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39、天使のおでこ

 

 二人を乗せたバスが葡萄畑の丘を走っている頃、学園は騒ぎになっていた。

「聴きました? 生徒会のお仕事で、月乃様と日奈様が一緒にお出かけされたそうよ」

「あのお二人がどんなやり取りをされるのか、気になりますわぁ〜」

「月乃様はきっと一言もお話しになりませんわよ」

「美しいお二人が至近距離で並ぶなんて、凄い光景ですね」

「ああ、見に行きたいですわ!」

「月乃様は姉小路日奈様にどんな風に接するのかしら」

 見た者の精神を破壊する美しさを持つ日奈様と一緒に行動する時、どんな態度がお嬢様としてふさわしいのか、皆その答えを月乃に求めているのだ。模範生は大変である。


 日の当たる保健室の窓辺でガムを噛みながら意味もなく折り鶴を折っていた白衣の保科先生の耳にも、この噂は届いていた。

(月乃ちゃん、今頃大変だろうなぁ・・・)

 日奈様の前で慌てふためいている月乃の本心を唯一知る保科先生は、月乃を心配しながらもちょっぴりこの状況を楽しんでいる。

 先生は小学生モードになってしまう月乃の体のことを研究するために、実はかなり特殊な学問にまで手を伸ばして毎日夜更かし読書をしている。意外にも彼女の病状を解き明かす鍵が隠れる確率が最も高そうな分野が物理学とか宗教学とかだったため、内科医の保科先生はちょっとお手上げであるが、諦めずに勉強は続けている。

(まぁ、治んなくてもいいと思うけど)

 先生は折り鶴をデスクのスタンドライトの上にちょこんと乗せた。彼女は小学生モードの月乃ちゃんも生意気で結構気に入っているのだ。

 先生は以前月乃ちゃんの協力で図書館の怪しい書庫の扉の存在を知ったが、未だに潜入は果たせていない。先月、とある土曜日の未明に図書館が建っている4番街で警報がビービー鳴っていたのだが、その犯人は無断で図書館に入ろうとした保科先生である。数百年の歴史に隠された秘密がそんなに簡単に手に入るわけがないのである。

「んーっ!」

 先生は窓際でグッと伸びをした。青空は見えるのだが外は冷え込んでいる様子である。

「あぁ、コーヒーおいしい」

 苦めのマンデリンとガムを一緒に嗜むのが保科流だ。


『まもなく終点、ステーション前ですっ』

 月乃は見計らっていた完璧なタイミングで文庫本を閉じ、窓の外に目をやった。駅前ロータリーのド派手なクリスマスツリーを冷ややかに眺めているフリをしながら、窓に映った日奈様の様子を探っているのである。通路を挟んだ隣りの席にいる日奈様も、もぞもぞと鞄をいじっているので、本か何かをしまったのかも知れない。

『お降りの際はお忘れ物にご注意くださーい』

 緊張で胸が苦しく顔も熱くて大変な月乃は、随分と呑気そうな運転手のおねえさんが何だか羨ましかったが、とにかく手のひらをきゅっと握りしめて気合いを入れた。雑念と油断は小学生のもとである。

「お先に」

 バスが停車するや否や月乃は冷めたくそう言い残してさっさと降車した。久しぶりに歩いたのでちょっぴり足がふらついてしまったが、なんとか美しい歩き姿を見せつけることができたようである。

(よし・・・私も行こう)

 車内に残された日奈も、意を決して立ち上がった。なぜか二人は互いに緊張し合っている。


 空腹の時に口に入れた甘~いキャンディのような刺激的な光景が月乃たちを待っていた。

 右を見ても左を見ても駅前は色鮮やかで眩しい電飾で溢れており、どこからか聞こえてくるクリスマスソングたちが平凡な日曜日の雑踏を映画のワンシーンのように美しく飾り立てている。

「初めは・・・どこに行くんでしたっけ」

「え?」

 バス停で日奈様に背中を向けながら、自分に不似合いな周囲の環境に対抗するためのクールなお嬢様ポーズをキメていた月乃は、そう質問されてようやく正気を取り戻した。

「そ、そんなことも把握されてませんの? まったくしょうがない人ですわね」

「すみません」

「こっちですのよ。ついていらして」

「はい・・・」

 ちょっぴり恥ずかしそうで、そしてなぜか嬉しそうな様子の日奈は、月乃の斜め後ろについて一緒に歩き出した。

 問題は月乃のほうである。つい流れで「ついてこい」と言ってしまったが、最初に行くべき店舗の場所を彼女はまだきちんと把握していなかったのだ。駅前から東に伸びる繁華街のどこかのデパートだったはずなのだが名前などはサッパリ思い出せないし、今更慌ててカバンからメモを取り出して見たりしたら「しっかり者の月乃様」のイメージが崩れてしまう。他の誰にガッカリされても構わないが、日奈様の前でだけは恥をかきたくないと月乃は思っているのだ。

(とりあえず進むしかありませんわ・・・!)

 失敗する時は失敗するし、成功する時は成功するものなので、例え不安でも堂々と胸を張って行動するのがお嬢様というやつである。見た目に反した鋭敏なアンテナでコソコソとお店を探しながら、月乃はちょうど青になった大きな交差点の信号を渡った。日奈様と隣り合って立ち止まるのが恥ずかしかったので取りあえず青になった方へ渡ったのである。

 すると、日奈様が正面のデパートを指差して声を上げた。

「あ、ここですよね」

「え!?」

 なんで月乃のほうが驚いているのか意味不明な状況だが、どうやら二人は奇跡的に目的地にたどり着いていたようである。月乃はなかなか運が良い。

「すごい、結構近いんですね」

「そ、そ、そうですのよ! 近いんですの。この場所ですのよ」

 日奈様が自分のすぐ隣りに来たので、月乃は慌てて一歩前に出た。肩が触れ合ったりしたら正気でいられない。

「い、行きますわよ」

「はい」

「もたもたしないで下さい」

「はい」

 月乃は緊張でずっと声が震えているのだが、日奈様はそんなこと一向に気にせず、いつもの優しくて遠慮がちな微笑みを見せながら月乃に寄り添って歩いてきてくれた。ほんのり漂ってくる日奈様の髪の匂いが、月乃の体を火照らせる。

 ちなみにここまでの道中で百人余りが幸せそうな顔をして路傍に倒れている。スーパークールお嬢様月乃と究極のエンジェル美少女日奈が一緒に街を歩いているのだから無理もないのだ。


 一層華やかなクリスマスムードとコスメティックな香りが二人を出迎えた。イルミネーションの専門店は二階にあるはずなので、月乃は早足でエスカレーターに向かったのだが、エスカレーターの手前まで来て急に立ち止まってしまった。

「うっ・・・」

 滑り上がるメカニカルな階段を前にして、月乃のいつもの考え過ぎ病が始まる。

(右側と左側、どちらに立つのがお嬢様として正解ですのっ?)

 どっちでもいいに決まっているのだが、日奈様の前で絶対に恥をかきたくない月乃は慎重になった。

(関東と関西では逆だという話を聞きましたわ。ここはひとつ東京流に・・・あぁ、左右どっちに立つのが関東か忘れてしまいましたわ! あら、でも京都と大阪も違うという話も聞きましたわね。それは・・・京都のほうが関東の観光客が多いから? いや、そんなの今はどうでもいいですわ!)

 月乃に合わせて立ち止まった日奈は、斜め後ろから月乃の考え事が終わるのを待った。月乃様はきっと何かすごく奥深いことを考えているに違いないから、邪魔しないようにしなきゃなと日奈は思ったのだ。

(前に誰もいませんから他人に合わせることも出来ませんし・・・ど、どうしましょう)

 月乃は悩み続けているが、いつまでもここに突っ立っていたら他の人の通行の妨げになるし、怖くてエスカレーターに乗れない田舎者だと日奈様に思われてしまうかも知れないので、とにかく一歩前に踏み出してみることにした。

(そうですわ! 右利きの人が多いのですから、左手でベルトにつかまって右手で荷物を持つのが普通のエスカレーターのスタイルですわ!)

 月乃は左側に寄って乗ることにした。

(で、でも右利きの人は右手がフリーになるように左手で荷物を持ってますの!? だとしたら右側に乗るのが合理的ですわ! わたくしは普段どっちで鞄を持ってますのっ? )

 迷いが生じた月乃はエスカレーターの一歩目でバランスを崩しかけ、段の中央に立ち両方の手すりに掴まる形になってしまった。腰から下が巣穴から抜けなくなってしまったプレーリードッグみたいなポーズである。さっさと背筋を伸ばし右か左に寄ればいいのだが、月乃はあまりの恥ずかしさに体が固まってしまった。

(あぁ、失敗しましたわ! これで日奈様はわたくしのことをエスカレーターもまともに乗れない田舎娘だと思ったに違いありませんわっ・・・! 一生の不覚ですの!)

 普段は絶対しないようなミスをよりにもよって大好きな人の前でやっちゃうのはお嬢様も同じであり、むしろ慎重を期する性格のレディーであるほどこの傾向は強い。

 間抜けな格好のまま真っ赤な顔をうなだれている月乃の姿を後ろから見上げた日奈は考えていた。

(月乃様、不思議なポーズをしてる・・・)

 なにかきっと凄い意味があるに違いないと思っている心優しい日奈の頭上から、常時店内で流れているアナウンスが聞こえてきた。

『エスカレーターにお乗りの際はベルトにお掴まりになり、ステップの中央にお乗りください』

 日奈はハッとした。月乃様はお店側から注意を受けるまでもなく自分から進んでエスカレーターの正しい乗り方を見せてくれたに違いないのだ。そもそもエスカレーターは左右どちらかに重量が傾き続けると不具合を起こす可能性が高まるらしいし、エスカレーターを歩いて上り下りするのも危険な事なので、今の月乃様の格好は他人の身の安全をすら思慮した、最高の模範的お嬢様ポーズということになる。

(月乃様・・・やっぱりすごいです・・・)

 恥ずかし過ぎて動けない月乃の後ろで、日奈は勝手に感動していたのだった。


「ほ、本当に・・・イルミネーションなんて最悪ですわね」

 5つならんだ大きなクリスマスツリーの電飾は全て色違いで、ショーウィンドウを見上げる二人の顔を鮮やかに照らし出していた。

「このメーカーのイルミネーションは全部ダメですわね。ベルフォール女学院には似合いませんもの」

「そうかも知れませんね」

 セーヌ会の代表であるはずの日奈が、あっさりと月乃に同意した。

「あ、あなた・・・そんな感じでいいんですの?」

「え?」

「セーヌ会の東郷会長に頼まれたんじゃありませんの? 色んなイルミネーションを飾れるように交渉して来なさいって」

 日奈は横目でチラッと月乃を見てから恥ずかしそうにうつむき、小さな声で答えた。

「そうなんですけど・・・私はそういうの苦手で・・・」

 日奈は争いを好まない女の子なのである。

「月乃様に・・・お任せします」

「うっ・・・」

 生徒会の仕事をするのが面倒なので全部あなたが決めて下さい、みたいな投げやりな響きではなく、月乃様がやることは全部受け入れますよという気持ちが滲む言葉だったので、月乃は足から崩れ落ちそうになるほどドキッとしてしまった。エスカレーターであんな失態を見せたのに、日奈様はまだ自分のことを信頼してくれているらしい。例えばクラスメイトの桜ちゃんのような普通の子から頼られた時、月乃は無邪気に喜んで格好つけるが、相手があの日奈様だと簡単な話ではない。油断するとすぐ小学生になっちゃうからだ。

(わたくしは・・・お嬢様ですのよ! かっこわるい小学生になんかなりませんわ!)

 月乃は熱くなった頬を冷たい指先でむぎゅっとマッサージして冷静さを保った。月乃はとにかく小学生モードの自分が嫌いなのである。

「じゃ、じゃあ、ここのメーカーの電飾は却下ですのよ」

「はい」

「次に行きますわ」

「はい」

 月乃は日奈様の温かい視線を背中にほんわか感じながら、逃げるようにデパートを出ることにした。


 さて、月乃のようなお嬢様が街を歩く時、一番イヤなのが派手な飾りやBGMである。

 例えばスーパーのお魚売り場でキャッチーなメロディーのお魚販売促進ワルツみたいなのが掛かっているだけで月乃は店から出たくなるのだ。子供向けとしか思えないやたら明るいキャッチーな音楽を聴きながらいつものクールビューティーフェイスでお買い物していたら、普段から自分は家でこういうのを聴いてますよみたいな感じになってしまうからである。今日のようなクリスマス直前の街の空気も月乃は非常に苦手で、自分自身が浮かれず冷静であることが逆に「あら、この人プロのサンタクロースかしら」と周囲の人間に思わせてしまうかも知れないのだ。どんな態度をとっても月乃の理想と違う方向へいってしまう季節を月乃が好きになれるはずがない。


 二つ目のお店も似たようなもので、月乃が描くカッコイイ学園像にはとても当てはまらないキャピキャピしたイルミネーションばかりだったから許可することはできなかった。

「どこもおんなじですわね」

「そうですね」

 ずっと背後からついて来て、常に自分に同意してくれる日奈様の態度に、月乃はやっぱり違和感を覚えた。

「あ、あなたはどう思いますの」

「え?」

「あなたは・・・日奈様は・・・どう思ってますの」

「私は・・・何も」

 日奈はただ、12月の賑わいに踊るクリスマスライトの陰を探すようにゆったり目を伏せながら呟くだけだった。


 三つ目のお店は少々おかしなところにあるようで、これまでの二軒は百貨店の中に構えられたスペースで大人しく展示販売していたのだが、今度は屋外にあるらしい。寒いのに勘弁して欲しいところである。

「こっちですのよ」

 街のあちこちに据えられた立て看板を通り過ぎざまに目を皿のようにしてチェックしていた月乃は、お店の展示会場の場所を完璧に理解しており、まるで昨夜のうちに調べておきましたのよみたいな顔で日奈を先導した。ちなみに月乃は目を見開くと猫みたいな顔になる。

「見て! あの二人、何者かしら!」

「ベルフォールの制服よ。・・・私が知ってる制服とリボンの色が違うけど」

「黒リボンは正統生徒会の色です。白リボンはおそらく、新興勢力のものでしょう」

「あら詳しい」

「どうしてその二人が一緒にいるのかしら。すごく素敵・・・」

「あ・・・私急に頭がクラクラと」

 街は月乃と日奈の噂で持ちきりである。月乃は内心では威厳もなにもない小さなことを気にしている女なのだが、とにかく美しいそぶりだけは一流なので周りからは最高にかっこ良いお嬢様に見えている。

(小学生になりませんように・・・小学生になりませんように・・・!)

 日の暮れかかる大都会の街角を往く脚の長いお嬢様は、とにかく恋心を遠ざけることに必死だった。


 イルミネーションの販売が目的のはずなのに、会場はもはや冬の観光スポットのようになっていて、銀とブルーの電飾が作る並木道は、遠い星空から直接注いできた天の川の支流のようで、冬でも天の川のせせらぎを楽しみたい乙女にオススメのスポットである。

「わぁ・・・」

 この光景に対する冷ややかなコメントを月乃が考えていると、斜め後ろの日奈様が小さな歓声を上げた。

「く、くだらないですわね・・・イルミネーションなんて。ふん」

 そう言い捨てた月乃は日奈様を置いてすたすた歩き出したが、時々立ち止まったり振り返ったりして日奈様が来るのを待った。そんな月乃の態度が嬉しくって、日奈はちょっぴり頬を赤くしながら小股で彼女を追いかけたのである。日奈は自分と月乃様の間に立ちはだかる生徒会同士の争いという壁を充分に理解しており、人前で自分に冷たく接してくる月乃様が本当は自分のことをとっても気にかけてくれていることも分かっているのだ。

 一歩進む度に二人は幻想世界のアーチ門をくぐっていく気分だった。月乃は天賦のお嬢様根性で耐えているが、一般人はみんな日奈様の姿を見て気を失ったり腰が抜けたりしているので、会場の奥に進むほど彼女たちの周囲からは人間が減っていき、いつの間にか二人の貸し切り状態になっていた。

(わ、わたくしたちしかいませんわ・・・!)

 次は自分がぶっ倒れる番かと思うと月乃は体が震えてしまいそうだった。月乃は倒れるだけじゃなく小学生に変身しちゃうというおまけ付きだから、恥をかくだけじゃ済まないのだ。超硬派な月乃様が、あのモチモチほっぺがキュートな小桃ちゃんと同一人物であるとバレたら、月乃が高校入学以来積み上げてきたクールで大人っぽいビターなイメージはめでたく終了である。月乃は小桃ちゃん状態の時にさんざん日奈様から頭を撫でられたりしているので、今更「小学生には変身しちゃいますけど、中身はクールでカッコイイんですのよ」みたいな言い訳も通用しないのだ。ついでに変身の原因が戒律違反であると西園寺様や林檎さんに気づかれたらロワール会もクビである。

「あの、もっと奥まで行っていいですか・・・?」

「え? は、はい。いいですのよ」

 ちょっとカッコ悪い返事になってしまったことに気づいた月乃は、小さな声で「もう、仕方ないですわね・・・」と付け加えておいた。ずっと静かに月乃の後ろに付いて来るだけだった日奈様が急に提案してきたから月乃はビックリしたのである。

 まっすぐだった光の並木道はやがてくねくね曲がり始め、小高い丘の頂に向かって緩やかな傾斜を作っていった。全てのライトに値札が付いているせいで一般の観光誌では紹介されないが、このメーカーが商品の宣伝のみを目的としてこのイベントを開催しているわけじゃないことは星を見るより明らかで、街の景観を通じて人々の心に冬の思い出を一輪プレゼントしようとしているに違いないのだ。

(余計なことをしてくれますわね・・・)

 ちょっとお店を確認して帰るだけのつもりだったのに、これじゃまるでデートである。

(うぅ・・・)

 恥ずかしくってたまらない月乃は口をきゅっと閉じたまま黙々と坂を上っていったのだった。



 宵の北風が二人のポニーテールをふんわり揺らすのと、目の前に広がったまばゆい夜景に二人が思わず立ち止まったのはほぼ同時だった。

「わぁ・・・すごい、綺麗です」

 丘の頂上にたどり付いた彼女たちの眼下には、今まで歩いてきた並木道のイルミネーションと都会の夜景が、打ち寄せる夜波に輝く海ほたるの海岸のように美しく織り重なっていて、ロマンチストの日奈はついに月乃より前に出て、よく冷えた銀の柵に温かい手のひらをついてちょっぴり身を乗り出した。そんな彼女の姿があまりにも美しくて、月乃は自分の心臓を中心にして世界が時計周りにぐるぐる回っているかのような目眩に襲われた。日奈様の美しさの前ではリンゴも真っ直ぐには落ちないのかも知れない。

 月乃はしばらく夜景とは関係のないオリオン座の方を見上げながら「ふん」みたいな顔をしていたが、日奈様がこっちを見ないので無意味と判断し、しぶしぶ前へ出て日奈様からちょっと離れた銀の手すりまで移動した。急に吹いた冷たい風に月乃は長いまつげのお嬢様アイをパチパチさせたが、西園寺会長から譲ってもらった黒いセーターと日奈様への恋情という異色のコラボレーションのお陰で寒くはなかった。

(なんだか、空気に飲まれそうですわ・・・)

 日奈様は確実にこのイルミネーションを気に入っているが、月乃はロワール会の代表として、派手な装飾を却下するためにここへ来ているのだから、このような眩しい光景を肯定してはならないのだ。

「このイルミネーションも派手過ぎて学園には似合いませんわね。今日はもう帰りますわよ」

 さすがに少しは反論されるだろうと思った月乃は敢えてそっけなくそう言って日奈様の反応を待ったが、日奈様の横顔は窓辺のシクラメンみたいに穏やかで平然としていた。

「そう、ですね」

「え・・・」

 遠い目で呟いた日奈様の言葉に、月乃はなんとなく本心を洩らしてしまう。

「そ、それでいいんですの?」

「え?」

「あ! う・・・その・・・日奈様はこのイルミネーション、き、気に入ってるんじゃありませんの?」

 月乃様が目を泳がせながら意外なことを言ってきてくれたので日奈は恥ずかしそうにうつむき、そしてちょっぴり悲しそうな目をして答えた。

「私のことは・・・いいんです」

 日奈の人生を象徴する台詞である。

「私のことは・・・いいんですよ」

 日奈はいつも通りの優しい顔をしているが、毎日日奈様のことを想っている月乃は、その微笑みの翳りを簡単に見抜くことが出来た。

「あ、あなたはどうして・・・」

「え?」

 月乃はもう自分の感情が押さえ切れなかったのだが、それはいわゆる恋愛感情と一般に言われているものとは少々異なる特殊なものだったかもしれない。

「あなたはどうして・・・時々そんな悲しそうな目をしますの」

「え、悲しそう・・・?」

 日奈はその美しさ故に普通の少女が持ち得ない様々な悩みを抱えている。ただ道を歩いているだけで人々が気絶し、車が電柱に激突し、結ばれるはずだった二人の仲が裂かれたりするので、日奈は昔から自分の存在に罪の意識を持つようになったのだ。自分が人前に出れば誰かが迷惑をする、自分が何か主張すれば誰かが不幸になる・・・そんな気持ちが彼女の笑顔を曇らせるのである。

「私は・・・ひっそり生きていたほうが世の中のためになるよう気がして」

 だから彼女は自分のやりたいことも我慢しているのである。

 月乃は日奈様のモテ過ぎる事情も充分知っており、彼女の気持ちは分からないでもないのだが、どうしても納得出来なかった。

「そ、そんなのおかしいですわ!」

 少なくとも月乃は日奈様と一緒にいられてとってもとっても幸せなので、こんな気持ちにさせてくれる天使のような日奈様が悲しそうな顔で暮らすなんておかしいのだ。

「月乃様・・・?」

「だ、だって・・・わたくしは・・・あなたと一緒にいられて・・・」

 あなたと一緒にいられて幸せです・・・そう言ってしまいたいが、お嬢様としての月乃の立場がそんなこと許さなかった。

「わたくしは・・・わたくしは・・・」

 月乃は声が潤んでしまった。こんなに優しくって心が綺麗な日奈様が幸せな毎日を送れないと考えると自然に涙が出て来てしまったのだ。大好きな日奈様の幸せを願う時、月乃は一人の乙女になる。

「わたくしは・・・わた・・・うう・・・」

「月乃様・・・」

 日奈は月乃の恋心にこそ全く気づいていないが、月乃を心から信頼しているがために、月乃が言いたいことをだいたい察することができた。自分なんかのために、あの超硬派な月乃様が流した涙の色を日奈は一生忘れないだろうと思った。

「ありがとうございます。月乃様・・・」

 日奈はロワール会の次期会長と言われている月乃様の立場を考え、具体的にどう有り難いのかは言わなかったが、自分に向けられた思いやりの心が本当に嬉しかったので、言葉だけでは収まらず、思わず月乃様に歩み寄ってしまった。

「ありがとうございます・・・」

 日奈はかすれた声でそう言ってお辞儀をした。斜め後ろからふんわり香る甘く切ない香りに月乃は体ががちがちに固まってしまった。二人きりの秘密の世界に流れる時間は舌の上でとろける薄切りチョコレートみたいにすぐ消えてなくなるくせに、逃れ難いスイートな渦を作って少女たちのハートを青春の鳥かごに閉じ込めて放さないから厄介である。

「本当に、ありがとうございます・・・」

「ひっ・・・!」

 日奈は二度目の深いお辞儀で、月乃の肩の辺りにおでこをそっと押し当たまましばらく動かなかった。ロワール会の月乃様に抱きついたり手をつないで貰ったりすることは決して出来ないが、どうしても彼女に触れてみたくなったのである。日奈の感情がこれほど高ぶるのは珍しい。

 一方月乃は不意に訪れた人生最大級の衝撃に、心がひっくり返って感情と思考の全てが散らかる感覚に襲われた。

(な、な、なんで日奈様が! わたくしの背中に! お、おでこを!?)

 ブレザーとセーターとシャツを透過して迫ってくる日奈様の温もりと感触は、トーストしたパンにじんわり染みていくバターみたいに容赦なく月乃の体と一つになっていった。恐ろしいほどの幸福感と快感に、月乃は手に汗をかきながら目を白黒させた。

(これは、どういうことですの!? こんなに冷たくしてるのに! どうしてこんな・・・寄り添って来ますの!?)

 無垢なる言動で月乃の心をガンガン攻める日奈は、生まれながらの魔性の女なのかも知れない。

 こんなことをされて月乃が平気でいられるわけがなく、彼女の耳元にはベルフォールから律儀に出張してきた天罰の鐘の音が近づいて来た。クリスマスのイルミネーションが溢れる街を大好きな人と二人きりで歩き回って、夕方まで恋心を抑え続けた月乃の努力は、おそらく学園の神様も見ていてくれたことだろうが、違反は違反である。ロワール会のお嬢様にも関わらず戒律を破る月乃が悪いのだ。

「わ、わたくし!」

「は、はいっ」

 月乃の声に日奈が慌てて顔を上げた。ついつい長い時間おでこを押し当てて甘えてしまっていた自分を日奈は少し恥ずかしく思った。

「帰りが遅くなってますから、西園寺様に電話してきますの! ついでにそのまま帰っちゃいますのよっ」

「そう、なんですか」

「そうなんですのよ!」

 日奈様のすぐ近くで変身してしまうとマズいので月乃はさっさと歩き出したが、背後にせまる駆け足を耳にして立ち止まってしまった。月乃が振り返った坂の上にいた日奈様は、そのまま星座になってしまいそうな満面のスマイルで叫んだのである。

「月乃様っ。私、今日すごく楽しかったです!」

 美しく悲しい運命に苛まれ続ける日奈も、この時だけは素直に笑うことが出来たのである。それは先程月乃が思わず滲ませてしまった彼女の本心が、あまりにも温かかったせいなのだ。

 耳に残る日奈様の声色とベルフォールの鐘が意外にも心地良く協和したところで月乃は意識を失った。ベンチに滑り込むようにして横になったところで月乃は変身したのだが、その後のことは一切覚えておらず、夜明け前の保健室のベッドで小学生モードで目を覚ますまでこのまま眠り続けることになったのだ。


 小学生の月乃を学園まで運んでくれたのは日奈だった。

 月乃様がいなくなったらすぐに小桃ちゃんが現れるのでそろそろ怪しんでもいいところだが、偶然街を散策していた小桃ちゃんが自分たちを見つけてこっそりついて来たのだと日奈は推理したのだった。

「ねえ、小桃ちゃん」

 帰りのバスを待ちながら日奈は自分の背中でスヤスヤ眠っている小桃ちゃんに小さな声でささやいた。

「私ね・・・月乃様の笑顔を見てみたくなっちゃったんだけど」

 日奈は微笑みながら目をそっと閉じた。

「わがままかな」

 月乃様の幸せって、どんな幸せなんだろう・・・そんなことをぼんやり考える日奈の頭上に、白い天使の羽が舞い降り始めた。彼女のハートにそっくりな、どこまでも白い十二月の初雪である。

 

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