43、雪合戦
「今年が皆さんにとって素晴らしい年でありますように」
始業式の西園寺会長の挨拶が終わった時、事件は起こった。
「少しお時間を頂きたいっ」
大聖堂の客席で立ち上がったのは、白いジャンヌダルクの異名を持つ東郷会長だった。会場は騒然としたが、始業式で何か起きると予想していた生徒も多い様子である。
「慎んで下さい。式の最中ですよ」
「セーヌ会もあなた方と同じ生徒会ですから。私にもお話させて下さい」
西園寺会長はじっと東郷会長の顔を見てから、手をひらをそっと差し出して「どうぞ」と合図した。
(東郷会長、また何か厄介なことを提案するつもりなんですわ・・・)
月乃は隣りの席の林檎さんと同じ顔で東郷会長を睨んだ。林檎さんは帽子のせいで表情がほとんど見えないが、いつもだいたい月乃と同じことを考えている。
「冬休み中の私たち学園生徒は、どうも運動不足だったように思われるのです」
今恥ずかしそうにうつむいた生徒は運動不足の自覚がある者である。
「それで?」
「はい。そこで提案なのですが」
全校生徒の意識が東郷会長の言葉に集まった。体育館よりも広い大聖堂がしーんと静まり返る瞬間は少し幻想的で、時の流れが額縁に切り取られて絵になったような不思議な感じである。
「週末、全校生徒で雪合戦をしましょう」
「雪合戦!?」
生徒たちは口々に東郷会長の奇妙な提案を繰り返して互いに顔を見合わせた。こんな感じのオウムがたまに動物園にいる。
「私の見立てでは今週の土曜に雪が降ります。せっかくですから、2チームに分かれて勝負といきましょう」
なんて品のない提案ですのと月乃は思ったが、これで週末雪が降らなかったら東郷会長の面目はぺしゃんこなわけだから、それに賭けて勝負を受けるのもいいかも知れない。全ては西園寺会長の判断に任された。
「いいでしょう」
「西園寺会長!」
西園寺会長に向かって身を乗り出した林檎さんの帽子の先が月乃の側頭部にコツンとぶつかった。月乃をあいだに挟んで白熱しないで頂きたい。
「雪合戦、受けて立ちましょう。2チームに分かれて勝負ですか?」
「2チームに分かれて勝負しましょう」
「では2チームに分かれて勝負にします」
両会長にどんな確執があるのか月乃は知らないが、やっぱり二人の会話は少しぎこちない。
東郷会長の提案はさらに続いた。
「東西大通りを境に、北部の寮に所属する生徒はあなた方ロワール会が率いる黒チーム。南部の生徒は我らセーヌ会の白チームとして戦うのはいかがでしょう。合戦の舞台は屋外で、敵に雪玉を当てられたら速やかに手近な建物に入って窓から観戦して頂きます。大将は西園寺会長と私。全体の優勢劣勢に関わらず大将がアウトになったチームの負けです」
話を聴く限り東郷会長がその場の思いつきで適当に提案しているわけでないことは明らかである。西園寺会長は隣りの席の月乃と林檎さんの表情を確認してからそっとうなずいた。
「いいでしょう。条件を飲みます」
「なんだか気が重いですわ・・・」
「私もです」
ロワールハウスに戻った月乃と林檎さんはキッチンで夕食の支度をしていた。
「雪合戦なんて子どものやることですわ」
「しかも我々は意地でも勝たなければならない。ひどい週末になりそうです」
胡椒やベルペッパー、コリアンダーなんかがバランスよく混ぜられた西園寺会長直伝のスペシャルスパイスを月乃がアスパラガスにバサバサ振り掛けていると、寮の電話が鳴った。夕食当番じゃない西園寺会長が上の階でお勉強をしているので素早く受話器を取らなければならない。月乃はスパイスの入れ物を林檎さんの頭の帽子の上にちょこんと乗っけて駆け足で廊下に向かった。
「はい、ロワールハウスです」
『こ、こんばんは。マドレーヌハウスの若山桜です。月乃様ですか?』
学園一無害な少女桜ちゃんからのお電話である。
「あら桜様、どうかしましたの?」
『はい、あの、大したことではないのですが。小桃ちゃんはそちらにいませんか?』
いますわよここにと月乃は思った。
「いませんわ。今度見かけた時に何か伝えておきましょうか?」
『あ、はい。ぜひお願いします。今度の雪合戦にもし小桃ちゃんが参加するならどっちのチームに所属することになるのか、始業式の帰りに東郷会長に訊いてみたんです』
小桃という人間が一人歩きをしているようで、月乃は不思議な感じがした。学園に紛れ込んでいる怪しい小学生が仲間外れにならないように気にかけてくれる桜ちゃんの優しさが月乃の胸を打つ。
『そしたら、小桃ちゃんはロワール会の黒チームになるとおっしゃってました。あの子が普段寝泊まりしてる保健室が西大通りの北側にあるからだそうです』
つまり月乃はわざと小学生に変身して白チームの様子を探りに行くことは出来ないのである。
「分かりましたわ。小桃さんに会ったら伝えておきますの」
『ありがとうございますっ。よろしくお願いします』
「では、また」
『あ、あの!』
月乃が受話器を置く前に、桜ちゃんはひと呼吸入れてからちょっぴり熱っぽい高い声で言った。
『こ、今年もよろしくお願いします、月乃様!』
「あら」
実は桜ちゃんは月乃にこの一言を言いたくて電話したようなものなのだ。彼女はとにかく純粋なので、天真爛漫で明るい一面もあれば、新年の挨拶を言うタイミングを見失うほどの恥ずかしがり屋になることもある。
月乃はお嬢様フェイスを作ってから西園寺様のスーパークールボイスを真似て答えた。
「こちらこそ、よろしくお願いしますわ。桜様」
桜ちゃんが大喜びしたことは言うまでもない。
「随分長い電話でしたね。もっと簡潔に済ませられないのですか?」
月乃がキッチンに戻ると、林檎さんはまだ頭の上にスパイスの小瓶を乗せていた。シュールな笑いに理解があるか、もしくは意外と鈍感なのかも知れない。
土曜日の未明、温かい布団の中からそっと手を伸ばして開けた黒いカーテンの向こうに、月乃は白の世界を見た。東郷会長の言う通り、今日の学園は一面不吉なホワイトに塗り潰された一日となるようだ。
(こうなったらもう勝つしかありませんわ・・・! 学園の清く美しい未来のために、黒チームが負けるわけにはいきませんのよっ)
月乃は布団にしっかり潜り直して足首の体操をしながら、目覚まし時計が目を覚ますのを待ったのである。
ベルフォール女学院は土曜日も午前中は授業があるのだが、今日はみんな午後のイベントのことが気がかりで勉強に集中出来なかった。
雪合戦は午後1時の校内放送を以てスタートすることになっており、チラつく程度だった雪は正午を過ぎる頃にはかなりの本降りになっていた。
「林檎様、帽子に雪が積もってますわよ」
「そんなことを言って私に帽子を取らせる気でしょう。そうはいきませんよ、月乃様」
林檎さんは人間不信である。
黒チームの総本部はロワールハウス前のベンチに設置され、西園寺会長はそこでお茶をしながら勝負の行方を見守ることになった。敵に雪玉を当てられてアウトになるまでは屋外にいるのがルールなので西園寺様には雪に降られながらのティータイムを過ごしてもらうしかない。
「ロワール会の誇りも大切だけれど、戒律を守って常に美しくあることが私たちの仕事よ。特に月乃さんと林檎さん、無理は禁物よ」
「はいっ」
ドールハウスの長、西園寺様からの有り難いお言葉を頂いて黒チームの生徒たちのやる気は充分である。
「林檎様。林檎様」
「なんですか? 月乃様は私語が多すぎですよ」
月乃は林檎さんの帽子の雪を払ってあげながら声をかけた。
「林檎様はここに残って、西園寺会長を守っていて下さらないかしら」
「どういうことです? 憎きリリアーネたちを仕留めるのが私の使命ですよ」
林檎さんは高校生モードの月乃よりは小柄なのでよく見るとちょっとかわいい。
「この場所にもたくさんの生徒が残って西園寺様をお守りして下さるはずですけど、その中に代表は必要だと思いますのよ」
「守りの代表・・・それが私だとおっしゃいますか」
「その通りですわ」
月乃は自分が勝利に直接貢献してかっこよく目立ち、お嬢様度を上げたいとも思っているが、それ以上に林檎さんの負けない心意気と根性を信頼しているのである。春に行われた球技大会での林檎さんの頑張りを月乃はよく覚えている。
「分かりました。私が命に代えても西園寺会長をお守りします」
「よろしくお願いしますわ」
「月乃様は意地でもリリアーネと東郷会長を仕留めて下さい」
「リリー様も・・・はい、分かりましたわ」
なぜか林檎さんはリリーさんのことをやたら意識している。ロワール会を裏切ってセーヌ会についた彼女がよっぽど許せないようだ。
(日奈様はどこにいるのかしら・・・)
月乃のほうもどっかの誰かさんを強く意識していた。
『13時ですっ。13時になりましたっ。これより雪合戦スタートでーす!』
ラジオの合図を聞いた月乃は西園寺様にお祈りポーズの敬礼をし、林檎さんにも「行ってきますわね」と目配せして北大通りに向かって駆け出した。積もり始めた雪はフワフワと柔らかいが転倒しないよう注意しなければならない。
「細川様に続きましょう!」
「はい!」
月乃を先頭に黒チームの進軍が始まったのである。
「日奈くん、リリアーネくんはどこにいるか、知っているかい?」
こちらは白チーム本部、セーヌハウス前である。白いトレンチコートがカッコイイ東郷会長は玄関先に堂々と仁王立ちしていた。
「リリー様は・・・どこでしょう。分かりません」
いつでも遠慮がちな日奈はちょっと質問に答えるだけで申し訳なさそうな顔をする。
東郷会長は雪の舞う空を見上げて何かを深く考え込んだ。もう雪合戦はスタートしているのだからあんまりぼーっとしないほうが良い。
「もしかしたら・・・リリアーネくんは・・・」
「・・・なんですか?」
「いや、考えすぎかもしれない。日奈くん、キミは大聖堂広場に行ってくれないかな」
日奈は人が多いところにあまり行きたくないのだが、先輩に頼まれたら断れない。
「わかりました。でも、雪合戦なんて私、自信ないんですけど・・・」
東郷会長は爽やかに笑って日奈にウインクした。
「大丈夫。キミはそこにいてくれるだけで役に立つんだ」
「そ、そうですか・・・」
日奈が生まれもってしまった美貌で周囲の人間を卒倒させるだけの生活の始まりである。
黒チームは黒いマフラーを、白チームは白いマフラーをしているから、敵味方は一目瞭然である。
「細川様、お覚悟ー!」
「ひい!」
白チームの生徒は意外にも容赦なく月乃に雪玉を投げてきた。ベルフォールの乙女たちがロワール会を心から尊敬していることは事実なのだが、憧れの月乃様に名前や顔を覚えて貰いたいと考える者も多いようで、普段は内気な子もみんな嬉々として雪合戦に臨んでいる。
(もう、なんでこうなりますの・・・!)
お嬢様月乃は雪合戦なんて幼稚で野蛮な遊びを一度もしたことがないので、周囲が味方してくれなければ難しい戦いとなる。
(と、とりあえず投げますわっ!)
月乃は足元の真っ白な雪をもぎゅもぎゅ握って作った雪玉を力いっぱい放ったが、粉糖みたいな細かい雪が月乃の顔に掛かっただけで、肝心の雪玉は空中分解し冬の風に溶けて土に帰っていってしまった。固め方が甘かったらしい。
(これは大通りは取りあえず避けたほうがいいですわね)
月乃は裏道をたどってセーヌハウスを目指す作戦に切り替えることにした。が、少々タイミングが悪かったのである。
「細川様ー! 加勢いたしまーす!」
「うっ」
味方の黒き一団が月乃に追いついてきた。
「細川様、もちろんここは正面突破ですよね!」
「ええっ? そ、そうですわねぇ・・・」
「当たり前ですっ。正義のロワール会メンバーの細川様が姑息な手段をお使いになるわけがありません。正々堂々勝負です!」
人生を決めるのは人ではなく当人の持つ立場なのかも知れない。月乃はこのまま真っ直ぐ大聖堂広場に向かうことになった。
雪合戦は意外な盛り上がりを見せていた。
敵に雪玉を当てられたら正直に屋内に移動し観戦する側に回るというルールが、お嬢様精神を磨かんとする硬派な少女にもウケているのかもしれない。
月乃は「こんな下らないゲーム、興味ありませんわ」みたいな顔をしながら白チームの少女に雪玉を投げた。相変わらず月乃の雪玉作りは下手だが、月乃に雪玉を当てられたいと思っている酔狂な子も多いため、月乃はまあまあ活躍している。
「月乃様っ」
「あら」
南のマドレーヌハウスに住んでいるため白チームにされた桜ちゃんが月乃の前に現れた。彼女なんかは月乃に雪玉を当てられたいと思っている少女の代表みたいなものである。
「さ、桜様、行きますわよ! それっ」
「キャッ」
桜ちゃんは嬉しそうに月乃の雪玉を浴びてさっさと学舎に退散していった。あんないい子ばかりなら宇宙は平和である。
問題はこの直後だった。
押せ押せムードだった黒チームの生徒たちが急に下がり始めたかと思うと、広場の奥に月乃は飛んでもない少女の姿を目にしてしまったのだ。
(ひ、ひ、日奈様ですわ!)
月乃のお嬢様道の大いなる壁にして青春の花園でもある天使様の登場である。雪の白がくすんで見えるほど美しい日奈様のリボンの純白は、彼女の内なる清らかさの表出だ。
「ぐう・・・」
日奈様は月乃に気づいてこちらに会釈をしたきり攻撃してくるそぶりは見せなかったので、月乃が彼女に雪玉を当てるチャンスは今なのだが、どうしても体が動かなかった。
(あんな優しい人に雪玉を投げつけるなんて粗暴なことしていいんですの!? もしも日奈様がケガをしてしまったら!? それにわたくしが張り切って雪合戦をしていると思われたら、硬派なイメージが崩れますわ! そもそもあの場所まで届きますの!?)
月乃は頭の良い子なのだが頭の使い方が下手なので、考え事が渋滞を起こして行動の機会を見失う時がよくある。
「隙ありですわよ、月乃様♪」
「えっ」
振り返る暇もなく、月乃は背後からの雪玉を背中に受けてしまった。
「あーら、月乃様、美しいお背中がガラ空きでしたわよ♪」
白いリボンのリリーさんは、なんと昇降口の屋根の下から月乃を狙い撃ちしてきたのだ。アウトになった生徒は学舎や寮に移動するというルールがあったため、月乃は昇降口を背にしていれば安全だと思っていたのだが、その裏をかかれたことになる。昇降口前の屋根の下はギリギリ屋外なのだ。
「な、なんて卑怯なの!?」
「セーヌ会、やはり無法者だわ!」
「よくも月乃様を!!」
世論は月乃の味方だがアウトはアウトである。くやしさのあまり月乃はその場にへたり込んだ。
(や、やっぱりわたくしは勝利の神様に見放されてるんですわ・・・!)
勉強で2位ばかり取り続けているとこういう発想になっちゃうのである。
(美しくクールに大活躍するつもりでしたのに・・・いえ、わたくしのことはひとまずどうでもいいですわ。ロワール会の率いる正義の黒チームがこのまま負けたらどうしましょう・・・!)
「あのう・・・大丈夫ですか」
「大丈夫じゃありませんわ」
自責に夢中だった月乃が何気なく顔を上げると、そこにいたのはなんと日奈様であった。
「ひぃ!」
哀しくなるほど美しい日奈様に心配そうに覗き込まれて、月乃は後ろにひっくり返ってしまった。
「セ、セーヌ会のメンバーのくせに、気易くわたくしの心配なんかしないで下さい!!」
周りには大勢生徒がいたから、月乃はつい冷たいことを言ってしまった。本当は日奈様とおしゃべりできてすっごく嬉しくて幸せなのに、そんなこと気づかれたらオシマイなのである。
(あ・・・)
不意打ちで日奈様の優しさを貰ってしまった月乃は、どうやら恋愛を禁ずる戒律に抵触してしまったらしい。大聖堂の近くにいるせいか鐘の音の接近も素早く、ストロベリーだかブルーベリーだかよく分からない甘酸っぱい香りもぐんぐん迫ってきた。月乃が小学生にされちゃう時は近い。
「と、とにかく! 卑怯な手であろうとわたくしがアウトになった事実は変わりませんわ! 淑女として、ルールは遵守させて頂きますわっ」
月乃は周りに集まっていた生徒たちにそう言い残して学舎の裏手に退散した。
(ど、どうしましょう・・・! 黒チームが負けちゃいますわ!)
その場にいるだけで状況を変えてしまう魔力を持つ日奈様と、卑劣な手をも駆使する金髪のリリーさんの二人がこのままロワールハウスがある一番街に攻め上がったら、黒チームは大ピンチである。小学生に変身してしまう直前までロワール会や西園寺様の名誉のことを考えている月乃はお嬢様の鑑である。
「小桃ちゃん、大丈夫?」
深いまどろみから月乃を救い出してくれたのはクラスメイトの桜ちゃんだった。やっぱり小学生状態の時に会う桜ちゃんはちょっと大人っぽくてステキである。
「だ、大丈夫ですわ・・・」
大丈夫じゃないが、月乃は桜ちゃんに抱き起こしてもらって、ふらふらする足で立ち上がった。裏口前の冷たいタイルの上に寝転がっていたため月乃は耳や頬がじんじんと痛かった。
「あ! い、今の状況は!?」
「え?」
「雪合戦の状況です!」
「ああ、実はついさっきね、月乃様がやられちゃったんだよっ」
どうやら月乃が寝ていたのはごく短い時間だったらしい。
「セーヌ会のリリー様が昇降口から・・・うう! 月乃様かわいそう!」
自分の世界に入っている桜ちゃんの顔を見上げながら、月乃は始業式の日の夜に桜ちゃんから貰った電話の内容をなんとなく思い出していた。
『小桃ちゃんはロワール会の黒チームになるとおっしゃってました。あの子が普段寝泊まりしてる保健室が西大通りの北側にあるからだそうです』
月乃はまだ勝負の神様に見放されてはいなかったのだ。
(今のわたくし、まだ黒チームの選手として戦えるんですわ!)
二度目のチャンスが訪れたわけである。
「桜様! わたくし行かなければなりませんの!」
「え? あ、そうそう、小桃ちゃんも雪合戦参加していいんだよ。黒チー・・・」
「さよならですわ!」
「きゃあ」
月乃は既にアウトになって観戦する側に回っている生徒から黒いマフラーを借り、大通りに飛び出したのである。
やはり正面からセーヌハウスを目指すのは愚策である。
(何か、何かいい作戦はありませんの!?)
飛び交う雪玉の中であたふたしながら、月乃は懸命に知恵をしぼった。体格がここまで変化してしまったのだから、適材適所というものをしっかり考えなければならず、逆に小学生の体の利点を活かせば有利な立ち回りが出来るかも知れない。
(そうですわ!!)
いいことを思いついて小さなお手々をポンと叩いた月乃は、大聖堂広場に背を向け、雪が積もって動きにくい西大通りを西へ向かって走り出した。
月乃はアーチ橋の袂の階段を滑らないように慎重に下りると、手近なゴンドラを探した。川を挟んだ両側の道では少女たちが雪玉の投げ合いをしており、月乃は彼女たちに気づかれないようにゴンドラに乗り込んだのだった。年末に林檎さんと一緒に乗ったりもしたので、ちょっと舟が揺れても月乃は動じない。
(ここで雪玉に当たったら無意味ですわよ!)
月乃はゴンドラの中でぺたっとうつぶせになり、舟底のフリをして小川の流れに身を任せた。この学園の小川は流れるプールみたいなシステムで循環しているので、川面が凍結していない限りいつか湖まで辿り着けるはずなのだ。
(待っていなさい・・・東郷会長!)
うつぶせのまま耳元でちゃぷんちゃぷんという水音を聞きながら、月乃はそっと目を閉じ瞑想を始めた。なかなか奇妙な光景だが、周囲の生徒達は飛び交う雪玉に夢中でゴンドラとその上の小学生に気づかなかった。
「リリーくんが月乃くんを仕留めたか・・・」
息を切らす自分の呼吸と激しい動悸の合間に、月乃は東郷会長の声を聞いた。南西端の湖のそばでは雪合戦が全く行われておらず、月乃は上手い事セーヌハウスの裏手から東郷会長に忍び寄ることに成功したのである。
(ゆ、雪玉・・・上手く投げられるかしら)
今から自分が小学生の小桃として学園の歴史に大きく関わろうとしている緊張で月乃は体が震えており、彼女が滅多に抱くことはなかった非常に珍しい感覚を自覚する余裕が無かった。
月乃はこの時、楽しんでいたのである。
身を隠して息を殺しながら活躍する機会を窺う瞬間のドキドキは、幼い頃ほとんどの小学生が遊びの中で感じるものかも知れないが、真面目一辺倒で友達と遊ぶこともなく勉強ばかりさせられていたお嬢様月乃にとってはあまりにも新鮮な感覚だったのだ。この胸の高ぶりを月乃が単なる緊張と区別できるようになるのはもっと先のことである。
(今が・・・チャンスですわ!!!)
ロワール会の名誉のため、月乃はセーヌハウスの白いテラス沿いの雪道を駆け出した。
「リリーくんがこのまま攻め上がってくれればいいのだが、しかし彼女は・・・」
雪の降りしきる鈍色の空をそっと見上げて何やら考え事を始めた東郷会長は、自分の背後に迫ってくる可愛らしい足音に気づくのが一歩遅れたのである。
「東郷会長ー! 正義の黒雪をお受けなさーい!」
「なにっ」
月乃は投げるというよりも東郷会長に直接ぎゅっと押し当てるようにして雪玉をぶつけた。東郷会長は実はかなりの天才なのだが、今回の小桃ちゃんの動きは読めていなかったようである。彼女の敗因は小学生の小桃ちゃんを白チームの所属にしなかったことかも知れない。
めでたく黒チームの勝利に貢献した小学生の月乃は、祝福の紙吹雪のようにも見える雪の中で生徒達の喝采を受けたのだった。自分よりずっと大きいおねえさんたちが口々に「ありがとうー!」と言って頭を撫でてくれちゃうので、月乃にとってはなかなかこそばゆく、どうしていいか分からない時間だったが、子どもみたいに勝利に酔いしれているヒマはない。誰かからの感謝の言葉は、お嬢様細川月乃の硬派な毎日の再開を意味するのだから。
「も、もう・・・雪合戦なんて、ホント下らないイベントでしたわねっ」
物陰に隠れた月乃は変身する直前でもこんな独り言を言って強がっていた。