73、モデルのほっぺ
一足早い芸術の秋が訪れた。
夏のあいだにかなり自分を解放してしまった自覚がある学園生徒たちは、真面目に勉強を頑張ると共に、美術や音楽の授業に急に力を入れるようになった。やはりお嬢様らしさというのはアートの次元で花開かせるものだと生徒たちは考えているらしい。
そしてその芸術の風が月乃の元に吹いてくることになる。
「先生。何をしてますの」
「お! つき・・・じゃなくて、小桃ちゃん!」
小学生モードの月乃は勉強の合間に保科先生にちょっかいを出しに来た。まだ午前中であるせいでお外は涼しく爽やかなのに、保健室はエアコンを効かせている。
「先生、季節感を失ってません? 窓開ければ気持ちいい風が入ってきますわよ」
「え、涼しいの? どれどれ、開けようかな」
先生はそう言ってぐいーっと伸びをしたが、椅子から立つことなくそのまま敷き布団のようにグッタリした。どうやらお疲れのご様子である。
「どうしましたの? 忙しかったんですの?」
「そうなんだよ。ちょっと前まで暇だったんだけどなぁ・・・」
八月末から今週に掛けて、頭痛や体のだるさを訴える少女が続々と保健室にやってきたのだ。単に忙しくて疲れているというのもあるが、少女たちの夏バテを予防させることが出来なかった反省が先生の気分を落ち込ませている。意外と仕事熱心で生徒思いのおねえさんだ。
「元気出してください。わたくしは先生のおかげでこんなに健康ですわよ」
「まあ、小学生モードだけどね」
「ぬっ・・・!」
嫌味を言われた月乃がぷんぷん怒ると、先生は忘れかけていた笑顔を取り戻した。小学生の月乃ちゃんの行動は本人の気質に反しすべてが可愛いのである。
「よし、じゃあ窓開けよう」
「はい」
白衣の裾で月乃の小さなほっぺをふわっとかすめながら先生は窓に向かった。
が、窓を開けた瞬間に吹いてきたのは少なくとも月乃にとっては予想外な種類の風だった。
「わぁ!」
「わ!」
なんと保健室の窓の外には少女が二人立っており、小柄なほうは月乃がよく知るあの子だった。二人はなぜか画板や絵の具箱をいくつも抱えている。
「先生! それに小桃ちゃん! お会いしたいと思っていましたぁ!」
桜ちゃんである。
「やあ。どうしたんだい。頭痛? 腹痛?」
近頃あまりにも忙しかった保科先生は生徒全員が病人に見える病に掛かっている。
「いえいえ、私はすっごく健康です!」
確かに桜ちゃんは物忘れの激しさ以外は健康そのものである。
「小桃ちゃーん。ちょっとおーいで♪」
聞こえないフリをして布団に潜り込もうかと月乃は思ったが、今日は桜ちゃんだけじゃなくあまり見覚えのない子も一緒にいるので彼女のために月乃は窓際へ向かうことにした。
「小桃ちゃん、実はお願いがあるんだけど」
「イヤですわ」
「この子は一年生の扇田さん。扇田さんのクラスで今日、人物画を描く授業があるらしいんだけど、小桃ちゃんにモデルをやって欲しいんだって」
「え・・・」
桜ちゃんより背が高い一年生の扇田さんはちょっと潤んだ目で「そうなんです。ぜひ、ご協力お願いします!」と言った。
(う・・・随分まっすぐな視線ですわね・・・)
月乃は自分を敬ってくれる生徒からのお願いに弱い。
「しょうがないですわね・・・わたくしで良かったら、お手伝いしますわ」
「わぁ! ありがとうございます!」
「はい。感謝してください」
月乃は照れ隠しに自分の髪をサッと撫でた。小学生モードでも仕草はお嬢様なのである。
さて、気を良くしてついオッケーしてしまったが、月乃が頼まれた仕事は簡単なものではなかった。
「かぁわいい!」
「小桃さーん! こっち向いてー」
「ダメよ。動いたら描けないわ」
「あの可愛いほっぺを上手く描けるかしら・・・よく見ないと」
確かに月乃は目立ちたがり屋であり、人に見られることによって才能を発揮していく女だが、今日はワケが違う。とにかく月乃は小学生モードの自分の外見に強いコンプレックスを感じており、戒律を破った罪悪感も含めてひどく恥じているから、そんな自分を中庭のベンチに座らせクラス全員で囲うようにして絵を描く美術の授業に、月乃は狂気すら感じた。
(な、なんでわたくしがこんなことをしなければなりませんの・・・)
後輩たちが目を輝かせて小学生の小桃ちゃんを見つめており、彼女に逃げ場はない。指示された通りベンチの手すりで頬杖をついている月乃は、せめて精神だけでも別の場所に逃げようと、遠い目をしながら考え事を始めた。現実逃避というやつである。
今朝も少し雨が降っていたが、週末は台風が来るかも知れないらしい。ただこのベルフォールの盆地は大昔からいろんな災害や戦火を免れてきたラッキーな土地であり、「ベルフォール」という名も「神の祝福に守られた砦」という意味らしく、16世紀頃にここを訪れた異邦人が、この地域の歴史的、地理的価値を見抜いて付けた粋なニックネームなのだ。だから台風さんもひょいっとルートを変えるかも知れない。
「小桃ちゃーん!」
「ちょっと。せっかくじっとしてくれてるんだから声掛けないの」
現実に引き戻された。月乃は考え事も許されないらしい。開き直りによく似た感情で覚悟を決めた月乃は「これでいいんですのね?」とでも言いたげに石像のようにぴったりと動かなくなった。月乃は根性があるので、こういう地味で大変な仕事も明確なきっかけがあれば意地でも完璧にこなすのだ。
いくら無我の境地に達しても、全く体を動かさない50分間はやはり長かった。
およそ30分ほどモデルを続けた時、月乃はまどろみの世界に落ちてしまったのだ。後輩たちの視線は気になるが、とにかく静かで爽やかな風も吹いていたから月乃が心地良い睡魔に襲われても無理はない。
(あ・・・! まずいですわ!)
月乃は首をこっくりこっくりさせてしまう直前で踏みとどまり、クールな顔に戻った。
「小桃さん、小桃さん。少し休憩して構いませんからね」
「そうですよ。時々体操してください。首とか」
眉がキリッとしたちょっとかっこいいロングヘアーのクラス委員さんが月乃を気遣ってくれたので、月乃はお言葉に甘えてにょーんと伸びをした。そして透き通る空のブルーを小さな胸いっぱいに吸い込んだ月乃は、今度は大きく前屈し、小さなため息を足元の水たまりに逃がした。ベンチの周りには今朝降った雨水が少し残っていたらしい。
(ん?)
顔を上げる前に月乃は非常に重要な問題に気付いてしまった。
落ち葉に縁どられた水たまりはまるで鏡のように澄んでおり、世界を逆さまにして静かに輝いていたのだが、その中から月乃を覗き込んでくる小学生の小桃ちゃんのほっぺに、月乃は気になるものを見つけてしまったのだ。
(あ・・・!)
自分の指のあとである。小学生モードの月乃の頬は高校生の時のものより遥かに敏感でもちもちなため、ちょっと長い時間頬杖をついているとすぐに赤くなってしまうのだ。しかも運悪く小さな内出血になっていて、紅ショウガくらいの小さなピンク色の線がほっぺについている。
(こんなみっともない顔、見せられませんわ!)
月乃の美意識に適っていないばかりか、自己管理の甘さも出てしまっている自分の顔を美術の題材にして貰うわけにはいかない。
「ちょ、ちょ、ちょっとわたくし用事が!」
「え?」
「す、すぐ戻りますわ!」
月乃はムンクの叫びにも似た不自然なポーズのまま駆け出し、中庭を抜け出したのだった。
「用事ってなんでしょう」
「わかんないけど、面白そうだからついて行きましょう!」
画板を抱えた一年生たちは小桃ちゃんを追って大移動を始めた。月乃に安息の地はない。
ほっぺに絆創膏でも貼って貰えば一応解決なので、月乃は取り合えず保健室にやってきたのだが、それが間違いだった。
「先生! 一大事ですわっ」
ちょっと頬に赤い線がついたことがなぜ一大事なのか、お嬢様の考えることは分からないが、とにかく月乃はそう言って扉を開けた。授業中だったため他に誰かがいるとは思っていなかったのである。
「ひ!」
「あっ。こんにちは」
月乃が今一番会ってはいけない少女がそこにいた。
「お、お、お姉様!」
「こんにちは、小桃ちゃん」
目が合うだけで頭が真っ白になってしまいそうな究極の美の天使、日奈様の登場である。
保健室のベッドには二年生と思われる生徒が寝かされており、保科先生が彼女の体温を計ったり心音を聴いたりしている。どうやら体調不良でここへ運ばれたらしい。
実は理科の授業中、二人組で実験する場面があったのだが、日奈と組むことになった少女が、日奈と目を合わせた瞬間に倒れてしまったのである。同じクラスの人間なのだから少しずつ免疫をつけていってもいいのに、ほとんどのクラスメイトがいまだに日奈と言葉を交わすだけで恍惚な白の世界に落っこちてしまうのだ。日奈は毎度のように自分のせいで倒れてしまった生徒を保健室へ運んでいる。
「どうしたの、小桃ちゃん。もしかして、お怪我?」
日奈様が中腰になって月乃の瞳を覗いてきた。日奈様は小学生相手だととってもフレンドリーで大胆である。
「べ、別に・・・! 特にご用はありませんのよ!」
一大事はどこへいったのか大いなる疑問である。
日奈様はクラスメイトの看病に忙しい先生の後ろで自分が小桃ちゃんと仲良くおしゃべりするのは良くないと考えたらしく、小桃ちゃんを廊下に連れ出した。ここなら自由におしゃべりできる。
「授業中だから、静かだね」
「は、はい」
階段のほうから上の階の教室の声がふんわり響いてくるが、辺りは田舎の海辺の美術館のように静かである。
「あれ」
小桃ちゃんの頬を見た日奈様が何かに気が付いた。
「小桃ちゃん、ほっぺに何かつけてるの?」
「あ!」
日奈様に会ってしまった衝撃で月乃は自分の頬を隠していた手を完全に離してしまっていたのだ。日奈はすぐに「一大事です」と言って保健室に飛び込んできた小桃ちゃんの気持ちを察した。
(そっか。小桃ちゃん、小学生だけどお顔は気にするんだね)
微笑ましいなと日奈は思った。保科先生がお忙しい今、日奈が解決してあげるべきかも知れない。
「うーん。ちょっと待っててね小桃ちゃん」
「うぅ、なんですの・・・」
月乃は恥ずかしくって恥ずかしくって、今すぐ廊下に穴を掘って潜り込みたい気分だったが、待っててと言われたら気になってしまうので大人しく待機することにした。なんでよりにもよって日奈様にこのようなカッコ悪いほっぺを見られてしまったのか・・・言い訳を添えるチャンスもなかった月乃はとにかく自分の不運を呪いながら静寂の中に心身を潜めた。加速していく恋心には自分で気づかないフリである。
「おまたせ♪」
ささやくような声でそう言って日奈様が保健室から出てきた。
「絆創膏じゃ目立っちゃうから、これ、塗ってあげるね」
「え・・・」
「内出血みたいな感じでしょう? それならたぶんこれで隠れるから。ちょっとこっち来てくれる?」
「わぁっ」
日奈様は月乃の小さな肩に軽く手を添えて彼女を廊下の窓際に誘導した。
「はい。少し上を向いて」
そして日奈様は月乃のあごを持って優しくくいっと持ち上げると、反対の手に持ったパフで月乃のほっぺをぱふぱふし始めたのだ。
「な、な、なにしてますの・・・!」
月乃は声がかすれてしまった。まるでキスでもされてしまいそうな体勢に動転した月乃は、いかにも恋する乙女のような、自分の胸の前で曲げた腕をキュンッと寄せるポーズになってしまった。もう日奈様の愛をシャワーのように浴びたがっている月乃の心と体は、日奈様の瞳の美しさと手のひらの温かさの虜である。
(なんて・・・恥ずかしい・・・こんな・・・ダメですわ・・・)
自分の頬をゆっくりゆっくり優しく撫でられて、なぜか内股になってしまった月乃は、気が遠くなるほど幸せな気持ちになった。
一方日奈のもうもちょっとドキドキしていた。
先生から真新しいファンデーションをお借りしたはいいが、使い方に自信がなかったのでかなり丁寧なやり方になってしまい、まるで小桃ちゃんのほっぺをマッサージしているような不思議な感覚になったのだ。しかも小桃ちゃんが妙に大人しく、潤んだ目でじっと見上げてくるのでますます照れくさいのだ。
(妹がいるってこんな感じなのかな・・・)
自分の中に顔を覗かせつつある桃色の感情をまだ自覚していない鈍感な日奈は、小桃ちゃんと見つめ合ってそんな無邪気なことを考えたのだった。
「・・・あれぇ、小桃さん、どこにいかれたのかしら」
「学舎じゃない? きっと保健室だよ」
「あ! 見て! あれ!」
第四学舎の裏手にやってきた生徒たちは廊下の窓際に立って何やら見つめ合っている日奈様と小桃ちゃんを発見したのだ。
「す、素敵!」
「なんて恐ろしい組み合わせなの・・・」
「芸術だわ!!」
クラスメイトたちは急遽モデルを小桃ちゃんから「日奈様の愛情を受けて顔を真っ赤にしている小桃ちゃん」に変更し、こっそり窓の外から絵を描いたのである。結局顔が赤かったので、指のあとを隠そうとした月乃の頑張りは無意味になったが、紅葉の季節を先取りしたと考えれば何も無粋なことではない。