80、扉の鍵
雲の中を漂うような、深く心地良いまどろみである。
「うーん・・・日奈さまぁ・・・」
小学生に変身し、路傍で居眠りをする羽目になったドジな月乃は、レンガを枕に先程から日奈様の夢を見ていた。実に幸せそうな顔である。
「おや?」
そんな彼女を発見したのは、朝日がよく似合うあのお姉さんだった。
「おやおや。意外なところに天使がいるね」
渦中の東郷様である。彼女は早朝にセーヌ会を解散してしまったのでもう生徒会長ではないが、その威厳は相変わらずである。
「小桃くん。小桃くん」
「うーん・・・」
「気持ちのいい朝だよ」
東郷様の優しい手に頭を撫でられて、月乃はゆっくり目を覚ました。
「あ・・・」
日奈様でないことはすぐに察したのだが、今朝の東郷様は髪をほどいており、少しくせのあるお嬢様ロングヘアが朝日を背負ってゆったりと風になびいていたから、月乃は自分の目の前にいるお姉さんが誰なのか一瞬分からなかった。
「おはよう。道端で休むには少し寒い時期だからね。起こしてしまったよ」
「ど、どうもですわ・・・」
寝言を言っていた自覚はないが日奈様の夢を見ていたところだったので、日奈様本人に発見されなくて良かったですわと月乃は思った。自分の体が小学生である点から推理して、先ほど西園寺様と一緒にいた時に日奈様と触れ合ってしまったことは夢でなく現実らしい。
東郷会長がここにいるということはまだ一時間目の授業が始まっていないということなのだろうが、小学生モードになってしまった月乃には関係のない話である。さっさと人に感謝されるようなことをして元の姿に戻るしかない。
「砂がついているよ」
「わ、わかってますわ・・・」
山奥の高校の敷地内の道端で小学生がすやすや眠っているというのは冷静に考えてちょっと狂っているので月乃は恥ずかしかった。
「保健室に連れていってあげよう」
「け、結構ですわよ。自分で参りますわ」
すうっと心地良い朝の空気に鼻をくすぐられ、なんとなく辺りをキョロキョロ見まわしてしまった月乃の様子を見て、東郷様はやっぱりほっとけないと思ったのか「おいで」と言って月乃の手を引いて歩き出した。こうなってしまったら仕方ないので、月乃は東郷様と保健室に向かうことにした。
「おはようございます。保科先生」
登校していく生徒たちにキャアキャア言われながら月乃は第四学舎のすぐ外にたどり着いたが、東郷様が窓から呼びかけても保健室から返事がない。カーテンがしまっているので中の様子が分からないが、窓をノックしてみても先生は顔を出さなかったから留守なのかも知れない。
「保健室を空けるなんて、ダメな先生ですわね」
「まあまあ。どこかでケガ人が出て、迎えに行ったのかも知れないよ」
と言った時、始業のチャイムが鳴り始めた。当然東郷様とはここでお別れのはずなので、月乃は「ほらほら、チャイムですわよ!」みたいな顔で東郷様を見上げたのだが、彼女は保健室の窓を透視でもしているかのようにじっと見つめており、微動だにしない。髪をほどいている東郷様はいつもの王子様的な姿と違い、ちょっと王女様のようである。
「心当たりがあるよ。おいで」
「え!? 東郷様、授業はどうしますの?」
「裏から回ろう」
聞いていない。東郷様は髪を揺らしてすたすた藤棚のほうへ歩いていってしまうので月乃もしぶしぶ付いていくことにした。
さて、そのころ日奈は学園で最も緊張感のあるベンチに腰かけていた。
「あのう・・・」
噴水の広場には日奈と西園寺様以外誰もおらず、内緒話をするにはもってこいの状況なのだが、日奈の隣りに腰かけている西園寺様は観光地に置いてあるスターの像のように全く動かない。
白いハトが噴水のへりに舞い降りて、静かな日なたで水浴びを始めてから、木の葉が五枚ほど広場の空に踊った頃、ようやく西園寺様がおしゃべりを始めてくれた。
「日奈さんは、この学園の神様の存在を信じるかしら」
「え・・・っと」
かなり難しい質問なので日奈は少々気後れしたが、全く覚悟していなかった問いでもなかったので思い切って答えることにした。
「ええ。その・・・まあ。きっといらっしゃるんだろうなと思っています」
西園寺様は目だけを動かして日奈を見た。
「そうよね。あなたならきっと、信じてくれていると思ってたわ」
「は、はい・・・」
「あなたの気持ちを少しでも楽にするためにはっきりさせておくけれど、この学園に神様は存在しているわ。少なくとも、私は知ってるの」
西園寺様はゆっくり立ち上がった。
「月乃さんより先に日奈さんに話すことになるなんて、これも運命ね。ついて来て」
「え、は、はい」
西園寺様も東郷様と同じで相手を自分のペースに巻き込むのが上手い。どうやら日奈も授業に遅刻するようである。
小学生を連れた東郷様がやってきたのは四番街の大図書館だった。
「なんで図書館に来ましたの?」
「保科先生がいるんだ」
「・・・どうして分かりますの」
「んー。同類の嗅覚かな」
意味の分からない説明に、小さな月乃はオーノーみたいな感じで肩をすくめた。周りに生徒がいない時の月乃は無自覚に結構コミカルな動きをしているが、これは普段お嬢様を演じている反動であり、単なる波動の振れ幅の表出であるからあまり気にしなくてよい。
二人を迎えた図書館ホールは窓から漏れる朝の陽ざしだけが時計の針をゆっくり進める、なんとも穏やかな空間だった。ここに並んでいるたくさんの呑気な本たちは、今まさに学園が激動の只中にあることなど知らないわけである。
「あ・・・」
「ん、どうかしたかい」
「いえ、別に・・・」
月乃はここでようやく悟った。東郷様はこの図書館の地下室に行こうとしているのだ。つまり東郷様は保科先生が地下室への侵入を試みていると読んでいるわけである。昨日もおとといもその前も、ずーっと侵入のチャンスがあった気がするが、なぜ今日地下室を目指して動いたのか、保科先生の考えることは分からない。
以前の東郷様の発言から、この学園の秘密が図書館の地下に隠されていることは明らかだったから、月乃の症状の解決のために頑張ってここへやってきた保科先生は責められるべきでないが、それにしても運が悪い。
「おや、本当にいらっしゃったね」
「え・・・」
資料室へと続く扉の脇の本棚から、白衣の裾が覗いていた。先生はかくれんぼが下手である。
「保科先生、ごきげんよう」
「うっ! ど、どうしてここが!?」
月乃はなんだか恥ずかしくてそっぽを向いてしまった。よく見ると図書館ホールの天井にはたくさんの星座が描かれている。
「昨夜か、もしくは今朝、西園寺くんのポケットから鍵を抜き取ったのではありませんか? 保科先生」
「えっ! ど、どうしてそれを!?」
よく分からないが保科先生の完敗らしい。先生のはかりごとは全て東郷様がお見通しなのだ。
「先生も間が悪いですね。私のほうから先生をここへご案内しようと思っていたところですよ」
「え? ど、どこへ?」
先生はまだ白を切っている。
「私と西園寺君に、もう失うものはありませんから。次の時代を担う月乃くんと日奈くんには、必ず話さなければならないことがあるんです」
え、つまり私には話さなくていいって事じゃんと保科先生は思った。
「そこで、その、言いにくいんだが、小桃くんはここで・・・」
そう東郷様が言いかけた時、三人は図書館のエントランス付近に人の気配を感じた。今はまぎれもなく授業中なので、感じられる気配がオバケのものでなかった場合、それは高確率で生徒会の騒動に関係するマイペースな生徒のものである。
「おや、意外な組み合わせだね」
東郷会長の声と同時に立ち止まった二人の影は、西園寺様と日奈様のものだった。不意に日奈様と再会してビックリした小学生の月乃は、初めて掃除機を見た猫のような顔になって動きを止めた。
すぐに小桃ちゃんの存在に気付いてホッとした日奈と異なり、東郷様に会ってしまった西園寺様は緊張を強いられた。昨夜手を差し伸べながら詰め寄られた時の記憶が西園寺様の脳裏に蘇ったのか、彼女は東郷様の顔をじっと見て後ずさりをした。
「日奈さん、ごめんなさい。用事を思い出したわ・・・」
「え?」
西園寺様はお人形フェイスのまま図書館を出て行ってしまった。とりあえず授業に向かったほうがよい。
「話してはくれないだろうな・・・。日奈くん、おいで、一緒に面白いものを見に行こう」
日奈は西園寺様のことが気がかりだったが、親しい東郷様に呼ばれたので笑顔になって駆け出した。そして彼女は東郷様の隣りに行くのでなく、なぜか小桃の元にやってきたのだ。
(な、なんでこっちに来ますの!?)
と月乃が思う間もなく、彼女の体は宙に浮かんでいた。
「小桃ちゃん、おはよう♪」
「ひい!!」
月乃は日奈に抱き上げられたのだ。
「ご本読みに来たのぉ?」
「うぅっ・・・!」
月乃の小さな体はまるでコアラのようなポーズで日奈様の体にくっつく形となり、月乃は自分の体がホワッとした温もりを繋ぎにして日奈様と一体化してしまったような心地よさを感じて目が回ってしまった。自分の鼻先に容赦なく迫った美しい日奈様の顔が、月乃の頭を空っぽにしてしまったのだ。こうなってしまうと月乃もただのぬいぐるみと一緒である。コアラのぬいぐるみである。
(ひ、日奈様ぁ・・・!)
全身の感覚が感じる日奈様の姿は、夢の中で見かける日奈様よりずっと温かく、明確に人間の形をしており、まさに生ける天使であると言える。幼い月乃は天使から注がれる逃げ場のない無邪気な愛の海で悶えた。
「日奈くん、キミと先生にここから先を案内したいのだが、小桃くんは少しの間このホールで待ってて欲しいんだ」
「え?」
ではなぜここへ自分を連れてきたのかと月乃は思ったのだが、保科先生がここにいたのだから仕方がない。
「小桃ちゃんも一緒じゃダメなんですか?」
「ダメというわけじゃないが・・・」
東郷様は、おそらくこの学園やその生徒たちに憧れているであろう小桃ちゃんの夢を壊したくないのである。
「東郷さん、私からもお願いするよ。小桃ちゃんも連れていってあげてくれないかな」
「先生・・・」
二隻の助け舟にサンドイッチされた月乃は若干目を輝かせて東郷様を見た。ドジな少女だが、月乃はこの学園の明日を、いや今日を担っていく覚悟だけはあるから、そんな彼女を仲間外れにはしないで欲しいところである。
「分かった。一緒においで」
月乃が喜ぶより先に日奈様が喜んだ。この一瞬が二人の関係の縮図でもある。
真っ暗な資料室に入って慣れた手つきでランプを点けた東郷様は、内ポケットから古びた鍵を取り出してそっと微笑んだ。
「保科先生、日奈くん。にわかには納得できないかも知れませんが、事実を申し上げます」
そして最奥の重厚な扉のホコリを指先で払いながら、ちょっと真剣な調子で語りだしたのである。
「皆互いに秘密にしていますが、この学園で戒律を破った生徒は全員、様々な形で罰を受けているんです」
固い木箱がぶつかり合うような大きな音を立てて、扉の鍵が開いた。