78、湖上レストランの変
「え! 月乃様がいらっしゃるんですか!?」
「ああ。私が呼んだ」
目を丸くする日奈の前で、東郷会長は平然とアコーディオンを弾き始めた。ちなみに東郷会長のアコーディオンは日奈が小学生の時に音楽室で見かけたものと異なり、左手側にとんでもない数のボタンが並んでいるちょっと凄い楽器である。
「あの・・・どうして月乃様を?」
日奈は自分の胸の高鳴りを知られないように慎重にそう尋ねた。
「おそらく必要になるからだ。彼女の助けが。最終的にね・・・」
会長はレストランの天井に下がるランプをぼんやり見つめながら答えた。セーヌ会の次期会長を発表する場に呼ばれたロワール会の月乃様が、公に何かを助けてくれるとは思えない日奈は首を傾げた。
「日奈くんはとにかく今日起きることを忘れないでいてくれればいい」
「え・・・」
「うまくいく確率は・・・五分五分だ」
一体どんな奇怪なパーティーをする気なのか。
「ところで、リリーくんはいるかい?」
「はーい、ここですわ♪」
リリーはレストランのマカロニグラタンを一人で貪っていたが、名を呼ばれてボックス席から飛び出してきた。相変わらず美しい金髪である。
「湖上レストランに来た生徒の中で、一番厚着をしている三人組を探して来てくれ。見つけたら、本人らに気付かれる前に私に知らせて欲しい」
「厚着ですのね。分かりましたわ♪」
意図を理解する前に行動し始めるリリーさんは、おそらく東郷会長を心から信頼しているか、もしくはおバカさんである。
大事件という一言で片づけるにはあまりにも意外な出来事に、西園寺様はじめロワール会のメンバーたちは仰天していた。
「ど、どうして・・・」
「どうしてこんなに人が集まってるんです!?」
ゴンドラの上の月乃と林檎は、先を争うように湖上レストランへ向かう小舟の数に自分の目を疑った。ベルフォール女学院の生徒のほとんどが、セーヌ会の動向が気になって寮から繰り出してきたのだ。これまでセーヌ会が見せてきたアウトローなサプライズ、変化の風を少しでも面白いと思っている者は湖のレストランへ来てくれという話だったが、まさかこんなに大勢の生徒が集まるなんて、集まっている生徒たち自身が思っていなかったほどである。
耳を澄ませばそんな生徒たちの興奮が小声になって漏れてくるのが分かる。
「東郷会長、今度はどんなことをするのかしら」
「ちょっと、笑顔はダメよ」
「あなただって」
生徒たちは学園の神様、あるいはロワール会に対して悪い事をしているという後ろめたい気持ちは持っているようだが、満月に誘われ、時に流され、どうにもならなかったのだ。
「西園寺様がこんなにお近くにおられるというのになんて無礼な・・・!」
「いいのよ、林檎さん」
ゴンドラを漕ぐオールで他の舟をつつこうとしているデンジャラスガール林檎を西園寺会長は優しくなだめた。
ちなみに三人はセーヌ会の集会に誰にも気づかれずに出席するため厚着で変装しており、特に林檎さんは雪国の狩人みたいな私服で来たから逆に浮いてしまっている。とにかく三人は東郷会長が学園の伝統と戒律をないがしろにする言動に出たらすぐに止めに入り、勧善懲悪のショーを美しくを演じるつもりなのだ。
「月乃さん、林檎さん」
「はい。なんですの」
陽の暮れた川面に映る生徒たちの影が徐々に増えてきた頃、西園寺様が口を開いた。
「何かあっても、動くのは私よ。あなたたちはあくまで私を補助するだけで、お願いね」
「わ、分かりましたわ」
そして西園寺様は遠くに見えてきた湖上レストランのテラスの電灯をいつもの無表情で見つめ、ささやくように言ったのだった。
「ロワールハウスに戻ったら、今夜はおいしいシチューを作ってあげるわ」
三人の舟はレストランの裏手にある小さな桟橋に回り込んだ。ここからならレストランのテラスに容易に潜り込めるのだ。
学園のほとんどの生徒が三番街、湖上レストランの前に集まった。
山から下りてくる冷たい風が少女たちの髪や湖面の小舟を揺らすが、辺りの静かな熱気がそんなもの跳ね返している。みんな期待に目を輝かせているのだ。
「あ、東郷会長だわ!」
大聖堂の尖塔に月がかかった頃、白いリボンの三人がレストランから出てきた。小さな島にこれだけ大勢の聴衆が集まると対岸や舟の上までもが客席である。
「諸君、よく来てくれたね。セーヌ会の会長、東郷礼だ」
東郷会長は胸を張って生徒たちを見渡した。
「本当にありがとう。悪の生徒会の動向が気になるというのが本音かも知れないが、キミたちのハートの中に私たちセーヌ会がこれほど大きくなっていることを光栄に思うよ。私の思い上がりで結構だが、私はキミたちの行動を私への支持と受け取りたい」
生徒たちは木々を揺らす夜風のようにざわめいたが、セーヌ会のお陰で学園のイベントが盛り上がり、西園寺様や月乃様のかっこいいシーンを拝むことが出来たのだから、全面的に東郷会長への不支持を表明できる者など一人もいなかった。
「東郷様! それで、次のセーヌの会長は!?」
「そうよ! 早く教えて下さぁい」
「早くう!!」
「日奈様よ! きっと!」
少女たちは日奈の名を聞いてまばらに拍手をした。みんな素直になりきれていないが、姉小路日奈というぶっちぎりの美を持つ少女の会長就任を夢見ているのだ。ちなみにリリーを支持する少女も相当数いるので、ある小舟では日奈派とリリー派が分かれて脇腹を突っつき合っていたりする。舟の上であまり激しくいちゃつかないほうが良い。
生徒たちの無邪気な姿を見てなぜか安心した様子の東郷会長は、優しく笑いながらテラスの通路を南へ歩き出した。
「次のセーヌ会の会長を発表する前に、セーヌ会の今後を決めなければいけない」
彼女が何を言い出したのか、集まった生徒たちにはもちろん日奈やリリーにも分からなかった。
「みんな聞いてくれ!」
レストランのテラスの端、白い木製の階段を上った先にあるベンチを視界に捉えた東郷会長は急にお腹から声を出して語りだした。舞台の王子様役のようなかっこいい声に生徒たちは震えた。
「キミたちをここに呼んだのは、私の乾坤一擲の大勝負を見守ってもらうためだ!!」
虹色にライトアップされた噴水の水音を伴奏にして東郷会長は歌うように声を上げた。
「来てくれたことは分かっている! ロワール会の黒の女王、西園寺くん」
「えええ!?」
生徒たちは動転し、すぐさまレストランの南側に小舟を移動してテラスを望んだ。
しばしの沈黙ののち、小さな階段の上のベンチに腰かけていた生徒がゆっくりたちあがり、頭から被っていた白いショールをとった。現れたのは黒いリボンを胸に揺らす究極のお人形、西園寺様だった。
「さ、西園寺様!」
「およし下さい!」
月乃と林檎も思わず飛び出してしまった。ロワール会の三人がこんなところにいると知って生徒たちは驚きながら歓声を上げた。ロワール会への後ろめたさも忘れて喜ぶとは随分呑気な生徒たちである。
「西園寺君」
白い階段の下から東郷会長は西園寺会長をまっすぐな視線で見上げた。
「西園寺君、私はキミを果てしない呪いから救うために長い月日を掛けてこの場を作り、ここへ来た!」
西園寺様は相変わらず氷のように無表情である。
「あとはキミの勇気だけなんだ! 悲しい歴史をキミの手で断ち、ベルフォール女学院の真実の姿を手に入れるんだ!」
一体何の話か見当もつかない生徒ばかりだったが、月乃には心当たりがあった。
(呪いから救うため・・・?)
月乃は明らかに人知を超えたイタズラを天から受けており、戒律を破るだけで小学生にされてしまう彼女の体質を「呪われた」と表現しておそらく間違いではない。東郷会長はこの辺りの秘密をやはり知っているのだ。
「戒律は私が変えてみせる! だから・・・ロワール会を解散して、メンバー全員でセーヌ会へ来てくれないか!!」
学園に衝撃が走った。東郷会長はロワール会の降伏を要求してきたのだ。
「見ての通り、今はこれだけ多くの生徒が白いリボンの味方になってくれるんだ! キミも来てくれないか!!」
「き、貴様! 自分が何を言っているか分かっているのか!」
林檎は階段をピョンピョン下りて東郷会長に詰め寄ろうとしたが、リリーにさえぎられた。リリー自身、東郷会長の意外な発言にかなり戸惑っているのだが、可愛い林檎さんを制するのが彼女の仕事でもある。リリーさんの柔らかい胸にポヨッと抑え込まれた林檎さんは顔を赤くしてめでたく黙り込んだ。
「美冬! 私は・・・! もう一度キミの笑顔が見たいんだ!! あの頃のような、キミの笑顔が!!」
西園寺会長を名前で呼べる唯一の人間、それが東郷会長である。東郷会長は白い階段に一歩踏み出した。
「・・・来ないで」
「美冬!!」
「・・・お願い、来ないで」
東郷会長がもう一歩階段を上った瞬間、西園寺様はブレザーのポケットから小瓶を取り出した。月乃からはそれが何なのかはっきりとは見えなかったが、手のひらに収まるサイズの赤い瓶で、緑色のキャップがついていた。
「来ないで!!」
「そ、それは、まさか・・・美冬!」
「来ないで・・・! 来ないで来ないで! 来ないで!!」
震える声で叫んだ西園寺様は、小瓶のキャップを外すとそのままグイっと中身を飲み干したのだった。
「待ってくれ! 美冬!!」
止めようとする東郷会長の足は間に合わなかったのである。
「さ、西園寺様!?」
月乃が駆け寄ったのと西園寺様の体が後方にゆっくり倒れたのは同時だった。
「西園寺様!! 大丈夫ですの!?」
西園寺様の体を支えた月乃は、西園寺様の口から赤い雫が垂れていたのでまさか血でも吐いたのかと思い焦ったのだが、足元に転がってきた先ほどの小瓶を見て納得した。
「タバスコ・・・ですのね」
と自分でつぶやいてから、月乃はひどく驚いてしまった。
「タバスコ!? 西園寺様! どうしてこんなものを口にしましたの!!」
西園寺様はどういうわけか気を失っており、お返事はしてもらえなかった。月乃が驚くのも無理はない。ベルフォール女学院の戒律の最後の条文が「刺激物を口にしてはいけない」だからである。西園寺様は生徒たちの面前でこの戒律を破ったのである。
「西園寺様ぁ!!」
「西園寺様あー!」
観衆は西園寺様の元に押し寄せた。まさかこのような形で西園寺会長の完璧な人形伝説が終わってしまうと思っていなかったからだ。
「どうして! 西園寺様ぁ!」
「西園寺様ぁ、私たちのせいです・・・!」
セーヌ会の集会に面白半分でやってきた生徒たちは自分の行動を悔いて泣き出しているが、別に西園寺様がこのまま死んじゃうわけじゃないのであまり深く気に病まなくてよい。
「どうしてですの・・・」
月乃は西園寺様がタバスコを口にした理由を考えた。
刺激物を摂ってはいけないという戒律は一番最後の条文であり、雰囲気からしても破った時の罪はかなり軽そうである。それを自分から実行し、幸運にも気絶したということは、他に絶対破りたくない戒律があり、それに耐えられなくなる前に自らのお嬢様道を断ったのではないだろうか・・・名探偵月乃はそう考えた。
(あ・・・)
どちらかは定かではないが、喜怒哀楽を禁じる戒律か、もしくは恋を禁じる戒律を破りそうになったに違いないのだ。
(西園寺様は・・・東郷会長のこと・・・)
月乃は昼間に見た西園寺様の横顔を思い出した。もしかしたら近々こんな事態になることを西園寺様自身悟っていたのかも知れない。
これは月乃のご明察であった。西園寺様はあれ以上東郷会長に愛に満ちたセリフで言い寄られたら、恋の戒律を破ってしまうところだったのである。タバスコは、最も重い罪を犯す前にその場を逃げ出す苦肉の策だったのだ。東郷会長は全て計画通りに西園寺様のハートを追い詰め、あと一歩のところだったのだが、あんなものをポケットに忍ばせていたのは予想外だったわけである。
西園寺様は大勢の生徒に見守られながら無事保健室のベッドにたどり着き、意外と心地よさそうにすやすやと寝息を立てて眠り始めたが、のちに「湖上レストランの変」というセンスがあるんだかないんだか分からない名前で呼ばれることになるこの事件により、ベルフォール女学院の伝統と美は巨大な竜巻の中に置かれることになる。この影響をもっとも受けることになったのは二人の少女・・・人一倍不器用なくせに根性でお嬢様を演じる奇才細川月乃と、初めての恋に足元も覚束ない心優しき美少女姉小路日奈である。