28、ウサギ
「聞きました? 学園祭の噂」
「聞きましたわ! またセーヌ会の提案らしいですけれど」
「ロワール会の西園寺会長はどうされるのかしら」
「どうでしょうねぇ」
「それにしても、学園祭ってどんなことをするのかしら」
「あら、あなたもしかして楽しみにしてるの?」
「そ、そんなことないですわっ」
山から下りてくる朝の風はすっかり秋めいていて、ほとんどの生徒が夏服のシャツの上からセーターやベストを着ての登校となった。制服の移行期間はもうすぐなので今しばらく夏服で我慢する必要がある。
「あ! 見て! 姉小路様よ!!」
「ほ、ほんとですわ・・・一緒にいるあの子は?」
「小桃様っていう、時々この学園で預かっている小学生よ」
「か・・・かわいい・・・」
この朝、小学生モードの月乃は顔を真っ赤にしながら日奈様と一緒に第四学舎に向かっていた。主にマドレーヌハウスの生徒たちと登校のタイミングが被ってしまったため二人の周囲はかなり騒がしいことになっているが、みんなセーヌ会の姉小路日奈様を警戒しているため「キャー! 姉小路様、サインを下さーい!」みたいに言って寄ってくる生徒は少ない。生徒たちは日奈様への憧れを隠して暮らしているのだ。
桜ちゃんがマドレーヌハウスの住人なので、こうして南大通りを北上して歩いていると彼女に会えるのではないかと思って月乃はキョロキョロしたが、桜ちゃんの遠慮がちで能天気な絶妙な笑顔を今朝は見つけることができなかった。日奈様と二人で並んで歩いていると、月乃の小さな心臓がもたないのだ。
「小桃ちゃん、迷子にならないでね」
「は、はい。分かってますわっ」
月乃は頬を熱くしながら日奈様に返事をした。
つい先ほど日奈様のベッドの上で目覚めた小学生モードの月乃は、自分が昨晩ずっと眠ったまま日奈様のお世話になっていたことを知って非常に恥ずかしいのだ。ただし、月乃は自分が裸のまま日奈様にぎゅっと抱きしめられたことは記憶しておらず、残っているのは心と体がすっかり満たされた幸福感である。
朝の大聖堂広場は赤いリボンのおねえさんたちで溢れ返っていた。高い雲の隙間を舞う白いハトたちの影を見上げて歩きながら、月乃は今の自分の体の小ささをしみじみと感じた。同級生たちの朝の挨拶は月乃の頭上を飛び交っているし、パリのノートルダム大聖堂に負けないサイズがあるベルフォール大聖堂は、まるで月乃を飲み込もうとしている巨大なオバケくじらみたいに見える。
「今日はずっと保健室で過ごすの?」
「わ、分かりませんわ・・・」
「そっか」
日奈様が寄り添うような距離感で自分の隣りを歩くので、月乃はまともに会話もできない。姉小路日奈様のファンであると公言するのをためらわない少女たちがキャアキャア言って集まってきたので、日奈は小桃の背中をとんとん押して早足で第四学舎に入った。保健室があるのはこの第四学舎である。
「失礼します、姉小路です」
「はいはーい」
保健室では白衣の保科先生が待っていた。
「日奈ちゃん、昨夜はありがとう。どうだい小桃ちゃん、お姉さまと一緒にいられて、楽しかったかな?」
「う、うるさいですわ・・・」
先生がちょっと意地悪な質問をしてきたので月乃は恥ずかしくてそっぽを向いた。
「それでは、私はこれで」
「うん。ありがとね」
「いいえ、こちらこそ。それじゃあ、バイバイ、小桃ちゃん」
ホームルームに去る日奈は、別れ際に小桃の頭をゆっくり優しく撫でてくれた。月乃は増々恥ずかしくなって先生に背中を向けながら日奈様の撫で撫でを受けた。まるで自分が子猫になってしまったかのような甘い感覚に包まれた月乃の体は茹でダコみたいに火照っている。
「うらやましいなぁ」
日奈様が去ってすっかり気を抜いた保科先生は、そう呟いて白衣姿のままベッドの上に寝転んだ。
「・・・随分リラックスしてますわね。お忘れかもしれませんけど、わたくしはロワール会の人間ですのよ。ロワールのお嬢様の前でそんなだらけた態度を見せていいと思ってますの?」
「いやいや、ごめんごめん」
こうして見ると先生は春頃に比べてだいぶ髪が伸びた。
「ねえ月乃ちゃん」
「・・・誰も聞いてないと思いますけど、念のためわたくしのことは小桃って呼んで頂けます?」
「小桃ちゃん、ここに来るまでに白いウサギを見なかった?」
「白いウサギ、ですの?」
「そう。今朝小屋から脱走しちゃったみたいで、飼育委員の桜ちゃんが必死に追いかけてるらしいんだ」
そのままどこかの穴に落っこちて不思議の国に行っちゃう可能性がある。
「まあ、見つけたら捕まえておいてあげますわ」
「よろしくね、コモちゃん」
先生にも頭を撫でられた月乃は照れくさくってうつむいた。
「うぅ・・・」
月乃はいつまで経っても小学生の体に慣れない。
高校生に戻るチャンスがいつ巡ってくるのか全く分からない月乃は、とりあえず勉強に後れをとらずに済むよう、自分のクラスの授業を廊下で盗み聞きして午前中を過ごした。誰かに見つかりそうになったら一階の保健室に逃げ込めばいいという安心感は非常に大きく、保科先生が味方で良かったですわと月乃は改めて思ったのだった。
「室町幕府滅亡・・・っと」
教室の木製ドアに小さな耳を必死に押し当てながら月乃はノートを取った。ちなみに家系図を見る限り月乃のご先祖様たちは室町幕府の重職に就いていたらしく、足利政権のお陰で細川家が名門として栄え始めたようなものなので、「室町時代おしまい!」みたいな記述を歴史の教科書で見かける度に月乃はちょっぴり切ない気分になる。
昼休みになると、学舎に意外な校内放送が流れた。
『ごきげんよう、ベルフォールの乙女の皆様っ。もうすっかり噂になっているようですが、セーヌ会がまたしてもロワール会に攻撃を仕掛けてきたようですね。今度は学園祭の開催を要求してきたらしいですよ!』
放送委員の生徒は実におしゃべりである。
『これからのことについてロワール会の一年生メンバーがベルフォール大聖堂で話し合いをするようなので、お昼休み中は大聖堂の会議を邪魔しないようにしましょう!』
林檎さんとリリーさんが話し合いをするらしい。
実は昨夜から今朝にかけて西園寺会長、林檎さん、リリーさんというメンバーで散々会議をしているのだが、月乃が不在のままでは意見がまとまらず紛糾しており、ちょっとでも事態を前に進めようと一年生の二人が自主的に昼休みに会議の続きをすることにしたのだ。
「月乃ちゃん、会議の様子見に行ったほうがいいんじゃない?」
「そうですわね・・・行ってみますわ」
月乃は保健室で先生と一緒に豆腐入りアボカドサラダを食べ始めていたところだったが、ここはロワール会の栄光の未来のためにすぐさま出発することにした。小学生モードのままでは会議に参加できないのは月乃もよく分かっているが、このままじっとしているなんて出来なかったのだ。月乃はクールなお嬢様なので、学園祭なんて軟派なイベントの開催は断固として阻止する所存である。
校内ラジオで「邪魔しないように」と言ってくれていたが、あれは完全に逆効果で、会議の場所を全校生徒に知らしめただけであったから、大聖堂広場には既に黒山の人集りができていた。
「林檎様とリリアーネ様よっ」
「細川様はいらっしゃらないのかしら」
大聖堂の内部にまで入り込む生徒はさすがに少ないが、入り口付近はもう背伸びをしなければ中を拝むことができない混雑振りで、小学生の月乃の目からは生徒たちの背中以外何も見えない。
「細川月乃様は保健の先生の医学研究のお手伝いをしにしばらく留守をされるらしいですわ」
「でも、その真相はセーヌ会に対抗するための策を探しに行ったっていう噂ですわよ」
「さすが細川様ですねぇ」
「今頃どこで何をされているのかしら!」
あなたの後ろに立ってますわよと月乃は思った。
とりあえず林檎さんたちの話し合いの様子をチェックして、学園祭は開催しないという流れになっているかどうか調べる必要があるので、月乃はハイハイをして生徒たちの足の間を抜けて大聖堂の入り口に忍び込んだ。体の小ささが役に立つこともあるらしい。
「私は開催には反対です。何度も申し上げている通りです」
香炉の甘い煙に差したステンドグラスの瑠璃色の光の中に、二人の姿があった。
「林檎様、そんなことは分かってますわ。私も、西園寺様も、おそらく月乃様も、学園祭には反対です」
「だったら話は決まりでしょう。さっさとセーヌハウスに手紙を書けばいいんです」
「どんな手紙?」
「調子に乗ってると潰しますよ、と」
「あら怖い♪」
「学園の秩序を乱そうとするものに礼儀を尽くす必要もないでしょう」
とにかく林檎さんはセーヌ会が大嫌いらしい。大聖堂の入り口からホールに上がる短い階段の手すりからこっそり顔を出した小学生モードの月乃は、熱い視線で林檎さんにエールを送った。月乃は日奈様のことが大好きだが、それゆえに二人の間を引き裂いている生徒会の壁が憎らしいので、いつかセーヌ会を解散させちゃいそうな勢いのある林檎さんが頼もしいのだ。
「でもね林檎さん、現状をよーく見てほしいんですわ」
「はい?」
「ほら、この大聖堂でも・・・耳を澄ましてみて下さいな」
盗み聞き中の月乃も耳を澄ましてみた。
ベルフォール大聖堂の周囲には大勢の生徒が集まっており、三つある入り口には流行に敏感な生徒たちがすし詰め状態で並んでいる。聞こえてきたのは彼女たちのささやきであった。
「もし学園祭が開かれるとしたら、いつになるのかしら」
「11月くらいじゃありません?」
「学園祭って、どんなことをするのかしら」
「きっとお茶会よ」
「違うわ。自分らが練習したものを発表するのよ」
「練習って・・・一輪車とか?」
「それじゃ体育祭になっちゃいますよ」
生徒は皆二人の話し合いを邪魔しないようにひそひそ声でしゃべっているが、彼女たちの声はちょっぴり興奮気味であった。
「林檎様、たしかに学園祭は今のベルフォール女学院の方針にそぐわない、明るすぎるイベントですわ」
長い金ぴかヘアーをサッと撫でてリリーさんが語り出した。
「でも生徒たちの声に耳を傾けてみれば、学園祭の開催はやむを得ないことだと思いませんこと?」
「なに!? キサマどっちの生徒会の味方だ!」
林檎さんは口調を荒げて腰を上げた。ただし彼女は小柄な体格をしているせいか声も若干可愛いので、迫力はリンゴ一個分くらいである。
「あらあら、落ち着いて。せっかくの可愛い顔が台無しよ」
「うっ・・・」
なぜか帽子を深く被りなおした林檎さんは、意外にもおとなしく椅子に座った。
「・・・どうして学園祭など開催しなければならないのですか。私が納得できるような論理的な説明をお願い致します」
「生徒たちの声を無視した生徒会に明るい未来はあるのでしょうか。」
「未来?」
「ここまで学園祭への熱が上がっているのに、結局何もやりませんでしたーでは、ロワール会から人心が離れてしまいますわよ」
「まさか、そんな」
「内心楽しみにしていたイベントが最終的に開催されなかったという、ロワール会への小さなストレスが、やがてセーヌ会の革命の原動力になってしまう。これくらいの道理は、林檎様もお分かりですわね♪」
「的外れな不満のような気がしますが・・・」
「そんなことないですわよ。生徒の期待に応えていく、それが生徒会の使命だと思いますわ」
「それは・・・確かにそうですが」
リリーさんの結構的確な説得に林檎さんが押されているのに気付いた月乃は柱の陰から身を乗り出して林檎さんを応援した。
(林檎様、がんばってくださいっ)
もちろん月乃はリリーさんのことも信頼しているが、美しいベルフォール女学院のお嬢様世界がやっぱり大好きなので、今の硬派な伝統が崩れるきっかけに成り得るスクールフェスティバルの開催は反対なのだ。
「お二人の会議はどんな感じ?」
「なんだか、学園祭開かれることになりそうよ」
「ほんとに? 今年は学園の歴史に残る年になりそうね」
月乃の背後の生徒たちが楽しげにざわついている。
(・・・なんだか、本当に皆さん学園祭を楽しみにしてますのね)
フェスティバル絶対反対の超クールな美少女月乃ちゃんも、他の少女たちの反応を見ているうちに心が揺らいできた。学園祭という言葉をここまで全校生徒たちの心に響かせた東郷会長の作戦勝ちみたいなところもあり、今から学園祭の全てを否定すると、リリーさんの言うように、ロワール会に小さな不満を感じる生徒が出てくるかも知れない。
「んー・・・」
危機的状況を打開する案を模索するため、小学生モードの月乃は入り口の重い扉にもたれ掛かり、人差し指で自分の小さなおでこをトントンと叩きながら考え事を始めた。
「ねぇ、あの子なにしてるんだろ」
「分かんない。なんだろうね」
「か、かわいい・・・!」
周囲にいる生徒たちは小桃ちゃんの怪しげな動きに興味津々である。
忘れられがちな情報だが、月乃は基本的に頭が良いので、精神を集中させて思案すれば人並み以上のアイディアをひらめくことが多い。大抵はまぶたの裏の暗闇に視覚的に浮かぶことが多いのだが、今日の月乃に訪れた案は、記憶のどこか深いところから湧き上がり、彼女の耳を甘く刺激してくる誰かの歌声だった。
『つーきのでーるーよーる、さーとはしーずーかー♪』
月乃はハッとして顔を上げた。頭の中に響いたのは、昨夜月乃が眠っているあいだに聴いた日奈様の美しい歌声だった。
「ねえ、君。なにしてるの?」
「ひらめきましたわ!」
「わっ」
可愛い小学生に我慢できなくなった色んな意味で積極的な先輩生徒の前で、月乃はぴょんと飛び上がった。
(合唱コンクールにすればいいんですわ!!)
これは確かに名案であった。学園祭という名でイベントを開いたら、真面目な発表会以外にもキャピキャピした騒々しい出店が出たりして、とてもお嬢様高校の秋とは思えない品の無い状況に陥ることは間違いない。しかし「合唱コンクール」ということにして、イベントの内容を聖歌の合唱に限定すれば、生徒たちが無意識に抱えている非日常への欲求を解消し、尚かつベルフォール女学院らしさも失わないという、最高の二学期にすることが出来るのだ。やっぱり月乃は天才である。
(でも・・・どうしたらいいんですの・・・)
名案を思いついたはいいが、このアイディアを林檎さんたちに提案する方法が無かった。とにかく今の月乃は小学生なので、「わたくしに良い考えがありますのよ!」と言って二人の元に駆け寄っても、「小学生は大人の会議に口出ししないで下さい」などと林檎さんに冷たく言われておしまいに違いないのだ。林檎さんは小学生に厳しいところがある。
「んー」
ここはやっぱり高校生の体に戻らなければならないようだ。誰かに感謝されれば恋の戒律を破った罪が許されるので、林檎さんたちの話し合いが終わる前にどこかで人助けをして来ればいいのだ。
「あのう、皆さん」
「ん? 何かな?」
会議を見学する振りをして小学生の女の子を触りに来たちょっぴりオカシイ人たちに月乃は話しかけた。
「わたくしが手伝えることで、何か困っていることはありませんか」
「困ってること?」
「はい。お願い事でもいいですのよ」
「あ! 私、ロワール会の細川月乃様と握手がしたいわ!」
それが出来るなら苦労しませんわよと月乃は思った。大聖堂の中にいても人助けのチャンスがやって来る気配がないので、とりあえず月乃は外に出ることにした。月乃に言わせれば「果報は寝て待て」ということわざは大嘘であり、お嬢様人生の鍵はいつも自分の足で探しに行くのが正解なのだ。
「ちょっと通してください」
月乃はハイハイで生徒たちのスカートのあいだをすり抜けて広場に出た。頬に当たるスカートの感触はなかなかくすぐったい。
さっさと高校生の体に戻らないと、林檎さんたちの話し合いの結論が「やむを得ず学園祭を開催する」になってしまい、二人からその結論を突きつけられたらさすがの西園寺会長も首を縦に振らざるを得なくなるかも知れない。ベルフォールの美しい明日のために、今すぐ人助けをする必要がある。
「そうは言いましても・・・誰かの役に立つのは容易なことではありませんわね」
大聖堂広場は大勢生徒が集まってはいるが、みんな林檎さんとリリーさんに関することをおしゃべりしているだけなので、特に困難にぶつかっている少女は見当たらない。月乃は試しに南大通りのほうまで足を伸ばしてみることにした。
「・・・誰もいませんわ」
この付近にいる生徒のほとんどが林檎さんたちの会議を傍聴しに行ってしまったため、お昼時にも関わらずカフェテラスにいるのはせいぜい白いウサギちゃんくらいである。
「ウサギ・・・?」
月乃は足を止めた。オープンテラスの青銅風のテーブルの下に、大福みたいなモチモチウサギが丸くなって一休みしていたのだ。
「小桃ちゃーん! その子! その子つかまえてー!」
「え?」
遠くから耳慣れた声が近づいてきたかと思うと、それに驚いたカフェテラスのウサギが月乃のほうに飛び出してきた。
「ひっ」
次の瞬間、白いウサギちゃんは小学生の月乃の小さな腕の中にすっぽり収まっていた。
「あら・・・」
月乃は実家で飼っている2匹のネコ以外の動物を人生で初めて抱きしめた。ふわふわと柔らかくて、自分のものよりちょっぴり早い胸の鼓動とそのぬくもりが半袖の腕にとっても心地よく、月乃はなんだか旅行先の空港に下り立った時のようなドキドキを覚えた。硬派なお嬢様道に動物との触れ合いなんて不要だと考えながら月乃は育ってきたから、このような経験は未知のものだったわけである。
「小桃ちゃん、小桃ちゃん。いやぁ、ありがとう」
「あっ」
駆け寄ってきてサラッと感謝の言葉をプレゼントしてくれたのは、おさげ髪が可愛い若山桜ちゃんだった。
「この子飼育小屋から出ちゃった子でさ、追っかけてたの。助かったよ」
小学生モードの時に会う桜ちゃんはやっぱり普段より大人っぽく見える。
「い、いえ、わたくしは何も・・・」
「ありがとう♪ ほら、戻っておいで、はんぺん」
名前が気に食わなくて脱走した可能性がある。
桜ちゃんにウサギを手渡した月乃は、自分の心がまだウサギちゃんのほうに傾いているのを感じた。もっと触っていたかったという、名残惜しい感覚である。
「はんぺんと遊びたくなったら、ぜひ飼育小屋に来てね」
「べ、別に! ・・・遊びたくなんてありませんわ」
桜ちゃんの野生の勘に胸の内を見抜かれそうになった月乃は、自分の心をガードするように腕を組んでそっぽを向いた。横目で見た白ウサギのはんぺんちゃんは、桜ちゃんの腕の中から耳をふりふりしつつ月乃をじっと見つめてくる。
「き、き、気が向いたら行きますの!」
可愛いウサギちゃんへの胸キュンを持て余した月乃は今来た道を引き返して走り出した。
「あれ、小桃ちゃん・・・ウサギ苦手なのかな?」
遊び疲れた白ウサギのはんぺんは桜ちゃんの腕の中ですやすや眠り始めた。
無事に桜ちゃんから「ありがとう」という言葉を貰えたので月乃はまもなく高校生に戻れるはずであるが、問題はその場所である。いつもの鐘の音やら甘い香りやらが迫ってきているこの状況で、月乃はとりあえず大聖堂広場に向かっていた。人が多い場所で変身すると小桃ちゃんと月乃が同一人物であることがバレるリスクが跳ね上がるが、今日ばかりはやむを得ないのだ。昼休みが終わる前に高校生状態で目覚めていないと、学園祭の開催がほぼ確実になってしまうからである。鐘の音に追いつかれるまでの残り時間はおよそ1分、月乃は再びその頭脳をフル回転させることになった。セーヌ会の東郷会長の野望を打ち砕き、西園寺様が率いる美しい学園を守るためならば、月乃はどんな困難だって乗り越えられる。
(見えましたわ・・・!)
方程式が解けた小学生の月乃は、一歩も止まらずに大聖堂広場の人ごみをまっすぐ突っ切って、大聖堂の南入り口に飛び込んだ。そして先ほど見たウサギちゃんの動きに倣い、しゃがんだままピョンピョン跳ねることによって混雑している入り口をスピーディーにすり抜けたのだ。
(ここですわっ!)
まだギリギリ話し合い中だった二人からおよそ10メートル離れた長椅子の陰に、月乃は人魚姫のような美しい姿勢で座り込んだ。鐘の音に追いつかれた月乃がぱったりと意識を失ったのは丁度この時だった。
「仕方ありません・・・不本意ですが、学園祭を開催する方向で、西園寺様たちを説得しましょう」
「それがいいと思いますわ♪ 西園寺会長も月乃様もきっと分かって下さいます♪」
長い話し合いを終えた林檎さんとリリーさんが腰を上げると、大聖堂の3つある入り口付近に集まっている生徒たちが小さな歓声を上げた。
「おや・・・聞かれていたでしょうか」
「聞かれていても別にいいじゃありませんの♪」
「小声で話していたつもりだったのですが」
「とにかく5時間目の授業場所に行きましょう♪」
二人は南の出口に向かって歩き出した。
「え」
「あら?」
そして通路の脇に意外なものを発見したのである。
「つ、月乃様! お待ちしておりました!」
ひざまずくようにして叫ぶ林檎さん声に、高校生モードの月乃は目を覚ました。どうやら月乃の計算通りに物事が運んだようである。
「おはようござい・・・じゃなくて、ただいまですわ」
「月乃様! なにか名案を思い付かれたのですか!?」
セーヌ会への対抗策を探るため月乃が姿を消したと林檎さんは信じているから、彼女にとっては月乃が戻ってきた事実は希望そのものなのである。月乃はくらくらする頭が落ち着くのを待ってから、スラッと長い脚でウサギのように軽やかに立ちあがり、大聖堂の入り口付近の生徒たちに聞こえるような大きな声でハッキリと告げたのである。
「ベルフォール女学院がこの秋に開催すべきなのは」
「か、開催すべきなのはっ?」
興奮気味の林檎さんに比べ、いつもマイペースで明るいリリーさんが無口である。
「合唱コンクールですわ!!」
月乃の提示した妙案に、大聖堂の高い天井を震わせるようなどよめきが起こった。
こうして月乃は校風に全くそぐわない学園祭の開催を無事に阻止し、ロワール会の威厳までも保つことに成功したのだ。ウサギの力まで借りた、まるで綱渡りのようなギリギリの勝負だったが、終わり良ければすべて良しというやつである。




