35、番犬
「いまいましい花ですね・・・」
とある日曜日の午後、月乃は黒い帽子の林檎さんと一緒にロワールハウスの前の日だまりの道を掃き掃除していた。
「それ、ジャスミンの花ですわよ」
「なぜロワールハウスの庭園に白い花が植わっているのでしょう・・・」
「西園寺様の趣味ですのよ」
「それなら仕方がありませんが・・・」
ジャスミンの開花時期は様々なようだが、ロワールハウスの裏庭に咲くジャスミンは春から秋にかけてしぶとく花をつける種類である。
「月乃様はこの花、お好きなのですか?」
「え? んー、そうですわねぇ」
こういう些細な質問にも一々カッコイイ返事をするのがお嬢様である。
「もちろん白は嫌いですけれど、花に罪はありませんもの。罪を憎んで花を憎まずですわ」
「おお・・・」
「わたくしたちの敵はあくまでもセーヌ会のメンバーたちですわよ。美を愛でる姿勢を、目先の色彩で揺るがせてはいけませんわ」
林檎さんは大きな帽子を揺らして深く頷いた。
「確かに・・・あの憎きリリアーネを不幸のドン底にたたき落とせるのなら、身近に白い花が咲いていても気にならない」
林檎さんはどういう訳かリリーさんのことを必要以上に恨んでおり、何かある毎にリリーの名前を出して文句を言っている。
「月乃様もそうでしょう?」
「え?」
「どうすれば姉小路日奈様を懲らしめることが出来るか、そればかり考えているのでは?」
月乃は大好きな日奈様に対してそんなことは全く考えていないが、厳しい考えを持つ林檎さんからの信頼を得るためにちょっぴりウソをつくことにした。
「そ、そうですわね。いつも考えてますわ。もちろんですのよ」
「やはり」
「笑顔が眩しい姉小路様の影響力のせいで、この学園の風紀は乱れかけていますからね。いつかビシッとお仕置きしてあげなきゃいけませんわね」
「同感です」
林檎さんは地面を掃きながら少しずつ月乃に近づいてくる。楓の落葉が月乃の足元にどんどん集まってくるのでもう少し掃除する方向を考えて欲しいところである。
「ま、そうは言いましても、姉小路様の影響力も大したことありませんわ。ロワール会にはわたくしや林檎様がいるんですもの」
「おお・・・」
「学園トップのお嬢様である西園寺会長と力を合わせれば、セーヌ会の悪だくみになんて負けませんわ」
「頼もしい! さすがは月乃様です・・・」
褒めてもらえて気を良くした月乃は、日々研究を重ねている美しいお嬢様ポーズをしながら髪をサッと撫でてみせた。
「しかし分かりません」
「なにがですの?」
月乃は林檎さんと肩を並べて晩ご飯の準備を始めていた。
「月乃様はそれだけ厳しい考えをお持ちなのに、先週リリアーネに会っても大した指導をしなかったらしいではありませんか」
桜ちゃんを使ってリリーさんのエッチなイタズラを妨害し続けたあの日のことである。
「それは・・・ですね」
「私がもしリリアーネに会ったのなら、足を引っ掛けて転ばした後、バケツの水を掛けて馬乗りになり、無理矢理セーヌ会を辞めるよう脅します。月乃様はちょっと甘いのではありませんか?」
林檎さんは裏切り者に容赦しない。
「べ、別に甘くないですのよ。あの日わたくしはリリー様をしっかり説得しましたもの」
「説得? そんなこと不可能でしょう。もはやあの女に日本語は通じません」
「通じますのよ。姉小路様に対する性的接触は控えると誓わせませたわ」
「え? そのようなことが? 月乃様が説得したのですか」
「は、はい。わたくしが厳格な姿勢でお説教したら、しぶしぶ了解しましたのよ」
ちょっと事実と異なることを言ってしまったが、どうせバレないしまあいいかなと月乃は思った。
「なるほど・・・さすが月乃様・・・」
「セーヌ会のメンバー同士がイチャイチャしててもわたくしはなーんとも思いませんけど、周囲に悪影響ですからね。ちゃんと指導しておきましたわ」
「素晴らしい・・・」
林檎さんはニンジンをやたら細かく丁寧にカットしながら、ちょっとずつ月乃に寄ってきた。彼女は感動する度に人に近寄っていく癖があるのかも知れない。
「月乃様はこの学園の神を信じておられますか」
湯船にたっぷり肩まで浸かってリラックスしていた月乃は、突然脱衣所の扉のほうから聞こえてきた林檎さんの声にビックリしてしまった。しかも質問の内容がかなり重い。
「そ、そうですわね! えーと」
恋の興奮を覚える度に小学生の体にされてしまうというとんでもない魔法に掛けられている月乃は、もはや神様でも仏様でも信じてしまう状態であるが、あまり熱く真剣に神様がどうのこうのと語ると現実主義の林檎さんに引かれる可能性があるから、マイルドな表現でしゃべることにした。ちなみに林檎さんは誰とも一緒にお風呂に入らない少女なので、脱衣所の小椅子に腰掛けたままであり、浴場内に顔を出すことはない。
「いると信じる人の心の中にはおられますのよ。それに、戒律の第一条、星に祈りを捧げなければならないというのは、この学園の神様を信じなさいという教えなのですから、わたくしたちロワール会メンバーはそういう伝統的信仰心を尊重していくべきだと思いますのよ。単純に文化として見ても素敵ですわ」
「なるほど・・・」
林檎さんは椅子ちょっぴり移動させて大浴場の扉に近づいた。どうやら彼女は月乃の意見に感心しているらしい。
「やはり伝統をないがしろにするセーヌ会は悪の組織ですね・・・」
「え? そ、そうですのよ。極悪ですわ」
月乃はそういうつもりで言ったわけではなかったのだが、またしてもセーヌ会への悪口になってしまった。
「なんとかしてあのリリアーネたちに罰を与える方法はないだろうか・・・」
独り言でこんなことを言い出すのだから、林檎さんは四六時中リリーさんのことを考えているのかも知れない。
「月乃様も、美しい伝統や信仰を乱そうとしているセーヌ会メンバーたちを許せませんよね」
「え? も、もちろんですわ。ぷんぷん怒ってますのよ」
月乃はお風呂に入っているのに一向にリラックスできない。
「さすがです。具体的にどのように?」
「え?」
具体的にどう怒っているかと訊かれても困ってしまう。
「そうですわね、もしもわたくしが神様でしたら、姉小路様の頭上につねに小さな雨雲を発生させて、湿気をプレゼントしてあげますわ。ずっとじめじめしてますのよ」
「なるほど・・・! さすが月乃様・・・」
林檎さんはさらに椅子を扉のほうに寄せてきた。冗談みたいな発言にいちいち感動してくれる辺りは桜ちゃんに似てなくもない。
「そう言えば、学園をよくうろついている小学生についてはどう思われますか」
動揺した月乃はシャーペンの芯をポキッと折ってしまった。
「ど、どうというのは!?」
「悪影響だと思いませんか」
二人仲良く月乃の部屋で夜のお勉強会をしていたのに、突然自分と無関係でない話題が始まったため月乃は大いにビックリしたのだ。
「悪影響、そ、そうですわね」
「小学生が我が物顔で私たちの寮の周りを歩いています。勉強に集中も出来ませんし、硬派な乙女の園がポップな方向でけがれると思いませんか」
そんなことを言われても月乃は困ってしまうが、小学生の小桃ちゃんがこの学園では場違いなのは特に否定できない事実である。
「まあ確かに、浮いてはいますわね・・・」
「きっとあの子供は姉小路様か何かに憧れているんでしょう」
「え!?」
「それでこの学園に忍び込んで・・・全くふざけた小娘です。どう思われますか、月乃様」
「そ、そうですわね。ええと」
もう月乃は後に引けなくなっているので、林檎さんに合わせてしゃべるしかない。
「あ、あんな小学生がいると困っちゃいますわね。ホントに。ましてやセーヌ会の姉小路日奈様が目当てで遊びに来ているなんて」
「次に会った時はどうしますか」
「ええ?」
「追い返すべきですか?」
「そ、そうですわね。わんわんって吠えてやりますわ。ああいう手合いは大きい動物が苦手に違いありませんから、犬の真似が効果的ですのよ」
自分でも何を言っているんだろうかと月乃は恥ずかしくなってしまったが、林檎さんはウンウンと頷いて感心しながら聴いているし問題は無さそうである。
「とにかく、セーヌ会の姉小路様を敬愛するような輩は、わたくしがキチッと指導していきますのよ」
「頼もしい・・・」
「セーヌ会なんかに、わたくしたち正義のロワール会は負けませんのよ」
「あなたと一緒で良かった・・・」
さっきから林檎さんが月乃にぴったり寄り添ってきており、首の辺りに彼女の帽子が当たっているので、もう月乃は宿題が全然手につかない。
さて、日曜日も休まずお嬢様をしている月乃にも、平穏な時は訪れる。
「おやすみなさいですわ。西園寺様」
「おやすみなさい。二人とも、ゆっくり眠ってね」
「はい」
いよいよ寝る時間なのだ。月乃と林檎さんはダイニングで各寮からの報告書にのんびり目を通す西園寺会長に挨拶してから、すっかり修理が完了した木の階段を上った。
「月乃様、肩に何か乗っていますよ」
「・・・何も乗ってませんわよ。怖いことを言わないで下さいます?」
「そうですか。では忘れて下さい」
林檎さんは冗談のトーンもクールである。
「それじゃあおやすみなさい、林檎様」
「はい。明日もよろしくお願い致します」
堅苦しい挨拶をして隣室の林檎さんと別れ、月乃は自分の部屋に辿りついたのだった。
「はぁ・・・」
月乃には見慣れた自室だが、今日は一段と広く冷たく感じられた。ちょっぴり重い体をベッドに滑り込ませ、電気を消して目を閉じても月乃の頭の中はモヤッとして散らかっており、とてもじゃないがすぐに眠れそうになかった。一人きりになってリラックスできるはずだったのに、逆に胸の中のくすみが浮かび上がってしまったのだ。
「うー・・・」
自分で望んでいるはずの硬派なお嬢様生活に、月乃はちょっぴり疲れているのかも知れない。西園寺様からの信頼を得て、一般生徒たちからも尊敬され、林檎さんのようなクールな同級生からも一目置かれる・・・そんな毎日に月乃は大満足なのだが、どこか後ろめたいような、切ないような気分になるのはなぜだろうか。
(日奈様・・・)
最高に美しく、とびっきり優しいあの人の笑顔がまぶたの裏に浮かんできた。月乃は暇さえあればいつも日奈様のことを考えてしまうのだが、今夜は特にその傾向が強いようだ。
(日奈様に・・・お会いしたい・・・)
生徒会同士の争いがまるで別世界の出来事であるかのような清らかな眼差しや、攻撃的な態度とは無縁な柔らかい声色・・・日奈様の全てを月乃は恋しく思った。
(日奈様・・・日奈様・・・)
胸の辺りが寂しくなった月乃は、頭の下から枕を取り出してギュウッと抱きしめた。お風呂場みたいな良い香りがするのはシャンプーのせいである。月乃は自分だけの秘密の時間の全てを日奈様への恋慕に捧げることにした。
布団の中で丸くなり、枕を抱きしめながら日奈様のことをゆっくりじっくり考えていると、月乃は涙が自然にこぼれてしまいそうになった。全く異なる生き方を選んでいる二人の運命は、もはや磁石のS極N極のように相容れぬものとなってしまっている。光と陰も、善も悪も、敵も味方も関係なく、あの優しい日奈様と友情を育むことができたらどれほど幸せだろうか。
「日奈様・・・」
月乃は普段お嬢様として生きているのに、日奈様のことを考えると妙に甘えん坊な気持ちになってきてしまうらしく、小学生状態の時に触れた日奈様の温かい手が非常に恋しくなってしまった。そのまま広場のベンチに並んで座ったりして、頭をなでなでされてしまったら・・・そんな妄想を始めたら、月乃はもう胸が張り裂けそうなほど切ない気分になった。枕を抱きしめる月乃の腕もますます力が込もっていく。
(日奈様・・・会いたい・・・会いたい・・・)
こんなことをしてはいけない、こんなことを考えていてはいけないと分かっているのだが、理性と恋心は全く別物なので、月乃のドキドキは止まらなかった。晩秋の布団の中で、とろけるほど甘いくせにほんのり苦い恋の味に身悶えしながら、月乃の長い夜は更けていったのだった。
問題は翌朝である。
珍しく目覚まし時計のアラームを布団の中で聴くことになった寝ぼすけの月乃は、もぞもぞとベッドから這い出して時計の頭をポンと叩いた。なぜかいつもより目覚まし時計が遠くにある感じがする。
昨夜、日奈様のことを考え過ぎていた自分が恥ずかしくて、月乃はちょっと温かいお布団にぱふっと顔をうずめて気持ちを整えてから部屋を出ることにした。こういった行動前の心の準備はお嬢様生活をする上での必須テクニックである。
「あら」
「ん・・・?」
ドアを開けると、ちょうど隣りの部屋の林檎さんも廊下に顔を出したところだった。
「おはようございま・・・すわ」
普通に挨拶をしようと思った月乃は、自分より小柄で背が低いはずの林檎さんを見上げている自分に気づいて言葉が詰まってしまった。これはもしや、と思った時、頭にフードを被った林檎さんが声を上げた。
「わんっ!」
「え?」
「わんわんわんわんわんわんわんわんっ!!」
「ひぃいい!」
あのクールな林檎さんが結構リアルな犬の真似をして自分に吠えまくってくる様子はかなりの迫力だったため、寝起きだった月乃は思わず逃げ出してしまった。そして階段をトコトコと駆け下りながら、あることを確信したのだった。
(わたくし、小学生になってますわ!)
初めての経験だが、どうやら月乃は日奈様の近くにいなくても、恋の興奮が高まったら変身してしまうらしい。
「んもー! なんて不便な体ですのっ!」
小学生の月乃はそんな恨み言を叫びながら一階の廊下をパタパタ駆け抜けた。心の広い西園寺様はともかく、林檎さんは小学生に厳しいから、ロワールハウスに月乃の居場所はない。昨日はあんなに意気投合していた林檎さんがもう敵なのだから不思議な巡り合わせである。
かくして小学生モードの月乃は、吐息が白くなるような晩秋の朝の街角をこそこそと隠れながら一人きりで走り抜けていくことになったのだった。
「・・・本当に効果があるとは。月乃様のおっしゃった通りだ」
苛烈な犬真似からすぐにいつものクールな状態に戻った林檎は、月乃様の知恵の深さに感心した。日常にこれだけのメリハリが付けられる林檎は、やはりただ者じゃないのかも知れない。
「ん、月乃様がいらっしゃらない」
誰もいない月乃の部屋を見て林檎は首をかしげた。
「月乃様、何かあったのだろうか」
ロワール会の黒い番犬に追い出されたのである。




