77、招待状
「日奈くん、考え事かい?」
「えっ! いえ、別に!」
まるでカンニングがバレたような慌てた様子で日奈が顔を上げたものだから、東郷会長は思わず笑ってしまった。
「リリーくんは顔を洗ってくるから先に食べてていいと言ってたよ」
「は、はい」
東郷会長が向かいの席に腰掛けたので、日奈は背筋を伸ばしてフォークを手に取り、朝食のパンと大豆サラダを食べ始めたが、4、5口食べるまでサラダにドレッシングを掛け忘れていることに気づかなかった。それくらい今の日奈の頭は回っていない。
すべて、恋の病のせいである。
今朝、日奈たちは閉じ込められていた大聖堂を出てつい先程セーヌハウスに帰寮した。能天気なリリーはしきりに「晴れて良かったですわぁ♪」などと言って日曜日の爽やかなモーニングを楽しんでいる様子だが、日奈は状況が違った。
まさか自分が恋をしており、しかもその相手が学園一硬派で次期ロワール会の会長となる少女だなんて、日奈は夢にも思わなかった。本当はもっと前から日奈は月乃に恋していたのだが、あまりに鈍感だったため大聖堂で一夜を過ごすまで気づかなかったのである。
「日奈くん」
「は、はい!」
日奈はパンを落としかけた。いちいちビックリしないで欲しいところである。
「リリーくんが来たら、少し大事な話がある」
「え・・・大事なお話、ですか」
「ああ」
ちなみに東郷会長は日によってサラダにドレッシングを掛けたり掛けなかったりする。
「昨夜は台風で大変な目に遭ってしまったが、当初の計画は変わらない。お、リリーくんが来た」
「はぁい、来ましたわよ♪ 何のお話ですのぉ?」
日奈は自分が普通に恋をする体質である事に気づいてしまったので、色んな意味で大人なリリーさんの所作が妙に気になって見つめてしまった。なんだかリリーさんが自分の人生の先輩になった感じである。
「今夜の事だ。今夜、予定通り私は湖上レストランで次のセーヌ会の会長を発表する」
「どうせ日奈様なんでしょう?」
「ははは。しかし日奈くんには荷が重いかも知れない。どうなるかは私の発表までのお楽しみだ」
東郷会長は水をぐいっと飲みほして一息ついた。上品な海賊みたいな感じである。
「今夜・・・ちょっとした事件が起きるはずだ」
「じ、事件?」
日奈はリリーさんと顔を見合わせてしまった。相変わらず地中海のような美しいブルーの瞳である。
「私はセーヌ会の会長となって、とても幸せだったよ」
まるで今日で会長を辞めるかのような感傷である。
「日奈くん、リリーくん」
「はい・・・!」
「生徒たちは学園のためにいるんじゃない。学園が生徒のためにあるんだ」
意味はよく分からないが、かなり大事なメッセージであるはずなので日奈はしっかり耳に入れ、胸に刻むことにした。
「人生には数度、我を押し通してでもやらなければならないことがある。キミらにもいつかその時が来るから、それまでに本当に自分の望むことについてしっかり考えておくといい」
自分の望むこと・・・今の日奈には難しい問題であった。月乃様ともっと仲良くなる事と簡潔に表現することも出来るが、それもちょっと違う気がした。
「大切なのは自分を信じることだ。分かったね」
「は、はい」
正直よく分からないが、真意の理解は先延ばしにして、日奈は東郷会長の言葉を心の中の図書館にそっと収めることにした。
「ありがとう。それじゃあ、夜までゆっくり休んでくれ」
どんな日曜日になるのかサッパリ想像もつかない日奈には、のど通る紅茶の香りだけがただ鮮明に感じられた。
「月乃さん、いる?」
「ひ!」
保健室で保科先生に昨夜の大聖堂での出来事や自分の活躍を得意気に語っていた高校生モードの月乃は、窓から突然顔を出した西園寺様の声に大層驚いた。
「い、いますわ」
「体調は平気?」
「はい、平気ですわ!」
月乃は今日が学園にとってかなり重要な日になることを既に予感していたので、自分の頬をぺちっと叩いて気合いを入れてから西園寺様のほうへ向き直った。西園寺様のリボンは朝日を浴びているせいかいつも以上に美しい漆黒である。ロワール会のお嬢様は強めのコントラストが好みである。
「お話があるわ。ついて来て」
「は、はい!」
ついて来てと言って西園寺様は西へ歩いていってしまったが、この場合月乃は窓から外に出ろということなのだろうか。
「行ってきますわ」
「あ、うん。頑張ってね」
お嬢様はもちろん窓から緊急出動なんてしないので月乃は廊下に駆け出したのである。
月乃が西園寺様の背中に追いついた頃、西大通りはロワール会のお二人の登場に盛り上がっていた。
「西園寺様よ!」
「今日の夜はどうするのかしら!」
西園寺様は月乃にだけ聞こえるぎりぎりの声量で月乃に話し出した。
「月乃さん」
「はい」
「少しでもセーヌ会に興味を持ち、変化の風を面白いと感じている者は今夜三番街の湖上レストランに来るように、そう東郷会長は言ってたわね」
「はい。我々は行きませんわ」
「ええ。私たちはいつも通りの日曜日の夜を過ごすつもりよ。可能ならね」
「可能なら・・・ですの?」
西園寺様は目だけきょろきょろ動かして周囲の状況をチェックした。お嬢様は首をむやみに動かさない。
「誰もいないところに行きたいわ。山の中腹の教会堂へ行きましょう」
「は、はいっ」
北山教会堂は大聖堂の百分の一程度の規模のささやかな教会でアクセスも不便だが、学園を一望できるので隠れた人気スポットであり、月乃が日奈と初めてしゃべった場所でもある。教会堂へ続く石段を二人が上り始めると、なんとなくこれ以上ついていくのはマズいという空気を察し、生徒たちは大人しく水路のほとりのカフェ付近で立ち止まった。
山奥の紅葉は早いので、メープルの葉は早くも色づいてきている。
「月乃さん、座って」
西園寺様は聖堂の前にある青銅のベンチに月乃をいざなった。ベンチは少しひんやりしているが体にぴったりフィットするデザインなので座り心地は抜群である。月乃の左隣りに西園寺様も腰かけた。西園寺様と一緒にいると緊張感はもちろんあるが、これまで学園のために美しい人形の役をやり続けている二人だからこそ感じられる互いの信頼関係が場をリラックスしたものに変えてくれる。
大聖堂の屋根の上を遠い雲がゆっくりかすめていく。一歩身を引いて眺めてみると、学園の外の時間がいかに静かに流れているかを気づかされるのだ。
「きっと東郷会長は今夜・・・何かしてくるわ」
「何かしてくるって・・・何ですの?」
「昨日の東郷会長、少し様子がおかしかったのよ」
「え・・・」
そんなに東郷会長を観察していたのだろうか。少なくとも月乃は昨夜の東郷会長の様子に別段違和感を覚えなかった。
「あの子・・・震えていたわ」
東郷会長のことを「あの子」と表現できる人間はおそらく西園寺様だけである。秋風に髪を揺らす西園寺様の横顔を見つめながら、月乃はここで西園寺様と東郷会長の関係について尋ねてみる決心をした。普段はこんなこと絶対に訊くことはできないが、今日なら許される気がしたのである。
「あの・・・西園寺様」
「なあに」
「西園寺様と東郷会長は・・・昔からのお知り合いですの?」
西園寺様は目だけを動かして月乃をちらっと見た。意外な質問だったに違いない。
「私とあの子は・・・同じ小学校出身なの」
「あら・・・そうですのね」
「幼馴染よ・・・」
西園寺様はその後、ただ切なげに目を細めて風の音を聞きながら黙ってしまった。実に寡黙なおねえさんである。
「昔から折り合いが悪かったんですの?」
「いいえ。・・・むしろ仲が良かったわ。けれど・・・目指すところが違ったのね」
「・・・もしかして、この学校に入ってから仲が悪くなりましたの?」
「そうね。そんな感じだわ」
西園寺様は無表情なので彼女が考えていることなど普通は分からないのだが、この時の月乃の目には西園寺様がとても寂しそうに見えた。
「ねえ、月乃さん」
「はい」
「・・・いえ、何でもないわ」
何でもないらしい。眼下の街並みからかすかにアコーディオンの音色が聞こえてくる。
「私の危うい青春は、とうとうこの秋でその任期を終えることになるけれど、それまでもたないかもしれないわ」
「もたないって・・・何がですの?」
「完璧な人形でいることよ」
西園寺様が弱音を吐くなんて珍しい。
西園寺様なら生徒会長という立場を抜きにしてもいつもクールで美しいお人形でいてくれるだろうと月乃は思っているのだが、どうやらそういうわけでもないようだ。西園寺様もそれなりに悩みを抱えているということに違いない。
「だから最近、持ち歩いているのよ」
「え、何をですの?」
西園寺様はブレザーのポケットに手を入れ、何かを出しかけたが、そのポーズでしばらく石のように動かなくなり、やがて元の姿勢に戻ってしまった。
「内緒よ」
「え」
実にミステリアスなお人形さんである。
「もしも・・・もしも私に何かあったら・・・」
西園寺様の声はいつもよりか細く、震えているようにも聞こえた。
「ロワール会のこと、よろしくお願いするわ。月乃さん」
まだ選挙は先なのに、随分が気が早いなと思いつつも、月乃は西園寺様の目を見てはっきりと「はい」と言った。西園寺様はまっすぐな月乃の瞳に少々照れたらしく、無表情のまま下を向いて自分の指をちょんちょんと合わせて黙った。西園寺様は生徒会長を辞めたとたん桜ちゃんみたいな性格に変化する可能性がゼロでない。
とにかく今夜、街灯が灯る頃に湖上レストランに何人の生徒が集まるのか、それが二人にとって一番気になるところである。セーヌ会の次期会長など翌朝月曜日に一気に皆の耳に入るのだから、真にロワール会に憧れている生徒であれば当然無視するイベントだ。そうなれば月乃は、セーヌ会の人気など所詮この程度なのだと、自信を持って来月の信任投票を迎えることができるのだ。しかしもし大勢が集合したら・・・その時はその時である。
(やっぱり・・・次のセーヌ会会長は日奈様ですの?)
自分の片思いがますます苦境に追いやられる気がして月乃は胸が痛かった。今この瞬間も日奈様が月乃のことをスーパーラブリーな気持ちで想い焦がれていることに月乃は全く気付いていないから呑気に胸を痛めていられるのである。
「ねえ月乃さん」
「は、はい!」
日奈様のことを考えている時に声を掛けられると反応が大きくなる。
「その・・・月乃さんは、この学園に来てから・・・何か不思議な現象を体験したこと・・・」
「西園寺様ー! 月乃様ぁー!」
悪いタイミングで誰かがやってきた。声だけ聴けば桜ちゃんっぽくもあるが、階段を駆け上がって来たのは姉の林檎さんである。
「こ、このような手紙がたった今ポストに! ポスッと!」
「手紙?」
「はい。月乃様宛てですが、差出人は・・・」
東郷会長だった。直接メッセージを伝えにくればいいのに、なぜわざわざ手紙にしてロワールハウスのポストに入れてきたのか。
「中身はなに?」
「今開けますわ!」
西園寺様と林檎さんに挟まれた月乃は、ちょっと震える指先で封を切った。林檎さんの帽子が月乃のほっぺにむぎゅっと当たっている。
「ええと・・・今夜は台風一過、とても綺麗な月が出るに違いない。だからというわけではないが、ぜひともキミ、細川月乃くんに我らセーヌ会の集会にご招待したいのだ。特別にイカ墨パスタとブラックベリーのタルトをご用意しよう。・・・ですって! これ招待状ですの!?」
「ブラックベリーは割と紫色だ! 黒ではない!」
林檎さんは果物に詳しい。
「ど、どうしてわたくしを誘いますの・・・」
「何を企んでいるあの女! ぶっ飛ばしてくれる!」
林檎さんは血の気が多い。
「これはおそらく罠です月乃様! 行ってはいけません」
「そうですわね。今夜はロワールハウスで普通に過ごしますわ」
西園寺様が無言である。月乃と林檎は息を呑んで会長の言葉を待った。
「・・・行くべきだわ」
「え?」
「ただし全員で。私と林檎さんも、こっそりと。今はとにかく東郷会長の想定外の行動をとらないと、彼女の筋書き通りに事が進んでしまうもの」
確かに西園寺様の言う通りである。黙っていては東郷会長の思うつぼかも知れず、機を見てセーヌ会のイベントを妨害出来る場所に行くことは必要かも知れない。周りの生徒に気づかれないようにレストランに行けば西園寺様目当ての生徒が集まることもないはずだ。
「では、さっそく準備です! 私たちの変装を考えなければなりません。一度寮へ戻りましょう」
「あら、林檎様の変装はその帽子を取れば完了じゃありませんの?」
「そ、それでは桜と間違えられるじゃありませんか!」
「桜様のフリをしていれば大丈夫ですわ」
「イヤです。とにかく寮へ行きましょう」
「そうですわね」
善は急げである。月乃ははやる気持ちを抑えて冷静にお嬢様フェイスを作ってから立ち上がり、林檎さんの背中を追って駆け出した。
「月乃さん」
「えっ」
月乃を呼び止めたのは他でもない、西園寺様である。彼女は月乃に何か言い残したことがある様子だった。
「何でもないわ。今夜はよろしくね」
何でもない人生を送っている人は「何でもない」なんてセリフを言うことはない。このとき月乃にはなぜか西園寺様が寂しそうに見えたので、月乃はわざわざ引き返して青銅のベンチのおねえさまの手を取り、力強くうなずいて見せた。
「わたくしがついてますわ! 参りましょう」
驚いた西園寺様はこの瞬間、ほんの少しだけ幼い少女のような顔で月乃に見とれたのだった。月乃も随分頼もしくなったものである。




