74、嵐の前
近頃、高校生モードの月乃は教室に一番乗りするのが難しい。
「月乃様、いいお天気ですね~」
「そうですわね」
張り切って一番に教室に到着し、窓の桟にもたれて大聖堂を望む桜ちゃんは朝からとってもお元気で、生徒会長選挙を一か月後に控え、しかも今日の午後に選挙に関する集会も開かれるため非常に緊張している月乃とはずいぶん心持ちが異なるが、まるで可愛い動物でも見ているかのような癒し効果を得られるので彼女のそばに立っていることは決して不快ではない。
ちなみに、桜ちゃんは自分が林檎さんの双子の妹だったことを内緒にしていたせいで月乃様に嫌われたんじゃないかと懸念していたのだが、月乃様は全然そんなこと気にせず引き続き仲良くしてくれたので、今では以前よりさらに忠実な月乃のワンちゃんになっている。
「風も気持ちいいですぅ~」
「あら、風が出てきましたの?」
閉まっている窓に背中でもたれて、耳だけを桜ちゃんに向けていた月乃は、桜ちゃんのすぐ隣りに立って外を眺めた。確かに空は明るいが、吹いてきた湿った風は奇妙は押し引きで月乃の髪を揺らした。台風が近いせいである。
(んー)
台風も気になるが、月乃は今ちょっと考えていることがあった。今日の朝食はトーストした割と普通の食パンに、西園寺様がどこかのお店で買ってきて下さったカナダ産高級メープルシロップをかけて食べたのだが、その時に話題になったことがあるのだ。食パンの袋の口を留めるMみたいな形をした青いプラスチックの物体の名前を月乃が尋ねたら、林檎さんがすぐに「あぁ、それはほにゃららですよ」と教えてくれたのだが、教室までやってきて桜ちゃんの顔を見たらすっかり忘れてしまったのだ。桜ちゃんは物忘れの性質を他人に伝播させるパワーを持っているおそれがある。
「今日の集会には傘を持っていくべきかも知れませんね~。忘れないようにしなくちゃ」
「そうですわね」
なんとかレンジャーみたいな名前だった気もするが、理解が容易な英単語の組み合わせだったはずである。
(んー)
月乃はいつも美しい所作で生きることを心掛けているが、深く考え事をする時は机に頬杖をついたりするくせがある。どうしてもあのプラスチックの物体の名前を思い出したい月乃は、この場に桜ちゃん以外の生徒がいないという安心感から自然に体が動き、桜ちゃんの肩に手を添えて軽くもたれ掛かってしまった。月乃にとっては特に深い意味のない行動であり、お店で何気なくぬいぐるみの頭をぽんぽんと撫でる行為と何ら変わらないのだが、桜ちゃんにとっては只事ではなかった。
(あわ、あわわわ!! これは一体なんですかぁあ!?)
お外を眺めてのんびり初秋の風を味わっていたら、憧れの月乃様が背後からそっと抱きしめてきたのだ。しかも月乃様の綺麗なほっぺが自分の側頭部にほわっと押し当てられており、まるで恋人同士の優しいスキンシップのようである。
(つ、月乃様ぁ・・・! いけません・・・こんなところ、誰かに見られたら!)
(ワインを開けるのはワインオープナーですから、パンの袋を閉じるのは・・・)
二人とも全く違うことを考えている。
(あ! そうですわ! バッグクロージャーですわ!!)
(あれ・・・ところで私、集会に何を持っていこうと思ったんだっけ・・・)
片や思い出し、片や忘れる、これがエネルギー保存の法則というやつである。
一般生徒が生徒会長の座を希望し立候補してはいけないというルールはないが、基本的に次の会長は前任の生徒が一人を指名するため、選挙自体はただの信任投票になることが多い。そしてその次期会長候補は選挙期間が始まる少し前に集会で全校生徒に一斉に公表されるのだ。それまでは西園寺様も明確に「月乃さん次のロワール会のリーダーはあなたよ」とは言ってくれないから、今日の全校集会でいきなり「林檎さんがふさわしいわ。月乃さんには副会長になってもらいます」と宣言される可能性もゼロではない。しかし林檎さんはもう副会長になる気満々だし、西園寺様も食事中などに無表情のままじっと月乃の目を見つめてなにやら念を送ってきて下さるので、きっと間違いはない。
「今日はいよいよ会長候補の発表よお!」
「セーヌ会の次期会長も分かるのね」
「あっちは間違いなく日奈様だわ・・・」
「楽しみですねえ!!」
土曜日は午前中で授業が終わるので、ホームルームが終わってお昼になると、生徒たちは一気に大聖堂へなだれ込んだ。だいたいの生徒たちが戒律を守り、粛々と行動しているが興奮は隠しきれていない。
「さあてと、私も月乃ちゃんたちの晴れ舞台を見に行こう♪」
お昼のサンドイッチを食べ終えた保科先生はうきうきしながら保健室を出ようとしたが、ちょうどそのとき廊下から足音が迫ってきた。
「先生ー、なんか友達が、急にめまいに襲われたらしくって」
「・・・めまいです、先生」
「ええ!? そ、そっか。じゃあ、入って」
イベントの時に限ってお仕事がやってくるものである。
さて、その頃学舎の昇降口前で落ち合った月乃と林檎さんは、大聖堂に着く前から人々に囲まれていた。
「月乃様! 今日はかっこいい演説期待してますわ」
「セーヌ会の日奈様との違いを見せつけて下さい!」
ちなみにセーヌ会はセーヌ会で次の会長を発表するはずなのだが、別にこの学園に生徒会長が一人でなきゃならないというルールはないから、今まで同様黒いリボンと白いリボンの生徒会長が並立することになる。
「ま、まだわたくしが次期会長と発表されたわけじゃありませんから、騒がないで下さいます?」
「その通りです。月乃様ではなく私が会長に推薦され就任したら、まずあなたたちを謹慎処分にしましょう。イヤならここで騒がないで下さい」
林檎さんは生徒の喜怒哀楽に厳しい。
一団を伴って西口から大聖堂の客席に入った月乃を、早くも堂内に集合していた少女たちはロワール会流の敬礼で迎えた。星に祈りを捧げるあのポーズである。
ちなみに月乃を含めたほとんどの生徒が自分の寮や昇降口から傘を持ってきたので通路には黒い人参みたいなものがたくさん並んでいるから少々気を付けて歩かないとスカートの裾が傘に当たり、ドミノ倒しのような事態が起こる。
星は青い晴天の彼方に沈み、その晴天も厚い雲に覆われ始めた今、ベルフォール大聖堂のステンドグラスを照らすのは生徒自身の仕事であるが、それにはもってこいの人材が今、大聖堂にやってきた。
「西園寺様よ!」
見張りの少女の一声で生徒は一斉に立ち上がり敬礼をしたが、意外にも西園寺様が西口からでなく北口から登場したので全員横向きでのご挨拶になった。間抜けである。
時を同じくして白いリボンの三人衆も南口から現れた。東郷会長、日奈、リリーの三人である。不意に日奈が現れたためこの瞬間にもう何人か気を失っているし、東郷会長の隠れファンやリリーさんにエッチないたずらをされることを望む酔狂な子たちも小さな歓声を上げた。ロワール会を頂点としたベルフォール女学院にあるまじき醜態である。
司会席のすぐ脇のロワール生徒会専用席までやってきた西園寺様は、月乃と林檎さんの顔を見比べて静かに頷いた。今日は頑張りましょうね、という意味である可能性が高いが、ガスの元栓締め忘れて来ちゃったけど、いいわよね、というメッセージかも知れない。西園寺様の考えていることはいつも難解である。
香炉の煙が真上に立ち上るまで堂内の空気が落ち着くのを待ってから、集会は厳粛に始められた。
『それでは、ロワール会、西園寺会長のご挨拶です』
いつにも増して真剣な声色の放送部員に名を呼ばれ、西園寺様は月夜のような黒髪を静かに揺らして祭壇の前に立った。
「こんにちは。ロワール会の西園寺美冬です」
全生徒の憧れの的、西園寺様の凛としたお言葉はスピーカーを通じて少女たちの耳を涼やかに潤した。
(なんてお美しいんですの・・・わたくしが、西園寺様のようになれるのかしら・・・)
月乃は考えた。少なくとも日奈様の魅力に負けてしょっちゅう戒律を破ってしまっているうちは三流である。
(日奈様は・・・どこですの)
前列の生徒たちの影に隠れているが、日奈様の周りは不思議とキラキラ光っているのでおおよその場所は把握できる。月乃はいつも気が付けば日奈様を目で追っているのだ。
「さて、私は来月の終わりで生徒会長の座を後輩に譲ることになります。人形の学園にふさわしい次期生徒会長候補が必ずしも現れるとは限らない状況で、細川月乃さんに会えたことを私は神に感謝します」
発表前に名前を言っちゃうところが西園寺様の可愛いところである。
「ロワール会の次期生徒会長候補は、細川月乃さんよ!」
常に生徒たちの期待に応え続けてきた西園寺様は、今度もやっぱり期待通りの決断をしてくれたわけである。胸をいっぱいに満たされた観客たちは調和した展開の美しさに歓声を上げ、拍手をした。ベルフォールの次の時代を担うのは月乃様以外いない・・・月乃様ならロワール会の美しい伝統を受け継いでくれる・・・そんな気持ちで生徒たちの心は一つになったのだ。
「というわけで、突然ですけど、月乃さん。皆さんにご挨拶できるかしら」
「も、もちろんですわ!」
あれだけ毎晩夕食時にアイコンタクトを送られていたので、月乃はちゃんと演説を準備していた。月乃は一斉に集まった熱い視線の中を緊張と興奮という二本のオールで漕ぎ出したが、冷静さは見失わず、少なくとも胸の中のドキドキは外部に洩らさなかった。いつだって背筋を伸ばしているのがお嬢様の仕事でもある。
(ひ、日奈様の視線・・・!)
胸を貫くキューピッドの矢の襲来を感じた月乃は背中から後頭部にかけて燃えるように熱くなってしまったが、舞台に上がる階段一段一段に雑念を置き去って無事に演壇までやってきた。ちなみにこの演台はこの学園に存在するすべての木造の構造物の中で一番古いという噂がある重厚な品であるが、そろそろ壊れてもおかしくないので、ジョーカーが自分に回ってくるのを恐れる多くの生徒たちはこの演台にはなるべく触らないようにしている。
「ごきげんよう、皆様。只今ご紹介にあずかりました、細川月乃ですの。皆様のご期待にそえる逸材、ドールハウスの長の才がある立派なお嬢様ですわ」
生徒たちは「おおお!」と声を上げた。これほど自己評価の高い女子高生も珍しいが、謙遜によって埋め立てた安全な小島を足掛かりに生きるよりも、自ら崖を飛び出し、捨て身でカモメの足にしがみつこうと努めて暮らすほうが太陽に愛されることは確かである。自分を追い詰める効果的な手段を知っている人間は才能を伸ばす努力などしなくとも気づけば高みで風に吹かれていたりする。
「次期生徒会長の任、大変光栄ですの」
確かに月乃は世間が抱いているイメージと異なり非常に不器用な女である。天性のお姉様である日奈様の美しさと優しさに身も心もやられ、毎週のように戒律に抵触し、そのせいで学園の神様に目をつけられて小学生に変身させられるという誰にも言えないどうしようもない青春を送っていることは間違いない。
が、彼女ほどこの学園の戒律に真剣に向き合い、自分の実力不足を嘆き、人に多くを求める前に自分を磨こうと努める生徒が果たしているだろうか。幸か不幸か、姉小路日奈様という奇跡的美貌のエンジェルと同時期に学園生活を送ることになり、そのせいでトラブルは発生しているが、月乃自身がこの点で責められることはないはずである。一般生徒ならぶっ倒れているところを、月乃はいつも根性で耐え抜きお嬢様としての立場を守り続けているのだ。時代の風に押され、揺れ掛かっている学園の風紀を再び美しく盤石なものにするには、月乃のように絶対的に美しいお嬢様像を体現するマネキンになる能力と強い意志を持ったリーダーが必要なのだ。背中で理想を表現してばかりで、ちょっと言葉足らずなところがあるかも知れないが、そこは副会長の林檎さんが生徒たちに直接ズバズバ言ってくれるから大丈夫である。
「以上ですわ。ベルフォール女学院を見守って下さる神様に祈りを捧げて、わたくしのご挨拶とさせて頂きますの」
月乃が祈りのポーズをすると、生徒たちも一斉に指先を組んでお辞儀をした。わたくしじゃなくてちゃんと神様に祈らないと小学生にされますわよと月乃はちょっぴり思ったが、全校生徒が自分のためにロワール会伝統の祈りポーズをやってくれているこの状況に心底震えた。お嬢様冥利に尽きる瞬間である。
さて、問題はこの後である。
ロワール会の次期会長候補は月乃に決まったが、セーヌ会はどうなのか。気付いてみると今日の東郷会長は妙に大人しく、腕を組んで天井を見上げたまま物思いに耽っている。
『次に、セーヌ会の東郷会長のお話です。東郷会長、お願いします』
月乃がしゃべっていた時と打って変わって大聖堂は静まり返ったが、東郷会長は気にする様子もなく余裕のある横顔で白いリボンを揺らしながら舞台に上がった。東郷会長と階段ですれ違うことになった月乃は、彼女からほんのり日奈様に似た香りを感じて心が波立ったが、今は日奈様と同じ寮で暮らす人に嫉妬している場合ではない。悪の東郷会長の発言のすべてを胸に刻んでおく必要があるのだ。
「東郷礼です。皆さん、ごきげんよう」
生徒たちは返事の代わりに息を呑んだ。
「この集会は次期生徒会長に関する発表を行うためのものですが・・・」
ここで東郷会長は西園寺様をちらっと見てから体を少し左にずらすという不思議な動きをした。あの舞台の上で立ち位置を細かく気にできる胆力は月乃も見習わなければならない。
「次のセーヌ会の会長を発表する場所と時間を、ここで発表します」
「え?」
東郷会長が何を言っているのか、生徒たちの理解はすぐには及ばなかった。
「言葉通りです。ここで次期会長候補の発表は出来ません。気になる人は今から言う場所と時間に集合して下さい」
これにはロワール会を支持する生徒たちは激怒である。集会の後半をわざわざセーヌ会のために空けておいてあげたのに、自分たちは勿体をつけて発表せず、しかも別の機会に再び集まれという。このような無礼が許されていいのだろうか。
「東郷会長、冗談はやめて下さい。姉小路日奈様か、リリアーネ様か、ハッキリなさったらいかがですか」
相変わらず帽子を被り続けている林檎さんが客席の気持ちを代弁してくれた。
「確かに、林檎くんの言う通りだが、いやぁ、実はまだ決めかねていてね」
東郷会長は髪をかき上げながら爽やかに笑った。これまで数えきれないほどの罠と謀でロワール会の統治をかき乱してきた東郷会長が、このような重要な場面で「まだ決まってないよーん♪」などと言うわけがない。これは確実になにか企んでいるに違いないと、月乃を含めたほぼ全員が思った。
「明日の夜、三番街の湖上レストランで必ず発表します。気になる人はぜひ来て下さい」
今日決まってなくて明日の夜は決まっているなどという話も怪しすぎる。東郷会長はざわめいた客席を左手でそっと制して続けた。
「次のセーヌ会の会長候補が誰であるか、それは明日以降すぐに皆様の間で広まるでしょう。ですから、明日の夜に湖上レストランにわざわざお越しになる必要は特にありません。興味がない人は別のことをなさっていて結構です」
生徒たちは東郷会長の言葉に聞き入った。
「ですが、私たちセーヌ会に興味を持ち、私や私の後輩が掲げる変化の風を少しでも面白いと感じているのなら、そして私たちのことを必ずしも悪だと思っていないのなら、ぜひ来て欲しい。私は・・・」
東郷会長は珍しくちょっと真剣な目をした。
「私は必ず・・・キミたちを救ってみせる!」
東郷会長はそう言ってロワール会メンバーにちらっと視線を送ったかと思うと、すぐに落ちつた顔で南の薔薇窓を見上げた。
東郷会長が色んな意味で意外な演説をしたせいで、生徒たちはざわめく余裕もなく呆気にとられていた。ベルフォール女学院は今、深い深い静けさの中である。
「・・・あら?」
その時である。西口のほうからなにやら物音が聞こえてきた気がしたのは月乃の気のせいなんかではなかった。目に見えない誰かからの東郷会長への拍手であるとすら思わせるタイミングで大聖堂に迫ってきたのは、重く激しい雨音だった。
「雨ですわっ」
生徒たちがざわめいた時にはもう、大聖堂は台風の激しい雨脚に飲み込まれていた。今日は雨が降りそうだとほとんどの生徒が分かっていたが、まさかこんなに強く降るとは思っていなかったので、大聖堂は少女たちの動揺する声でいっぱいになった。
東郷会長はまるでこのタイミングで雨が降ることを知っていたかのような余裕のある表情でお辞儀をすると、さっさと舞台を下りてしまった。東郷会長は本当に人間なのか、そろそろ怪しくなってくる。
一瞬で大雨になったことを耳で悟りながら、月乃はこっそり日奈様を見た。前列の生徒たちがバタバタと自分の傘を探している今なら、日奈様の姿が見えるのだ。
「あ・・・」
「あっ」
目が合ってしまった。なんで日奈様が自分を見ていたのか完全に謎だが、それを推理する前に照れ隠しを優先してしまうのが硬派な月乃の頭脳である。
「み、皆さん。落ち着いて下さい」
慌てて立ち上がった月乃に、西園寺様と林檎さんが同時にマイクをサッと差し出したので、月乃はマイクを二本持ってしゃべりだした。ソフトクリーム屋から出てきた食いしん坊みたいな感じである。
「今から順番に、まとまって帰宅しますわよ。風は強くないのでまだ安全なはずですわ。傘が無い人には、いくつか置き傘がありますのでそれをお貸しします」
この一日は月乃が考えている以上に長い一日になるのだが、この時の彼女はそれを知る由もなかったのである。




