爪や手のひらなどをじろじろ見て時間をつぶし、リリーと桜ちゃんの会話に日奈様が気を取られている隙にスプーンを手にとってシチューを口に運んだ。

「あつ」

 世話好きお姉様の日奈が、小桃ちゃんのこの声を聞き逃すはずがなかった。

「大丈夫?」

「だ、だ、大丈夫ですわ!」

 日奈は天使のように微笑みながら月乃の持っているスプーンを優しく包むように握って奪い、ひとすくいしたシチューを自分の口でふーふーした。

「はい♪」

「ひ!」

「あーん♪」

 とんでもないことが起きた。日奈様が月乃にあーんを要求してきたのだ。

「あら可愛い!」

「仲良しだね」

 月乃の体温と同じように、彼女への視聴率も急上昇した。

(リリー様や東郷様も見ているこの状況で、お嬢様のわたくしが日奈様に甘えるなんて出来ませんわ・・・!!)

 月乃は自分の口の前にやってきたスプーンを無視し、ゆっくり視線を窓の外に向けた。桟橋付近のイルミネーションが曇りガラスにぼやけて輝いている。

(かわいい・・・)

 そんな小桃ちゃんの様子を見て、日奈の胸は高鳴った。照れていることが丸分かりだったからである。日奈は今すぐ小桃ちゃんをぎゅうっと抱きしめてなでなでしてしまいたい衝動に駆られたが、小桃ちゃんの迷惑になりそうな気がしたので我慢しておいた。人前で仲良し行動をとらないほうがいいのは月乃様に似ている。

「小桃ちゃん」

 小桃は返事をせず、桃色のほっぺを日奈に向けたままである。

「小桃ちゃん、どうぞ♪」

 日奈は小桃ちゃんに嫌われない程度にしつこくシチューを差し出してみた。

 困ったのは月乃である。ぐいっとこちらへ寄ってきた日奈様の胸が、月乃の小さな肩にぽよんっと当たったのだ。

(ひ、日奈様の、日奈様の、お胸が!!)

 これ以上ぐいぐい来られたら、月乃の精神がクリームシチューのようにとろとろアツアツになってしまう。もう周りの目とかを気にしている場合ではないので、月乃は日奈の「あ~ん♪」を受け入れることにした。

 まず月乃は日奈様が持っているスプーンをそっと奪い返そうとしたのだが、手をスプーンに持っていこうとすると、自然に彼女と手が触れ合うことになってしまうので、ギリギリのところでやめた。

「どうぞ♪」

 体感10分の長い抵抗が、日奈様のとどめのスイートボイスで幕を下した。月乃はぎゅっと目を瞑り、小さな口を開けたのである。銀のスプーンの程良い温もりとシチューの甘い口当たりが、緊張しきった月乃の口を満たし、舌の上を優しく滑った時、月乃は今自分に注がれているであろう意識と視線の全てを恥ずかしさに変換し、顔を真っ赤にした。口を閉じるタイミングとか、角度とか、ついでに表情とか、それら全てに自信がない月乃は、スプーンが自分の口からいなくなった後、必死に下を向いて自分の顔を隠したのだった。穴があったら入りたい心境とはまさにこのことである。



 もう適度に冷めましたから、とウソをついて月乃が自分でシチューを食べ始めたのは、それからしばらく経ってからである。

「そう言えば」

 そんな小桃ちゃんの様子を見て、東郷様がつぶやいた。

「今頃ロワール会のみんなは何をしているだろうか」

 小桃は目だけをきょろきょろと動かしながら辺りの少女たちの表情をチェックした。自分の正体が月乃であることがバレていないかちょっと気になったからであるが、この時月乃が見たのは意外な光景だった。

 なんと、なぜか皆少し寂しそうな顔になっていたのだ。

 たった今まで仲良く食事をしていた大勢の少女たちの顔から、笑みが消えていたのである。

「おや、皆どうしたのかな」

「いえ・・・でも、月乃様たちが少しかわいそうで・・・」

 少女たちの気持ちを桜が代弁した。

 ロワール会の月乃様、林檎様、そして元会長の西園寺様が、例えばこういうレストランで楽しい時を過ごすことなど出来ない。そして今日ここに居合わせた、全校生徒の中でも特に自由な気質を持つ子ら以外の多くの生徒たちも、月乃様たちと同じように戒律を厳しく守った夜を過ごしているのだ。それが彼女たちの選んだ青春なのだが、桜たちには何だか気の毒に思えてしまうのである。

 東郷様は穏やかに微笑みながら日奈を見た。

「日奈くんは、どう思う?」

 日奈はドキッとした。自分の意見を人前で言うのが苦手な彼女には難しい質問である。

「・・・私には、ちょっと分かりません」

 寂しそうな日奈の横顔を見て、月乃もちょっと胸を痛めた。このレストランで楽しい時を過ごしているのは学園にいる生徒の中のほんの一部である。それ以外の少女たちは今も戒律を破った時の罰に怯えながら無表情で暮らしているのだ。だが、それがベルフォール女学院における正義であり、月乃が守っていきたい美しい伝統に他ならないから、そこには複雑な葛藤がある。

「みんな月乃様たちが大好きなのね♪」

 リリーがソーダ水を飲みながら笑った。ちなみにあれは全く甘くない飲み物なのでサイダーを想像して飲むとひどい目に遭う。

「私たちは戒律を常に守って暮らすのに不向きな性格だった。だけど、ロワール会は大好きよ」

 リリーさんが意外なことを言い始めたのでシチューを飲む月乃のスプーンが止まった。

「私たちには出来ないことを、ずっと高い次元で実現し続けてくれている・・・彼女は私たちの夢を代理で叶えてくれているプロフェッショナルなのよ。だから私、応援してるわ」

 リリーさんはロワール会のことを実は応援していたらしい。

「笑って過ごすことに後ろめたさを感じる時もあるけど、出来る時だけ、出来る分だけ戒律を守って過ごせば、私たちは良いと思うわ。それが私なりのロワール会へのエール。自分らしさって、努力と同じくらい大事なのよ♪」

 少女たちはうなずいた。笑顔なしでは暮らせないが、月乃様への尊敬の気持ちはみんな強く強く持っているのだ。月乃は恋とは違う不思議な照れに頬を熱くし、シチューの続きを食べ始めた。ほんのり涙の味である。

「そうよねえー? 桜ちゃん♪」

「わ! は、はい!」

 リリーは桜に抱き着いて彼女の首筋に軽く唇を押し当てた。いつも通りのあほうである。

「よし、そんなキミらに一曲プレゼントしよう」

 楽し気なリリーさんたちから広がる歓声の輪が、東郷様のアコーディオンによってコンサート会場に変身した。不器用だがまっすぐな心の少女たちが集まるレストランには、夜空の星が躍るような優しい音楽がよく似合う。

 

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