65、試着室
「日奈くん、リリーくん、プールの準備だ」
セーヌハウスに帰ってくるなり、東郷会長がそう叫んだのである。
「まあ♪ それじゃあ、ロワール会のお三方の許可が得られましたのね!?」
リビングで日奈と一緒に宿題を進めていた金髪ガールのリリーさんは、非常に嬉しそうにそう言ってさっさとテキストを片付け始めた。彼女はただ日奈と共に楽しい放課後を過ごしたかっただけであり、お勉強は大嫌いなのだ。
「いや、ロワール会の許可はまだ無いよ、全く。でも学園全体の空気を見れば、プールの開放は間違いないだろう。西園寺くんはそういう女だ」
確実なものなど何一つない綱渡りの道を、前だけを見ながら歩ける東郷会長の度胸は大したものである。
「プール、楽しみですわねぇ♪ 色んな子の水着が見られますわぁ♪」
リリーさんはぐうっと伸びをしながら、ひと夏の妄想を楽しみ始めた。こういう感じのおねえさんには、こっちからあまり話しかけないほうがいい。
「リリーくんはこういうイベントが好きそうだね」
東郷会長は髪をほどきながらそう言って笑った。
「もちろんそうですわよ♪ 私、恋が仕事ですから」
月乃様が聴いたらどんなお顔をされるかなと日奈は思った。みんな良い人たちなのに、分かり合うには様々な壁がある・・・学園生徒たちはそんな複雑な境遇に身を置いているのだ。
「ま、女子高生だからね。思いを寄せる人が一人くらいいても不思議じゃない」
「そうですわよねぇ♪」
「あ、でも、多すぎるのは問題かな」
「あら、東郷様のいじわるっ」
会長の爽やかな笑い声は雨雲を吹き飛ばしてくれそうなので、梅雨の時期は実に頼もしいなと日奈は思った。
会話に入らず、敢えて違うことを考えている日奈に気づいたリリーさんが不敵な笑みでやってきた。リリーさんは平気で人に胸などを押し当てるヘンタイなので、日奈は上手くいなして身を守らないと面倒な事態になる。
「ねえ日奈様♪」
「は、はい・・・」
リリーさんのおっぱいはプリンのような弾力である。
「日奈様には、好きな人いませんの?」
この質問は日奈が「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」「暑いですね」「寒いですね」の次くらいによく聞いた言葉であった。自分が密かに思いを寄せる姉小路日奈様に好きな人がいるのかどうか、それは日奈と関わりがあるほぼ全ての人間にとって、確かめずにはいられない重要事だからだ。
「その・・・好きな人は・・・特にいないんですけど」
「もったいないわぁ。日奈様ともあろう方なら、どんな恋も思いのままなのに!」
どんな恋を想像しているのか。
「ねえ、東郷様。日奈様だったらきっと素敵な恋ができますわよね」
「それは・・・あはは。むずかしい問題だけれど、素敵な恋愛ができるポテンシャルを持ってるだろうね」
東郷会長は日奈が抱える「モテすぎ現象」と、それに起因する日奈の悩みをだいたい理解してくれているので、能天気なリリーさんと違って冷静である。
「ねえ、日奈様。私日奈様にお似合いの女性、一人知ってますわよ♪」
「えっ・・・」
まるでペンケースをひっくり返した時のように、日奈の頭の中は散らかった。この学園には日奈と月乃様がライバル同士であるという風潮があり、生徒たちは何かにつけて二人を比べ、ロワール会の正当性の確認の材料にしているのだが、これらの因果を生徒会同士の争いを抜きに考えた時、二人は特別な関係を育みうる存在だと言えなくもないのだ。
(月乃様にご迷惑が掛かっちゃう・・・!)
ここでリリーさんが「日奈様にお似合いなのは、プリティー小学生の小桃ちゃんよ♪」みたいにおちゃらけてくれたらいいのだが、空気を読まずに「細川月乃様がお似合いですわ。意外に思うかも知れませんけどね」などと真顔で語り始めたら日奈は困ってしまうのだ。月乃様と二人きりになった時の優しい時間がとっても好きで、それを誰にも言えないヒミツにしている日奈は、月乃様との関係を問われて平静でいられる気がしないのだ。月乃様ともっと親しい友達になりたい・・・そんな日奈の願いが他人の耳に入り、噂になったりしたら、月乃様はロワール会の名誉のために今以上に日奈と距離を置くに違いない。それではあまりに寂しいのだ。
リリーさんが二の句を言うまでの僅かな時間に月乃は色々考えたわけだが、結局「私、月乃様のことはよく知らないので・・・」と答えてごまかすことにした。
そしていよいよリリーさんの綺麗な唇が日奈の耳元にやってきた。
「お似合いなのは、ワ・タ・シ♪」
「・・・え?」
心配をしていた日奈がバカみたいである。
ほっとした様子で苦笑いし、リリーさんのいやらしい指先をかわしてリビングで追いかけっこを始めた日奈を、東郷会長はちょっと神妙な顔で見つめていた。
「さすがね。とてもいい案だわ」
ロワールハウスの各部屋に設置されたエアコンは室外機を含めて全て最新のものなので、すぐに冷えるだとか省エネだとか様々な特長があるのだが、音が静かであるという点がロワール会員たちに一番好評である。
「七夕とプールを同時に? 月乃様の考えることは分からない・・・」
西園寺様はすぐに絶賛してくれたが、頭の固い林檎さんは月乃のアイディアに乗り気でない。ここは月乃の論理的なパワーで帽子のお嬢ちゃんを説得しなければならない。
「林檎様、くやしい事ですが、プールの開放は避けがたい時流ですの。けれどこのままハイどうぞ、皆さんプールで遊んで下さい、と全面許可するようではベルフォール女学院の風紀と伝統が乱れます」
ちなみに寝る前に月乃の部屋に三人が集まって会議をするのが近頃のロワール会の日課である。
「なので、慎み深く上品なイベントとセットにしますのよ。名前はズバリ、七夕プールの日ですわ」
「なんと・・・七夕プール・・・?」
月乃も他のお嬢様の例にもれず頭の固い娘なのだが、ロワール会のためならば斬新な発想の一つや二つ絞り出せちゃうわけである。
「夜が明けたらレンヌハウスの生徒さんに今回の計画をお知らせしますわ」
「あの、つまりプールサイドに短冊用の笹を立てるのでしょうか」
「そうですわ。どんな願い事を書こうか悩んでいる横で、騒がしく水遊びをする気分にはならないでしょう。きっとプール目当てで来た生徒も、おしとやかな時間を過ごす良さを再認識することになりますわ」
林檎さんは深く二度うなずいた。
「素晴らしいアイディアです。月乃様にしては」
一言余計なのである。
「私も月乃さんの案に賛成よ。二人とも、七夕プールの日に向けた準備、明日からさっそくお願いするわ」
「はい! お任せ下さい」
月乃は陰でこっそり恋の戒律を破ってしまっている悪い子だが、別にわざとじゃないし、本人は深く反省し日々日奈様のことで悩んでいるから、ロワール会への貢献でその罪を償おうとしている彼女を責める神はそう多くはいまい。
「では、そういうことで」
「そうね。そろそろ寝ましょう」
林檎さんと西園寺様は月乃のベッドから腰を上げた。
「あら・・・?」
「ん?」
「あら・・・」
そして三人は同時に気づいたのだ。
「それじゃあ、水着が必要ということですわよね・・・」
超硬派なロワール会の三人はもちろん水着なんて持っていないのだ。
水着を買わなければプールで泳げないし、制服のままプールサイドに立っていたら水泳好きの子からロワール会が顰蹙を買ってしまうかも知れない。どちらかを買うならそりゃ水着である。
「西園寺様と月乃様と林檎様よ!」
「本当だわ! お三方でどこにいかれるのかしら!?」
昼休みを利用して三人は三番街の水着ショップを目指した。東郷会長の大規模な放送があった後だから、水着ショップには多少生徒がいるだろうが、七夕祭とプール開放を一緒に行うことは早朝に連絡したレンヌ寮の一部の生徒以外は誰も知らないはずなので、混雑をそれほど心配する必要はない。
「可能な限り地味で露出が少ない水着を選びますわよ」
「分かっています」
月乃と林檎さんはダイビング用のウェットスーツでも買うつもりかも知れない。
年中サーフボードを飾っている季節感が欠けた素敵な水着ショップには、やはり生徒がある程度集まっていたが、なぜか店内には入っていない様子である。
「きゃあ! ロワール会の皆さんだわ!」
「なんて美しいのぉ・・・!!」
西園寺様のすぐ後ろの月乃は少女たちの声にすぐさま反応して自分の髪をサッと撫でた。今年は去年以上にポニーテールの生徒が増えているが、それは月乃の影響である。
「いらっしゃいま・・・せぇ!?」
お昼休みのお店当番だった生徒は西園寺様たちの登場に目を丸くした。大聖堂より南側に住んでいる生徒はロワール会のメンバーに会う機会が少ないのでリアクションも多いのだ。
「少し見せてもらいますわね。別にプールが大好きというわけじゃありませんけど」
店内を見渡した西園寺様がなぜか黙って動かなくなってしまったので、月乃が代わりに挨拶しておいた。まるでフラワーショップのような鮮やかな彩りで並ぶ水着たちを前に、黒の女王は絶句してしまったのかも知れない。
「行きましょう林檎様」
「はい」
とにかくこの不快な虹色の垣根の中から黒系統の水着を探すべく月乃たちは一歩踏み出した。
「あ! お待ち下さい月乃様!」
「え?」
林檎さんに引き止められた月乃は、林檎さんの視線の先に面倒な女性を発見した。悪役ジャンヌダルクの愛称で親しまれている東郷会長である。どうやら彼女も水着を選んでいた様子で、手に白いビキニを持って現れ、「おや? 西園寺くんじゃないか」などと馴れ馴れしく言ったのだ。
月乃はすぐに「東郷会長。西園寺様に気易く声を掛けないで頂けます?」などと突っかかろうとしたのだが、彼女のお嬢様魂を司る脳内コンピューターがギリギリのタイミングで危険信号を発したのだ。
(東郷会長がここにいるということは・・・!?)
おそらく東郷会長が手に持っているのは彼女が着る水着ではなく、日奈様に着させるものに違いないのだ。
(ひ、日奈様がここに!?)
心の準備が出来ていなかった月乃の胸は高鳴ってしまった。
「あらぁ♪ ロワール会の皆さんも水着を買いにきましたの?」
東郷会長の陰からリリーさんが登場したところで、月乃は日奈様の存在を確信し、思わず店内最奥のフィッティングルームに退避してしまった。
「リ、リリアーネ! なぜお前がこんなところに!」
「あらまあ、かわいい林檎様♪ 私に会いに来て下さったのかしら?」
「ち、違う!!」
リリーさんの声でようやく東郷会長たちに気づいた西園寺様は、急に月乃が走り去っていき、林檎さんがケンカを始めたので、クールな仮面の下で内心かなり慌てた。一度に三つも事件が起きたら誰だって動揺する。
一番奥の試着室のカーテンを素早く開けてサッと身を隠した月乃は、妙に高鳴っている自分の胸を落ち着けるため深呼吸した。冷静さを取り戻したらここを出て、いつものクールな顔で日奈様に会おうと月乃は思った。
(なんだか・・・胸が熱いですわ・・・)
ちょっと走っただけなのに体が火照ってしまっている。まるで熱がある時のように足元がフラフラするが不快な感じではなく、むしろ巨大な白い鳥の背に乗ってぐんぐん空に舞い上がってくような幸福な目眩であった。
「これは一体・・・」
「あのう・・・」
「ひい!!」
カーテンを押さえるような形で試着室に入っていた月乃は、自分の背後にいるその人に全く気づかなかったのである。
「あっ、驚かせてしまって、申し訳ありません・・・!」
試着室の先客は、なんと日奈様だった。
日奈様はリリーさんに無理矢理選ばれたと思われる水着を着ており、恥じらいが羽織らせた制服のブラウスの下に、ボリューミーなフリルがセクシーな白いビキニと、それに抱かれた瑞々しく透明感のある柔肌が見えていた。月乃はすぐに試着室から逃げ出せば良かったのだが、腰が抜けてしまい、しぼんでいくバルーン人形のようにその場にへなへなと座り込んでしまった。
「え・・・あの、大丈夫ですか。どうされました・・・?」
まさか月乃様が自分に見とれているだなんて思っていない鈍感な日奈は、本気で月乃様を心配し、一緒に座ったのだった。
月乃と日奈が二人きりになる時、いつもそこは不思議な空間になる。
月乃は自分が変身しないよう理性を保つことに必死なので気づかないが、日奈はその幻想的とも呼べる時の流れをいつも胸いっぱいに感じている。
(月乃様と二人きりだ・・・)
月乃の正面で体育座りをした日奈は、実はかなり緊張していた。
「あ、あの・・・」
日奈の声に月乃は答えず、代わりに足をもじもじさせて座りポーズを整えた。
「もしかして、リリーさんたちから逃げて来られたんですか」
月乃様が自分を避けるためにこの試着室にやってくるほどドジな女性だと思えなかった日奈はそんなことを訊いた。日奈様のピュアな視線が頬の辺りにまぶしくて、月乃はうつむくような曖昧な感じで頷いた。
(まずいですわ・・・! 早く逃げないと戒律を破ってしまいそうなのに、体が動きませんわ!)
おそらく体が動かない要因に日奈様の魅力も直接関係している。ロワール会の中心人物でありながら恋の戒律を破ってしまう罪悪感と、小学生の小桃ちゃんの正体がバレる恐怖にも勝る日奈様への感情・・・それはもっと彼女と一緒にいたい、もっとおしゃべりしたいという強い欲求である。この時間が永遠に続けばいいと思わせてくれるものに出会える人生はきっと幸福だ。
「月乃様・・・」
長い沈黙を破ったのは日奈だった。名前を呼ばれただけで月乃はしゃっくりをしたようなカッコ悪い驚き方をしてしまったが、日奈様はそんなこと気づかない。
「あの・・・私・・・」
日奈は月乃様にどうしても伝えたいことがあったのだ。
「私・・・」
人前でどんなに冷たいフリをしていても、月乃様がとっても優しくて、そして寂しい思いをしている人間であることは日奈にバレているのである。そんな月乃様と共有する時間に幸せを感じる日奈は、生徒会同士の争いを越えて、自分はあなたと友達になりたいと、敢えて言っておきたかったのだ。そうすれば妙なタイミングでこういった日奈の本心が月乃様に伝わってしまった時に距離を置かれずに済むか、もしくは距離を置かれても心だけは友達関係のまま通い合わせてくれているという保証を得られるのだ。そんなことを気にするくらい、日奈にとって月乃様は大きな存在なのである。
「私・・・」
セーヌ会の人間ですけど、私はあなたを嫌ってなんかいませんという意味で「あなたが好きです」という表現を使いかけたが、誤解されそうだったのでやめた。妙なこと言うと硬派な月乃様に絶対に嫌われてしまう。
「私・・・月乃様のお友達になりたいんです」
「ひっ!」
「へ、変なこと言ってごめんなさい! その、二人きりの時だけで・・・いいんです。あなたの・・・お友達に・・・」
月乃はひどく慌てた。普段あちこちで日奈様やセーヌ会を悪く言い、本人の前でも強がって冷たく接しているどうしようもないお嬢様である自分とお友達になりたいとはどういう了見なのか分からなかったのだ。
(二人きりの時だけ・・・!?)
つまりどういうことなのか整理するヒントを探るため月乃はほとんど無意識に顔を上げたが、日奈様と目が合ってしまったことでますます思考は停滞した。なにしろこの時の日奈はかなり勇気を出して月乃にお願いをしたので、頬を染めて上目遣いでもじもじしていたし、そのポーズのお陰で綺麗な胸の谷間が強調されていたからである。日奈はこういう仕草を全く故意では無しにやってしまう、天然の小悪魔なのである。
(も、もう限界ですわ・・・!!!)
月乃は「考えておきますわ・・・!」と言い残して試着室から逃げ出してしまった。
「だいたいリリアーネ! あなたはいつから私を名前で呼ぶようになったのか! 馴れ馴れしい!」
「あら、だって林檎さんの苗字知らないんですもの、あっ・・・!」
口喧嘩する二人のあいだを風のように駆け抜けた月乃は、水着ショップの脇の小さな木製ベンチの裏に逃げ込み、そこで小学生に変身した。ベルフォールの鐘の音は先程からずっと月乃を狙って迫っていたのである。
どうやら自分は日奈様に嫌われているわけではないのかも知れない・・・これは月乃にとって今世紀最大級にハッピーでミステリアスなニュースなのだが、小学生に変身させられスヤスヤ眠っている今の幼い月乃はそのことを全く実感しておらず、無垢な寝顔に掛かった柔らかい髪を風にそっと揺らすばかりだった。