59、雨の日の体育館
「あら、いいお天気ですこと」
路地裏の湿ったコンクリートみたいに暗くのっぺりとした酷い曇天を見上げたお嬢様月乃は、ロワールハウス二階の廊下の窓際でそんな皮肉をつぶやいた。
「しかし予報では雨は降らないということでした。それに明日、体育祭当日は晴れるようです」
「あらそうですの。残念ですわ」
月乃は林檎さんと一緒に寮の階段を下りた。
明日はいよいよ体育祭だが、なにしろこれはセーヌ会が提案してきた品のないイベントなので、ロワール会のメンバーである月乃や林檎さんは乗り気でない。いっそのこと明日大雨が降って中止になればいいのにと月乃は思っている。
二人はちょっと早い夕ご飯の準備をしようとダイニングキッチンのドアを開けたのだが、意外にもそこには西園寺様がいた。自室ではなく一階でお茶を飲みながらお勉強をしていたらしい。
「失礼しますわ。お邪魔でしょうか」
「いいのよ」
西園寺様は優しくそう答えて再びテキストに視線を落としたが、何かを思い出したように顔を上げて月乃たちのことを見つめた。
「・・・西園寺様、どうかされましたの?」
「あなたたちを見て不意に思い出したわ。明日の体育祭の件なんだけど」
西園寺様は会話中に度々無言の間があるのだが、これは凡人には想像もできない思慮の螺旋を駆け上がっている最中なので邪魔してはならない。
「たぶん、ロワール会用の応援席を確保し忘れている気がするのよ」
「え?」
西園寺様も月乃も林檎さんもスポーツの祭典に疎いので競技に出場していない時の待機場所についてイメージがよく出来なかったのである。ずっと三人で本部席に集まっていてもいいのだが、ちゃんとロワール寮生の場所が応援席にないと参加者としての格好がつかない。
「でも、ヴェルサイユハウスの生徒さんたちが、私たちの場所くらい確保してくれると思いますわ」
という月乃の意見に、西園寺様はしばらくネコの置物のように無言のままじっとしていたが、やがて「木陰の涼しい席がいいわね」と蚊の鳴くような声でつぶやいた。これはもう西園寺様のご希望を叶えて差し上げるしかない。
「わ、わたくし行ってきますわ。いい場所を選んで旗でも立てておけば大丈夫でしょう・・・」
月乃は西園寺様のために出かけることにした。
「ではご一緒しましょう。月乃様だけでは心配です」
魔女のような大きな帽子の林檎さんも来てくれようとしたが、今日の夕食当番が二人とも外出してしまったらまずいのでここに残って貰うことにした。
グランドは学園の南東エリア、すなわち二番街にあり、大きな学舎や体育館の裏に隠れているから、大聖堂広場周辺と自分の寮の間を行き来する生活をしている生徒は体育の時間以外に足を踏み入れることはない。
「あら、どなたもいませんわね」
なにしろセーヌ会が主導になっている行事なので、生徒たちのやる気は少なくとも表には出ておらず、体育祭にありがちな万国旗の飾り付けや応援用のボードなどが無いから、天気の悪さも相まってグランドは妙に殺風景である。
「よし、さっそく場所とりしますわよ」
テントを張る時などに使う金属製の細い杭とトンカチの入った工具箱を持っているところを誰にも見られたくなかった美意識の高い月乃は、東の山沿いの散歩道をこっそり歩いてグランドまで来たため、いつものようにファンの生徒たちに囲まれてはいない。他人にちやほやされている時に生き甲斐を感じる彼女にとっては物足りない時間だが、その分深呼吸が美味しいし、作業もし易いはずである。
「あら・・・?」
山の頂きを覆った厚い雲が恥じらって退散しそうな美しい伸びをした月乃の鼻に、なにやら冷たいものが降ってきたのだ。
「雨ですの!?」
しっかり者の林檎さんが雨は降らないと言っていたことに加え、荷物も多かったので月乃は傘を持って来なかったのだ。美髪や制服が濡れてしまうのは気分が悪いが、どこかで雨宿りしても雨が止むとは限らないし、早く場所とりをしておかないと晩ご飯の時間になってしまう。
「やるしかありませんわね」
ハンカチを頭の上に載せた月乃は尊敬する西園寺様のために広大なグランドに駆け出した。頬に当たる涼やかな小雨を月乃はほんのちょっとだけ心地よく感じてしまったが、そんな子供っぽい感覚はきっと気のせいに違いないと思った。
本部席の真向かいの辺りに、明日は木陰になっていそうな場所を見つけた月乃は、さっそく杭を打つことにした。この杭のてっぺんには『西園寺美冬会長の私有地』と筆ペンで書かれた札がくっついているため、明日の朝ここに腰を下ろす恐れ知らずな生徒はいないだろう。
「えい・・・」
人生で一度もトンカチを使ったことがない月乃は、トンカチの柄を両手で掴み、昔話の一寸法師を大きくする時に使う打ち出の小槌のように適当にぶんぶん振り回したため、わずか20センチほどの杭を地面に打つのに彼女は大苦戦することになった。
「うーん・・・」
木陰ではあるが、徐々に雨が強くなってきたので月乃の肩や背中を大粒を雫がトントンと叩くようになってきた。「そんなに叩きたかったらあなたたちが杭を打って下さって構いませんのよ」と月乃は心の中で呟きながら、ぎこちなくトンカチをふるい続けた。西園寺様のお願いじゃなかったらとっくに諦めて帰っているお仕事である。
ようやく杭が地面に突き刺さり始めた頃、月乃は急に病的な胸の高鳴りと体の中心部の微弱な快感、そして切なくなるような甘い香りを感じた。
(ん・・・? この感覚は何ですの・・・)
その疑問の答えを月乃が自力で導く前に、彼女の体を濡らしていた冷たい雨が止んだ。
「あら?」
雨が止んだのではなかった。見上げた月乃の頭上で雨傘が花のように咲いていたのだ。
「こ、こんにちは・・・」
「ひい!」
雨も似合っちゃう美少女、日奈様が傘を持って登場したのである。
「な、な、何ですの!? どうして日奈様がこんなところに!?」
月乃は動揺を隠すために作業の手は休めなかったが、緊張で手が震えてしまったので杭の周りの土をトンカチでペタタタタタと高速で叩いてしまった。地中のアリたちはきっと怯えている。
「いえ・・・たまたま通りかかりまして・・・その」
恥ずかしそうに、そしてちょっと嬉しそうに前髪を整える日奈様は、なぜか半袖の体操服を着ていた。月乃は日奈様の体操服姿をほとんど見た事がないから、日奈様が中腰になって自分を傘に入れてくれているこの状況に酷く慌てた。直視に危険が伴うという点で日奈様と太陽はよく似ている。
「た、体育祭は明日ですのよ! なんで土曜日の午後にそんな格好をしてますのっ?」
「ちょっとした・・・用事で」
雨音が二人の時間を秘密のベールに包んでいた。
月乃はしゃがんだままクールな拒否オーラを必死に出しているつもりなのに日奈様は動かず、月乃を雨から守ってくれている。
「よ、余計なお世話ですのよ・・・その傘」
「あ・・・ごめんなさい」
日奈様は謝って一旦は傘を引いたが、すぐにまた月乃の頭上には綺麗な白い傘が寄り添っていた。
「私のことは・・・気にしないで下さい」
日奈はちょっと頬を染めながらそう言った。冷たくてルールに厳しい高潔なお嬢様細川月乃さんが、本当はとっても温かい心を持っていることを知っている日奈は、今の自分がそれほど月乃様から拒まれていないことが分かっているのだ。それが日奈の思い上がりである可能性もあるが、日奈が仮病で授業を休んだヴァレンタインデーにわざわざ風邪薬を持って来てくれた月乃様に、彼女が心を開いてしまうのは無理もない話である。
(私と月乃様の・・・二人だけだ・・・)
自覚はないが日奈はかなりの世話好きなので、月乃様のために傘を持ってじっと立っていることは苦であるどころかむしろ幸せなのである。本当は明日の体育祭のことなどについておしゃべりをしてみたかったのだが、静かな雨音に紛れるように口を閉じていたほうが月乃様と仲良くなれそうだなと日奈は思ったのだ。
困ったのは月乃である。
(ど、ど、どうしましょう・・・! 日奈様が私の付き人みたいになってますわ!)
トンカチの狙いが定まらない月乃は、杭以外の場所を叩きまくったので、先程よりも少し杭が地上に出て来てしまっている。これではいつになっても作業が終わらない。格好悪いところを日奈様に見られてしまった月乃は恥ずかしくて顔が真っ赤である。
(月乃様が苦戦してる・・・)
謙虚な日奈は自分のことを繊細な作業に向かない腕っ節の強い女と思っている側面があるから、上品な月乃様が苦手とするような力仕事も自分なら手伝えるかも知れないと思った。
「難しそうですね」
「え、いや・・・簡単ですのよ」
「お手伝い・・・してもいいですか」
「ええっ!」
月乃が何か論理的なお断り方法を思いつく前に、日奈はゆっくり月乃のすぐ横にしゃがみ込んだ。日奈様の透き通るような肌が雨色をバックにぼんやり輝いて見えたので、月乃はすっかり心を奪われてしまった。
「それ、貸して頂けますか」
「は、はい・・・」
トンカチも奪われてしまった。
同じ傘の下で寄り添い合った二人きりの時間に月乃の胸が耐えられるはずもなく、たった三振りで杭を打ち込んでくれた器用な日奈が「あ、出来たみたいです。私田舎出身なので、こういう作業得意なんです」と言って微笑んでくれた時には、月乃の耳にベルフォールの鐘の音が迫っていた。この傘の内に居続ければ月乃は幸せでいられるのだが、鐘の音が月乃の頭上までやってきて、尚かつ日奈様がまばたきした瞬間に月乃は小学生なってしまうのだから、正体を知られたくなかったらさっさとこの場から離れなくてはならない。
「あ、ありがとうございますわ。この杭のことは感謝しますの。でもこれ以上はお節介ですからね。傘のことも、別に嬉しかったわけじゃないんですのよ! ほ、本当ですのよ!」
月乃はそう言い残して雨の中を駆け出した。二人きりだったのだからもう少し素直な言葉でコミュニケーションを図れば良かったのかも知れないが、そんな勇気は月乃に無かった。また今度二人きりで日奈様に会えた時はもう少し素直な態度で接することが出来たらいいなと月乃は思ったのだった。
さて、そんな月乃の反省を活かせるチャンスは意外にもすぐに訪れることになった。
「小桃ちゃん」
グランドから程近い体育館内に逃げ込んだ月乃はそこで小学生に変身させられ、倒れて眠っていたのだが、そのまどろみから彼女を抱き起こしてくれたのが他でもない日奈様だったのである。
「んん・・・あ・・・ひ、日奈様!? また日奈様ですのっ?」
「おはよう小桃ちゃん。あれ、またってなあに?」
「あ・・・いえ、何でもありませんわ」
小学生の体で見上げた世界は高校生の時のものと全く異なって見えるのだが、その象徴的存在はやはり日奈様なのかも知れない。全てが大きく色鮮やかに見える世界に舞い降りた天使の姿は、月乃にとってはまさに女神であり、普段の日奈様から感じるガラスのような繊細な脆さが、全て母性ならぬ姉性に変換され、小学生の小桃のハートを温かく抱きしめてくるのである。
「大丈夫? 保健室、行く?」
「だ、大丈夫ですわ」
「お熱はなぁい?」
「ないない、ないですのよ!」
日奈様におでこを触られそうになって月乃は慌てて飛び退いた。小学生相手だと妙にスキンシップが増え、積極的になるところが日奈お姉様の特徴である。
「うん、元気そうだね♪」
小桃の大きなリアクションを見てホッとした日奈様の笑顔に、月乃はまたまた見とれてしまった。月乃はどんな時でもブレず、同じ性格だといえる。
恥ずかしくてどうしていいか分からない月乃は周囲を見回し自分の精神の拠り所を探したが、二人以外の人影もなく、広い体育館フロアにぺたんと座り込み自分を手招きしてくる体操服のお姉様だけが今の月乃の世界の全てである。
「ど・・・」
「ん?」
「どうしてお姉様は・・・体操服ですの」
本日二度目の質問である。
「あ、これはね、実は今日リリーさんと二人で明日の二人三脚の練習をする予定だったんだけど」
「え!?」
なんてうらやましい練習であろうか。
「たった今体育館の公衆電話にリリーさんから電話があって、用事が出来たから行けません、だって」
月乃の脳裏にリリーさんの小憎たらしい顔が浮かんできた。日奈様と練習の約束をして起きながら当日になってサボるなんて実にたわけたおねえさんである。
月乃が心の中でプンプン怒っている間、日奈は小桃ちゃんについて考えていた。
(小桃ちゃん・・・運動会って参加したことあるのかな・・・)
見たところかなり元気なのだが療養でこんな山奥の学園に来るくらいだから小学校のイベントなども満足に楽しめていないかも知れない・・・日奈は勝手に色々想像してしまったが、実はだいたい正解であった。なぜなら月乃は小学生の時既にお嬢様として生きていたから、クラスメイトたちによって「細川さんはお嬢様だから絶対ケガさせちゃダメ! 走らせちゃダメ! 応援合戦にも参加させちゃダメ!」という謎の3ダメ運動を実施されてしまっていたから、まともに運動会に参加したことがないのである。クラスメイトたちは月乃のことを尊敬するが故にそのような気配りをしていてくれたわけだし、月乃も強がって「良かったですわ。運動会なんて出たくないと思ってましたの。観覧に徹しますわ」などと言ってしまったのだが、月乃にとって運動会は孤独で寂しいイベントだったのだ。
「ねえ、小桃ちゃん」
「なんですの・・・」
「お願いがあるの」
楽しそうにはいはいしながら自分に迫ってくるお姉様を前にして月乃は足がすくんでしまった。変身した直後は体が言う事を聞かないことが多い。
「私の二人三脚の練習、手伝ってくれない?」
「・・・え?」
「お願いっ♪」
こういう場合の日奈様の積極性と明るさと押しの強さがどこからくるのか月乃には大いなる疑問だが、とにかくそこには月乃が断るチャンスは無かった。
体育館の中をたった半周するだけだったが、月乃にとっては忘れられない時間になった。
「1っていう掛け声が外側の足ね、小桃ちゃんの場合は右足」
「は、はい」
「2っていう掛け声は内側の足。小桃ちゃんの場合は左足ね」
「分かりましたわ・・・」
「1、2、1、2って言っていくからね。ゆっくりゆっくりやるからね♪」
白いはちまきで結ばれた小学生の月乃と日奈お姉様の足は互いの温もりを通わせ合ってぽかぽかと温まった。
「じゃあ、行くよ」
「ひっ!」
左側から日奈様にぎゅっと抱き寄せられ、肩を組まされた小さな月乃は、胸がすくような心地よい爆発音と共に夜空に花火が咲いた時のような、別次元の刺激に手を焼いた。月乃の左のほっぺが日奈様の甘く柔らかい右おっぱいにふんわり押し当てられたからである。
日奈様の楽しげな掛け声を密着した体同士の振動で聞きながら、月乃は懸命に足を前に出した。難しいことを考えずとも、月乃は日奈様の声と温もりに自分の体を預けていれば良かったのだ。歩幅が違えど、心を通わせれば共に歩くことができることの証明である。
(うぅ・・・わたくし今・・・完全に恋してますわ・・・)
泣きたくなるほど日奈様の胸の感触が大好きで大好きでしょうがない小学生の月乃は、幸福感は背徳感とかけ算すると何倍にも膨れ上がることをこの時実感したのだった。
密着した日奈様の体操服のサラサラとして柔らかな感触と甘い香りは月乃の思い出の宝箱の割と深いところにしまうべきものだったが、二人きりの体育館の窓の外で雨が踊る今日ならばそれも難しいことではないのかも知れない。