79、解散
桜は玉子焼きを頬張っていた。
「桜ちゃん桜ちゃん」
「ん?」
「昨夜の一件で月乃様はなにかおっしゃってないの?」
マドレーヌハウス一階の食堂では毎朝おいしい朝食が食べられるが、大抵寮の友達に話し掛けられる事になるので、静かで優雅なモーニングを過ごしたい人は、大人しく朝営業をしている外のレストランに行くほうがいい。
「んー・・・あの後私は月乃様にお会いしてないので何とも。タバスコを飲まれた西園寺様の具合も分からないです」
「なんだぁ、そうなの。でもでも、東郷会長の作戦が失敗してセーヌ会は今弱ってるから、ロワール会はチャンスよっ」
確かにこのタイミングでセーヌ会へ降伏を促し、ロワール会が学園を統一して黒く美しい世界を盤石なものにすることも出来るかも知れないが、弱っているのは西園寺様も同じなのでおそらくそううまくはいかないだろうと桜は思った。
「桜ちゃん、月乃様に会ったら、ロワール会はどうするのか訊いてみてね」
「わかりましたぁ!」
噂話好きのマドレーヌ寮生は桜ちゃんからの情報を重宝しているのだ。
「はいはーい皆ちゅうもーく♪」
それは晴天の霹靂だった。
マドレーヌの食堂に、セーヌ会のメンバーであるはずの金髪少女、リリアーネ様が顔を出したのだ。
「はいはーい♪ 皆さん聞いて」
「きゃー! リリー様ー!」
「は~い。私がリリー様よ♪ 今日は皆に大事な連絡があるわ」
リリーさんはいつも通りの笑顔だったが、彼女が口にしたのはあまりにも意外なセリフだった。
「セーヌ会は本日を以て解散しまぁーす! 驚いたぁ?」
生徒たちはフォークを持つ手をとめて、ただリリーさんのヨーロピアンなお顔をポカンとした表情で見つめた。驚くにも心の準備が必要なのである。
「えええ!?」
「セーヌ会が解散!?」
生徒たちは席を無意味に立ったり座ったり、食パンをくわえたまま右往左往したりして騒いだ。
「そうよ。東郷会長は昨夜の騒ぎの責任を取って会長を辞任。私たちセーヌ会は今朝、解散になったわ」
「ええええ!!」
ベルフォール女学院の第二生徒会、セーヌ会は既に解散してしまったのだ。そういえばリリーさんはいつもの白いリボンを襟元につけておらず、シャツの第一ボタンをセクシーにオープンしている。よく見ると第二ボタンまで開けているがそれは彼女の趣味なので特に触れなくてよい。
マドレーヌの食堂は大パニックであるが、リリーさんは生徒たちをさらに動揺させる一言を平気で口に出してきた。
「あ、あとこれは今朝東郷様宛てに電話が入ったんだけど、西園寺様が会長を辞めたらしいわ」
「ええええ!?」
大事件である。ロワール会の会長西園寺様が自らその座を後輩に譲ったのだ。人前で戒律を破ったことの責任をとろうと思ったらそれくらいしなければならなかったのかも知れないが、あまりにも急である。昨夜の事件の重さを生徒たちは今思い知ったのだ。
「次のロワール会の会長は月乃ちゃんでしょうねぇ~」
「西園寺様ぁあ!!」
話の途中のリリーさんを残して、マドレーヌの生徒たちは一斉に食堂の出口になだれ込んだ。
「ふう。それじゃ、私も朝ごはんにしましょ♪」
リリーは誰もいなくなった食堂の真ん中の席でコンソメスープを飲んだ。本当はリリーだって混乱しているのだが、自分に憧れてくれている生徒が一人でもいる限り、堂々と生きることが彼女の仕事である。
「あら、おいしい・・・」
リリーはスープに立ち上る湯気の向こうに、危ういほど透き通った美少女の横顔を思い浮かべた。
(日奈ちゃん、西園寺様のところへ行ったのかしら・・・)
日奈はリリーと一緒に東郷会長の話を聞いたあと、一人でどこかへ駆けていってしまったのだ。
(それとも・・・月乃様のところかしら)
さすがのリリーも、まさかあの日奈ちゃんが誰かに恋をしているだなんて思っていないので今一状況が整理出来ないのだ。
さて、このとき日奈は朝の風を切って小川沿いの道を小走りで北上していた。
『もうキミは自由だよ、日奈くん』
日奈の脳裏にこだまするのは、東郷会長の、会長としての最後の言葉である。
『私はロワール会の解散を迫り、敗北したから、セーヌ会は解散だ。元からリスクの無い勝負なんて存在しないからね。今日から日奈くんとリリーくんはマドレーヌ寮生だから、引っ越しの支度をしなさい』
慣れ親しんだセーヌハウスを離れ、マドレーヌの一生徒になることに強烈な寂しさを覚えた日奈たちは東郷会長に反論し「なにも解散することはありません!」と食い下がったのだが、覚悟を決めている東郷会長には効き目がなかった。
『日奈くん、もうキミは籠から放たれたカナリアだ。今日一日くらいは、自分の好きな場所へ飛んでいってゆっくり羽を休めなさい』
日奈は自分のことなんかよりも東郷会長のことが心配で、とても遊びに行くような気分ではなかった。ひとつの愛しい時代が目の前で終わってしまった寂しさで、日奈は泣きそうになってしまったが、東郷会長はそんな彼女の頭を割と強めに撫でて笑ってくれた。
『そんなに悲しい顔をしないでおくれ。キミは今まで私のためにたくさん尽くしてくれた。たまには自分のために自由に飛んできなさい』
そして東郷様は日奈の耳元で『私のためだと思って・・・』とささやいたのである。
日奈は月乃様に恋をしている。そのことを東郷様がなんとなく知っているのではないかと、日奈はこの時思ったのだ。そうなれば東郷様が意図している場所はひとつ、月乃様の元である。
(月乃様に会って・・・私はどうしたらいいんだろう・・・)
セーヌ会がついさっき解散になってしまった大きな悲しみと同時に味わう、月乃様と会える幸福感は、まるでチョココーティングされたポテトチップスとかトンカツのパフェのような不思議な味わいであった。相反する感情が互いを高め合うこともあるのだ。
日奈はもう一般生徒なのだから、今までよりも月乃様と仲良くできるはずである。日奈はとにかくそれが嬉しかったが、本当にそんな夢みたいな話が実現するのか、にわかには信じがたく、その答え合わせをするのが少し怖かったので、逸る気持ちとは裏腹に日奈は心のどこかで月乃様と巡り合わないことを祈っていた。
(私いま・・・自分の人生を歩いてるんだ・・・)
白く爽やかな朝霧に掛かるアーチ橋を渡りながら、日奈は弾む自分の胸を押さえてそう思った。思えば日奈は今までずっと小さな湾に帆を張り、自分を出すことをただひたすら恐れ、一人旅を楽しむ昆布の葉のようにゆらゆら流されて生きてきた。しかし、ついに自分の意志で人生を決める時が来たのかも知れない。
(月乃様に会ったら・・・何て言おう・・・)
堂々と一緒にお茶しにいけるような、公認のお友達になって欲しい、などとお願いしたら、こんな時に何を呑気なことを言ってますのと呆れられてしまうだろうか。まさか「好きです」などとは言えないが、親しい友人になるための一言くらい伝えないと一歩も進んだことにならない。
(よ、よし・・・お話がしたいので、今度カフェに行きませんか、って真面目な顔でお願いしよう)
セーヌ会のことや今度の学園のことについてお話したいのは事実なので、こういう切り出し方で月乃様とコミュニケーションをとるのはきっと正解である。一気に胸がすうっとして軽くなった日奈は、西大通りへ続く細い路地に入った。
「あ!」
ぎりぎりのところで日奈は身を隠した。大通りにはちょうどこの時、マドレーヌハウスから出てきた西園寺様目当ての一団が通りかかっていたのだ。
「西園寺様ぁあ!」
「おやめにならないでぇー!」
大聖堂へ向かっている様子である。
(どうしよう・・・)
日奈も直観に従い大聖堂に向かっていたので少し困ってしまった。今日は平日なので学舎の適所で待っておれば数時間後に必ず月乃様にお会いできるのだが、桜ちゃんが一緒にいるであろう教室で、「今度お茶しませんか!」などと言えるだろうか。日奈はつい先ほど自分の意志で決定する喜びを感じていたというのにもう弱気になってきてしまった。
(とりあえず・・・こっそり後からついてこう・・・)
西園寺様のいる場にきっと月乃様がいる。日奈は物陰に隠れながらゆっくり歩を進めた。
大聖堂のステンドグラスに注ぐ朝の陽はまぶしい光の階段になって西園寺様の髪を輝かせていた。
「あ、あの・・・」
彼女の美しい横顔を見つめて、耐えきれずに口を開いたのは月乃である。
「や、やっぱりわたくしにはまだ・・・ロワール会の会長なんて・・・」
西園寺様はロワール会と学園の全てを月乃に託すと決め、先ほど月乃にそれを告げたのだ。来月の選挙以降は月乃がロワール会の会長となる予定だったが、今日から会長だと言われるとさすがに気後れしてしまうわけである。
「こんな結末で自分が退くこと、私はなんとなく分かっていたわ。月乃さんには申し訳ないけれど、許してね」
「いえ・・・それはもちろん、いいんですが・・・わたくしなんかが、大丈夫でしょうか」
月乃は恋をしている。それは誰にも言えないことだが、このせいで明らかに学園の神様に目をつけられているので、自分がトップに立つことに強い罪悪感を覚えるのだ。
「大丈夫よ。あなたは・・・あら・・・」
西園寺様が何かを察知して月乃に駆け寄り、彼女の手をそっと握った。
「生徒が来るわ。ついて来て」
「えっ! は、はい」
西園寺様はウサギ並みに耳がいい。
二人はマドレーヌハウスの生徒たちが大聖堂に向かって駆けていくのを広場のエンジェル像の陰でやり過ごし、裏をかいて南側の路地に逃げ込み、グランドの手前の小さな噴水の広場に来た。今は大切な話をしている時なので生徒たちには申し訳ないが逃げるしかない。
ちなみにここの噴水は一時間に一度とんでもない勢いで水を四方を飛ばしまくってくるので余程喉が渇いている者でない限り近づくべき場所ではないが、他にいい隠れ処がないのでやむを得ないのだ。
「ここなら大丈夫ね」
「は、はい」
ツタの絡まったレンガが朝日を浴びていてちょっと素敵な空間である。青空の映る噴水の池を眺めながら、西園寺様は言葉を探している様子だった。
「ずっと・・・言わなきゃいけないと思っていたのだけれど・・・」
「は、はい。なんですの?」
前もこんな空気になったが、話が途中で終わっていた気がするので、今日はたっぷりお話を聞こうと月乃は思った。
「この学園の・・・神の話よ」
「・・・え!」
意外な切り出しである。事ある毎に小学生にされてしまうとんでもない人生を送っている月乃はともかく、西園寺様が学園の神様について語るなんてちょっと驚いたのだ。しかしよく考えると学園の神様に一番近い存在がまぎれもない西園寺様なので、今日彼女の口からこの話が出るのはある意味必然かも知れない。
「私は・・・私はね・・・」
西園寺様は言葉を選んだ。
「私は・・・私は・・・その・・・あのね・・・」
「な、なんですの・・・」
伝えるべき自分の気持ちを西園寺様自身がはっきりと掴む前に、事件が起こる。なんと二人がいる小さな広場の中央の噴水が、空気を読まずに水をまき散らし始めたのだ。
「キャッ」
西園寺様は謎のお嬢様オーラにより水を寄せ付けなかったが、月乃は狙い打ちされた。朝の冷たい水がダイヤモンドのように輝きながら頬や喉元に飛び掛かってくるので月乃は思わずネコのように飛び退いた。
人は偶然が重なることを運命と呼ぶことがあるが、まさにその運命の瞬間が訪れることとなる。
「わ!」
「あっ」
後ろ向きに転びかけた月乃の髪や後頭部をふわっと抱きしめて支えてくれた、優しく甘い香りとたまらない柔らかさは、なんと月乃の大好きなあの人のおっぱいであった。
「だ、大丈夫ですか・・・?」
状況を飲み込めないまま青空を見上げた月乃は、自分を抱きしめてくれた優しいお姉様の天使のようなお顔に出会った。日奈様である。
日奈は生徒たちの一団から一歩遅れて歩いていたため、たまたま今ここを通りかかったのだ。もう日奈は月乃のことを単なる友人などとは思っておらず、恋の相手として大変強く意識しているので今まで通り無邪気に触れ合うことはできない。日奈は今、月乃に負けずとってもドキドキしていた。
(月乃様・・・ちょっと・・・可愛い・・・)
日奈は遠慮がちで気が小さいくせにどうも姉気質らしく、クールなお嬢様であるはずの月乃に対しよく「可愛い」という感想を抱く。日奈は自分の胸にもたれ掛かったまま驚いた顔で固まっている月乃様の綺麗な白い頬をつんっとつついてしまいたくなるような、そんな衝動に襲われたが、そんなことをしたら嫌われてしまうので我慢することにした。
「は、は、放してくださいっ!」
しばらくして我に返った月乃は、ようやく日奈の胸から離れた。
「す、すみません!」
同じく我に返った日奈も、慌てて気を付けの姿勢に戻った。私ったらなんて変なことを考えているの、と日奈も顔を赤くしてしまった。
この一瞬が月乃の一日を大きく左右した。久々に日奈様と触れ合えた喜びにより、月乃の心身はすっかり火照ってしまったのだ。もちろん学園の神様がこれを見逃すはずもなく、ベルフォールの鐘の音はめでたく月乃に迫ってきた。
(わわ! 西園寺様から重要なお話をして頂けそうなタイミングだったのに・・・! わたくしのばかばか! 煩悩のかたまり!)
月乃はお天気がどうとか日直がどうとか意味不明なことを言い残してその場をあとにした。
この一連の流れ・・・月乃が変身するときによく見る光景であるが、今回は少し事情が違う。
(月乃様・・・私に触って、逃げていっちゃった・・・)
自分が少し失礼だったに違いないと日奈は自分を責めたが、そのもやもやに勝るとも劣らない不思議な快感を彼女は同時に感じていた。
(月乃様を・・・私、抱きしめちゃった)
ドキドキが止まらなかった。まだ自分の手に残っている月乃様の背中のぬくもり、髪の柔らかさが、日奈の胸の中でぐるぐる回って全身に熱い血を運んだのだ。体の芯がキュンっとして、耳の温度がぐんぐん上がった。
「あっ」
すぐ近くで西園寺様がこっちを見ていることにようやく気付いた日奈は、恥ずかしそうにうつむき、ちょっとニヤけてしまっている呑気な表情を見られないように深く頭を下げた。
「日奈さん・・・」
「は、はい」
日奈は西園寺様とあまりおしゃべりをしたことがない。
「月乃さんに上手くお話出来ないから・・・あなたに聴いてもらおうかしら」
「え?」
「少しお時間・・・いい?」
噴水に掛かった虹が西園寺様の胸元のリボンをより黒く、美しく演出したが、日奈はその黒の向こうにはかなげな優しさと悲しさを見た気がした。自分に何かできることがあるかも知れない・・・先ほど自分の恋を改めて見つめ、自分の足で歩くことへの抵抗を幾分か無くせた気がする日奈は、ここでさらに勇気を出して、今まで争っていたはずの会のトップとのおしゃべりに臨むことにした。
「は、はい!」
ちょっと恥ずかしいくらい声が高くなってしまったが、自分の殻を破ろうする者を笑うほどこの学園に吹く風はひねくれていないから大丈夫である。日奈は足元の水たまりを飛び越えて、黒の女王、西園寺様の元に駆け寄った。