83、金髪とリンゴ
日奈ちゃんは赤いリボンも似合ってるわねとリリーは思った。
ロワール会の西園寺様が失脚しセーヌ会も解散するという激動の週末から一週間余りが経ち、生徒たちの心は次第に落ち着きを取り戻している。リリーは三番街のカフェテラスで日奈ちゃんや桜ちゃんと共に白いテーブルを囲んでアッサム香る美味しいロイヤルミルクティーを飲んでいた。
「桜ちゃん、お口元にクッキーがついてるわよ♪」
「あっ! す、すみません」
学園のトップ美少女の二人と一緒にお茶をしている緊張で、桜ちゃんは食いしん坊のシマリスのようにクッキーをこぼしているが、彼女のマナーを責めてはいけない。悪いのは日奈とリリーの美貌である。
「はぁ、まさかこんな形でロワール会の天下になっちゃうなんてねぇ~」
リリーは初冬の青い空を見上げながらウットリした。いいお天気の放課後に温かいものを飲んでいる時、人は不思議な幸福感と切なさを同時に感じることがある。
「元セーヌ会のリリー様と日奈様には失礼かもしれませんが、その・・・争いが無くなって私はホッとしてます」
桜ちゃんは争いを好まない。
「あらぁ、私もホッとしてるわよ。でも、自由に恋愛ができる学園作りが夢で終わってしまうなんて、寂しいわ」
これはリリーの本心である。
リリーはこの学園をラブラブラブリーな無法地帯にすべくセーヌ会に入ったアホウなので、ロワール会の秩序ある支配がほぼ盤石なものになった現状を憂いているのだ。恋の無い青春なんて干上がった地中海みたいなものである。
(それにしても、いいお天気ねぇ)
リリーは空の色そっくりの瞳に遠い太陽をキラッと映して目を細めた。
彼女が初めて罰を受けたのは、なんと入学直後のことである。その美しさのせいでセーヌ会に入る前から影響力があったリリーは、ちょっとスマイルを見せるだけでキツーイ罰を受ける身だったのだ。小雨の中、傘も差さずに鼻歌を歌いながら帰寮していたリリーは、エプロン専門店のショーウィンドウに映った自分の姿を見て驚愕したのだ。
「オー! ヤマトナデシコ!」
などと外国人風にリアクションするほどリリーは海外で長く暮らしていないが、思わず妙な反応をしてしまうほどの衝撃だったのだ。
「え!? 何ですの!? この髪!?」
自慢の金髪が雨に濡れた個所からどんどん日本人形の黒髪のように色を変えていくのだ。触り心地やツヤに変化はないが、自分のアイデンティティと言って過言でない美しいブロンドが墨染めになっていく様はちょっとした恐怖である。
「だ、誰か助けて下さいましぃ!」
いつも以上にお嬢様風に叫んで駆け出したリリーと、ここで偶然すれ違ったのが東郷礼様だったのだ。
「おや。元気な子だね」
この後、なんとなく事態を察した東郷様がリリーの相談に乗ってあげたことがきっかけとなり、リリーはセーヌ会のメンバーになったのだった。ちなみにリリーの髪はちゃんと乾かせば元の色に戻るし、プールやお風呂の水には反応しない。とにかく天から降ってくる水がダメなのである。
「日奈ちゃん、今日も可愛いわね♪」
「や、やめて下さい・・・」
赤いリボンに戻ったリリーは日奈ちゃんをからかった。今彼女たちが暮らすマドレーヌハウスには個人用のシャワールームがあるので一緒にお風呂に入るチャンスが減ってリリーはちょっと残念である。ただし日奈ちゃんの裸は見るだけで心身の半分が天国にいっちゃうかなり危険なものなので安易に覗こうとすると命に係わるのでやめたほうがいい。
「姉小路様、おしぼりここにありますよ」
「あっ・・・ありがとうございます」
学園で最も悪意がない善良な組み合わせ、日奈と桜のコミュニケーションを眺めながら、リリーはとある少女の顔を思い浮かべていた。
(林檎さん、今頃なにしてるのかしら)
嫌味を言えば一番激しく反応してくれる林檎さん。ロワール会のメンバーのくせに自分の前では表情をころころ変える林檎さん。リリーは一緒にロワールハウスで暮らしていた頃から、彼女のことずっと気がかりなのだ。
双子の妹の桜ちゃんは遠慮がちながらも毎日笑顔でエンジョイしているというのに、林檎さんはそのような生活とは全く異なる人生を歩いている。しかし双子の姉妹にそれほど気質の違いがあるだろうか。本当は林檎さんも今の桜ちゃんのように笑顔に満ちた優しい午後を過ごしたいと思っているのではないか。リリーはそう考えているのだ。
(林檎さんの生意気なお顔が見たいわ・・・)
リリーは久々に林檎さんと嫌味の応酬を楽しみたくなった。
「ねぇ、日奈ちゃん、桜ちゃん。これからロワールハウスに行ってみない?」
「え!?」
意外にも日奈ちゃんが大きなリアクションを見せた。
「私たちはもう悪のセーヌ会メンバーじゃないのよ。新たなロワール会会長、月乃ちゃんに挨拶しておかなくちゃ♪ 桜ちゃんも、たまにはお姉ちゃんの顔見ないとネ」
「そ、そうですかね・・・」
「そうよ♪」
リリーはロイヤルミルクティーをくいっと飲み干して立ち上がり、その美しい金髪を風にふんわり揺らした。まるで太陽のスカートみたいである。
大聖堂広場を北へ縦断しながら、日奈はそわそわしていた。
(ど、どうしよう・・・月乃様に会いに行くことになっちゃった・・・)
日奈のウブさは学園一かもしれない。
恋心を意識してしまってからの日奈はイバラの森の住人になってしまったようで、身動きの取れない心で、ただ月乃様を見つめることしか出来ない不器用さの塊のような女になってしまった。月乃のほうも日奈が大好きで大好きで仕方がないので、日奈の規格外の美しさを以てすれば簡単に恋など叶いそうなものなのだが、能力に必ずしも結果が伴わないのが人生の残酷で、そして面白いところでもある。
「姉小路様、どうかしました?」
「へ! い、いいえ。なんでもないですよ」
桜ちゃんのまっすぐな眼差しに胸が痛むのは、自分の心が汚れているからなのだろうか・・・なぜか自己評価を低空飛行させて生きている日奈はそんな事を思った。日奈はまだ恋の扱い方そのものが分からない。
さて、その頃ロワールハウスのダイニングはビターなマンデリンコーヒーの香りに包まれていた。
「淹れたわ」
「あ、ありがとうございますわ」
保科先生がくれたコーヒー豆を西園寺様が挽いて温かいコーヒーを淹れてくれたのだ。
「西園寺様、申し訳ありません。私たちがもてなす立場ですのに」
「いいのよ」
隠居して赤いリボンを身に着けた西園寺様は現在ヴェルサイユハウスの大きくて豪華なホールにベッドや机を持ち込んで自室にして暮らしているが、たまにこうしてロワールハウスの様子を見に来てくれるのだ。西園寺様はロワール会を去ってからも人形のような無表情で暮らしてくれている、プロのお嬢様だ。
ちなみに月乃が高校生モードの戻れた経緯は、昨日の放課後に「背中がチクチクします・・・」というちょっと微妙な用事で桜ちゃんが保健室にやってきたのだが、彼女のブラウスに月乃が下から手を突っ込んで適当にこちょこちょしたら木の葉が一枚出てきたのだ。あらこの人、化けたタヌキかしらと月乃が思っていたら「ありがとう小桃ちゃーん!」と言ってもらえちゃったわけである。
「どうしたらこんなに美味しいコーヒーを淹れられますの?」
「しいて言えば、祈ることかしら」
「祈る?」
「おいしくなぁれ、って祈ることよ」
西園寺様はいつも無表情なのでどこまでが冗談なのかよく分からない。
林檎はコーヒーに映る自分の顔をじっと見つめていた。
彼女はロワール会の人形として生きるだけの十分な力を持ったお嬢様であるが、決定的な弱点があった。実は、腐れ縁のリリアーネさんが四六時中頭を離れないのである。
(なぜ・・・私がリリアーネのことを考えている・・・)
そんな疑問が単なる現実逃避であることは林檎自身よく分かっていた。紛れもなく林檎はリリーさんに特別な感情を抱いているのだ。
(憎い・・・あいつさえいなければ・・・私は本物の淑女になっているはずなのに・・・)
林檎はコーヒーカップに柔らかい唇をそっと押し当てた。少し赤くなった頬も、帽子とカップがあれば容易に隠すことが出来る。
林檎が受けている罰はちょっと特殊であった。
初めはそれを異変と感じなかったのだが、林檎は破戒を重ねる度に自分の近くにとある果実が現れるようになったのだ。
冗談みたいな話だが、リンゴが見えるようになったのである。
それは向かい合ってしゃべる相手の肩に乗っていたり、何気なく開けた引き出しにコロッと転がっていたりしたのだが、今年に入ってからはリリーさんの顔の前にふわふわ浮かぶようになってしまった。林檎は月乃と違って未だにこの呪いを一人で抱えていて何も知らないのだが、この症状は学園の長い歴史の中で度々報告されていて、人の顔の前に物が浮かんで見えるという妙な特徴からマグリット症と呼ばれているらしい。これはちょっと誰かに恋をしているだけでは巡り合えない重罰なのだが、林檎さんはとある事情によりこの罰を受けている。
(近頃リリアーネと話していない・・・あいつは今頃何をしている・・・)
帽子の下に潜めた恋心が隠し切れないほど火照り、林檎は小さな胸が苦しくなった。
(また・・・あれをやろうか・・・)
実は林檎には双子ならではの秘技があるのだ。
と、その時、ロワールハウスのチャイムを鳴らす者が現れた。
「あら、誰かしら」
西園寺様は大して動じずに廊下に向かったが、月乃と林檎は第六感に胸の鼓動を激しく乱されていた。
(ひ、日奈様かも知れませんわ!!)
(まさか、リリアーネ!?)
ひどく慌てた二人はダイニングの椅子を立ったり座ったりテーブルの周囲を回ったりを繰り返していたが、玄関から訪問者たちの声を聴いてその動きは止まった。
「こ~んに~ちは~♪」
春一番みたいな、空気にそぐわない異色のボイスである。
「新しい生徒会長さんにご挨拶に参りましたわ。西園寺様にもお会いできて、私たちとても光栄ですわ♪」
廊下にぺたたたと軽やかな足音を響かせて、大きな帽子の小さな少女がやってきた。座敷童ではない。
「リ、リリアーネ! 一体何をしに来たあ!?」
林檎は目の前に浮かんだリンゴの陰に一瞬リリーさんの美しい瞳を見た。リリーも、帽子の陰の中に可愛い林檎さんの素顔を見たのである。これは二人にとって長く待ちわびた瞬間であった。
「今言った通りですわ。細川月乃会長にご挨拶よ、可愛い林檎ちゃん♪」
「き、気安く林檎と呼ぶな! 笑顔も見せるな! 可愛いとは失礼だろう!」
「あらぁ、どうして可愛いって言うのが失礼になっちゃうの?」
「か、からかうのがいけないのだ!」
「あらぁ、だって本当のことよぉ♪ 可愛い林檎さんっ」
「うっ・・・!」
林檎さんは半身を引いたポーズで石のようになってしまった。
そんな彼女のすぐ前にいる桜ちゃんは、林檎お姉ちゃんの様子を見て不思議に思った。姉がこんなに声を荒げて人としゃべり、急に黙って動かなくなるなんて珍しいのだ。
分かりやすいタイプのへそ曲がりちゃんである林檎と、あえて本心の一部を口に出す強気な小悪魔リリーは、まるで月と太陽のように対極に立つ娘たちであるが、二人がこのわずかな時間を互いに求めていたことは事実である。
そして、二人の後ろにも月と太陽はいる。
月乃と日奈は視線を合わせた瞬間にあふれ出した、今までにため込んだ恋の不安や希望や妄想を、恥じながら抑え込むまでにちょっとした時間を要したから、しばらく見つめ合ったままだったのだ。
「どうも・・・」
かすれた声で日奈がそう言って小さく頭を下げたので、思わず月乃もちょっとお辞儀をしてしまった。場が林檎たちに気を取られていたからこそ出来た、ちょっとしたラッキーである。
白いリボンの消滅により、学園はロワール会の下ですっかり落ち着くこととなった。誰もが戒律を守り、罰を受けずにひっそりと暮らすことが正解なのだと再認識し、人形のような生き方のレールに戻ったわけであるが、のちにこの状況に強い疑念を抱くことになる少女は、まだ自分のハートの中に眠るマッチの山に気付いていない。なにしろ彼女は初恋のささやかな火にすら手を焼いている純朴な天使だからである。