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31、湖上レストラン

 

 小学生の月乃は生徒たちに揉みくちゃにされていた。

「おいしい? 小桃さん」

「はぁ〜、かわいい。ねえ、私たちの寮に住まない?」

「こっちも食べて。ほら、甘くっておいしいよ」

「はぁ、恥ずかしがる顔もかわいい」

「は、放してくださぁい!!」

 ベルフォール女学院は人形の学園と呼ばれている。

 ほとんどの生徒が厳しい戒律を守ろうと努めていて、暇があれば天に祈り、決して恋をせず、笑顔すら見せないから、一般の人が万が一ふらっと迷い込んだらこの学園の静けさにさぞや驚くことだろう。しかし生徒たちにとってこの戒律は自分らを美しく見せるための飾りみたいなものであり、憧れの自分に近づく手段として好きで実行していることだから当人たちの幸福を心配する必要はない。戒律を重んじる空気がある限り、この学園はお嬢様と呼ばれる生き物たちが住むにふさわしい美と調和に満ちた場所であり続けるのだ。

 しかし、小学生になってしまった月乃が歩くこの学園は、少々違う顔を見せていた。

「ただいまですわ・・・」

「お。お帰りぃー」

 ふらふらしながら小さな体でドアを開けて保健室に帰ってきた小桃ちゃんを、保科先生は菓子パンを口にくわえながら明るく迎え入れた。

「はぁ・・・」

 小学生の月乃は溜め息をつきながら白いベッドに倒れ込んだ。よく干してあるサラサラのシーツに小さな体をバフッとうずめる瞬間はなかなか快感である。

「何かあったのかな? お嬢様」

「何かあったなんてものじゃありませんわ・・・」

 合唱コンクールで歌う曲決定会議の終盤に日奈様の笑顔ビームを正面から受けたことで恋の戒律に抵触し、見事小学生にされてしまった細川月乃は、いつも通り保健室に寝泊まりして暮らしているのだが、授業の盗み聞きをするために午前中の学舎をうろついていた時にちょっとした騒動に巻き込まれたのだ。

「調理実習?」

「そうですのよ・・・家庭科室の前を通りかかったら、知らない二年生たちに見つかってしまいましたの」

 あなた小桃ちゃんでしょう、ほらほら、寄っていって、などと言われて無理矢理調理実習に参加させられ、みんなでパフェを作って食べてきたところだったのだ。月乃は小さい頃から厳格なお嬢様教育を受けてきた女なので、「かわいい〜!」などと言われることに全く慣れていないから非常に疲れたのである。

「わたくしをロワール会の細川とも知らずに、あんなにはしゃぐなんて・・・恐れ知らずもいいとこですわ」

「まあ、小桃ちゃんはカワイイからねぇ」

 月乃はベッドの上から保科先生を力無くにらみつけた。

「・・・幼い可愛さなんて要りませんわ。わたくしはクールでカッコイイお嬢様ですのよ」

「この学校の女の子たちってみんな大人しい感じがするけど、やっぱり普通の女の子も結構いるんだねぇ」

「普通?」

「うん。だから、小学生状態のキミにキャーキャー集まってくる子がいても許してあげて欲しいわけさ」

「別に・・・怒ってるわけじゃありませんわ」

「あ、そうだよねぇ。月乃ちゃんも戒律を破っちゃってこの姿になってるわけだし♪」

「う、うるさいですわ!」

 ちなみに月乃が破ったことがあるのは第二条の「恋をしてはならない」という戒律だけだが、おそらく他の戒律に違反しても小学生に戻ってしまうと考えられる。なぜ月乃だけがこのような罰を受けるシステムにされているのかは未だに不明だ。

「今はこうして小さくなっちゃってますけど、偶然ですのよ。これからは戒律を絶対破りませんの」

「ほんとに?」

「ええ、本当ですのよ。わたくしは姉小路日奈様の魅力に屈しませんから」

 月乃が強気な発言をする時、たいてい何かが起こるのがこのベルフォール女学院である。

「失礼します」

「ひ!」

 小学生モードの月乃の感覚は小動物並みに鋭いので、保健室に入ってきた少女の正体にすぐさま気づいて布団の中に潜り込んだ。

「や、やあいらっしゃい、日奈ちゃん」

「お邪魔します」

 やってきたのは保科先生よりも白が似合う美少女、日奈様である。先生はだらしなく組んでいた脚を下ろし、いつもより凛々しい顔を作ってから挨拶した。先生も緊張しているのだ。

「体調不良かい? それとも転んじゃった?」

「いえ、その、今日は学校に小桃ちゃんが来ていると風の便りに聞きまして」

 月乃は敏感な乙女なので、日奈様のこの言葉を聞いてすぐに布団の中でビクッと跳ねてしまったから、隠れた努力もむなしく日奈様に見つかってしまった。

「こんにちは、小桃ちゃん」

「うう・・・」

 月乃はしぶしぶ布団の中から顔だけ出した。ふわふわの布団の中から、ちょっぴり頬を染めた幼い少女が柔らかい髪をくしゃくしゃに乱し、上目遣いで見てくるので、日奈はすぐに彼女をぎゅっと抱きしめたくなってしまったが、保健の先生が見ているので今はやめておいた。日奈も子供が大好きであるが、他の生徒たちと違って特に性的なワクワクを感じているわけではない。

「ねえ、小桃ちゃん」

「な、な、なんですの?」

「もしよかったら、今日の放課後、一緒に遊んでくれない?」

 一緒に遊ぶという誘い方は小学生のあいだでは一般的だが、幼い時に全く友人と遊ばずに塾やピアノ教室に通っていた月乃にとってはこそばゆいセリフである。

「わ、わたくしは・・・その、忙しいんですのよ」

「実はね、もうすぐこの学校で合唱コンクールがあるんだけど、その練習をするの」

「え」

 日奈様とおしゃべりしている緊張と興奮のせいで月乃の体はホットミルクみたいになっていたが、合唱コンクールという現実的な言葉が氷になって月乃のおでこを冷やした。月乃は今小学生なので参加できていないが、ロワール会も連日聖歌の練習をしており、セーヌ会がどんな感じで練習しているのか気になっていたところだったのだ。

「私も行ったことないところに行くから、小桃ちゃんもどう? 面白そうなところだよ」

 中腰になって自分を覗き込んでくる日奈様の笑顔に耐えられなくなった月乃は、枕を抱きしめて顔を隠しながら小さく一回うなずいた。

「わぁ、よかった。先生、放課後小桃ちゃん借りても平気ですか?」

「どうぞ〜」

 月乃が日奈様の魅力に手を焼いている時、保科先生はなぜかいつも楽しそうである。

(これはセーヌ会の練習の様子をチェックしに行くためですのよ。・・・べつに日奈様と遊びたいわけじゃありませんわ!)

 というのが月乃の言い分である。日奈様は放課後に迎えに来てくれるらしいので、月乃はそれまでの時間を全て使ってしっかり心の準備をしなければならない。

「忙しいねぇ、月乃ちゃんは」

「うるさいですわ・・・」

 日奈様が帰ったあとの保健室は、いつもよりちょっぴり温かくなっていた。



「まずはセーヌハウスに戻るね」

「は、はい」

 放課後、昇降口から登場した日奈様と小桃ちゃんというスーパーキュートコンビに、大聖堂広場をうろついていた生徒たちは言葉を失って立ち尽くしたり、その場に倒れ込んだりした。片方は今小学生になっているため誰も気づいていないが、学園のプリンセスが二人揃って歩いているのだから無理もない。

「・・・人が少ない道で帰ろうね」

「あ、はい」

 日奈様は本当に目立つことが嫌いなんだなと月乃は思った。人の視線が大好きなお嬢様月乃も小学生モードのまま人前を歩くのは恥ずかしいので裏道を選んでくれるのは助かる。

 おもちゃみたいな可愛いアーチ橋が掛かる小川沿いの道を二人はゆっくり歩いた。十月の優しい日差しの中にそよ吹くアコーディオンのかすかな調べに髪を揺らしながら、月乃は日奈様の横顔を見上げた。秋の高い空をバックに、日奈様の透き通る頬と、三階建ての画材屋の洋瓦が重なる様子は、まるで絵葉書みたいに綺麗だったので月乃はうっとりとしてしまった。

「うっ」

「大丈夫っ?」

 ベルフォール女学院の敷地内はたいてい足元にレンガが敷き詰められているので、よそ見をしながら歩いていると細かいデコボコにつまずくことになるので気をつけたほうが良い。


 セーヌハウスの前に着くと、そこには既に赤いリボンの生徒が2、30人集まっていた。

「姉小路様よ!」

「わぁ・・・」

「素敵・・・」

 彼女たちはマドレーヌハウスの生徒たちであり、合唱コンクールでセーヌ会の助っ人として参加してくれることが決まった少女たちである。ロワール会のほうも4人しかメンバーが居ないので、同じような人員補充をヴェルサイユハウスから行っている。

「よ、よろしくお願いします」

 日奈様がそう言って白いリボンを揺らしながら頭を下げると、生徒たちもぎこちないお辞儀を返した。この時点で興奮のあまり数人が卒倒している。

「お待たせ。練習場所に案内するから、ついて来てくれるかい」

 月乃たちのすぐ後ろを歩いていたのではないかというタイミングで、東郷会長がやってきた。正面から見るとポニーテールのようだが、横から見ると後頭部にイングリッシュローズがくっついているような彼女の不思議な髪型は、マドレーヌハウスの生徒のあいだで隠れたブームになっているが、このヘアスタイルを作るにはかなりの時間とコツがいるのであんまりメジャーなものになっていない。

「行こっか、小桃ちゃん」

「う・・・」

 日奈様がそっと手を差し伸べてきたが、人前で手をつないで歩くなど絶対に出来ないので、月乃は「ふん」と言ってそっぽを向いた。耳まで赤くして人見知りをする小桃ちゃんが可愛くて日奈はくすくす笑った。これがただの人見知りではなく完全な恋であることに日奈は気づいていないのだ。一行は東郷会長の誘導で川沿いの道に出ると、そこからさらに南へ歩いていった。

 合唱コンクールの練習場所は自由だが、ここはあちこちに小さな寮が立つ一つの街なので、いつでもどこでも大合唱して言いわけではない。鼻歌くらいならセーフだが、これから寝ようとしている時に窓の外から数十人のご機嫌なハーモニーが聞こえてきたら問題だからだ。この件を踏まえたロワール会はヴェルサイユチームと交代で大聖堂を練習場所として使っているのだが、他の2チームには場所がない。マドレーヌハウスの生徒たちは仕方なく体育館の隅っこなどを利用しているらしいが、部活の生徒との調整が難しく、練習は難航しているようだ。果たしてセーヌ会はどうするのか。


「わぁ・・・」

 月乃は思わず声を洩らしてしまった。

 流れるプールというニックネームが付いている人工の小川を辿っていくと、そこには月乃が見た事もない静かな湖が広がっていたのだ。学園の南西角の山肌に沿うようにして、これほど澄んだ美しい湖があることを月乃は全く知らなかった。

「小桃ちゃん見て。あの島の建物、寮なんだよ」

「え?」

 日奈様の指差す先、湖の中央には教室三個分くらいのサイズの島があり、そこに白い木造一階建ての寮が建っていた。確かにあの場所を本拠として借りれば、歌なんて歌いたい放題である。

「でも、どうやって渡りますの」

「小舟だよ」

 ほとんど独り言みたいな月乃の疑問に東郷会長が答えてくれた。見るとそこには木板の桟橋がニョキッと島に向かって伸びており、細身の舟がたくさん停まっている。こんなボート乗り場を作るくらいなら普通にあの島に渡る橋を作ればいいのになと月乃は思った。あの寮に住んでいる生徒は毎朝小舟に乗って登校しているのだろうか。

「あの寮は小さなレストランを経営しているんだ。たどり着くまでは不便だが、一度行けばつい常連になってしまうような魅力があるお店さ」

 東郷会長は慣れた様子で手近なボートに乗り込んだ。

「私が漕いで往復するから、交代で乗ってくれるかい」

 かっこいい東郷会長に舟で送って貰えると聞いて少女たちは非常に嬉しそうである。セーヌ会は戒律や校則をないがしろにする悪の生徒会だが、そのメンバーの人気はやっぱり本物なのだ。日奈と小桃は他の生徒たちから「お先にどうぞ!」と譲って貰えたが、日奈はいつも最後が好きなので丁寧に断って最後尾についた。

 ボートはイタリアのベネツィアで見るような、5人くらいは乗れるちょっと立派な小舟であり、こんなものを立ったまま舵で操れる東郷会長のポテンシャルはなかなかのものである。

「舟、かっこいいね」

「ま、まあ・・・そうですわね」

 月乃は自分の髪を指先でいそいそと撫でながら日奈様と目を合わせずに答えた。ちなみに今日の月乃は保科先生が麓のショッピングモールで買って来てくれた、上品なレースの付いた白シャツと黒いスカートを身につけている。もちろん子供用のサイズなので月乃が嫌っているキュートさは高めだが、体操服みたいな格好で歩いていた頃に比べるとかなりフォーマルなので気に入っている。


「おまたせ日奈くん、小桃くん。君たちが最後だね」

 桟橋から島までは大した距離ではないが、およそ1クラス分の生徒を運ぶのはちょっぴり時間が掛かった。

「まずは日奈くんかな。気をつけて乗ってね」

「はい」

 日奈様は遠慮の塊みたいな少女だが、彼女のハートの奥底には天真爛漫で無邪気な乙女が隠れているので、小舟に乗り込む時の彼女はとっても楽しそうだった。

「小桃ちゃん、おいで」

「うっ・・・」

 桟橋とボートのあいだに生じる高低差が、小さな月乃とモデル体型の日奈様の相性を高めてしまうらしく、日奈様の綺麗な白い手は、月乃が思わず繋ぎたくなる位置とタイミングに差し出されたのだ。確かに小学生の体で小舟に乗り込むのはちょっと怖いので誰かが手を握ってくれていると非常に助かるというのが月乃の本音である。

(どうしたらいいんですの・・・!)

 顔を赤くしてもじもじする小桃ちゃんを見かねて、日奈は自分から小桃ちゃんの小さな手をとった。

「ほら」

「あっ」

「気をつけてね」

 日奈様に優しくエスコートされて乗り込んだボートは、大して揺れてなかったにも関わらず、月乃にはふわふわぐるぐる動き回っている雲の上のように感じられた。

「小桃くん、そこに座ってね。立ってると危ないよ」

 恍惚な表情でぼーっとする月乃を心配して東郷会長が声を掛けてくれた。ちなみに小学生モードになってしまった月乃の能力は頭脳以外全て幼少期のものになっているので水泳は不得意なはずである。落っこちるわけにはいかない。

「一緒に座ろっか」

「ひ!」

 月乃は背後から日奈様の腕に抱かれるポジションで舟の座席に座らされた。後ろにもたれかかると日奈様のおっぱいが自分の首や後頭部をふわっと抱きしめてくれるとんでもない席だったので、月乃は目を白黒させたが、座ってしまったものは仕方が無い。島に着くまで我慢するしかなかった。



「小桃ちゃん、ほら、枝がトンネルみたいになってるよ」

 まっすぐ島に向かってくれれば良かったのに、東郷会長は小学生の小桃ちゃんのためにぐるっと湖を大回りしてくれていた。先に島のレストランに到着した生徒たちは楽譜などを見ながらテラスにて紅茶で一服しているのでちょっと時間に余裕があるらしいのだ。湖の内周にはソメイヨシノやモミジの木が枝を伸ばしてきており、葉っぱのトンネルが細長いボート全体を包み込んでいる。

「ふわぁ・・・」

 月乃は自分の体に密着している日奈様の感触に手一杯なのだが、景色に対してあまりに無反応だと怪しまれそうだったので、思わず洩れてしまう恋の溜め息の合間に、ちょっぴり日奈様に話しかけることにした。

「あの・・・」

「ん、なあに?」

 自分の左耳のすぐ上に日奈様の声を聞いて月乃は全身に電気が走って下半身から宙に浮かんでしまうようなとんでもない感覚を味わったが、負けずに言葉を続けた。

「こ、紅葉はいつですの? そろそろ秋も本番だと思いますのよ」

 まだモミジの葉は青いものが多く、見頃という感じはしない。

「んー、この辺りだと11月の2週くらいからかな。盆地だからお昼と夜で気温の差があるし、きっと綺麗だよ」

「そ、そうですの?」

 何気なく訊いたことにすぐに的確な返答をくれる日奈様に月乃はちょっと驚いてしまった。月乃だって色々な知識を持っている才女だが、それはどれも教科書に載っている情報ばかりであり、試験に出て来ない花鳥風月に関しては全くの無知と言っていいレベルなのだ。月乃は小さい頃から紅葉になんか注目したことがなかった。

「モミジ・・・」

 幼い月乃は、水面に写る山肌と頭上の枝を交互に見比べながら、この世界のまだ見ぬ魅力に思いを馳せるのだった。今日の空はどこまでも青い。



「それではもう一度頭から、いくよ」

 湖の小島のレストランは、日が暮れてからは一層隠れ処っぽさが増し、悪の生徒会が率いるメンバーたちの練習場所にはうってつけの店になっていた。

 月乃は隅っこに片付けられたレストランの椅子を一脚だけ借りて、オルガンと柱時計の隙間にちょこんと腰掛けながら、主に日奈様の顔を眺めていた。東郷会長が弾く古いオルガンの味のある音色は、橙赤色のランプと渋い融合を果たし、店内の時間を数世紀さかのぼらせたため、月乃の目に映るものは全てがロマンチックだった。ちなみに日奈様の歌声は枯れていた野の花がまた活き活きと咲き出しちゃうくらい美しい。

「いいよ、みんな。今は上手く歌おうとしなくていいから、楽しく、大きく声を出してごらん」

 オルガンを自由自在に操れることからも分かるように東郷会長は音楽が得意らしく、愛用のギターやらアコーディオンやらをこのレストランに置いているらしい。ここは東郷会長の別荘みたいなものなのだ。

(あら・・・)

 日奈様は相変わらず遠慮がちな表情をしているが、他の生徒たちはなんだかとっても楽しそうで、歌に夢中になるあまり戒律のことなんか忘れている様子である。彼女たちの幸せそうな顔と言ったら、他のどの場所でも見られないくらい輝いているくらいだ。

(ぬぬ・・・)

 これはまずいなと月乃は思った。東郷会長と日奈様以外はマドレーヌハウスという一般寮の生徒であるにも関わらず、彼女らの心はセーヌ会に傾いているようにも見えるのだ。厳しく美しい戒律を重んじる学園の生徒が、自由に憧れるなんてあり得るのだろうか。

「そうそう、いい感じだよ。今の感覚を忘れずに、もう一度やってみよう」

 まるで音楽の先生みたいだなと思いながら月乃は東郷会長の横顔を見上げた。こうして見ると彼女の顔は映画や舞台で見るジャンヌダルクのようで、ちょっと頼もしく格好良く思えてしまう。ここで月乃が「みなさん戒律をお忘れですの? 笑顔は控えてください」と水を差すのは容易だが、そんな風に邪魔するのが気が引けるくらいこの練習風景は温かだった。なんだかくやしい月乃は、ほっぺをフグのようにぷくっと膨らませて椅子の上で体育座りをした。

「小桃さんですよね?」

「え?」

「これどうそ、サービスです♪」

 このレストランを寮として暮らし、ここの経営もしている先輩生徒が、クリームがたっぷりトッピングされたイチゴプリンを月乃に持ってきてくれた。

「で、でもわたくし甘いものは・・・」

「遠慮しなくていいんですよ、ほら」

「う・・・あ、ありがとうございますわ・・・」

 昼間もパフェを食べたのに、これはこれで美味しそうに見えるから困ってしまう。

 東郷会長の持つカリスマ性への嫉妬と、日奈様への果てしない恋慕の情と、可愛いスイーツを食べている恥ずかしさの3つが渦巻く不思議な時間のド真ん中で、小さな月乃はただ頬をモミジのように紅く染めるだけだった。



 さて、月乃には高校生に戻る方法に当てがある。

「気をつけておりてね」

「は、はい」

 夜の桟橋は煌煌とライトアップされていたため足元に不安はなかったが、日奈様の見ている前でつまずいたりしたらイヤなので月乃は慎重にボートからおりた。無数に並ぶ温かな電飾がレンガを柔らかく照らす水辺の街角は、薄目にすると宇宙のあちこちから輝石を集めたロマンチックな巨大宝石箱みたいに見えるので、月乃は思わずぼーっとしてしまった。

「小桃ちゃん、大丈夫? 眠い?」

「だ、大丈夫ですわ!」

 他の生徒たちは島から戻った時点で流れ解散したので、月乃は日奈様と東郷会長の二人と一緒にとりあえず北に向かって歩いていくことになったのだが、実はここが高校生の体に戻るチャンスなのである。日奈様はいつも別れ際に「今日はありがとう」と月乃に感謝の言葉をくれるからだ。恋の戒律に抵触して罰を受けている月乃は、誰かから感謝されるようなことをすれば魔法が解けるはずであり、東郷会長の別荘に行ってセーヌ会の潜在的パワーを感じた月乃は、一刻も早く元の体に戻って歌の練習をしたいと思っている。セーヌハウスに泊まっていかないかと二人に誘われもしたが、これ以上日奈様と一緒にいると、もう日奈様の妹になってしまいたくなりそうなので断った。

「小桃くん、保健の先生は優しいかい?」

「え、まあ、その、そうですわね。ほどほどですわ。ちょっと変わった先生ですけど」

「そうか、ほどほどなんだね」

 爽やかに笑う東郷会長の肩に掛かった白いカーディガンが大通りを吹き抜ける秋風にふんわり揺れた。まるでマントみたいである。

「保科先生はとってもいい先生だよね」

「は、はい」

 本心を言うことに抵抗があるツンツンした月乃も、日奈様のスーパーピースフルボイスの前には素直に首を縦に振らざるを得ない。月乃は保科先生にいつもとっても感謝している。


 セーヌ会の二人と、最近人気の幼い少女が並んで歩いてきたので、大聖堂広場はちょっとした騒ぎである。

「それじゃあ小桃ちゃん、また今度ね」

「はい」

 日奈様が今まさに「ありがとう」と言ってくれようとした瞬間、広場に集まっていた生徒たちの中から命知らずな少女が数人近寄ってきた。

「あ、あの、サインを下さいっ」

「わたしも!」

「お願いしますぅ!」

 日奈様はどこかに隠れようとしたがもう手遅れで、仕方なく少女たちにサインを書いてあげに行ってしまった。

「あ・・・お姉さま・・・」

 正直高校生に戻らなければという使命感よりも、日奈様にありがとうと言われる瞬間の幸せを求める気持ちが強かった月乃は、日奈様が別の生徒のところに行ってしまって凄く寂しかった。しかしここでちょっと意外なことが起こる。

「小桃くん」

「はい?」

 月乃の隣りで腕を組み、優しい顔で大聖堂のステンドグラスを見上げる東郷会長がなにやら話しかけてきたのだ。

「今日の日奈くんは、いつもよりずっと楽しそうだった。ボートに乗る時も、歌っている時もね」

「え?」

 東郷会長がそんなところに注目していたなんて意外だなと月乃は思った。

「私を含め、他の子と一緒にいても日奈くんはあんなに楽しそうな顔を見せないんだ」

「そ、そうですの?」

「小桃くんのお陰だよ」

 東郷会長は月乃の前にしゃがみ込み、穏やかな眼差しで月乃の瞳を覗きながらそっと頭を撫でてきた。

「ありがとう。これからもよろしく」

「あっ・・・」

 小さな胸に重く響くガララァンという大きな鐘の音が天から降ってきて、月乃は事態を察した。なんと東郷会長が月乃に感謝してくれたのだ。

「うう・・・」

 東郷会長に頭をなでなでされながら、月乃は恥ずかしそうにうつむいた。月乃は硬派なお嬢様だが、頭を撫でられて嬉しくないはずがないので、ちょっとくやしいのである。

「お、お・・・」

「ん?」

「・・・お、覚えてなさいですわ!」

 月乃はとりあえずそう言い放って保健室のある第四学舎の昇降口に逃げ込んでいった。

「本当に、面白い子だ」

 月乃の小さな背中を見送った東郷会長は穏やかに笑いながら、生徒たちに囲まれて困っている日奈を助けるべく、月夜の大聖堂広場をゆっくりゆっくり歩き出したのだった。


 セーヌ会の力や東郷会長の魅力の一部を知ってしまった月乃は、これからますますロワール会メンバーの団結を強固なものにし、自分のお嬢様ハートを磨く必要があるなと思った。月乃が想定していたよりも敵の力は遥かに強大であり、自分が歩むべき道も険しいらしいことが分かったからである。

「おおっと!」

 月乃が東郷会長と別れたほんの数分後、保健室の前に倒れている高校生モードの月乃を保科先生が偶然発見した。素晴らしいタイミングである。

「なんか・・・幸せそう・・・」

 頭の中で自分のお嬢様道をストイックに追及しながら高校生に変身したはずの月乃の寝顔が妙に嬉しそうなのは、日奈様と楽しく過ごした湖上のひと時の続きを夢の中で味わっているからである。

 

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