33、合唱コンクール
絶体絶命とはこのことである。
リリーさんが敵方のスパイであると気づき、彼女が西園寺様に何やら仕掛けようとしていることも知った月乃は、この危機を乗り越えるために奔走しているのだが、一向に事は進まず、進むのは時間ばかりだった。
「はぁ・・・」
今日の夜はもう合唱コンクールの本番なのに、まだ小学生モードのままの月乃は、ちょっと背伸びをして窓の外を眺めていた。保健室前の廊下の窓から見えるのは、友禅千代紙を散らしたような麗しい秋の山並みである。
「人助けのチャンスが無さすぎますわ・・・」
無理矢理保科先生の肩を揉んだりして先生から感謝の言葉を引き出したりしたが、どうやら本心から「ありがとう」と言って貰わないと効果が無いらしく、月乃を高校生に戻してくれる鐘の音はどこからも聴こえてこない。
高校生モードになれないのなら、とりあえずリリーさんの計画だけでも潰しておかなきゃと月乃も思ったのだが、林檎さんがとにかく子供嫌いなので西園寺会長に近寄れないのだ。ロワール寮のそばをウロウロしていると黒帽子の林檎さんが「子供が近くにいると気が散りますから、さっさと保健室に帰りなさい」と言って月乃をすぐ追い返しに来るからどうしようもないのである。小学生の小桃の話を唯一まともに聞いてくれた若山桜ちゃんを連れてロワールハウスに再チャレンジしてみたりもしたが、林檎さんを見たとたん桜ちゃんは顔を真っ赤にしてガチガチに固まってしまい、次の瞬間脱兎のごとく逃げ帰ってしまったため全く役に立たなかった。林檎さんの迫力恐るべしである。
リリーさんは以前、紅茶がどうのこうのとしゃべっていたので、飲み物に毒物を仕込んで西園寺様に飲ませ、合唱コンクールを欠席させる作戦を使ってくる可能性が高いから、今日のお昼にお茶会などを開いていたら絶対阻止しなければいけないのだ。ちなみに今日は土曜日なのでどのようなタイミングでティータイムになるかは全く予測不能である。
「困りましたわねぇ・・・」
余りにもピンチだと逆に心が落ち着いてしまうらしく、今の月乃は秋の窓辺が似合うクールビューティーな小学生である。
「あら」
空の青によく映える学舎裏の大イチョウの周りに何気なく目を向けてみると、木から落ちたたくさんの黄色い葉が落ちて散らばっているのが見えた。あれは秋の風物詩であると同時に道を埋め尽くしてしまう厄介者でもあるから、掃いてまとめたりする光景を神社の境内などで見かけることがある。あれを全部掃除したら誰かに感謝されるに違いなく、無事に高校生にも戻れるだろうが、感謝してくれるはずの人間が周囲に一人もいないので意味がない。
「誰かに見られてなきゃしょうがないですわね・・・」
そう呟いてみて、月乃はちょっとだけ自分が恥ずかしくなってしまった。月乃は人前で格好付けることに命を掛けているお嬢様だが、誰もいない場所でもちゃんと美しいレディーをやっているつもりである。
「・・・お掃除しますわ。わたくし、お嬢様ですもの」
さすがは月乃である。この忙しい日に、誰にも知られない場所を掃き掃除できる心の余裕は、とても凡人が持てるものではない。
小学生の体にはちょっと大き過ぎる竹ぼうきを一生懸命使って月乃は葉っぱを掃除していった。
「意外と大変な作業ですわね」
近頃晴れが続いているお陰でイチョウの葉が地面にくっついたりはしていないが、なにしろ量が多いので、月乃は一時的にリリーさんや合唱コンクールのことを忘れ、足元の金色の海に夢中になった。月乃は几帳面なのでこういう作業をやらせると納得がいくまで徹底してしまう。
「今日はいよいよコンクールね」
「ちゃんと席取りたいから、葉っぱ掃除なんてすぐ終わらせちゃいましょう」
ほうきを持って学舎裏にやってきた二人の生徒は、そこで意外なものを目にすることになった。
「あ!」
黒いスカートを履いた小さな女の子が、巨大なほうきを使って掃除してくれており、その姿はさながら姉に憧れてほうきを持ち出してきた妹魔法使いである。
「小桃さーん!」
「ひい!」
イチョウの葉に集中していた月乃は飛び上がって驚いた。ちなみに小桃の存在はもうすっかり学園で有名になっており、彼女の名を知らない者はほぼいない。
「私たちが来る前にこんなにお掃除してくれたの?」
「え?」
神は往々にして無欲になっている人間を選び、恵みを与えてくれるらしい。どうせ誰にも褒められないだろうが、まあ頑張ってみようという諦念が幸福を呼んだ一例である。
「ありがとうございます、小桃さん!」
こちらこそありがとうございますわと心の中で叫ぶ月乃の小さな頭の上に、祝福の鐘の音と一緒に降ってきた一枚のイチョウの葉っぱがちょこんと乗った。
「月乃様は間に合うのでしょうか・・・」
「あの子は大丈夫よ。もう少し待ちましょう」
ロワールハウス一階のダイニングで、林檎さんはあせっていた。月乃は非常に大事な医学研究を保科先生の知り合いと一緒に行っているという設定になっており、合唱コンクールまでには戻ってくると先生が言っていたのだが、一向に月乃から連絡がないので心配なのである。
「あらあら林檎様、もう少し落ち着いたらどうかしら?」
「月乃様にはソロパートもある・・・不安でなりません」
ロワール会の人気を落とすためにスパイ活動をしているリリーにとっては、このまま月乃が帰って来ず、合唱コンクールを欠席してくれるのならばそれは嬉しい誤算である。
「・・・少し外を見て参ります」
いても立ってもいられなくなった林檎さんはダイニングから出て行ってしまった。
(今がチャンスだわ)
リリーはそう思った。本番まで残り数時間、ここで西園寺会長に特製紅茶を飲ませればリリーの計画は成功するはずである。
「ねえ西園寺様」
「なあに」
会長は相変わらず人形のような無表情をしており、来春の裏庭の花壇の設計図などをスケッチしている。合唱コンクールの直前に歌と全く関係ないことをして気持ちを落ち着けているようだ。
「リラックスするために、お茶にしませんこと?」
「あら、素敵ね」
「私が淹れますわ♪」
「ありがとう、お願いするわ」
しめしめと思ったリリーは席を立ったが、ちょうどその時廊下のほうから「うわ!?」という林檎さんの妙な叫びが聴こえてきた。
「月乃様!」
ロワールハウスの重厚な玄関扉を開けた先に、実質ロワール会の副会長として活躍している細川月乃様が倒れていたのだ。なぜかサンドイッチを手に持っている。
「よかった、間に合ったのですね月乃様!」
林檎さんは喜んで月乃を抱き起こそうとしたがここで思い直し、表情を引き締めて月乃の肩を雑に揺すった。
「遅すぎやしませんか? 月乃様なんかほっといて会場に行こうかと思っていましたよ。早く起きてください」
「う、うーん・・・」
「雑巾にでもお憧れですか? コンクールが終わってから好きに地を這って下さいね」
「あら・・・?」
林檎さんの声に月乃はここで目を覚ました。
(合唱コンクール前に起きられましたわ・・・!)
学舎裏から寮に猛ダッシュして来た判断が良かったらしい。あのまま適当な路地裏で変身していたら誰も起こしてくれなかったかも知れないからだ。
「お、おはようご・・・じゃなくて、こんにちは。帰ってきましたわ」
月乃は少しふらつきながら立ち上がったが、自分が持っているタマゴサンドがちょっと恥ずかしくて、これを手に持っている理由を慌てて考えた。
「林檎様、はい、どうぞ」
「なんですか?」
「タマゴサンドですの」
怪訝な顔をする林檎さんに月乃はサンドイッチを差し出した。
「林檎様、どうせ緊張してお昼ご飯も喉を通っていないんですわよね。これをどうぞ」
「え?」
「緊張がほぐれるおまじないをしてありますわよ」
実は一週間前に作られたサンドイッチなのだが、パンがまったく固くなっていないところを見るとたぶん大丈夫である。月乃が小学生モードになっている時の高校生の体は完全に時間が止まっていることが今証明された。
「私の心配なんかして・・・どうかしてるんじゃありませんか?」
林檎さんはますます帽子を深く被って顔を隠しながらそっとサンドイッチを受け取り、すぐにパクっとくわえて食べ始めた。
「はやうああえぼうぼ」
早く中へどうぞと言っているらしい。
「まあ月乃様! 間に合ってよかったですわ♪」
ティーカップをひとつ追加で食器棚から下ろしながらリリーさんが笑った。内心かなり残念に思っている。
「今から本番前のティータイムにしようと思ってたのよ。どうぞ座って、月乃さん」
「は、はい」
ついにこの時が来ましたわねと月乃は思った。どんな毒を仕込んでくるのか分からないが、西園寺様の身に異変がないところを見ると、まだリリーさんが作戦を実行していないのは確かなので、今から何かが起きるに違いないのだ。
「はいどうぞ、私が淹れましたのよ♪」
青リンゴのような爽やかな香りがするカモミールティーがダイニングテーブルに4つ並べられた。全部に毒が入っていた場合もう月乃はお手上げだが、以前密会を盗み聞きした感じだと西園寺様だけをターゲットにした作戦のようなので危険なのはやっぱり西園寺様のティーカップである。
「いただきましょう」
当然のように西園寺様はカップを手に取った。
「ちょ、ちょっと待って下さいまし!」
月乃は学園の未来をこの手で変えるため立ち上がった。
「月乃さん、どうしたの」
本当にどうしたのか自分でも分からないくらいだが、小学生になれちゃう能力のお陰で得られた情報とチャンスは活かさなければならない。
「そのハーブティー、わたくしが飲みますわ!」
「えっ!」
リリーさんが反応した。
「あら、こっちのカップがいいの?」
「はい!」
「ちょ、ちょっと待って下さいます? どのカップも同じお茶ですのよっ」
急に顔色を変えて焦り出したリリーさんの様子を見て月乃は確信した。あのカップには何か水に溶け易く加工されたセーヌ会の野望が混ぜられている。
「頂きますわ!」
「ま、待ってください!」
リリーさんを振り切り、月乃は西園寺様のお茶を一気に飲み干した。天井が妙に低く感じられるのは高校生モードに戻った直後だからである。
(・・・何が入っていても・・・負けませんわ!)
温かいカモミールの香りと一緒に月乃が飲み込んだのは、学園の運命を背負う覚悟である。
餅をつくウサギたちの声まで聴こえてきそうなほど月が綺麗な夜だった。
既に大聖堂には全校生徒が緊張気味で集まっており、まもなく始まる合唱コンクールにそわそわしている。仲間と一緒に歌うイベントなんて完全に初めてだからみんな楽しみで、昨夜よく眠れなかったくらいなのだ。ロワール会メンバーとセーヌ会メンバーは最前列のほぼ中央で、通路を挟んで横に並んでいる。
(先程の月乃様の行動は一体なんだ・・・リリアーネ様が淹れたお茶に何か問題でもあったのだろうか・・・)
身内に敵がいると警鐘を鳴らしに来た小学生を追い返し続けた頑固な林檎さんも、さすがにリリーさんのことが気になって来た様子であり、月乃の隣りの席で黙ったまま眉間にしわを寄せている。ただし彼女はいつも通り帽子を深く被っているからその眉の動きは誰にも見えない。
月乃はというと、今のところ頭痛腹痛発熱の類いの災いに見舞われもせず無事であるが、いつ自分の身に異変が起きるかとビクビクしている。
「全員、起立して下さい」
放送委員の生徒に促されて生徒たちが立ち上がり、壇上の西園寺会長に祈りのポーズで敬礼をした。いよいよ合唱コンクールの始まりである。
「みなさんこんばんは。今日は練習の成果を存分に発揮して、頑張ってくださいね。星は見守っています」
ちなみに西園寺様が言う「星」というのはおそらく学園の神様のことである。このベルフォール女学院は聖堂のステンドグラスなどを観察すると分かる通り、星々を崇める伝統があるらしい。
「事前の抽選の通り、最初はマドレーヌチームよ」
「はい!」
セーヌ会チームに協力する数十名を除き、全ての南側寮生は座席を立ってステージに上がった。ちょっとはみ出しちゃっているメンバーもいる中で、桜ちゃんがド真ん中に立って顔を赤くしているので客席の月乃まで緊張してしまった。
暖かなキャンドルの陰影と静かな香炉の煙の中、生徒たちは歌い始めた。特に音楽の先生から指導を受けたわけでもないし、練習期間も短かったのだが、大勢集まった生徒たちが気持ちをひとつにして歌う伝統の聖歌は、聴く者をウットリさせちゃうほど美しかった。そっと目を閉じて聴き入りながら、桜様もやりますわねと月乃は思った。
「素晴らしい歌声をありがとう。次はヴェルサイユチームよ」
今度はロワール会に協力する数十人を除いた全ての北部寮生がステージに上がった。こういう時、歌い終えてほっとした生徒たちが座席への戻り際に私語をしたりしそうなものだが、西園寺会長や東郷会長以下たくさんのお嬢様が見ている前で緊張の糸を切る者はいない。
ヴェルサイユチームの歌声もなかなかのものだった。北エリアの寮生たちはロワールハウスに近いことを誇りにしているので、さっきのチームよりもちょっぴり品を感じさせる聖歌になった。ゴシック建築の全てがそうなっているわけではないはずだが、なぜかこの大聖堂は音を天井に響かせることにこだわりまくった構造になっているから、もうここは乙女たちの歌声の秘密の幻想空間である。
歌を聴きながら、月乃は何気なく自分の手のひらを眺めた。手に汗をかいている時は大抵動揺しているらしいが、おそらくその原因は月乃のすぐ近くに日奈様がいるからである。ちなみに日奈様の美貌とその影響力は相変わらず凄まじいので、現時点でもかなりの人数が卒倒して歌唱不能に陥っている。
「次はセーヌチームね」
客席に緊張が走った。このコンクールは実質ロワール会とセーヌ会の争いなので、ここからが本当の勝負なのだ。ちなみに投票によって全4チームの中から金賞が選ばれ後日発表されるが、ロワール会の人気がぶっちぎりで高いため結果は目に見えている。
日奈様を中心にして生徒たちがステージ上に並んだが、そこに東郷会長の姿が無いことにいち早く気づいたのは西園寺会長だった。日奈様のことしか見ていない月乃とはやっぱり違う。
「待って!」
西園寺様は叫び声も美しい。
「なんだい」
東郷会長の穏やかな返事は大聖堂の遥か後方から聞こえてきた。彼女がいたのは西入り口の真上で、階段を上った先にあるパイプオルガンの椅子の上である。
「パイプオルガンを使うつもり?」
「ああ、使うよ」
「使うの? 使うのね」
西園寺様はスカートを美しく翻して中央の通路を歩き出した。この二人の会話はいつも少しぎこちない。
「伴奏なんて認めないわ。それにそのパイプオルガンは神聖な楽器よ。あなたには使わせないわ」
月乃はこの時背筋が少しヒヤッとしてしまった。夏休みに東郷会長がパイプオルガンをいじっていたのは、実はダンスパーティーを想定したものではなく、この日のためだったのかも知れない。
「合唱コンクールの規定はもちろん目を通したけど、伴奏は禁止してなかったはずだよ。それに今日は大聖堂を舞台にした学園公式のイベントなんだから、神聖な楽器をこの学園の一生徒が扱うことに何も問題ないはずだよ」
キャンドルに浮かぶ東郷会長の優しそうな顔を無表情のままじっと睨みつけてから、西園寺様は何も言わずに席に戻った。全校生徒の前で長々と抗議するのは美しくないと思ったのかも知れない。
とりあえずケンカに進展せず収まったのでホッとした月乃が前を向き直すと、ステージの上の日奈様と完全に目が合ってしまったので、慌てて下を向いた。お茶に仕込まれていたなんらかの薬物で体調を崩す心配よりも、小学生に戻ってしまうおそれの方が大きいかも知れない。月乃は今自分との戦いの真っ最中なのだ。
「それでは改めましてセーヌチーム、お願いします」
司会者の声からやや間があって、東郷会長によるパイプオルガンの伴奏が始まった。月乃は幼い頃からピアノを習っていたが、パイプオルガンの音を生で聴いたのは初めてである。荘厳で瑞々しく、星明かりに透けるようなその調べの美しさは、まるで大聖堂のステンドグラスのようだった。
(気をしっかり持たなきゃダメですわ・・・!)
そう、月乃はパイプオルガンの音色にウットリしている場合ではない。歌い始めた日奈様の桁外れに美しい歌声に耐えなければいけないのだ。彼女の声がどれほど危険なものかと言うと、歌が始まった瞬間から観客席の生徒たちが毎秒3人ずつくらい幸せそうな顔になって気を失っていくくらいである。
しかも、その歌の中盤で日奈様のソロパートが始まったのだ。
(ひぃいい!)
月乃は幸せ過ぎて頭がクラクラしてきたが、耳を塞ごうと思っても、手のひらが頬より上にどうしても上がらず、不覚にも乙女チックなポーズになってしまった。
歌っている日奈のほうは、実は自分の歌の能力をかなり抑えており、自分のせいで倒れたり正気を失ったりする生徒がなるべく出ないように心掛けているのだ。もし彼女が本気を出したらどんなことが起こるのか誰も想像も出来ない。
「セーヌの皆さん、ありがとうございました」
ようやく日奈たちの発表は終わったが、意識を保ったまま長椅子に座っている生徒は全体の半分近くにまで減ってしまったので、様子を見に来ていた保科先生がてんてこ舞いの救護をすることになった。
さて、生徒たちの体調が回復したようなので、いよいよロワール会メンバーたちの出番である。
(おかしいですわ・・・何も起こりませんわよ)
月乃はおよそ三十人のメンバーたちと一緒にステージに上がった。不思議なことに客席に戻ったはずの日奈様の視線は全く感じなかったが、月乃は念のため目線を上げて、パイプオルガンの方を見ながら平常心で歌うことにした。ついさっき高校生モードに戻ったばかりで練習不足のようにみえるが、月乃は小学生状態の時も保健室で布団を被りながら歌っていたのできっと大丈夫である。
が、歌い出したところでついに問題が発生した。
(あ・・・!)
隣りにいる林檎さんやリリーさんの声は聞こえるが自分の声が聞こえない。
(のどが・・・!)
月乃の声帯は、まるでそこだけオバケになっちゃったかのように完全にお休みモードに入っていたのだ。リリーがハーブティーに仕込んだのはインドの山奥で採れると噂のヒマラヤヒナゲシの花の粉末であり、その強すぎるリラックス効果が一時的に月乃の声を奪ってしまったのである。別にのどが荒れて声がガラガラになるわけではなく、むしろ翌朝にはいつもより綺麗な声になっているくらいなのだが、とにかく今は全く声を出せない。
(まずいですわ・・・!)
これではソロパートが絶望的である。今ちょうど西園寺様がソロパートを歌っているが、どうやらリリーさんの作戦は西園寺様にここで大失敗させ、人気を落とすことだったらしい。
(ど、どうしましょう・・・!)
月乃はとりあえず口だけ動かして周りに合わせながら必死に打開策を探った。月乃のすぐ隣りに立つ林檎さんも少しずつ月乃の異変に気づいてきたらしく、ちらちらと月乃のほうを見て帽子の先っちょを月乃の肩の辺りにぶつけてくる。わざとぶつけている訳ではないので許してあげるべきである。
そしてついに月乃のソロパートの時間がやってきた。
「ほ・・・あ・・・」
やっぱり声が出なかった。月乃のピンチを確信した林檎さんは、それと同時に、あのお茶を淹れたリリーさんの裏切りにも気づいてしまって動揺したから、月乃を助ける余裕がなかった。なぜ月乃は絶対絶命の感覚を一日にこう何度も味わわなければならないのか。わずか数秒の沈黙だったが、月乃の顔を真っ赤にするには充分な時間だった。
「ほーしかーげーのー」
その時である。会場の空気を一変させる天使の歌声が大聖堂に響いた。
「さやーけきーまーちーはー」
月乃は声が出ないのに、どこからともなく月乃のパートの歌声が聞こえてきたのだ。その声の主は舞台のそばにいたため、客席の生徒たちはみんなこれが月乃の声だと勘違いした。
(こ、この声・・・日奈様ですわ・・・!)
月乃くらい日奈様のことを想っている人間が日奈様の声を聴き間違えるわけがなかった。実は日奈は自分が近寄るだけで倒れてしまう生徒がいる現状を鑑み、ステージ脇の暗がりで体育座りをしてコンクールが終わるのを待っていたのだ。こっそり大聖堂の外に出てしまっても良かったのだが、月乃の歌声をどうしても聴きたかったので残っていたのである。日奈は賢い少女なので、月乃のピンチをすぐさま察し、助け舟を出してくれたのだ。
(日奈様ぁ・・・!)
月乃は深く深く日奈様に感謝しながら、彼女の歌声に合わせて口を動かした。以前北山教会堂で一回だけ聴いた月乃のソロパートを完璧に覚えている日奈様の記憶力は大したものである。
しかもこの時の日奈様の歌声は、自分がモテないように能力を抑えたものではなく、月乃を立てるために全力を出したものだったので、ステージに近い者から順に次々と倒れていってしまった。運動会の応援によくあるウェーブみたいな感じで恋の興奮が一気に広がったのだ。
日奈様のお陰でロワールチームの聖歌の発表は無事に終わったのだが、ステージ上の者も含め、大聖堂に来ていたほとんどの生徒がぶっ倒れて終わるというとんでもない結末となった。お嬢様的忍耐力を鍛えていない一般生徒は日奈様の本気の歌声を最後まで聴くことすら出来なかったのだ。
「まさか、まさか本当にスパイだったとは・・・!」
林檎さんは今にもリリーさんに掴みかかりそうな様子で肩を震わせている。
「あーら、気づくのが遅かったですわね林檎様。もう充分ロワール会の情報も得られましたし、私はセーヌハウスに引っ越しますわ♪」
今回の一件でリリーさんがスパイであると明らかになったから、彼女はもうロワールハウスに戻らないのだ。大聖堂広場にはまだ大勢の生徒が残っており、両生徒会員の様子をじっと見守っているから、リリーさんの正体は今夜で全校生徒に知られることとなった。
「西園寺会長、月乃くん、林檎くん。そういうことだから、リリアーネくんは今日から私たちセーヌ会のメンバーだよ」
東郷会長は至って穏やかにそう言った。
「この卑怯者! 恥知らず! 覚えていろっ・・・こんなことをしてただで済むと思うな!」
まだ声が出ない月乃の代わりに林檎さんが子犬のようにワンワン吠えてくれたが、なんだか噛み付きそうな勢いだったので月乃は彼女を背後から抱いて押さえておいた。ちょっと離れたプラタナスの木陰から日奈様もこっちを見ているのであまり乱暴な事態になって欲しくないのだ。ちなみに月乃はさっきの歌のお礼をまだ日奈様に言えていないので、その恥ずかしさや緊張も抱えている。人前で「ありがとう」を言えないのはクールなお嬢様生活を送る弊害だ。
「リリーさん」
それまで黙っていた西園寺会長が前へ出てきたので、リリーは身構えた。
「あら西園寺様、なんですの? 私は別に悪かったとは思っていませんわよ」
「ありがとう、リリーさん」
「え?」
広場がちょっぴりどよめいた。
「短い時間だったけれど、あなたと一緒にお仕事が出来て、とても楽しかったわ」
「え・・・」
いつもの余裕たっぷりの表情をしているリリーが、ここでちょっぴり驚いたような、切ないような顔になった。
「帰りましょう」
西園寺様の声にうなずいた月乃は、まだ暴れている林檎さんの手を引いてロワールハウスに戻ることにした。
ロワール会とセーヌ会のメンバーはこれでついに3対3となり、その争いを激化させていくことになるのだが、リリーさんの裏切りにかなり前から気づいていた月乃にとって今夜は、歌声を通じて日奈様との秘密の友情を味わうことが出来た、言わば奇跡の夜であった。
(わたくし・・・まだドキドキしてますわ・・・)
耳に残っている日奈様の歌声の美しさと温かさを胸いっぱいに抱きしめながら月乃が見上げた空に、北極星がキラキラと瞬いていた。