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8、小学生

 

 月乃はサラサラと心地いいシーツの感触の中で目を覚ました。

 薄紫のカーテンから透けるぼんやりとした日光が、月乃の見知らぬ部屋の天井をやわらかく照らす様子はどこかノスタルジックで、まだ夢と現実の狭間のまどろみにいる月乃をどこか懐かしいような気分にさせた。

『園芸部は花が大好きなあなたを歓迎します! ガーデニングは初めてという方も安心! 花壇に咲いた花にニックネームを付けることから始めてみましょう!』

 部屋の隅から聞こえるラジオだか校内放送だかよく分からない音声が寝起きの月乃の耳に心地よかった。

『続いてのナンバーは、クラッシックピアノ部による夜想曲第2番変ホ長調です。昨年の発表会の音源でお楽しみください』

 月乃が寝ている窓際のベッドを囲うように敷かれた天井のカーテンレールは、まるで病院のもののようにも見えるが、ラジオを聞いている限りここはベルフォール女学院なので保健室かもしれないなと月乃は思った。

 馴染み深いショパンの調べに合わせて徐々に頭がハッキリしていく月乃は、やがて自分がここにいる経緯を思い出すことになる。

(あ・・・)

 月乃は放課後の北山教会堂に行って「恋は絶対しない」と誓った直後に姉小路日奈様に再会し、結局恋の戒律を破ることになって一人しくしく泣いた挙げ句、謎の体調不良でぶっ倒れたのだ。おそらく誰かが気づいて保健室に運んでくれたのだろうが、目を回している自分を乗せた担架が、生徒が大勢集まっている大通りを横切っていく様子を想像した月乃は恥ずかしくて顔から火が出そうだった。これではますます西園寺会長に合わせる顔がない。

 やたら分厚い掛け布団をもそもそと動かして布団に潜り込んだ月乃は、シーツから香る旅館みたいないい匂いに心の癒しを求めるほかなかった。


「ふふーん、ふふふふふーんふーん」

 かかとを床に擦るような不良少女型の靴音と共に廊下から夜想曲の陽気な鼻歌が聞こえてきた。どうかこの部屋に入って来ませんようにと月乃がなんとなく祈っていると、部屋のスライドドアはカラカラと小さな音を立てて開いた。眠ったフリも出来そうにないので、月乃は恥ずかしそうに目から上だけを布団から出した。

「なんて曲だったかなこれ」

 マグカップを持って部屋に入って来たのは、入学式の日の早朝にベルフォール大聖堂でちょっぴり会話した知的なショートカットと白衣が素敵な保健の先生だった。やっぱりここは学園の保健室のようである。

 先生はコーヒーを飲みながら診察用のデスクに置かれたラジオの音量を上げ下げしていたが、すぐにベッドの上の月乃の様子に気がついた。

「おお、お早いお目覚めだね。もっと寝ててよかったのに」

 そう思うならご機嫌に歌いながら登場しないで頂きたいところである。

「確かにここは面白い学校だけど、探検は程々にして夜までにはおうちに帰らないとね」

 先生はそう言ってベッド際の小椅子に座った。

「お嬢ちゃんのお名前きいてもいいかな?」

 どうも先生の様子がおかしい。コーヒーに何かを盛られて頭がショートしちゃった可能性がある。

「先生は・・・」

 わたくしのことをお忘れですのと尋ねようと思った月乃は、口の中に飴が入っているような違和感を覚えて言葉を詰まらせてしまった。もちろん飴などペロペロしていないが、舌先が感じる歯やその並びが自分のものでないような感じがしたのである。しかも、耳の残っている自分の声がいつものお嬢様ボイスではなく、もっと小柄な女の子がしゃべるような軽くて幼い声に思えたのだった。

「え・・・?」

 月乃は深く考えずほぼ反射的に布団から自分の両手を出して手のひらを眺めた。そこにあったのは美しくしなやかなお嬢様女子高生のビューティーハンドではなく、遠足日和の麗らかな日差しに透ける若紅葉のような小さくて可愛らしいお手々だった。

「どうかした?」

 先生ののんきな声など耳に入ってこない月乃は、広いベッドからバサバサバサっと抜け出して、デスクの脇の壁に据えられた姿見にペタペタ駆け寄った。

 大きな鏡の中で狼狽していたのはどう見てもクールでカッコイイお嬢様細川月乃ちゃんではなく、一年じゅうサンタさんを信仰してそうなピュアッピュアなお年頃の可愛い女の子だった。月乃は足元の床が抜けるような激しい喪失感と恐怖に襲われ絶句していたが、やがて鏡に向かって叫んだ。

「こ、これはなんですの!?」

 月乃の体はまるごと小学生の姿になってしまったのだ。

「あー、服ならこっちで勝手に着せちゃったよ」

 そんなことはどうでもよい。長い脚に綺麗な腰のくびれ、そこそこ大きくて美しい胸、そしてカッコイイお顔・・・月乃が積年の功徳により獲得したそれら全てが一炊の夢のごとく消えていたのである。

「一応Sサイズなんだけど、君みたいな小さい子用の服じゃないから、大きくてごめんね」

 先生がまた的外れなことを言っている。頭が真っ白な月乃はとりあえず自分が置かれた状況を誰かにしゃべらずにはいられなかった。

「わ、わたくし・・・」

 小さな月乃は潤んだ瞳で先生を見上げながら懸命に訴えた。

「わたくし、細川月乃ですわ!」

 月乃の言葉は保健室に妙にむなしく響いた。

「細川・・・あぁ、月乃ちゃんか! なるほど。今日はまた随分と可愛らしい姿でおいでじゃない?」

 先生は診察用の椅子に座ってマグカップのコーヒーをのんびりすすった。明らかに信じてくれていない。

「ほ、本当ですわ! 本当にロワール会の1年生の細川月乃ですのよ!」

「わかってるって。先週の湯けむり妖精草津ちゃんなら先生も見たよ。湯冷め団が作った毒入り温泉まんじゅうを食べた箱根ちゃんが白いウサギになっちゃった話」

「テレビの話なんかしてませんわ!」

「体が小さくなったことでアジトに潜入できたんだけど、ウサギのままじゃ魔法が使えないことに気づいて結局ぴょんぴょん跳ねて帰ってきたんだ」

「もう!」

 先生はコーヒーを飲みながら月乃の気持ちを逆撫でするように椅子でキュルキュル回って遊んでいる。こういう大人にはなりたくないものである。

 とりあえずこの物分かりの悪い先生は置いといて、月乃は現状の更なる把握に努めるべく鏡に向き直った。

 どうしてこんなことになってしまったのか月乃にはサッパリ理解できなかったが、月乃の体は今小学生らしい。幼い頃の自分の顔に若干似ているような気もするが、ちょっと目がキラキラし過ぎている感じもするし、そもそも月乃は自分の小学生時代が大嫌いで写真やアルバムをほとんど見たことがないからなんとも言えない。

「こんなの・・・わたくしじゃありませんわ・・・」

「すごい演技力だな・・・」

 先生が月乃の横顔を覗きながらちょっと本気のトーンで関心している。ちなみに月乃は普段完璧なお嬢様を演じながら生きているくせに演劇は大の苦手である。

 姿が子供になってしまう病気など月乃は聞いたこともないし、毒リンゴも毒温泉まんじゅうも食べた記憶はないから、いっそ全て夢なんじゃないかという可能性に懸けて頬をつねろうかと思ったが、あまりにもモチっとした自分の幼いほっぺが情けなくてつねる気にもなれなかった。胸の痛みは本物である。

「それで、君のお名前は?」

 実にしつこいネーチャンである。自分と先生の温度差にさすがの淑女月乃ちゃんもちょっぴり頭にきてしまった。

「ですから! わたくしは細川月乃ですのよ」

「んー、教えて欲しいんだよねぇ。それだけ元気なら体は問題はないかもしれないけど、家が遠いなら早めに連絡を入れておかないといけないから」

「逆ですわ! 体のほうが大問題で、住んでる家はこの学園の寮ですのよ!」

「んん、なるほど」

 意外と気が長い保健の先生は身元不明の幼子とのやり取りがだんだん楽しくなってきたらしく、腕まくりをして脚を組み、おしゃべりの体勢に入った。

「君がそこまで言うなら私も言わせてもらうけど、実は私はもう細川月乃ちゃん本人に会ったことがあるんだ」

「・・・知ってますわ」

「悪いが月乃ちゃんは、君みたいなおこちゃまとは違って、とっても美しくて上品でナイスバディなお嬢ちゃんだったぞ」

「そ、そうですのね・・・? でもそれがわたくしですのよ」

 賛美と嘲りを同時に頂いた経験が無かった月乃はどんな顔をしていいか分からず、とりあえず先生を低温な眼で睨んでおいた。

「それにしても、どんな食生活をしたらあんなに魅力的な体になるんだろう・・・」

「え?」

「この学校の制服は可愛くて好きだけど、ちょっと肌を隠しすぎててもったいないなぁと思うよ」

 先生は語りながら徐々に自分の世界に入っていく。

「月乃ちゃんの制服姿を見てると、上を一枚脱いだらどんな感じだろうとか、もう一枚脱いだらこんな感じかなとか、もう色々想像しちゃって、まともに会話出来なかったなぁ」

 本人の前で何を語っているのか。

「せ、先生! あの時そんなこと考えてたんですの!?」

 不埒なものを敏感に察知し激しい拒絶反応を示す清き乙女月乃が、その小さなボディーから発する迫力ゼロの声で先生に怒鳴ったところ、先生は遠くを見ながらコーヒーを飲もうとする姿勢でなぜかピタリと動きを止めた。

「あの時というのは?」

 マグカップの中にこもる先生の声色は、ちょっとだけ神妙であった。

「入学式の朝のことですわ! この辺りをじろじろ見るからおかしいと思いましたのよ! 教師のくせに生徒をそんな目で見るなんて、最低ですわ!」

 先生は理知的な瞳を月乃に向けてしばらく黙っていたが、やがてデスクの上にマグカップをコトンと置いて月乃に尋ねた。

「今年のベルフォールの理科の入試問題で、何か覚えてるものある?」

「入試問題・・・ですの?」

「数ヶ月前の、直近の入試問題」

 急に言われても困ってしまうが、月乃はその試験を受けて入学したのだから意地でも思い出したいところである。

「・・・パスタ麺を茹でる際に誤って重曹を加え、思いがけず通常より長い時間茹でてしまった後、手が滑ってしっかり水洗いしたところ中華麺が出来上がっていた。この時鍋の中で起こっていた変化を化学式で答えよ、っていう問題は覚えてますわ。どう考えてもわざと中華麺を作ってましたから」

 先生は右の眉だけをひょいっと上げる器用な顔でいぶかしんだ。

「・・・少し顔洗ってくる」

 しばらく黙ってラジオのクラシックに耳を傾けた後、グーにした手をおでこにトントン当てながら、先生は保健室を出て行ってしまった。

 自分自身が状況を満足に把握できていないのに、他人に理解して貰うとするほうが無理があるなと月乃は思った。


 久々に帰ってきた故郷の川が釣り堀にされていた時の鮭みたいなひどい顔をしながら月乃は鏡の前にへたりこんだ。

「はぁ・・・」

 大きな溜め息をついたつもりが小さな溜め息になった。こんな小さな口じゃ満足に落ち込むことも出来ないのである。

 かつてない孤独と絶望の渦の中、月乃は半分意識を失うようにぼーっとなっていたが、不意に自分の体がこんなことになってしまった原因に関する突拍子もない奇説をひらめいてしまった。

(ま、まさか・・・)

 ステンドグラスへの誓いと第2条の破戒、そして頭上で響く鐘の音と突然のめまい・・・月乃のひらめきは不可解だった記憶の断片を階段のように駆け上がり、ついには確信の領域に到達してしまった。


 保健室前の廊下をゆっくりと行ったり来たりしていた先生の靴音が収まると、彼女は妙に力強く扉を開けて保健室に戻ってきた。

「分かった。どうせ暇だから信じてあげるよ。君があの細川月乃ちゃんだってこと」

「ほ、本当ですの!?」

「その代わり今日だけ。明日の朝にでも110番して保護して貰うからそれまでにママへの言い訳でも考えておきな」

 先生はわざと不機嫌そうな顔をしながら既に空っぽのマグカップをグイっとあおった。どうやら話を真面目に聞いてくれる気になったらしく、月乃の目には先生がエンジェルに見えた。

「百歩譲った結果キミが月乃ちゃんだってことは分かったけど、じゃあどうして今そんな小学2、3年生の姿に逆戻りしてんの」

「それは・・・」

 月乃は先程ひらめいてしまった唯一にして最大の心当たりを思い切って告げてみることにした。

「わたくしが・・・戒律を破ってしまったからです!」

 先生は目を丸くして黙った。驚いた表情は高校生くらいにも見えてなかなか可愛い先生である。

「わたくしが戒律を破ったから罰を受けたんですわ!」

 言ってて恥ずかしくなるようなセリフだが、他に心当たりがないのだから仕方がない。

「罰って・・・そんなこと言われてもなぁ・・・」

 先生が早速困っている。

「わたくしも信じられませんけど、それ以外考えられませんのよ」

「これは君の理解力が高校生レベルであることを信じた上で話すけど、外部と切り離されたように感じられる私ら動物の内部経験は、感覚印象ってやつの再生とその組み合わせで出来てるわけだから、肉体を伴ってない魂の概念が登場する話は全て創作か勘違いなんだ」

「それは・・・そうなんですけど」

「ましてや人の生き方に干渉して褒美や罰を与える人格神なんて、一応科学に従事する身としてはちゃーんと存在を否定しなきゃね」

 確かに先生のおっしゃる通りで、実際月乃は神様が関わるようなストーリーを客観的に解釈するタイプの現実主義者だから、学校のルールを破ったからとて小学生にされる道理などどこにも無いのは分かる。しかしタイミングと言い雰囲気と言い、厳しい女神様の存在を疑わせる要素があまりにも多すぎて月乃の頭はこんがらがっているのだ。

「まあそのー・・・冷静になっていろいろ思い出して、説明して欲しいんだよね」

 自分の話をすぐに理解した様子で思案し直す月乃の深刻そうな顔つきを見た先生の声色は、先程よりちょっぴり親身なものになっていた。

「今日は割と暇だから、協力してあげないことも・・・」

 その時、誰かが保健室の扉を優しく三度ノックした。

 確かに月乃が知る世界に神などおらず、聡明な月乃がこのまま保健の先生と共に医科学的な探求を続ければすぐに真実にたどり着けるのかも知れない。しかしこのベルフォールの地に敷かれた月乃の運命のレールは、どうしても彼女に厄介な神話の続きを歩ませたがっているらしく、この瞬間に最も登場させてはいけない人物を保健室に招いてしまったのだ。

「失礼します」

「あ・・・えーと、どうぞー」

 先生は一瞬月乃と目を合わせてから腰を上げ、月乃のすぐ斜め前に立った。先生の白衣の陰に身を隠すか、部屋に入ってくる人物に挨拶するかを選ぶのは月乃自身ということである。

 が、月乃の頭と体はもう先程の「失礼します」の声を耳にした瞬間から止まってしまっていた。自分の硬派なお嬢様人生をリアルタイムぶっ壊している最悪にして最高の美少女の声を彼女が聴き間違えるはずがなかった。

「様子・・・見に来てしまいました」

 静かにゆっくり開いたドアからくらくらするほど美しい顔を出したのは、やはり姉小路日奈様だった。本当はほぼ同じ身長であるはずの日奈様を、月乃は見上げることになった。

「あぁ! 起きたんですね!」

 日奈は先生のそばでポカンとしている女子小学生に気づいてパッと明るい笑顔を見せた。

「こんにちは、もう大丈夫? ケガしてない?」

 そして月乃に容赦なく歩み寄った彼女は、中腰になって月乃の顔を覗き込んだのである。包み込まれそうな優しい声と香り、眼差しに、月乃の小さな体はとろけてしまいそうだった。

「あっ・・・あ・・・あの・・・」

 月乃はどうしていいか分からず顔を真っ赤にして目を白黒させた。カラフルな少女である。

「君、日奈ちゃんって言ったよね」

「はい」

「私も本当に信じたわけじゃないけど、その子が言うには・・・」

 月乃は先生の腕をグイッと強く引っ張って彼女が何か言おうとするのを阻止した。

「ちょ、ちょっと来てください!」

「なに? ええ?」

 月乃は薬品と測定機器が並ぶ保健室の小さな別室に先生を引っ張り込み、ひそひそ声で先生に怒鳴った。

「な、なんで言おうとするんですか!?」

「・・・何を?」

「わたくしが月乃であることをですわ!」

「・・・いや、あの子なら信じてくれるかもしれないから。優しそうだし」

 先生は月乃の気持ちなど知らないから仕方がない。

「そ、そもそもどうして日奈様がここに来るんですか!? 保健委員なんですかっ?」

「ちがうちがう、あの子がさっき君を保健室まで運んで来てくれたんだよ」

「え!?」

「えーと・・・なんたら教会堂っていう坂の上にある建物の中で、裸で倒れてた君を見つけて」

「は、裸ですの!?」

「あ、うん。自分のブレザーを被せておんぶして君をここに」

「あ・・・あぁ・・・」

 月乃恥ずかしくてその場にしゃがみ込んでしまった。と同時に日奈様におんぶをして貰えたのにそのことを全然覚えていないのが非常にくやしかった。

 先生は若干察しが悪い女だがさすがに大人なので、月乃の様子を見ているうちにだんだん真相が掴めてきた。

「え・・・もしかして君が破ったっていう戒律は・・・恋の戒律とか?」

 月乃は黙ったまま頷いた。

「そ、それで・・・その相手が・・・!」

「だから絶対言っちゃダメですの! 日奈様には!」

 先生は科学の庭に住む医者であるから、目の前の小学生が月乃であると完全に信じているわけではなかったが、かなりの女好きなので、学園の優等生が笑顔の眩しい美少女に恋をしてしまって面倒なことになっているという秘密を自分だけが握っているこの状況がなんだか楽しくなってきたから、もうこの子が月乃ちゃんでいいやとこの時思った。あのクールな月乃ちゃんが美しい日奈ちゃんにメロメロになっている想像をしたら、たまらない感情が湧き上がってきたのだ。

「んー、どうしようかなぁ、黙っててあげようかなぁ」

 保健の先生は意地悪のやり方にも心得がある。

「ひ、日奈様にわたくしの気持ちをばらしたりしたら、わたくしも先生の秘密を学校じゅうに言い触らしますわ!」

「私は別に秘密なんて」

「あら、高校生モードのわたくしの体を見ていかがわしい妄想をしてたとおっしゃってたじゃありませんの」

「何も問題ないと思うけど」

「この学校の風紀への徹底したこだわりをお忘れですの? 保健の先生がこんなに不埒な女性だとバレたら誰もあなたに近づかなくなりますし、西園寺会長に報告すれば、あなたみたいな新任の先生なんてすぐにお役御免ですわ」

「ま、まさか・・・」

「本当ですのよ。追い出されちゃいますのよ」

 多分追い出されることはないだろうが、月乃の言い分はそこそこ正しい。

「先生、協力して頂けますの? 頂けませんの?」

「うう・・・」

 いつの間にか攻守が逆転していた。月乃は体が小学生になっていても名誉を守りながら生き残るための社会的なサバイバル能力の高さは変わっていないようだ。


 二人が別室から出ると、待たされていた日奈は笑顔で振り向いた。彼女の笑顔はあまりにも美しいため周囲に謎の上昇気流や放電現象が起きてそうである。

「や、やあ、待たせてしまってごめんね」

「いいえ。先生、この子のこと何か分かりましたか」

「あはは、あー・・・この子は私が東京で小児科やってた時の患者さんでね、非常に特殊な病気だから治療に必要な知識と技術を持つ医者が日本に私以外あまりいなくて、赴任先のこの学園で少しのあいだ預かることになってたのさ」

「でも先生、私がこの子を運んで来た時に、誰だろうこの子って・・・」

「あ! ちょっとね、顔の雰囲気が変わってたもんだからね。幼稚園児だった頃に比べたら、だいぶ成長したなぁと」

「そうなんですね」

 純粋な日奈は先生の言葉をすっかり信じてくれた様子である。

 これで月乃はしばらくのあいだ自分が小さくなった経緯と恋心を誰にもバレずに小学生として暮らすことが可能になり、先生の協力も一応得られたから、落ち着いて自分の身に起きた現象を調べ、元のスタイル抜群のお嬢様女子高生に戻る方法を探っていくことが出来そうである。

 先生の白衣の陰に隠れて、自分の気持ちを日奈に悟られず済んで安堵していた月乃の元に、日奈はぐいぐい近づいてきた。

「こんにちは」

「こ・・・!」

 日奈は目の高さを月乃に合わせるためにしゃがんで来たから、二人の顔は非常に近くなった。

「私ね、日奈って言うの」

「ひ・・・ひな・・・さま」

「うん。あなたのお名前は?」

「つ・・・」

「つ?」

 月乃であることを隠すことになったのだから、何か違う名前にしなければならない。

「つ・・・つ・・・」

 咄嗟の判断が苦手な月乃の頭の中には様々な名前が出て来た。

(桜・・・は桜様に会ってしまった時変な空気になりますわ。西園寺・・・は苗字ですわね。そう言えば会長の名前ってなんだったかしら・・・。いっそ裏をかいて保健の先生と同じ名前・・・あぁ、苗字すら分かりませんわ)

 応用力のない月乃は知り合いの名前の中から選ぶしかなかった。

「つ・・・つ・・・あの、わたくし小桃ですわ」

「こももちゃん?」

「は、はい」

「可愛い名前だね」

 つはどこから来てどこへ行ってしまったのか。

 ちなみに小桃というのは月乃の実家で飼われている2匹のネコのうちあまり月乃の懐いていない方の名前である。咄嗟に出てきたのがあかりではなく小桃だったということは、やはり月乃は小桃にもニャーニャー甘えて欲しいと潜在的に感じていたということかも知れない。

「よろしくね、小桃ちゃん」

「・・・は、は、はい」

 子供が大好きらしい日奈は月乃の小さな手をとってにっこり笑ってくれた。彼女の魅力は常人のものに比べて桁外れなので、月乃は手を触られただけで体がビクッとなってしまうほど気持ち良かった。すぐ隣りに立つ保健の先生はいかにもお医者様っぽい真面目な顔でそっぽを向いているが、月乃の今の気持ちを考えて若干ニヤけそうになっている。

「そうだ。私ね、姉小路っていうちょっと変な苗字なんだけど、そのせいで小学生の頃はお姉ちゃんっていうニックネームで呼ばれてたの。同級生とか年上の子からも呼ばれてたんだよ」

 吸い込まれそうな日奈の瞳に見つめられて、月乃は周りのものが何も見えなくなってしまった。

「だから小桃ちゃんも、私のことお姉ちゃんって呼んでいいよ」

「で、でも・・・それは・・・」

「遠慮しないでいいからね」

 月乃が憧れる究極の美が今、目の前で優しく微笑んでいる。

「お・・・おねえ・・・おね・・・」

 月乃は恥ずかしくって目をぎゅうっと閉じてつぶやいた。

「お姉・・・さま・・・」

 一刻も早く女子高生モードに戻らなければ幸せすぎて頭がどうにかなってしまいそうだなと月乃は思った。

 小学生としての自分と高校生としての自分の狭間で揺れる月乃の乙女心の険しい旅路の始まりである。

 

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