66、秘密の七夕
よく晴れた七夕の日の事である。
更衣室に漂うプール独特の懐かしい匂いが月乃の小さな鼻をくすぐっていた。
「わあ! 小桃ちゃーん! 似合ってるよ!!」
まだ床が乾いている初々しい更衣室に桜ちゃんの声はよく響いた。興奮すると必要以上に大きな声を出すのが彼女の悪い癖である。
「あの・・・あんまり見ないで下さいます?」
「かわいい! かわいい!」
まるで子犬を可愛がるように頭を撫でられ、ほっぺをむにむにされた小学生モードの月乃は、冷ややかな目で桜ちゃんを威嚇したが効果は全くないようで、むしろ彼女の声につられて更衣室じゅうから水着の生徒たちが集まってきてしまったくらいである。
「わぁ! 小桃ちゃんにぴったりの水着があったのね!」
「素敵よぉ♪」
「今日はおねえさんたちと遊びましょうねぇ!」
月乃は慌てておねえさんたちの腕をすり抜け、更衣室から脱出した。どうしてこの学校の生徒はみんな普段はおしとやかなのに小学生の小桃に会うと野鳥の群れのように集まってきゃあきゃあ騒ぐのか。
月乃は今小学生モードだが、お嬢様らしくないキュートな容姿や覇気のない幼い声などを嘆いていられるほど暇ではなかった。なにしろ月乃は先日、日奈様から「二人きりの時だけでいいからお友達でいて欲しい」と言われてしまったので、夜も眠れないほどドキドキしているのだ。
月乃のこの胸の高鳴りを分析すれば、彼女がいかに鈍感なお嬢様か察する事ができる。月乃は日奈様のお友達宣言を、誰に対しても等しく抱いている慈愛の心を自分に対しても向けてくれたものだと考えたのだ。こんなにも近づきにくいオーラを放っているのに、さすが日奈様、お優しいですわね・・・といった感じである。日奈の心に見え隠れする芽生えたばかりの特殊な感情に、日奈本人も、そして月乃も気づいていない。
(どうしましょう・・・人前では冷たく振る舞っても、二人きりの時は仲良くってことですわよね・・・そんなこと、わたくしに出来るかしら・・・)
平和を愛する日奈様の提案に月乃が反対する理由はなく、むしろ頭がクラクラするくらい嬉しいのだが、超硬派な生き方をしてきた月乃には普通の友人関係というやつがどんなものかよく分からないし、並んでベンチに座って睦まじくおしゃべりなどしようものなら、あっという間に恋の戒律を破ってしまうに違いないのだ。
(日奈様とお友達・・・! でもわたくしはロワール会メンバーですわ・・・! どうしましょう・・・)
まさか月乃がこんなに悩んでいるだなんて日奈は思っていないのである。
さて、心の内でなにを考えていようが時は流れていくものである。今の月乃は小学生なので、シャワー室の前で神妙な顔で日奈様のことを考えているあいだに小さい子が大好きなおねえさんたちが集まってくるのだ。
「小桃ちゃーん、こんにちはぁ」
「かわいいぃい! 抱っこさせて!」
肩をビクッとさせて驚いた月乃は、水着のおねえさんたちから逃げようとぺたぺた走り出した。ちなみに月乃が着ている水着は昨日保科先生と桜ちゃんが選んできてくれたものであり、ひらひらスカート付きの水色ワンピース水着である。
「ここから先はプールサイドですから、走るのはおやめ下さい」
月乃が危うくおねえさんたちに捕獲されそうになった時、タイミングよく登場してくれたのは、限りなくスクール水着に近いフォーマルな格好にいつもの帽子というかなりハイレベルなファッションで登場した林檎さんだった。
「小桃は嫌がっているようですよ。追いかけ回すのはやめてあげて下さい」
子供に厳しいことで有名な林檎さんが珍しく小桃の味方になってくれた。ロワール会のナンバー3の発言力を前にして小桃ちゃんへの追いかけっこを続ける輩はさすがにいない。
「まったく・・・学園に子供がいるとこれだから困る」
「おーい、小桃ちゃん、忘れ物だよー」
空気を読まぬ明るい声に、林檎さんは小さな胸の前で腕を組んだ。たとえ小柄で胸も小さくとも、小学生の目から見れば林檎さんは年上のかっこいいおねえさんだ。
「ほら、浮き輪とゴーグル。あ、一緒に使うことあんまりないか」
「コホン」
やってきたのは桜ちゃんだったが、林檎さんのわざとらしいせき払いで彼女の表情は一変した。
「す、すみません! つい笑顔を・・・」
「情けない。あなたはもっと戒律を尊ぶべきです。月乃様のクラスメイトなのですから」
「はい・・・」
「まったく、月乃様が見たらどう思われるか」
いつも通りですし別に何とも思ってませんわよと月乃は心の中でつぶやいた。林檎さんは桜ちゃんのような生徒にはかなり厳しい。
戒律の中でも「人前で喜怒哀楽を表現してはならない」「恋をしてはならない」という二項目が特に難しく、多くの生徒がこれに手を焼いているのだが、硬派で美しい女性になるための王道なので仕方がない。桜ちゃんを含め、みんなが自分なりに頑張って実践しているのだ。
「小桃はしばらく私が預かります。あなたに預けているとロクなことになりませんから」
「え・・・うぅ、分かりました」
お気に入りのおもちゃを無くした子犬のように桜ちゃんはしょんぼりしてしまった。かわいそうに、あなたが用意して下さった浮き輪とゴーグルはわたくしが大事に使いますわよと月乃は思った。
林檎さんが顔を出したので空気はさすがに少しピリッとしたが、それでもプールの賑わいは凄まじかった。普段はエンジ色のリボン以外全てブラックな制服に身を包んでいる少女たちも、今日ばかりは自分の素肌を八割方さらして水遊びに興じているのだ。
今日は七夕祭とセットになった七夕プールの日であるから、プールサイドにはずらりと若竹が並べられており、生徒たちが書いた願い事がその枝先で賑やかに揺れている。
(あら・・・天井が開いてますのね)
東郷会長のパワーにより、このプールは青空を望める巨大屋外プールの様相を呈していた。ジャンプ台やらウォータースライダーやらが併設された展望塔からは、きっと大聖堂の屋根が見えるに違いない。
「ひどい光景だ・・・」
林檎さんの呟きで我に返った月乃は、浮き輪を抱きしめながらうんうんと深く頷いておいた。浮き輪は持っていてあまりかっこいいアイテムではないが、月乃は小学生モードの体で上手く泳ぐ自信がないのでこれだけは手放せない。恥ずかしさに耐えることもお嬢様に必要な精神と言える。
「あーら林檎様♪ 新しい妹さんかしら」
小桃と林檎さんがプールサイドの日なたに足を踏み入れた時、背後から挑発的な声が聞こえてきた。リリーさんに違いないのだが、なぜかリリーさんは彼女を目のカタキにしている林檎さんの前によりにもよってよく現れる。
「リリアーネ! またあなたか!」
「会えて嬉しいわぁ、林檎様♪」
「お会い出来て嬉しいと言いなさい! ・・・じゃなくて、なぜリリアーネがここに!」
「泳ぎに来たのよ♪ 決まってますわ。それにこの短冊もネ」
「ぬぅ、何と書いてある。・・・恋を禁じる戒律が今すぐ消滅しますように・・・? 貴様! どこまで神を冒涜すれば気が済むのか!」
「だって本心ですもの♪ さあ、どの笹に飾ろうかしら」
「ま、待ちなさい! リリアーネ! それを渡しなさい!!」
怒った黒猫のような林檎さんはリリーさんを罵りながら彼女を追いかけていった。林檎さんはプールサイドは走らないという校則をしっかり守った早歩きなのできっとリリーさんには追いつけないことだろう。
林檎さんはある意味無邪気にリリーさんだけを見ていられるのだが、月乃はそうはいかなかった。月乃の精神には今、恋の天使の白い羽が怒濤のごとく舞い降りてきていたのだ。
(ひ、ひ、日奈様・・・!)
リリーさんは日奈様と一緒に登場していたのだ。
周囲のどよめきと歓声の中で、日奈様の水着姿を直視してしまった生徒が次々に倒れていった。まこと日奈様は危険人物であるが、本人が一番悩んでいるので許してあげるべきである。
月乃はとっさに浮き輪をポーンと背後に投げて転がした。泳げないことを悟られる恥を感じたお嬢様心がそうさせたのである。
「こんにちは、小桃ちゃん」
周りの生徒の身の安全を考慮し、それまで目を伏せ体もタオルで隠していた日奈は、小桃ちゃんを見つけて急に晴れやかな気持ちになったのか、笑顔でぱたぱた駆けて小桃の元にやってきた。様々なしがらみを抱えて生きる日奈にとって小学生の小桃ちゃんの存在は学園生活最大の癒しでもある。
「小桃ちゃんもプールに来たんだね」
「う! あ、あう・・・」
日奈様が集合写真の前から二列目みたいな中腰ポーズをとって声を掛けてきたものだから、月乃は言葉を失ってしまった。日奈様の美しいお顔を見ないようにすれば素敵なおっぱいの谷間を直視することになるこの状況に、月乃のちっぽけなハートが耐えられるわけがない。
「あ、あの・・・その・・・うっ!」
次の瞬間、月乃の体はプールのほうへ吹っ飛ばされていた。
さっき月乃が後ろ手に投げた浮き輪が、縦横無尽な跳ね返りの果てに月乃の体側に戻ってきたのだ。浮き輪は優しく扱わないと文字通り自分に返ってくるという教訓を得るより早く、小さな小桃は水中に飛び込んでしまっていた。
(まずいですわ・・・!)
自分の部屋で天然石のアクアマリンを眺めているだけでは感じられない、目が覚めるような水の冷たさに全身を包まれた月乃は、自分の体がどこまでも沈んでいってしまいそうな不安を味わってひどく慌てた。すがる藁すら無い孤立無援のスカイブルーの中で、月乃は必死にもがいたのだった。
(あっ・・・!)
という間の出来事だった。月乃は水中で何者かにむぎゅっと抱きしめられ、心地よいほどの上昇感をくぐり抜けたかと思うと、ダイヤモンドみたいな無数の水しぶきのきらめきと一緒に、もう水面から顔を出していた。呼吸ができる喜びに月乃の心は一気に弛緩し落ち着きを取り戻したが、すぐに自分の状況を察して動揺した。月乃のメンタルに休む間はない。
「お、おね、お姉様・・・!」
濡れた日奈様の笑顔が月乃の目の前にあったのは、月乃が日奈様に抱っこされているからだった。体のずうっと深いところが切なくなるような幸福感に襲われた月乃はこれではマズいと思い、活きの良い魚のように暴れたのだが、暴れるほどに日奈様の柔らかい胸やすべすべのふとももを感じてしまうので、動くことも出来なくなった。運命に身を任せるしかない。
「大丈夫? 小桃ちゃん」
日奈様の濡れた髪から落ちた雫が月乃の頬を撫でていった。天井の太陽を後光にして微笑む日奈様がまるで天使のように美しくて、月乃は止まった時間の中でウットリした。人魚姫に助けられた村娘の気分である。
「小桃ちゃん、お姉ちゃんと一緒に、泳ぐ練習しよっか」
月乃はもう何も考えられない子になっていたので、ここで思わずクビを縦に振ってしまったのである。
日奈は近頃ずっと月乃様のことを考えていた。
先日「二人きりの時だけでいいから、友達でいて欲しい」などと言ってしまった日奈は、月乃からのお返事を待つ立場であるので、迷惑なお願いだったんじゃないかという胸が締め付けられるような緊張感と、秘密を共有しているドキドキで毎晩落ち着いて眠りに就けないのだ。生徒会同士の争いがどのような局面を迎えても、いま日奈が二人の間に感じている友情のようなものを大切に守っていきたいという願いは確固たるものなのだが、不安で心は揺れているのだ。
だから、心を軽くしてくれる小桃ちゃんとの触れ合いが日奈には有り難かった。
「足はまっすぐ、そうそう、上手上手!」
「うぅ・・・」
「上手だよ、小桃ちゃん」
プールの中で小桃ちゃんの小さな両手を引いてバタ足を教えている日奈は、磁場が乱れるほど美しい笑顔だったので、ほとんどの生徒たちが卒倒するか我を失って彼女に見とれた。
「先生、こんな感じですか」
「うん。しっかり撮っておいてね」
参考までに、という謎の名目で日奈たちをビデオカメラで撮影していた白衣の保科先生は、日奈の美しさのせいで卒倒した生徒たちを救護しにいかなければいかなくなったため、近くをうろついていた桜ちゃんを捕まえてカメラを託したのだ。
「わぁ・・・」
カメラの画面を覗き込む桜ちゃんは、水着の日奈様と可愛い小桃ちゃんのバタ足に見とれてしまった。この学校では大抵のものが美しいのだが、少なくとも今その美しさの中心は彼女らである。
大好きな女性に手を握ってもらって泳ぐプールの水しぶきの色を青春と呼んで間違いはないかも知れない。月乃は真面目な顔を必死に作ってじゃぶじゃぶと足を動かしたが、心はもうどうにかなってしまいそうだったし、体も関節が錆びたロボットみたいに固くなっていた。
(も、もう許して下さぁい・・・)
月乃は恥ずかしさで真っ赤になった顔を見られたくなかったが、顔を上げていないと溺れてしまう。水面の心地よい浮遊感の中で月乃の瞳に写るのは 日奈様の優しいお胸の谷間とひまわりのように眩しい笑顔だった。
この子の毎日に楽しいことだけが待っているように・・・この子が悲しい思いをしませんように・・・日奈が今感じている気持ちが、おそらく愛おしさというやつである。日奈は月乃様と同じくらい小桃ちゃんのことを大切に思っているのかも知れない。
「ありがとう、小桃ちゃん」
「えっ・・・!」
プールサイドに辿り着き、様々な要因から肩で息をする小桃ちゃんに日奈はそう囁いた。無邪気に笑顔になれる時間を自分にくれた小桃ちゃんに、日奈は感謝せざるを得なかったのだ。
月乃は早くこの時間が終われと祈っていたくせに、いざ感謝の言葉を貰って鐘の音を聴くと一気に寂しくなってしまった。本当はもっともっと日奈様の温かい手を握って本物の小学生のように水と戯れていたかったのだ。
「ちょ、ちょっとわたくし、宿題を思い出しましたの!」
多くの未練を断ち切って月乃はぺたぺたとプールサイドを早歩きで去っていった。まるでペンギンのような可愛い背中に、辺り生徒たちはキュンキュンしたが、もう少し一緒に遊びたかった日奈にはちょっぴり寂しい光景だったことも事実である。
さて、この七月七日にはまだ続きがある。
「あら・・・?」
つい先程、長い眠りから目を覚まし、保健室で保科先生と一緒に晩ご飯を食べ始めた高校生モードの美少女月乃はあることに気づいてフォークを止めた。ちなみに月乃は西園寺様ほどではないにしろかなり料理が上手いので時折こうして先生に料理を振る舞っている。
「ん、どうしたの月乃ちゃん」
「わたくし、桜様の浮き輪をプールに置いてきてしまいましたわ・・・」
小学生の月乃にぶつかった後の浮き輪はさらにポーンと跳ねてウォータースライダーの階段の陰に転がっていったきり、忘れられていたのだ。ゴーグルは小学生の小桃の体と一緒に一時的にこの世から消滅しているが、浮き輪はちゃんと管理しておかないと桜ちゃんに申し訳ない。
「わたくし、取ってきますわ」
「え、もう暗いけど」
ちょっと面倒だが、お嬢様は借りたものはちゃんと返す生き物である。
「すぐ戻って来ますわ」
「はーい。いってらっしゃい」
夜風のように美しい月乃のポニーテールを見送った保科先生は、しばらくのあいだコーヒーに映った蛍光灯をぼんやり眺めていたが、やがてあることに気がついた。
「あれ・・・そういえば、桜ちゃんからカメラ返してもらってないな」
桜ちゃんは物忘れの天才だからビデオカメラをプールサイドに置き忘れて帰ることなど朝飯前である。
敢えて今日大聖堂のライトアップがされていないのは、星が良く見えるようにするためである。
一応七夕の日のイベントだから夜までプールは開放されているが、更衣室を覗く限りもう人はいないようである。さすがに時間がおそいのだ。浮き輪を取りに来た理由を保科先生以外の人物に説明できる自身がない月乃は、こっそりと行動するため点灯する電気を最小限にしてプールサイドに向かった。シャワー室の通路は薄暗いがこんなことで怯える月乃ではないし、それよりも足元の濡れたタイルのほうが気になってしまった。靴下を脱いで解決である。
プールサイドがすうっと冷えた空気に包まれていたのは天井の窓がまだ開いていたせいである。笹の葉を下から照らすライトたちの幻想的な光に月乃は息を呑んだ。
「あ・・・」
「あっ」
そして二人は出会ったのである。
「ひ! 日奈様!」
「こ、こ、こんばんは」
七夕の日の夜に水辺で出会ったのはある意味彼女たちの運命である。
短冊を握ったまま静かに体育座りをしていた少女は、姉小路日奈様だった。彼女は上にパーカーを羽織っているが、下はまだ水着なので、寮に帰らず一人でここに残り、何やら考え事でもしていたのかも知れない。
(う、浮き輪どころじゃありませんわ・・・!)
恋に溺れない浮き輪のほうが必要である。
日奈はこの時、心底驚いていた。
七夕のイベントなのでせっかくだから自分もお願い事を書いていこうと短冊を手にとったのだが、今の自分の望みが何なのか分からず、日奈は長い考え事から抜け出せなくなっていたのだ。もし月乃様に「友達関係にはなれません。だって私たちは敵同士ですから」と言われてしまったら、それはもちろん悲しいが「仕方ありませんね、友達関係でいてあげますわ」と言われてもなんだか妙に切ない感じがしたのだ。生徒会間の争いのせいでこんなに深く悩み、勇気を出して月乃様にお願いして、ようやく他の生徒たちと同じ位置に立てる自分の境遇を日奈は苦々しく感じているのかも知れない。いつもクールで、それでいて優しくて、どこか寂しそうな月乃様の横顔を、プールの水面に光る月に重ねて思い浮かべていたら、本人が登場したので日奈はびっくりしたのだ。
「つ、月乃様・・・どうしてこんな時間に、プールに」
「いえ・・・それは・・・日奈様も・・・」
「あっ、私は・・・その、短冊を考えていて・・・」
「そ、そうですの・・・?」
「はい・・・」
二人の間に広い広いプールの沈黙が雪のようにしんしんと降り積もった。言葉が出なくなってしまった月乃は熱くなった耳を澄まして日奈様が何かをしゃべってくれるのを待ち、日奈のほうもおしゃべりのきっかけを月乃様がくれるのを期待してもじもじしてしまった。つい先程手を繋いで一緒に水遊びをしていたとは思えない二人である。
「あの・・・この前の件ですが・・・」
顔を赤くして石のようになっていた月乃を人間に戻してくれたのは日奈の言葉だった。
「こ、この前の件・・・?」
「はい・・・その・・・二人きりの時は・・・」
「あ・・・それは・・・その・・・」
どう答えてよいか分からなかった月乃は、取りあえず正面から日奈様と向き合っているのは危険と判断し、プールの方を向いて立つことにした。
が、お地蔵さんレベルにまで固まっていた体を無理に動かしたら足はフラついてしまうものである。月乃は立ちくらみでも起こしたような格好で、運悪くプールのほうへ倒れてしまったのだ。本年度屈指の実にかっこわるい失態である。
「月乃様っ!」
しかし、月乃は着衣水泳せずに済んだ。気質に反し運動センスも優れている日奈様が、俊敏なステップで助けてくれたのである。背中を支えられるような形になった月乃は、そのままするするとプールサイドに座り込み、月乃の腰に手を回したままの日奈も一緒に座る流れになった。
笹の葉が揺れるプールサイドで、二人は密着して見つめ合うことになった。
(どどどうして日奈様、そんなにわたくしを見ますの!?)
日奈様はちょっと前屈みで月乃にくっつき、見上げて覗き込むような格好に近かったので、月乃はどうしていいか分からず静かに目をそらした。恋の戒律はとっくに破ってしまっており、鐘の音が迫っているから早く逃げ出さなければ日奈様がまばたきした瞬間に小学生になってしまうのだが、月乃は体が動かない。絶体絶命である。
(月乃様・・・)
一方日奈はこの時、とても幸せだった。
こんなに密着してしまっても月乃様が「馴れ馴れしく近づかないで下さい」などと言って逃げたりしないということは、二人きりの時の友人関係を月乃様が許してくれたということに他ならなかった。しかもその友人関係が、日奈のおこがましい勘違いでない限り、ありふれた友情よりも少し親密なもののように感じられたのだ。例えば月乃様と仲の良い桜様であっても、こんなにくっついていたらさすがにクイッと肩を押し返されたりするような気がしたのだ。
「月乃様・・・」
「な、な、なんですの・・・」
「いえ・・・なんでもありません」
自分のわがままをきいてくれた月乃様にはっきりとお礼を言えない照れ屋な日奈は、今この瞬間、紛れも無く自分だけのものとなっている月乃様の姿を目に焼き付けようと、月乃様の胸にさらに自分の頬を寄せて、じっと彼女の顔を覗き込んだ。日奈は水着なので月乃様の制服を万が一にも濡らしてしまわないように、体はくっつかないように注意したが、視線だけは遠慮なかったわけである。
二人は日奈が満足して月乃の腰から手を放すまでずっとくっついていた。七夕の夜の秘密の思い出である。
さて、誰かに見られている限り変身しないという都合のいいシステムにより月乃は日奈様の前で小学生にならずに済んだようだが、日奈様がまばたきしただけで本当は変身しちゃうはずである。ではなぜ今夜は大丈夫だったのかというと、桜ちゃんが忘れていったビデオカメラが回っていたからなのだ。翌日、録画されたものを保科先生が紅茶を飲みながら何気なく観賞していると、とんでもない秘密が映っていたためお茶を思い切りこぼしてしまったわけである。
「わ、わーお・・・どうしよう・・・」
本当は永久に残しておいて個人的に楽しみたい映像だったが、二人だけの思い出に自分が入ってはいけないと思った保科先生は、散々迷った末にデータを消してくれたのだった。
「先生? 何をしてますの?」
「ん!? いや、なんでもないけどっ」
ベッドで寝ていたはずの小学生モードの月乃にカメラを覗かれて先生はなぜかひどく慌てた。
「あら・・・怪しい先生ですわね」
「いやあ、あははっ」
優しい先生である。




