52、古都の夜
満開の桜並木が鴨川の静かな流れに逆さまに映っていた。
「いい風ね」
ベルフォール女学院の最高の女性である自分の髪を、野の花を揺らすように撫でる馴れ馴れしい春風に西園寺様はそんな評価を下した。西園寺会長の心はこの青空のように広い。
「あの、西園寺様、そろそろ行きません・・・?」
小学生モードの月乃は会長のスカートをくいくい引っ張った。しっかり者だがマイペースなところがある西園寺様は、集合時間まであと10分なのにいつまでも四条大橋からの景色に見とれて動こうとしない。まだロワール会の智慧を完全に体得したわけでない月乃は気づいていないが、西園寺様は自分が集合場所に一番乗りしていたら他の生徒たちが自由に行動しにくいと考え、敢えてギリギリに行こうとしているのだ。さすがは西園寺様である。
修学旅行第二の訪問地京都でも、ベルフォール女学院の生徒たちは注目の的だった。ベルフォール女学院自体の知名度はかなり高いのだが、実際にそこの生徒を見たことがある者はほとんどいないので、周囲に集まって勝手に写真を撮っている方々は皆本物のパンダを初めて見た子供たちみたいに無邪気で、海外からの観光客と思しきバックパッカーのおねーさんたちも「オー、ジャパニーズビューティフルドールズ!」と騒いで興奮している様子である。通行の邪魔になる前にこの橋から去るべきかもしれない。
すると、橋の西側から見覚えのあるベルフォールの生徒が数人の取り巻きを従えて月乃たちのほうへ歩いてきた。その少女の襟元には純白のリボンが揺れていて、白いセーターを大胆に腰に巻いた出で立ちは、単に粗暴でない、外見の統一感を引き出しているものだから、彼女の美しさもまた本物である。
「と、東郷会長ですわ」
幼い月乃のつぶやきに西園寺様は何も言わずに振り返った。
「やあ、こんにちは。異色のコンビだが、お似合いでもあるね」
月乃は西園寺様の前にサッと出て彼女を守る体勢に入ったが、近くにいた大勢のロワール会支持者たちも同じことをしたため会長の前は一気に混雑した。
「小さな天使が観光バスに紛れ込んでいたという噂は本当だったようだね。小桃くん、修学旅行は満喫しているかい?」
返事の変わりに月乃があっかんべーをすると東郷会長は爽やかに笑った。優しい人柄が滲んだようなステキな笑顔なのが悔しいところである。
「さて、これは本題だが、その小桃ちゃんを私に預からせては貰えないか」
「え?」
ロワール会の取り巻きの皆さんも一斉に月乃を見たので、月乃は少々顔が熱くなった。
「私はこの修学旅行を無事成功させなければならない。もし何か問題があれば、来年以降修学旅行は中止にされてしまいかねないからね。セーヌ会は生徒諸君が楽しい学園生活を送って欲しいと心から願っているのさ」
黙ったまま東郷会長の顔を見つめていた西園寺会長は冷静に反論した。
「小桃は渡さないわ。あなたが小桃を迷子にさせない保証がどこにあるの。問題が起きた時、学園の責任者である私の名誉が傷つくんだから、あなたならやりかねないわ」
「それはこちらの台詞だよ。キミのほうこそ、我らセーヌ会の華麗なる長期計画を挫こうと小桃くんを京都御所あたりに置き去りにするんじゃないのかい」
置き去り合戦はやめて下さいと月乃は思った。
どちらの主張も正しく、そして根拠がないから、両者の話し合いは進まなかった。この後は奇数クラスと偶数クラスに別れての観光であり、西園寺会長と東郷会長は別の場所に向かうことになるから、小桃がどちらに着いて行くか今決める必要があるのだ。このまま西園寺様と一緒にいると西園寺様の身まで危険にさらされるかもしれないし、東郷会長と一緒にいれば月乃が気をつけてさえいればロワール会の名誉も無事なはずである。
(・・・ど、どうしましょう。東郷会長について行くべきなのかしら)
「それなら前半と後半で分けるということでいいかな。最初は私、東郷に同行させる。その後はキミと一緒だ」
「・・・仕方ないわね。認めましょう」
月乃の意志はそっちのけで月乃の午後の予定が決まってしまった。
「これは素晴らしい」
せっかくの桜が大して目立っていないが、金閣寺は月乃の知識通り金ピカで、すぐ隣りに立つ東郷会長もすっかり感心した様子である。
「小桃くん、見えるかい?」
「見えますわよ・・・」
「綺麗だね」
「まあ、ほどほどに」
東郷会長がいるクラスの生徒たちは、他の生徒と同様にロワール会を敬愛しているが、それでもなんとなく東郷会長の雰囲気に流されており、まるで普通の修学旅行生のようにはしゃいでいる。やはりベルフォールの美しい戒律と伝統は危機的状況にあるようだ。
「現代はあちこちに様々な色が氾濫しているが、昔の人がこれを見たらどう感じただろうね」
「さあ・・・」
「写真も無かった時代なら尚更だね」
雑談はしてくるが特に月乃をトラブルに巻き込もうとして来ない東郷会長に月乃は困惑気味である。東郷会長は本当にこの修学旅行を平穏無事なものにしようと思っているのだろうか。
「素晴らしいものは直感で分かる。こういう分かり易い魅力こそが人を動かし、時代を変えるんだ」
物の感じ方は人それぞれであるが、東郷会長は金閣寺の輝きの向こうに何か自分の理想とする世界が見えているらしい。
「私は時代を変えなければならないんだ」
「あら・・・それは良かったですわね」
セーヌ会の考えなんかに興味ないですわよとアピールするために、月乃は東郷会長のお話を適当に受け流しておいた。勧誘するつもりはなかったのだが、自分がそれに近い語りをしていたことに気づいて東郷会長は笑った。
「大丈夫。キミがロワール会のファンであることは分かっているよ。将来は西園寺君のような立派な女性になりなさい」
「え・・・は、はい」
西園寺様のことを立派な女性と表現した東郷会長の言葉が皮肉のようには思えなかった月乃は東郷会長をそっと見上げた。
(この人は一体何を考えてますの・・・?)
表情豊な人間が必ずしも感情や思考を表に出しているとは限らないのである。なんだかくやしいような、モヤッとした気分の月乃は、鏡湖池の水面が風に揺れるたび、そこに映るきらびやかな金閣が赤や緑や紫に移り変わったりしないかと夢を見てしばらくぼんやり過ごした。歴史はいつも優れた仮面職人によって作られているのかも知れない。
「素晴らしいわね」
一方、心を隠す仮面を作らせたら日本一の女性と一緒に訪れた銀閣寺は、月乃にとっては実に過ごし易い場所だった。
なにしろ月乃は名に「月」を持つ女であるから、生まれながらのナンバー2とか、陰で咲く花のような存在に美しさを見いだすことで自分の存在に箔を付けているので、明らかに銀メダル的な名を冠されたこのお寺に惹かれて仕方が無いわけである。西の金閣寺に比べれば庭園も銀閣そのものも地味なのだが、こういうのを見て感動出来る女性がやっぱりカッコイイのである。
「本当、素晴らしいですわね」
石の橋の上で月乃は西園寺様のつぶやきに渋い感じの声で同調したのだが、なにしろ体が可愛い小学生なので周りの生徒たちに微笑みを与えただけだった。とはいえ、西園寺様と同じクラスの少女はロワール会の会長の印象を自分たちが左右しかねないという自覚を持っているので皆戒律を重んじているから、微笑ましい光景に出会ってもごくごく僅かに口角が上がる程度である。
「小桃」
「はい」
「東郷会長になにもされなかった?」
「はい! わたくしはこうしてピンピンしてますわ」
月乃が両手を広げてくるっと回って見せると、西園寺様は「そう」とだけ言って月乃の頭を優しく撫でてくれた。人形のように美しく冷たい無表情のままなのにあらゆる所作から思いやりが伝わってくる西園寺様は月乃にとって最高の先輩である。西園寺様と一緒に美しい庭園をゆっくりゆっくり歩いた時間が、明日からもお嬢様人生を生きようとする月乃への熱いエールになったことは言うまでもない。
奈良の旅館では月乃は完全に保科先生のお世話になり、ご飯も寝室も先生と一緒だったのだが、ここ京都では特別に生徒たちに混ざって過ごせることになった。修学旅行を受け入れる旅館というのは大抵きっちり人数分しか食事を用意していないものなのだが、こちらの旅館では飛び入り参加の少女の分をギリギリ用意して貰えたのである。
「頂きます」
ベルフォール女学院伝統の長いお祈りに従業員さんたちが度肝を抜かしているのを横目で見ながら、幼い月乃も夕食を食べ始めた。西園寺会長と東郷会長が交代で小桃ちゃんの面倒をみるというシステムが続いているので、現在月乃は東郷会長の隣りである。
てっきり「どうだい小桃くん、美味しいかい?」みたいなことをたくさん訊かれて鬱陶しいディナータイムになるだろうなと月乃は思っていたのだが、意外と東郷会長は大人しく、黙々と京野菜を口に入れては時折遠い目で天井の鳳凰の絵などを眺めるばかりであった。
「どうですの。美味しいですの?」
つい月乃のほうから話しかけてしまったが、東郷会長は別段驚く様子もなく「美味しいよ」と答えて笑ってくれた。東郷会長はほどいた時の髪が長いこと以外は非常にボーイッシュで、スポーツマンのように爽やかなのだが、彼女の落ち着きはちょっと病的である。
「具合でも悪いんですの?」
「え?」
小学生に体の心配をされた東郷会長は、自分の様子を客観的に振り返って急に大きな声で笑い出した。見ていて飽きないおねえさんである。
「いやいや、実は私、ナスが苦手でね」
「あら」
「どのお皿の下に隠そうか考えていたんだ。それとも、食べてくれるかい? これ」
「まあ、呆れましたわ」
心配して損をした月乃はぷいっとそっぽを向いたが、そこで三列向こう側に座っていた西園寺様と目が合ってしまった。月乃は自分が東郷会長と楽しくおしゃべりをしているわけでないことをアピールするために肩をすくめて「東郷会長は本当に困った人ですわ」みたいな顔をして見せた。
大変だったのはお風呂である。
入浴は西園寺様のクラスと一緒だったのだが、幼い小桃ちゃんとお風呂に入りたいおばかさんたちが順番を無視して集まったため大浴場は初詣の境内のような大混雑となった。
「小桃ちゃーん、いい湯加減ねぇ!」
「小桃さん。もっと・・・こちらを向いて頂けますか」
「おねえさんたちがお背中流してあげるわねっ」
などと声を掛けてくるタイプはまだマシであり、危険なのは湯船に浸かっている月乃の脚などを無言で触ってくる生徒である。抵抗を続けないとどんなことをされるか分かったものではないのだ。
「さ、西園寺様っ」
西園寺会長に助けを求めようとしたのだが、彼女は湯船のすみで無表情のまま体育座りをし、気配を消していた。西園寺様は威勢良くトラブルの仲裁に入るような女性ではないので、こういう時はじっとして動かないのだ。
「ねえ、明日は一緒に嵐山デートしませんこと?」
「はぁ、なんて可愛いの!」
「小桃さんのお肌すべすべ・・・」
「や、や、やめてくださーい!!」
やはりお嬢様に修学旅行なんてイベントは似合わないのである。
さらっとして心地よいシーツの香りに包まれて、月乃はようやくホッと一息つくことが出来た。
「もう大丈夫よ。本当に、おつかれさまね」
「あ、ありがとうございますわ・・・」
両会長が交代で小桃の面倒をみる制度は一先ず終了で、今夜の月乃はこのまま西園寺様のお世話になって眠ることになった。西園寺様と同じ部屋で寝るなんて恐れ多い、という理由でクラスメイトたちが全員遠慮してしまったから本来西園寺様はたった一人で寝ることになっていたので、今夜ここは会長と小桃の二人きりのお部屋である。
窓の外に見える清水寺周辺の桜はもうライトアップの時間を終えていたが、街明かりにぼんやり浮かぶ薄紅色もまた味わい深いので、月乃は窓際で歯磨きしながら古都の春を味わった。歯ブラシが固くてあまり月乃の好みではない。
「もう寝ましょうか」
「はい」
月乃が布団に潜って丸くなっていると、西園寺様は自分の布団を少し月乃のほうに寄せてから電気を消してくれた。
音のない暗闇をスクリーンにして鮮やかに明滅する今日見た様々な色のダンスが月乃をウットリさせたが、彼女の小さな胸の中を不意に吹き抜けた隙間風がその灯火をあっけなく消してしまった。
(学園は・・・今頃・・・日奈様は・・・何をしていますの・・・?)
高校生の自分がこの世に存在していないこの数日、日奈様の身になにか悪いことが起きていないか、あるいは日奈様が特定の誰かと必要以上に親しくなっていないかなどが気になって、月乃は眠れなくなってしまったのである。小学生モードであっても学園にいさえすれば日奈様に悪い狼が寄り付かないようにチェックできるのに、もどかしいところである。月乃は自分もその悪い狼の一人だという自覚があるから、こういうことを考える時いつも罪悪感で胸がちくちく痛むのだ。
「小桃」
「は、はい!?」
急に呼ばれた月乃は変な声でお返事してしまった。
「起きてる?」
いいえ、と答えようか月乃は一瞬迷ったが無駄なのでやめた。
「・・・起きてますわよ」
「少し・・・お話してもいいかしら」
「え? はい。大丈夫ですわ」
なんだかドキドキしてしまうシチュエーションであるが、相手はあの西園寺様なので月乃は気を引き締めて耳を澄ました。
「明日・・・」
西園寺様が言葉を詰まらせたのか、それとも単に考え込んだだけなのか、月乃には判断しかねる間であった。
「明日、迷子になってくれる?」
「・・・え?」
すぐには理解できない言葉に月乃は西園寺様の表情を窺おうと思ったが、彼女の横顔は闇の中である。
「どういう意味ですの・・・?」
「修学旅行を今年で終わりにするには、それしかないの」
「それは・・・合点がいきますけど・・・」
同行していた小学生が迷子になんてなったら学園の第一生徒会であるロワール会の責任になってしまう。セーヌ会と争っている今そんな問題を起こしたら、さすがのロワール会も劣勢になっていくことだろう。
「責任は私が取るわ」
「え?」
「私一人が、あなたを迷子にしてしまった責任を取るの。ロワール会は新しい会長に代変わりして、問題なく存続するわ」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
月乃は上半身を起こした。
「西園寺様は・・・ご自分の名誉を犠牲にして、セーヌ会と共倒れする気ですの!?」
「そうよ。時間になったらちゃんと迎えに行くから、本当に迷子になる心配はないわ」
プライドと見栄の塊である月乃からすれば想像を絶する作戦である。自分が悪者になってまで学園のために尽くそうとするそのエネルギーが、クールな西園寺様のどこから湧いてくるのか月乃には大いに疑問だ。
「そ、そんなのダメですわ!!」
月乃は布団の上に飛び起きた。
「西園寺様が悪者になって私たちがのうのうと暮らすなんて、そんなの我慢出来ませんわ!」
まさか小学生の小桃ちゃんがこんな風に意見を出してくるとは思っていなかったので、さすがの西園寺様もちょっと驚いた様子で言葉を探している。
「わたくし・・・じゃなくて、月乃様も林檎様も、西園寺様がいなくちゃまだ何も出来ませんのよ!」
「小桃・・・これは学園全体のことを考えた、必要な犠牲よ」
「犠牲が必要な学園の平和なんて、ちっとも美しくありませんわ!」
自分の人生を冷静に俯瞰している西園寺様のほうがずっと大人であり、月乃の論理は感情が前面に出た甘いものだが、西園寺様を尊敬する月乃の心もまた熱く燃えた真実である。こんなに優しくて立派な人がこんな不名誉な形で生徒会を去ることになるなんて月乃は耐えられないのだ。
「修学旅行は・・・来年で最後にする方法をゆっくり考えますから。だから・・・だから・・・」
「小桃・・・」
いつの間にか涙声になってしまった小桃を、西園寺様はそっと引き寄せて抱きしめた。この時の月乃は珍しく甘えん坊で、「どこにも行かないでっ」と言わんばかりに西園寺様の腕にしがみついてしくしく泣いたのである。小学生モードの時、月乃の心の制御装置の一部は九歳レベルにまで低下するようだ。
「分かったわ。もう大丈夫よ。明日はずっと私から離れないで。さっきの計画はやめにするわ」
「本当ですの・・・?」
「ええ。本当よ」
それを聞いた月乃は心から安堵し、同時に非常に恥ずかしくなって西園寺様の腕を慌てて放した。
西園寺様は自分の人生など二の次で学園のことを考えてばかりだったが、自分の幸せそのものが誰かの幸せの土壌となるケースがあることを今夜初めて知ったのだ。抜けていたジグソーパズルのピースがはまるような満たされた心持ちになった西園寺様は、人形を演じるにはまず人間を知らなければならないことにも気がついたわけである。
「・・・小桃」
「なんですの」
「嬉しかったわ。・・・ありがとう」
「・・・あ」
想定外のタイミングで「ありがとう」を貰ってしまった月乃は、この後かなり面倒な目に遭うことが約束されているのだが、古都の夜空に響くベルフォールの鐘の音を聞く彼女の胸は、彼女が昼間出会ったどの花よりも鮮やかに、そしてどの風よりも活き活きと鼓動していた。非常に恥ずかしい思いはするが、尊敬する誰かのためになるのならば、たまには冷たい仮面を外すのも悪くないなと月乃は思ったのだ。