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62、月夜の湯

 

 月乃は悲しい夢を見ることがある。

 月乃の幼い頃の思い出は、空っぽの宝箱のように見た目ばかりきらびやかで中身は虚しいものであることが多いから、夢の中の彼女が、懐かしい景色の中にいたとしたら、それは大抵寂しい夢である。

『すいてるわね』

 母の声を助手席で聞いた幼い月乃は、ガラスに映る自分のおでこ越しに遠い空を見上げた。紫陽花の品評会は屋内で行われるらしいから天気はどうでも良いのだが、雨は降っていないようである。几帳面な母が駐車した高級車が白線としっかり平行になっているのを確認した月乃は、お嬢様の物腰で静かに車を下りた。

『行きますよ』

『はい』

 妙な話だが、月乃は小学生の時、駐車場が好きだった。普段はとにかく厳しく月乃をしつけ、淑女としての振る舞いを身につけさせることに尽力する母が、唯一普通の親子のように手を繋いでくれるのが駐車場だったからだ。子供のように母に甘えることを許されなかった月乃も、この時ばかりは「車が通って危ないですから、仕方ないですわ。手を繋ぎますの」という具合に、クールを装いながらも母の温かい手を握って歩いたのだ。

 よほど混んでいない限り車はエントランスの付近に停められるから、月乃の幸せな時間はいつもわずか数十秒で終わりである。

『着いたわよ。先方に失礼のないようにね』

 行き場を失った自分の右手を、月乃は冷たい左手でそっと隠した。誰にも打ち明けられないその切なさが、高校生になった今も彼女の心のどこか深いところでうずくまっているのかもしれない。



「あ・・・小桃ちゃん、お目覚め?」

 涙がこぼれる直前で夢から覚めた月乃は、自分の置かれた状況を理解するより先にその人の瞳に心を奪われてしまった。

「小桃ちゃん、おはよう」

 体だけでなく心まで一時的に退行していた月乃は、日奈様の美しさと彼女の腕の中の心地良さに思わず「わぁ・・・」と声を漏らしてしまった。長い旅路の果てにたどり着いた聖堂の壁画の美しい女神様を見上げた瞬間のような、満たされた気分である。

「あ、小桃ちゃん起きました? 良かったぁ。保科先生にお電話しようか迷いました」

 どこからかやってきた桜ちゃんの微笑みに見おろされて、月乃はようやく我に返った。

「ちょ、ちょっと! 放して下さいます!?」

 小さな月乃は子猫のように飛び退いた。どうやら月乃は日奈様に膝枕してもらって介抱されていたらしい。

「よかった。元気そうで」

 日奈様は小桃ちゃんの様子を見てホッとしたようだ。どれほどの間自分が日奈様に髪を撫で撫でされていたのかサッパリ分からない月乃は、寝ている時の自分が変な顔をしていなかったかとか、寝言を言っていなかったかなどを心配し、顔をひどく赤らめた。

 辺りを見回してみるとそこはまるで大きな観光旅館のエントランスのような場所で、高い天井で輝くシャンデリア風のライトが、ただでさえ非日常的な学園生活にさらなるきらめきを添えていた。

「こ、こここ! ここはどこですの!?」

「ここはね、シャンパーニュハウス。お風呂屋さんの寮なんだって」

 動転してニワトリみたいな声を出す小桃に、日奈様は微笑みながら答えてくれた。

 まだ日が暮れていなかった頃、高校生モードの月乃は日奈様と一緒にお風呂に入る妄想をして一人勝手に戒律を破り、グランド外周の紫陽花の陰で小学生の姿にされてしまった。そんな彼女を発見したのは練習帰りの陸上部の二年生たちで、スヤスヤ眠っている小桃ちゃんを取りあえず自分らの寮に連れて帰ったらしいのだ。そこがたまたま日奈たちが訪れていたシャンパーニュハウスだったわけである。

(目が覚めたら保健室のベッドの上だと思ってましたのに・・・!)

 現実はそんなに甘くない。月乃はもう少し日奈様にドキドキする定めなのである。


「日奈様ぁ、桜ちゃーん♪ お風呂の準備が出来たらしいわよぉ♪ 貸し切りですって」

 バスタオルの類いをたくさん抱え、腹立たしいほど陽気に現れたおねえさんは、日本のお風呂が大好きなフランス少女リリーさんである。

「あら! 小桃ちゃん! 起きたのね♪ お体の具合はいかがかしら」

「・・・馴れ馴れしく近寄らないで下さいます?」

「まあ、元気そうで何よりだわ♪」

 小さな月乃のお嬢様光線など全く効いていないリリーさんは、横目で日奈様の表情を確認すると、サバンナで一番意地悪なヒョウのようにニンヤリ笑った。

「日奈様♪ お風呂ですわよ♪ お、ふ、ろ♪」

「その・・・私はやっぱり、セーヌハウスに戻ってから・・・」

「ダメですわぁ♪ お風呂広いらしいですし! 勿体ないですわっ」

「で、でも・・・」

 幼い頃からモテすぎている日奈は自分の裸が世に与える悪影響、主に友情の崩壊について身を持って学んでいるから、あまり他人と同じ湯に浸かりたくないわけである。

「あ、私、小桃ちゃんの面倒をみているので、リリー様と桜様は行ってきて下さい・・・」

「何言ってますの日奈様ぁ♪ 小桃ちゃんも一緒にお風呂行きますのよっ」

 いつの間にか論点のド真ん中にいた小桃はどうしていいか分からず観葉植物の大きなストレリチアの陰に隠れた。

「ねえ、小桃ちゃーん♪ おねえさんたちと一緒にお風呂行きますわよね♪」

「うっ・・・」

 このままここに残れば日奈様と二人きりになってしまうが、日奈様を助けることにも繋がる。月乃は勇気を振り絞って答えた。

「わ、わたくしはここに残・・・!」

「ほーら、小桃ちゃんも行くって言ってますわ♪ 日奈様も行きましょう!」

「ええっ! いや、わたくしはここに」

「さあ、小桃ちゃん♪ おいでおいで」

 有無を言わさぬリリーさんに抱きかかえられ、月乃はお風呂場に連れ去られることとなった。エントランスのベンチに残った日奈様が、この後ついて来るかどうかは分からない。


 豊かな緑に囲まれたシャンパーニュハウスはかつてもう少し地味な名前の寮だったが、およそ120年前、絵画の額を木彫りで装飾するのが趣味だった当時の生徒が、周辺の木に美しい葡萄の模様を彫っていったことが評判となり名前が変わったのである。よく考えると木たちが可哀想、という理由で、現在はそのような習慣はなく、グランドで活動する運動部員たちの憩いの温泉郷となっている。

「わぁ、脱衣所も広いですわぁ!」

 リリーさんがはしゃぐのも無理はない。シャンパーニュのお風呂場は教室三つ分の広さがあり、カゴやロッカーも200人分あるから、ここに来るだけで既に俗世離れした開放感を味わうことが出来るのだ。

(こんな寮がありましたのね・・・)

 月乃は感心しながら、リリー様と桜ちゃんのあいだのロッカーを選んだ。ちょっと高い場所だが、手を伸ばせば届く。

 ラタンという植物を素材にした床が靴下越しにすべすべと心地よく、ここでスケートの選手のようにスイーッと滑ったら楽しいだろうなと月乃は思ったが、子供じゃないのでそんなことはしなかった。裸足になったら滑らないから転倒を過度に心配しなくてよい。

(あら・・・)

 よく見ると小桃の体は砂まみれだった。前回の変身が体育祭の当日だったからに違いないが、ここでお風呂に入れることはラッキーかも知れない。

「んー・・・日奈様、来ませんねぇ」

 桜ちゃんは日奈様のことを気に掛けている様子である。桜様、まさか日奈様のことが好きなのかしら・・・服を脱ぎながら月乃はそんなことを考えた。


 シャンパーニュハウスのお風呂は全て天然温泉である。

 7種類ある大きな湯船はバラエティに富んでいて、露天風呂まである充実さは、麓の街の有名なスーパー銭湯にだって負けていない。ちなみにセーヌ会の二人に対する特別な配慮で、本日はお風呂が貸し切りである。

「わぁ! すごいですね!」

「そうね♪ 素敵だわ♪」

 桜ちゃんは普段はマナーモードであっても基本的に天真爛漫な娘だし、リリーさんは元から恥を知らないから、二人とも素っ裸で湯煙の中へ飛び込んで行った。ちょっとタオルで体を隠しながらもじもじするとか、そういう可愛気と繊細さは彼女らに無い。

「もう・・・皆さんそれでもベルフォールの乙女ですの?」

 戒律を無視してはしゃぐおねえさんたちは放っておいて、小学生の月乃は至って落ち着いて洗い場に向かった。

 体が小さ過ぎて、木椅子に座ろうものなら上半身しか鏡に写らない。月乃は小学生モードの自分の姿が大嫌いである。高校生の時の月乃はモデルさんのように長い脚と抜群のプロポーション、ついでにそこそこなサイズの美しい胸もあるから、いつも鏡を見るのが楽しくて仕方が無いのに、今はこの有様である。

「小桃ちゃーん♪ 早くいらっしゃーい!」

「はーい・・・行きますわよ」

 背を向けてシャワーを浴びながら、月乃は小さい声でリリーに答えた。


 乗り気でなかった月乃の心も、ひとたび湯のぬくもりに包まれてしまえば食べごろのアイスクリームのようにほどよく溶けちゃうわけである。

「はぁ〜・・・」

 気持ちがよかったので、月乃は幼い両足をお湯の中でぐいっと伸ばした。窓際のヒヤシンスのように足の指まで伸ばしてお風呂に身を預ける心地よさは、まるで雲の中にいるようであり、彼女が直面しているはずの様々な困難は夜空の彼方に飛んでいった。露天風呂もあるらしいので、後で行ってみましょうと月乃は思った。

「小桃ちゃん、気持ちいいねぇ〜」

 桜ちゃんが同じ湯船にやってきた。落ち着いて大人な時間を過ごしていた月乃だが、桜様ならまあ許してあげますわよと思った。

「あら、こっちのお風呂はジャグジーがついてるのねっ! ずるいわよ小桃ちゃん、桜ちゃん!」

 リリーさんまで小桃のもとにやってきた。温水プールじゃないのだからもっとおとなしくして欲しいですわと月乃は思ったが、よく考えると温水プールなんてレジャー施設行ったことがないから分からない。

「はぁー、たまにはこういうのもいいですねぇ」

「そうですわねぇ♪」

 同級生のおねえさんたちに挟まれながら、小さな月乃は水面に揺れる天井のライトをぼんやり見つめた。リラックスは出来ているが、やっぱりちょっと恥ずかしく、そしてくやしいような気分である。


 リリーさんが「あ♪」という声を洩らしたので、何気なく顔を上げた月乃は、とんでもないものを見てしまった。

「うっ・・・!」

 そして顔を湯船にちゃぽんと浸けて、今見たものからの逃避を試みたのである。

 月乃が見たのは日奈様だった。体をタオルで隠し、申し訳なさそうな顔でお風呂場に登場した彼女は、リリーたちに少し頭を下げると、わざと柱の陰になっている洗い場に腰を下ろして髪を洗い始めたのだ。

「あら、本当に恥ずかしがってるのね、日奈様。かわいい♪」

 この状況で平気で雑談ができるリリーさんの度胸に月乃は感心を通り越して呆れてしまった。

「日奈様がお風呂に入れるように、そうね、あんまりイジワルするのはやめておきましょ♪」

 リリーは敢えて日奈様に背を向けて楽しそうにジャバジャバ泳いでいった。

「・・・そ、そうですねっ」

 日奈様の美しさに謎の耐性がある以外はただの一般人である桜ちゃんも、気を遣ってリリーを追って泳いでいった。

(え!? ちょ、ちょっと皆様!?)

 取り残されてしまった月乃も、慌てて別のお風呂に移ることにした。いま日奈様と目が合ってしまったりなんかしたら一生小学生のままになってしまう気がしたからだ。


 逃げてきた月乃は露天風呂への引き戸を開けた。

 全身に吹き付ける冷たい夜風は東の山から下りてくるもので、爽やかな緑の香りをたっぷり含んでいるのだが、今そんなものを味わっていると風邪を引いてしまい、本当に保科先生のお世話になっちゃうので早くお湯に浸かるべきである。

 小さな右足からちゃぷんとお湯にくぐらせて、月乃は温かい露天風呂に身を沈めた。取りあえず日奈様から離れて安心した月乃の全身は水道水に浸かっちゃったソフトコンタクトレンズのようにふにゃふにゃに緩んだ。こんな風にリラックスして日々暮らすことが出来ればきっと幸せなのだろうが、月乃はお嬢様だからそれは叶わないわけである。これは小学生モードの時だけに許された憩いと呼べる。


 目を閉じて風の音と虫の声に耳を傾けていた月乃は、露天風呂のスライドドアが開く気配と、湯煙のゆらめきに気づかなかった。

「小桃ちゃん」

 不意に名を呼ばれてビックリして目を開けた月乃は、夢から覚めるような感覚と、夢の中にいるような気分を同時に味わった。彼女のすぐ横には裸の日奈様が湯に浸かっていたからである。

「ひ、ひ! ひな、日奈様!」

「えへ。露天風呂に逃げてきちゃった」

 湯煙の白がロマンチックなイメージ映像のような効果を生んでいるお陰で、月乃は日奈様のおっぱいを直視せずに済んだが、自分を見おろして微笑むお姉様のエンジェルスマイルと、いつもは見ることができない綺麗な首や肩が刺激的すぎて、月乃はゆっくりと音も無く背を向けた。人間は目の前に危機が迫ると騒いで飛び上がる余裕も無くなることがあるのだ。

「ここ、いいかな?」

 日奈様の声を自分の後頭部に感じて月乃は背中がゾクゾクした。声を出すことも出来ないので、外の景色をじっと睨んで動きを止めるしかない。

「いい、かな・・・」

 日奈様の唇が若干自分の耳元に迫っているのを感じた月乃は、再生速度を上げた赤ベコの映像のように必死に首を縦に振った。少しずつ顔を近づける、というような日奈様の動きはわざとではなく、小桃ちゃんをドキドキさせるために故意に行っていることではないから驚きである。日奈は善意の塊にして天然の魔性を持つ女なのだ。


 沈黙の時間を月乃がここまで持て余したのは初めてかも知れない。

 全身の血が行き場を失ってうろたえ、心臓のあたりを中心に集まり喧々囂々の大会議をしているから考えもまとまらないし、五感も全て背後の日奈様に向かってしまって本来の仕事をしていないから、もはや今の月乃は何も出来ない裸の置物である。

(どどどうして日奈様はわたくしのところに来ましたの・・・!?)

 リリーさんたちが屋内のお風呂にいるから外に出て来たという単純な理由である。小学生の小桃ちゃんと一緒なら裸で接しても襲われることはないし、思春期の恋や友情の因果に干渉し他人を不幸にすることもないと日奈は思っているのだ。

(あれ、小桃ちゃん、緊張してるのかな)

 突然高校生が慣れ慣れしく近づいてきたらそりゃ困っちゃうよねと日奈は思ったから、しばらくは小桃ちゃんの世界を尊重しようと、静かに彼女のかわいい背中を見守ったのだった。

 会話するのが自然と思われる距離感にいながら敢えてしゃべらないのは相手を意識していることの裏返しである。


 気を失ったままこの寮に運ばれて来た月乃は知らなかったのだが、シャンパーニュハウスは結構高所にある。

「素敵な眺めだね」

「・・・うぅ」

 そろそろしゃべり掛けちゃおうかな、と考えた日奈は、露天風呂から眺望できる学園の夜景を見ながら小桃にそう声を掛けた。大聖堂の幻想的なライトアップを目指して吹いている夜風は、火照った頬に心地良い。

「ねえ、小桃ちゃん」

 日奈は小桃の隣りに並ぶように、湯船のへりに腕をついて夜景を眺めた。うつぶせでうたた寝する時と同じようなゆったりしたポーズである。

「小桃ちゃんは、夜景好き?」

「や・・・夜景・・・」

「うん。夜景」

 月乃は困惑した。いま月乃の肩の辺りで揺れた湯波は一秒前に日奈様の体に触れていたお湯だし、月乃のすぐ横に来た日奈様の肩や腕は思わずほっぺを押し当てて甘えたくなるほど優しくて色っぽかった。もう夜景が好きか嫌いかなどどうでもいい。

「まあ・・・嫌いじゃないですわ」

「そうなんだ。私も好き。特に、写真じゃなくて本物の夜景が」

 月乃は日奈様の横顔を見ることが出来ないが、日奈は小桃ちゃんの顔が見たくて仕方が無い。日奈様からの優しい眼差しを頬に何度も感じるので、月乃は脇腹をくすぐられた時のように自然と顔を下に向け、体を縮こまらせていった。

(小桃ちゃん・・・なんで小さくなってるんだろう)

 若干鈍感なところがある日奈は自分の美貌が小学生に及ぼす影響を軽視している。


 小桃ちゃんは病気のせいでほとんど小学校にもいけず、遠い街で診療所通いをしているから、仲のいいお友達が少ないに違いないと、日奈は勝手に思い込んでいる。そして自分の不幸な身の上のために孤独を感じているのは日奈も同じであるから、二人の間に友情が芽生えているとしたら、それはちょっと特別なものかも知れない。

(小桃ちゃんの孤独な感じ、月乃様と同じだ)

 日奈は小桃ちゃんの可愛い横顔を見てそう思った。月乃様のような強く気高い女性の孤独を救う力は自分にないかも知れないが、小桃ちゃんの役になら立てるような気がした。人を救うことと自分を救うことは遥かな次元では同義である。

「ねえ、小桃ちゃん。お月様、綺麗だね」

 日奈はちょっぴり小桃ちゃんに肩を寄せてしゃべり出した。増々緊張してしまった月乃は水面から顔だけ出したまま宮島の鳥居のごとく微動だにしなくなった。小学生は体が小さいため早く温まるから長湯には気をつけたほうが良い。

「あ、小桃ちゃん、知ってる?」

「な、な、何ですの?」

 小桃ちゃんと会話が続いて日奈は少し安心した。

「お月様って、いつも地球に同じ面だけを見せて回ってるんだって」

「お、お、おちゅき様ですの!?」

 月では千年前からウサギが毎夜休まず餅をついており、その餅つき大会はおそらく千年後も続いている。

「不思議だと思わない?」

 月乃は深く考える余裕もなく、人がジャンプしていった直後のプールの飛び込み台の板のように上下に首を激しく振った。

「・・・私ね、お月様の裏側に興味があるの」

 夜空を見上げて独り言のように言ってみてから、日奈はふと思った。

(あれ、なんか私・・・月乃様の話をしてるみたい・・・)

 すぐ隣りで真っ赤になっているのが月乃様の素顔であることに、日奈は全く気づかないのである。



 のぼせて倒れる寸前で桜ちゃんに救出された月乃は、ようやく帰れることになった。

「もう蚊が飛んでる季節だから、気を付けないと行けませんね・・・」

 桜ちゃんはお風呂上がりなのに早速虫よけスプレーを手足に吹きかけている。

「あら、私にもそれ貸して♪」

「いいですよぉ」

 リリーさんもスプレーを使い出した。この学園はとにかく虫嫌いの生徒が多いため虫よけスプレーがよく売れる。

 シャンパーニュハウスはグランドの東南端からちょっぴり山道を上がったところにあるため、帰り道はその坂を下るのだが、とにかく道が暗いのである。大聖堂付近で電気代をふんだんに使っているから、この辺りは節約しなければならないのかも知れない。

「この辺はタヌキが出るらしいですわよ♪」

「本当ですか!?」

 リリーさんの言葉に動物好きの桜ちゃんが目を輝かせた。タヌキとの扱いの差に桜ちゃんの周りの蚊たちはテンションがガタ落ちである。

「小桃ちゃん、怖くなぁい?」

「ひ!」

 暗い夜道の向こうを睨んでいた小さな月乃は、急に日奈様に声を掛けられて驚いた。強いて言えば日奈様の美しさが怖い。

「足元、危ないから・・・」

「・・・え?」

 息を呑む瞬間、人は理性を介さずに世界と対峙することになるから、本当の意味で童心に返っていると言える。役割と意味の枠組みからデジタルに把握するようになったつまらない世界が、一斉に本来の色で輝き出す瞬間である。

「手、つなごうね」

「あっ・・・」

 月乃の右手は日奈様の温かい左手と一つになったのだ。

 不思議なことに、月乃はこの時、恋心とは違う深い安心感を覚えたのだ。ノスタルジックでセンチメンタルなその感覚は、月乃の心の一番弱い部分、既に過去のものとなった苦々しい記憶に優しい続き話をプレゼントしてきたようである。

 家族にも、クラスメイトにも、ネコにも言えなかった寂しさ、お嬢様にあるまじき傷を、日奈様が癒してくれようとしているようで、月乃は激しく動揺した。強がるべきなのか、知らない顔をするべきなのか、正解が分からない月乃は、結局日奈様に心と体を預けて夜道を一歩ずつ歩き出した。

「お・・・」

「ん? なあに、小桃ちゃん」

「・・・なんでも、ありません」

 恥ずかしくって、お姉様と呼ぶ事が出来なかった。

 だが諦める必要はない。あの懐かしい駐車場と違い、月影の夜道はまだまだ長いのだ。

 

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